本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
Amazon.co.jp ・本 (384ページ) / ISBN・EAN: 9784167801489
みんなの感想まとめ
他者との関係性や対話の重要性を探求する一冊であり、特に性差に焦点を当てた議論が展開されています。著者は、ボーボワールとの対比を通じて、男性と女性の役割の違いや、その相互作用を深く考察します。女性は他者...
感想・レビュー・書評
-
ボーボワールとの対比を中心にどちらも批判的に論じてはいるが不全感残る
他者との出会いで私とは男性である
女性は歓待の最たるもの、歓待それ自身
世界を居心地の良い家に帰る女性に出会って住みつきを果たす
性差の差異化と独立した全体性
誰かが他者のために場所を空けて慎み深く姿を隠す
場所を空ける機能は女性 その収縮によってできた空隙を満たす機能を男性
言語の性化 女性が主体として語る言語
戦争 全体性に属しないにもかかわらず関係を結ぶことを求めている二者間の緊張状態 あらゆる支配から逃れる存在者のみを狙う
人間的公正は法理的公正に優先する
ユダヤの選民思想詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
内田樹による内田樹を読んで、興味持った一冊です。果たして読破できるのでしょうか・・。
ここで短歌を一句
行間に 今日を支える 力持ち 見つけ出したら 足取り軽く -
内田先生なので手に取りました。レヴィナスの著作は未読です。
先に謝っておかなければならないのですが、私にはこの本の内容を紹介できるだけの技量がないようです。付箋を貼ったページやメモを見返してみたのですが、この本がどんなことを言っていたか、うまく説明することができません。もう一度通読しなきゃいけないみたいです。
それでも、この本を読んで以来、私の中に残っている感想があります。それは、生きるということは、自分の周りのありとあらゆるものと「対話」することなのだ、という考えです。相手(それは人でも物でも世界でも何でもいいのですが)が理解の範疇を越えているとしても、なお「対話」をする。「対話」するということは、相手を否定することがなく、相手から何も奪うことがない。「対話」をすると、今までの自分とも相手とも違う、何か新しいものが弁証法的に生まれる。その繰りかえしが、生きるということである。
少々難解ですが、他者と相対するとは、また世界と相対するとはどういうことなのか、レヴィナスおよび内田哲学のエッセンスが詰まっている本のように感じました。-
私は読み始めたばかりです。内田先生の本なので手に取りましたというの、私も同じです。私は買ってから2年間ほっちっちで、やっと今なら少し読めそう...私は読み始めたばかりです。内田先生の本なので手に取りましたというの、私も同じです。私は買ってから2年間ほっちっちで、やっと今なら少し読めそうな感じでちびちび読んでます。2014/03/18
-
-
<ウチダ先生はエライ!>
内田の「先生はエライ」「私的ユダヤ人論」の元となった名著。
レヴィナスという世界で一番難解な哲学者を<師>と仰ぐ、<弟子>内田の語り自体が、実はユダヤ的知性の深奥に至る道なのだという刺激的な論考。
頭による理解ではなく、身体による理解という新たな知の実践を示して刺激的だ。
自己を越えるには、こうした跳躍しかあり得ないのだと、この<武道家>は、教えてくれる。
師とは何か?
それは絶対の他者である。
そういう師に全てを賭けることで、人は初めて自分の枠を超えることが出来るのだ。
師は別に本当に凄い超人である必要はない。
自分が<師は偉大だ>と言う物語を信じさえすれば、良いのだ。
ユダヤ教のタルムードは、完全なるテキストだ。
それなのに何故、弟子が必要なのか?
テキストがより<完全>になるためだ。
何という柔軟で、多様な読みを可能とするテキストか!
