- Amazon.co.jp ・本 (299ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167801496
作品紹介・あらすじ
哲学史に屹立する巨人、ジャック・ラカンとエマニュエル・レヴィナス。彼らの名を並記した研究書を見たとたん、"なるほど、この二人は「そういう関係」だったのか、と不意に腑に落ちた"。「難解なもの」に「さらに難解なもの」を重ねて抽出される思想の真実とは何か。著者のライフワークたる「レヴィナス論」第二弾。
感想・レビュー・書評
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『パロールについて偉大な思想家たちが教えることはほとんど寸分も変わらない。それは、聴き取る用意のある者、外部から到来することばを解そうと欲望する者の耳にだけことばは届く、ということである。(中略)ただし、誤解してはならないのは、「聴き取る用意のある者」や「外部から到来するパロールを欲望する者」を、決してコミュニケーションに先立って自存する「情報感度の高い実体」として措定してはならないということである』―『第三章 二重化された謎/4 交易と主体』
「レヴィナスと愛の現象学」に続いて内田樹によるレヴィナス解説の二冊目を読む。一冊目の内容が繰り返されている部分もあり少しだけ理解が進んだような気になりつつ読む。誤解を恐れずに物凄く単純化して言うならば「愛の現象学」が、「わたしはここにおります」という言明の底に響く自己の劣後性と退く他者そしてその劣後から生じる有責性について丁寧に辿った著作だとすれば、「他者と死者」は遅れてきたことによる有責性という考えがどのようにレヴィナスの思考として起こったかについて、同時代の思想家ラカンの言葉を手掛かりに、やや精神分析論的に解説を試みた本ということができるように思う。
「ラカンによる」と題されていても、もちろん内田樹によるレヴィナス解説であることには違いはないし、「愛の現象学」がレヴィナス思想の入門編だとすれば本書はその思想の根源を探る応用編との位置付け。ただし、一冊目の何処までもレヴィナスのエクリチュールから読み解くという態度に比べると、二冊目は「語られていないこと」を想像するという踏み込んだ分析も多い。ラカンの語りを沈黙しつつも見つめる「彼ら」の存在(=死者)とレヴィナスの「他者」の意味するところの重なりを示し、ナチスによるユダヤ人迫害という経験を生き延びてしまった二人の、そしてヨーロッパ哲学界全般を覆った「コギト・エルゴ・スム」の徹底した問い直しを読み解く運びは、心理分析のようで(そこが、フロイトの継承者たるラカンによる、という意味ではないだろうけど)判り易い。もちろん、判り易いということが必ずしもいいことばかりとは限らないと用心しながらではあるけれど、「他者」を「死者」と読み代えた時に、事後的に生じる訳ではない「有責性」、すなわちただ自分が遅れてきただけで生じてしまう「有責性」という考えは、単なる倫理観を越えた切迫した感情としての理解を強いて来る。
『普通の人は「現実は簡単で、哲学は複雑だ」と考えるが、実は話は逆である。「現実は複雑すぎ、哲学は簡単すぎる」のである。レヴィナスが複雑なのは、彼が非現実的な思弁に耽っているからではなく、現実の複雑さに対して、他のどんな哲学者よりも「つきあいがいい」からである』―『終章 死者としての他者』
その感覚はフィールド調査やその解析そして経過予想などを繰り返して来た身としては痛いほどよく解る。現実を、敢えて、自然と置き換えて読ませてもらうなら、自然は人間が思考できるよりはるかに複雑で、人が観察している(と思っている)のはプラトンの洞窟の逸話に出て来る「影」に過ぎない。だからといって洞窟を出れば「イデア」を見ることが叶う訳ではないし、永遠に近づけない虹の麓のようなものだからといって追いかけるのを止めてよい訳ではない。不可知を認識しつつ、可能な限り近付いていくしかないのだ。と、またまた卑近なところに引き寄せて読んでしまう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ラカンの話が少ない。レヴィナスの概説本は必要としていなかったし、半端な位置づけの本である。
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ラカンのテクスト論を巡る思索、冒頭の師弟論は秀逸である。「他者」とか言えば、賢しく聞こえるが、一言でいえば、師は大き学問的伝統の前に謙虚であり、何よりも師こそが「謙虚に学び続けている者」である、その師に弟子はさらに謙虚さを学ぶというもの。
著者の記述と思考スタイルは、同じフランス畑、さらに同じく武道に精通する前田英樹氏の著作と同じ臭いがするが、内田氏は判断保留のエポケーとしてのためらいを倫理として思考するのに対し、前田氏の倫理は小林秀雄的な決断と自身への責任に向かう。
