レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫 う 19-11)

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  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (379ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167801489

作品紹介・あらすじ

リトアニア生まれにして、ホロコースト・サヴァイヴァーであるフランス国籍のユダヤ人哲学者、エマニュエル・レヴィナス。研究者の立場からではなく、彼の「自称弟子」として、哲学史に卓絶する圧倒的なテキストをウチダが読み解く。あなたにも、難渋で知られる文章の向こうにレヴィナス先生の暖かな顔が見えてくる。

感想・レビュー・書評

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  • ボーボワールとの対比を中心にどちらも批判的に論じてはいるが不全感残る
    他者との出会いで私とは男性である
    女性は歓待の最たるもの、歓待それ自身 
    世界を居心地の良い家に帰る女性に出会って住みつきを果たす
    性差の差異化と独立した全体性
    誰かが他者のために場所を空けて慎み深く姿を隠す
    場所を空ける機能は女性 その収縮によってできた空隙を満たす機能を男性
    言語の性化 女性が主体として語る言語

    戦争 全体性に属しないにもかかわらず関係を結ぶことを求めている二者間の緊張状態 あらゆる支配から逃れる存在者のみを狙う
    人間的公正は法理的公正に優先する
    ユダヤの選民思想

  • 内田樹による内田樹を読んで、興味持った一冊です。果たして読破できるのでしょうか・・。
    ここで短歌を一句
    行間に 今日を支える 力持ち 見つけ出したら 足取り軽く

  • 内田先生なので手に取りました。レヴィナスの著作は未読です。
    先に謝っておかなければならないのですが、私にはこの本の内容を紹介できるだけの技量がないようです。付箋を貼ったページやメモを見返してみたのですが、この本がどんなことを言っていたか、うまく説明することができません。もう一度通読しなきゃいけないみたいです。
    それでも、この本を読んで以来、私の中に残っている感想があります。それは、生きるということは、自分の周りのありとあらゆるものと「対話」することなのだ、という考えです。相手(それは人でも物でも世界でも何でもいいのですが)が理解の範疇を越えているとしても、なお「対話」をする。「対話」するということは、相手を否定することがなく、相手から何も奪うことがない。「対話」をすると、今までの自分とも相手とも違う、何か新しいものが弁証法的に生まれる。その繰りかえしが、生きるということである。
    少々難解ですが、他者と相対するとは、また世界と相対するとはどういうことなのか、レヴィナスおよび内田哲学のエッセンスが詰まっている本のように感じました。

    • mayuotukaさん
      私は読み始めたばかりです。内田先生の本なので手に取りましたというの、私も同じです。私は買ってから2年間ほっちっちで、やっと今なら少し読めそう...
      私は読み始めたばかりです。内田先生の本なので手に取りましたというの、私も同じです。私は買ってから2年間ほっちっちで、やっと今なら少し読めそうな感じでちびちび読んでます。
      2014/03/18
  • 内田樹さんのレヴィナスとの出会いの語りがおもしろい。
    本当に、レヴィナスをきっかけに、その人の表情や語り口を感覚でとらえようとするようになった、みたい。そうなったのが実際に会って話したときだというのだから、本当にそう!!!!!そういうのだよね!!!!!と勝手に思った。
     私にとってその他者性の感覚は、レヴィナスによってもたらされるものではなかった。ある人からの徹底的な拒絶と訴えの表情、そして私に真正面から向かってくれた別の人のことを、心から尊敬して「今の私にはない、そして知りえない壮大な何かを持っている」「この人になら、命がけの跳躍をしてもいい」とおもったときだった。レヴィナスについて知った時、まさにその感覚のことが書いてあって「やっぱ先に言ってる人いたわ」と思った。(本当にレヴィナスについてはじめに知ったのは、拒絶の人のあとで、私には絶対に納まることのない「絶対的な他」がある、と思ったタイミングだったけど)。
    ただし、レヴィナスについて調べていくと、この人は私には知りえない切実さで「他者の顔」について語っているのだと思った。密度がすごい。考えに考え抜いて、なんとか相手の内側に訴えかけようと、血を滲ませた、どこまでもやさしい言葉だ。念を送ってるよ。念力。

  • 師レヴィナスに捧げられた本。
    内田樹の地肉となった数々の文章たち。噛み砕くように、我がものを披歴するように、具に開示してくれている。
    書かれていることは一読しただけでは腑に落ちない。
    原著を相当程度平易に届けてくれているのだろうけど、それをきちんと受け止められる器がまだ自分にはないと感じる。
    当書の再読、そしていつか原著にもあたってみたい。

  • すごかった。個人的にはフッサール批判による、フッサールの他者とレヴィナスの他者の違いの表現にしびれた。

  • 『テクストは読者を安心させることではなく、不安にさせるために書かれる。なぜなら、「説明」ではなく「運動」のうちに至高のものは住まっているからである。そのことをレヴィナスはただしく彼の師から学んだのである』―『第一章 他者と主体』