本書は、読書の在り方に衝撃を与えてくれる偉大な書だ。
ウチダ先生はエライ! -
内田樹さんのレヴィナスとの出会いの語りがおもしろい。
本当に、レヴィナスをきっかけに、その人の表情や語り口を感覚でとらえようとするようになった、みたい。そうなったのが実際に会って話したときだというのだから、本当にそう!!!!!そういうのだよね!!!!!と勝手に思った。
私にとってその他者性の感覚は、レヴィナスによってもたらされるものではなかった。ある人からの徹底的な拒絶と訴えの表情、そして私に真正面から向かってくれた別の人のことを、心から尊敬して「今の私にはない、そして知りえない壮大な何かを持っている」「この人になら、命がけの跳躍をしてもいい」とおもったときだった。レヴィナスについて知った時、まさにその感覚のことが書いてあって「やっぱ先に言ってる人いたわ」と思った。(本当にレヴィナスについてはじめに知ったのは、拒絶の人のあとで、私には絶対に納まることのない「絶対的な他」がある、と思ったタイミングだったけど)。
ただし、レヴィナスについて調べていくと、この人は私には知りえない切実さで「他者の顔」について語っているのだと思った。密度がすごい。考えに考え抜いて、なんとか相手の内側に訴えかけようと、血を滲ませた、どこまでもやさしい言葉だ。念を送ってるよ。念力。 -
師レヴィナスに捧げられた本。
内田樹の地肉となった数々の文章たち。噛み砕くように、我がものを披歴するように、具に開示してくれている。
書かれていることは一読しただけでは腑に落ちない。
原著を相当程度平易に届けてくれているのだろうけど、それをきちんと受け止められる器がまだ自分にはないと感じる。
当書の再読、そしていつか原著にもあたってみたい。 -
すごかった。個人的にはフッサール批判による、フッサールの他者とレヴィナスの他者の違いの表現にしびれた。
-
『テクストは読者を安心させることではなく、不安にさせるために書かれる。なぜなら、「説明」ではなく「運動」のうちに至高のものは住まっているからである。そのことをレヴィナスはただしく彼の師から学んだのである』―『第一章 他者と主体』
内田樹の書籍を最初に読んだのは二〇〇七年の「街場の中国論」。その後に出版された「日本辺境論」に繋がるこの本に惹かれて十五年近くブログなども読んでいる(その著作の多くはブログの再編集だったりするので。最近はちょっと不真面目なフォロワーだけれど)。個人的にその語り口には禅宗の僧侶を思い出させるところがあり、問いに対する答えもまた謎掛けめいていながら、何かが判ったような気にさせてくれるところがあると思っている。取り付く島がはっきり見えている訳ではないけれど、取り敢えずそっちへ泳いで行ってみるか、という気にさせてくれるのが内田樹の文体だ。ちょっと古い表現だけれどグルーヴ感とでも言ったらよいのか。それを文庫版解説の釈徹宗は「内田言説はドライブ感が強い」と言い当てている。
哲学がよく解らないのは、その「取り付く島のなさ」感にそもそも原因があると思っている。例えば学校で習うような、有名な哲学者の言葉(というような言い回しを態々、人口に膾炙した箴言、という成句にしないと気が済まないのが哲学書、というイメージ)は、語句明瞭なれど意味不明、一見したところ感覚的な表現に溢れている。曰く「人間は考える葦である」とか「我思う故に我在り」とか。もちろん、そのフレーズだけを取り上げて全てが解る程に単純だとは思ってはいないが、語句の意味するところを掘り下げてからもう一度組み上げ直す工程が要求される思考がそこには厳然としてあり、その最初の一歩「語句の意味を掘り下げる」段階で力尽きてしまいがち。
その解らないことを解らないままに判ったような気にさせてくれる内田樹が分からない分からないと言いながら永年取り組んでいるというレヴィナス。その三部作の最後の巻となる「時間論」がまとまりそうということで、先ずは初めの一冊を手に取る。なるほど、内田先生の教育論の根源はここにあるのですね、と思う。