女性的か男性的かの違いとも言える。 -
自分の言いたいことを相手に理解されないような言い方で言う。というようなことが要請される状況とはいかなるものか?短絡的な衒学趣味などではなく、真に切実なのは言論統制下で検挙されずに抵抗するさいの技法である。
本邦では花田清輝のレトリックを思いだす。「私の本はまるっきり無視された」と後に語っている。
サルトルやブランショこういう技には長けていた。真っ向から反抗してつかまってしまえばおしまいである。つかまらないで抵抗し続けるために知をつくして姑息な手段を用いること、これ自体がまた抵抗となる。
ラカン、レヴィナスの難解さをそう感慨をもって理解させてもらった。
有為転変の果ての(結局それは最初からあったもののように見えてしまうが、論理としてはそうなる)レヴィナス哲学―罪状なき有責性、善の無条件承認、「私」「存在論の帝国」からの脱却(このテーゼは花田と共通する)は「他者による主体の権力性の審問に同意する」という倫理に収斂するダイナミズムにまた感動がある。
たいへんにさまざまなことにぶつかる冒険の書で、およそ30ほどの課題を書きだして見た。実践と次の思索に役立つ素材が連なる。
理解できないことよりも、誤解することが恐ろしい。従ってあいまいなままの棚上げが意味をもつ。これもまたラカンの教え。
本書ももしかするとダブルミーニングの書であるかもしれない。存在論(権力)の語法はそこかしこにあふれている。 -
医学部分館2階集密 : 135.5/UCH : https://opac.lib.kagawa-u.ac.jp/opac/search?barcode=3410170183
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巻末の門脇先生の解説がたいへんいかしていると思いました。
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読んでからしばらく経つけど、・先生との関わり方 ・意見は戦わせたほうが良い(自分の頭だけで考えて意味ある?) ・死んでいった者へ感じる責任 ・死んでいった者が自分の中に居ること などが忘れずに頭の中で生きている。だんだん意味を取り違えていきそうなので、時々読み返したい。
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COLITIS
2020/01/05 14:42
去年の12月から、飛行機の中やじっくり出来る時に読み進めている本がある。
『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』だ。内田樹の真骨頂であるレヴィナス論の第二弾であり、読み進めて行けば行くほど、ウチダ本(この時点でウチダ本は50冊くらい読んでいる)に書いてあることの総決算のような文章が続く。実は、去年も同じ時期に『レヴィナスの愛と現象学』に挑戦し、挫折してしまったのだが、この本はなんとか読み切れそうな気がしている。
まだ読み終わっていないのだが、年末年始休暇も今日で終わってしまうので
2つのテーマについて先取りして、感想を書き留めておきたい。
一つ目は、第4章-3のレヴィナスの有責性という概念。レヴィナスの思想には、自分がユダヤ人であり、ホロコーストの生き残りであるという事実が色濃く残っている。自分もユダヤ人でありながら、なぜだかわからないが生き残ってしまったことへの理由づけが、戦後のレヴィナスの喫緊の課題であり、それは、これほどまで惨たらしいホロコーストを生み出してしまった西洋文明とその基底に潮流する倫理や道徳における思想の刷新・改鋳というヨーロッパの知識人が引き受けたテーマともリンクしている。
レヴィナスは、死者を弔うということにおいて、無意味に死んでいった人々の霊を慰めるというよりは、むしろ無意味に生き残ってしまった自分たちの生き残りという事実になんらかの意味付けをもたらす必要があった。自分が生き残っているということの根源的な無根拠性に耐え続ける為に、生き残った人々は、例外なく死者を弔うことを自己の最優先の責務として引き受ける必要があった。生き残った自分たちは、より多くの責務を果たし、より多くの受苦に耐える為に、つまり特権のゆえではなく、より多くの義務を引き受ける為に選ばれたのであるという自己規定を自ら引き受ける必要があった。それゆえに、レヴィナスにとって、他者=寡婦、孤児、異邦人についても「私には無関係である」と断言することができない「有責性」という重荷を引き受けることが、「自分がなぜ生き残ったのか」という問いに応える唯一の手段であり、これなしでは自分が今生きていることに対しての理由づけができない。