    内田樹の書籍を最初に読んだのは二〇〇七年の「街場の中国論」。その後に出版された「日本辺境論」に繋がるこの本に惹かれて十五年近くブログなども読んでいる(その著作の多くはブログの再編集だったりするので。最近はちょっと不真面目なフォロワーだけれど)。個人的にその語り口には禅宗の僧侶を思い出させるところがあり、問いに対する答えもまた謎掛けめいていながら、何かが判ったような気にさせてくれるところがあると思っている。取り付く島がはっきり見えている訳ではないけれど、取り敢えずそっちへ泳いで行ってみるか、という気にさせてくれるのが内田樹の文体だ。ちょっと古い表現だけれどグルーヴ感とでも言ったらよいのか。それを文庫版解説の釈徹宗は「内田言説はドライブ感が強い」と言い当てている。

    哲学がよく解らないのは、その「取り付く島のなさ」感にそもそも原因があると思っている。例えば学校で習うような、有名な哲学者の言葉(というような言い回しを態々、人口に膾炙した箴言、という成句にしないと気が済まないのが哲学書、というイメージ)は、語句明瞭なれど意味不明、一見したところ感覚的な表現に溢れている。曰く「人間は考える葦である」とか「我思う故に我在り」とか。もちろん、そのフレーズだけを取り上げて全てが解る程に単純だとは思ってはいないが、語句の意味するところを掘り下げてからもう一度組み上げ直す工程が要求される思考がそこには厳然としてあり、その最初の一歩「語句の意味を掘り下げる」段階で力尽きてしまいがち。

    その解らないことを解らないままに判ったような気にさせてくれる内田樹が分からない分からないと言いながら永年取り組んでいるというレヴィナス。その三部作の最後の巻となる「時間論」がまとまりそうということで、先ずは初めの一冊を手に取る。なるほど、内田先生の教育論の根源はここにあるのですね、と思う。

    『私たちの眼は、「さいころ」について、最大限三面しか見ることができない。表象的には「さいころ」は十全的には与えられない。だが、私たちは六面を「直観」することができる。しかし、読み手が変わるごとに、開示する意味を刻々と変えてゆく「書物」の蔵しうるすべての読解可能性を、私たちは「さいころの見えない三面」と同じような仕方で「直観」している、と言うことができるだろうか』―『第二章 非-観想的現象学』

    それにしてもいきなり、レヴィナスを読む気がない人は即刻この本を書架に戻せ、とあるのには、にやり、とさせられる。自分はレヴィナスを原著にあたる気はないけれど、内田樹が情熱を捧げている師の思考とはどんなものなのかには興味があるので、無視して読み進める(文庫版のためのあとがきの中でレヴィナスが投げ掛けた反語的呼び水の話が出てきて、やっぱりね、と思う)。レヴィナスの思考の何たるかを理解出来た訳ではないけれど、内田樹によって噛み砕かれたその思考の根本に「書物」という類推があることを知り、その比喩だけは少しわかったような気がする。「さいころ」の見えていない面と「書物」の持つ未知の解釈の比較は、特に判り易い。更に幾つもの解釈が可能でありながら本質がそこに含まれている「完全記号」という考えを知り、ウンベルト・エーコが言うところの「開かれたテキスト」の意味するものも、単に記号論というメカニズムのニュアンスではなくて、レヴィナスの言うところの書物と通じるものがあるのだなあ、と漠然と(勝手に)了解する。

    『「書物」(レヴィナスが念頭においているのは聖書とクルムードである)は水遠不変の真理の場という「本質」を有しているが、それは書物の内容が読み手に十全的・明証的に与えられているということではない。そうではなくて、決してその内容のすべてが十全的・明証的に与えられないにもかかわらず、読み手にとって、それが永遠不変の真理の場であることへの確信にはいささかの揺るぎもないという仕方で書物は志向されているのである』―『第三章 愛の現象学 Ⅱ女性と主体』

    書かれている内容とは直接関係はないけれど、そしてもちろんそれが内田樹節でもあるのだけれど、少し古風で硬い響きの漢語的日本語(例えば「望見する」)と、これまた漢字から意味は察せられるけれど哲学者の間で了解された特別な意味がある言葉(例えば「明証する」)が入り混じった文章を読んでいると、哲学初学者には、どこまで「定義」を了解して読まなければならないのだろうか、という漠然とした不安めいた気持ちが湧くことは、否めない。でもまあ、そこは気にせず、先ずは読み通してみることがいいのかも知れないけれど。

  • 初・内田樹。
    レヴィナスを通して、生の深淵に触れる。倫理を問う。

    師弟論、書物、女性論(続く有責性の議論も)が特にいい。
    「マルクス主義は十分にマルクス的だろうか?」


    釈氏のあとがき、「カノンを持つ人生」もよい。

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    【要約】


    【ノート】

  • 内田たつるさんによるレビナス(倫理についてかたると言われる哲学者)の入門書の第1番

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著者プロフィール

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。神戸女学院大学を2011年3月に退官、同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書に、『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』『日本習合論』(以上、ミシマ社)、『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』など多数。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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