『私たちの眼は、「さいころ」について、最大限三面しか見ることができない。表象的には「さいころ」は十全的には与えられない。だが、私たちは六面を「直観」することができる。しかし、読み手が変わるごとに、開示する意味を刻々と変えてゆく「書物」の蔵しうるすべての読解可能性を、私たちは「さいころの見えない三面」と同じような仕方で「直観」している、と言うことができるだろうか』―『第二章 非-観想的現象学』
それにしてもいきなり、レヴィナスを読む気がない人は即刻この本を書架に戻せ、とあるのには、にやり、とさせられる。自分はレヴィナスを原著にあたる気はないけれど、内田樹が情熱を捧げている師の思考とはどんなものなのかには興味があるので、無視して読み進める(文庫版のためのあとがきの中でレヴィナスが投げ掛けた反語的呼び水の話が出てきて、やっぱりね、と思う)。レヴィナスの思考の何たるかを理解出来た訳ではないけれど、内田樹によって噛み砕かれたその思考の根本に「書物」という類推があることを知り、その比喩だけは少しわかったような気がする。「さいころ」の見えていない面と「書物」の持つ未知の解釈の比較は、特に判り易い。更に幾つもの解釈が可能でありながら本質がそこに含まれている「完全記号」という考えを知り、ウンベルト・エーコが言うところの「開かれたテキスト」の意味するものも、単に記号論というメカニズムのニュアンスではなくて、レヴィナスの言うところの書物と通じるものがあるのだなあ、と漠然と(勝手に)了解する。
『「書物」(レヴィナスが念頭においているのは聖書とクルムードである)は水遠不変の真理の場という「本質」を有しているが、それは書物の内容が読み手に十全的・明証的に与えられているということではない。そうではなくて、決してその内容のすべてが十全的・明証的に与えられないにもかかわらず、読み手にとって、それが永遠不変の真理の場であることへの確信にはいささかの揺るぎもないという仕方で書物は志向されているのである』―『第三章 愛の現象学 Ⅱ女性と主体』
書かれている内容とは直接関係はないけれど、そしてもちろんそれが内田樹節でもあるのだけれど、少し古風で硬い響きの漢語的日本語(例えば「望見する」)と、これまた漢字から意味は察せられるけれど哲学者の間で了解された特別な意味がある言葉(例えば「明証する」)が入り混じった文章を読んでいると、哲学初学者には、どこまで「定義」を了解して読まなければならないのだろうか、という漠然とした不安めいた気持ちが湧くことは、否めない。でもまあ、そこは気にせず、先ずは読み通してみることがいいのかも知れないけれど。 -
初・内田樹。
レヴィナスを通して、生の深淵に触れる。倫理を問う。
師弟論、書物、女性論(続く有責性の議論も)が特にいい。
「マルクス主義は十分にマルクス的だろうか?」
釈氏のあとがき、「カノンを持つ人生」もよい。 -
mmsn01-
【要約】
・
【ノート】
・ -
-
内田たつるさんによるレビナス(倫理についてかたると言われる哲学者)の入門書の第1番
-
最近よく読む内田樹氏が師と仰ぐレヴィナスの哲学について、内田氏が弟子の立場で語るもの。レヴィナスの主張の内容より、面白い人ってどういう視点で師匠を選ぶのかがわかり興味深い。師の知識は無限であり弟子はその香りをちょっと嗅ぐ程度とか、大洋の一滴を掬うようなものという感覚はなるほどと思う。レヴィナスの主張を理解(と言ってもかなり難解だが)しつつ、自由や男女平等についても学べる良書。
-
解説書? としては十分に難解だった。
でと、なんとなくつかめてきた気もする。
弟子と自称する内田樹さんの始まり方も良かった。
安息日には文字を書かない敬虔なレヴィナスのこぼれ話も可愛かった。
内田さんの本はもう少し読んでみようと思う。
まぁ、まずは、レヴィナスの『実存から実存者へ』を読もうと思う。
2016.8.16. -
第1章。自己の不能は、世界を俯瞰する視座を持たなければ自覚できない、それが「師」を持つことの意味。タルムード解釈では、見解の一致よりも、それぞれの章句からどれほど多様な意味を引き出しうるかが重視される。自己の不能を自覚する時、「他者」が私の前に現れる。「全体性を志向する主体のモデルがオデュッセウスであるとすれば、無限を志向する主体のモデルはアブラハムに求められる(87頁)」。
第2章。フッサールの現象学は、対象よりも意味という観念に優位性を与えたことにより、意味を持つが対象として十全には把持できないないもの、すなわち「他者」についての厳密な学となり得る可能性があった。フッサールは「見る」という事例(リンゴの木、さいころ)に即して対象認識を論じるが、レヴィナスは、「見る」という動作によってはほとんどその関係を記述したことにならないような対象(愛される人、書物)を、現象学的考察の主題にすえる(155頁)。「神を表象してはならない。「自分のために」偶像を作るとは、視覚を中心として、世界を整序することである(162頁)。フッサールの「他我」とレヴィナスの「他者」の違い。
第3章。「「あなたは私以上に倫理的であるべきだ」という言葉ほど非倫理的な言葉はこの世に存在しない。倫理性と主体性は「私はあなたより先に、あなた以上に有責である」という宣言によってはじめて基礎づけられる(303頁)」。「倫理を基礎づけるのはこの「選び」の直観である。「私は特別の地位にあるという意識、選びの意識を抜きにしては、道徳的意識はありえない(315頁)」。
などなど、今まであまり触れたことのない、ユダヤ教的な発想をベースにした思想が新鮮だった。これらを念頭におくと、ユダヤ教の選民思想や偶像崇拝の否定に対する見方もかわってくる。 -
(内田樹先生の信者だから)
-
愛について真正面から考えるには歳をとりすぎたのかもしれないが、ここに書かれているアクロバティックな論理だけで充分に官能的だ。
たった1冊の紹介本を読んだだけではとても充分に理解できたとは思えないが、ここに書かれているレヴィナスの「顔」に関する文章を読んだとき、以前映画館で見たキシロフフキーの「ある殺人に関する物語」「ある愛に関する物語」を思い出した。映画というものがスクリーンの向こう側のまなざしとの対面なのであればそれは顕現された「他者」そのものなのだと思う。 -
やっぱり難しい…でも分からないものほど面白い。
ーー知性とは「私は…を知っている」という知的達成の累積ではなく、「私は…について、不十分にしか知らない」という不能の語法を通じて錬磨される、そうレヴィナスは考えるのである。ーー -
レヴィナスにそれほど興味があった訳ではないが、著者の教育論を読んだらめちゃめちゃ面白かったので、これも読んでみた。固いといえば固いが、それ以上に面白かった。
「人間の世界が成立するには——正義が, 裁きの場が成り立つためには——他の人々に対する有責性をおのれ一人の身に引き受けることのできる誰かがいなければならない」
「自分のなしたこと以上の責任を負うという, この有責性の過剰が生起する場所が宇宙のどこかにあり得るということ, それがおそらく畢竟するところ, 『私』の定義なのである。」
この2行は私が最も好きな文である。直接の関わりのない他者に対する自身の有責性という概念は現代的な文脈では理解されがたいところだろう。しかし、特に近しい他者の死に直面した際に、自分自身が生かされていることに無条件に罪悪感を感じるという経験をした人は少なくないのではないだろうか。そういった状況から自身を救い出すためには、自分が何かを背負って生きているという思想を持つことが唯一の手段となるのかもしれない。ホロコーストでのユダヤ人達の死が、レヴィナスのこういった思想の背景にあるらしく、それを考えれば、とてもしっくり来る。 -
本当の大人の作法で、名越先生が絶賛していたが、その気持ちがよくわかる。
-
書物の表象不能性。受動性により基礎付けられる主体。陽の当たる場所から身を引くこと。代替不能の有責性。相互性の否定。
この本が好きな人におすすめの本
著者プロフィール
内田樹の作品
本棚登録 :
感想 :