私は、レヴィナスの有責性とは、ノブレス・オブリージュについて語っているものであるようにも思えた。大学時代に構造主義人類学やブルデューの文化資本について学んだ中で、自分なりに得た結論は、「成功は偶然である」ということであった。これらの学問では、自由意志というものよりも、人間の中に潮流する構造のようなルールが、物事を動かしていることや、エリートは、エリートの家に生まれた事で無意識にエリートになるという、非エリートにとっては取り返しのつかない根源的な遅れを感じざるを得ないことなどを言っていると私は感じた。
私は、大学に受かった時に、自分のたゆまぬ努力や、言ってしまえばニーチェの超人思想のような、努力しない畜群に対する超克として、その結果を捉えた。
しかし、その考え方は明確な誤りであった。
自分が大学に合格したことは偶然であるということは、同学の逆立ちしても勝てないような教養をもった人々を目の前に、徐々に確信へと変わり、ブルデューやレヴィ・ストロースなどの先人たちが、その確信に論理的な理由づけをもたらした。同時に、偶然にも、所謂エリートと呼ばれるような大学に入学した自分は、それに値する社会への還元や貢献をしなければならないと考えた。むしろ、それが、自分が恵まれた環境にいることへの唯一の理由づけであり、有責性に対するアンサーであった。この考え方に合致しているのは、スパイダーマンのベンおじさん風に言えば「大いなる力には、大いなる責任が伴う」というノブレス・オブリージュという概念であった。
自分が、仮にも大学に合格してしまった以上、それによって得た便益は、社会に還元しなければならないし、自分が部活で偶然にも素晴らしい先輩方に恵まれたのであれば、それによって得られた便益は、後輩にもとってもそう思ってもらえるような部活をつくることで還元しなければならない。それは、私にとっての有責性であった。
では、今後生きていく上で、どうやってやればよいか。
これは後付けに近いが、就活をしている中で、保険の概念を知った時、保険という概念は、とても私の道徳的直観に合致した。
私のように偶然大学に受かったり、何かに成功にしたりする人がいるならば、偶然大学に落ちたり、失敗したりする人もいる。その偶然には、事故や突然の病気も含まれる。
自らの成功に対する無根拠性から自明に導き出される結論として、失敗に対する無根拠性がある。不可避の失敗や致命的な事故は無根拠に、ランダムに起こる。それに備えるのが保険だ。自分が仮にもエリートと呼ばれる道筋を歩んでいるのであれば、それによって得た便益の使い道として、世の中から、ランダムに失敗してしまう人々の「負け幅」を少しでも軽減する保険という手段を流通させるという使命を引き受けることに、違和感がなかった。
レヴィナス風に言えば、保険に関係するものとして、他者に対して「私は無関係である」ということは許されない。それが、保険会社の有責性であると思う。自分の会社は、鉄道事業をやる為に集めたお金が、偶然にも、浮いてしまったことで事業をスタートした。出自の無根拠性や偶然性は、有責性によって説明されねばならない。
随分と一つめのテーマでたくさん書いてしまったため、チキンレッグ(人に見える上半身しか筋トレしないゆえに、足が異常に細い筋トレマニアのこと)の様な文章になってしまうが、二つ目のテーマについて書いておく。
これは第2章-4 沓を落とす人 に関する感想だが、内田樹がこの話を引いた意図とはやや異なる感想を抱いた。この話は、ウチダ本にはよく出てくる話なのだが、張良が黄石公から「兵法の奥義」を体得した話である。本書では、石公が二度沓を落としたことと謎を絡ませ、欲望と師についての話として引かれているが、自分は師と奥義という簡単な話として引きたい。
先日、尊敬している先輩に「君は話し方で損をしている」と言われた。私は、この時一瞬にして、話し方の上手い人をそこに見つけた。これだけではわからないと思うので解説すると、その先輩は、私に「話し方が下手」とも「話し方を直した方が良い」とも「中身がしっかりしているね」とも言わずに、「君は話し方で損をしている」と言ったのである。私は一瞬にして、このように話す人が、話が上手い人なのかと悟った。先輩は、話し方を直した方が良いというメッセージを私に伝えたかったということは理解できる。そして、私の性格上、「話し方が下手」と言えば、プライドが傷つき、反発して「うるせえな」と思ってしまうことや、「中身がしっかりしているね」と言えば、その言葉通り捉えて図に乗ることを、先輩は理解をした上で、「話し方で損をしている」と言ったのだった。
話の上手い人は、コアなメッセージを人に伝え、その人が次の瞬間から行動を変容させるように仕向けられる人であると思う。
他のどのような言葉を使わずに、先輩が「話し方で損をしている」と言ってくれたことで、私は自分の話し方を改善させる必要があると心から思うことができ、良い方向に導かせてくれた。そして同時に、そのメタ・メッセージとして「話し方が上手い」人というロールモデルを私に教えてくれた。
明日から2020年の仕事が始まる。私は先輩が言ってくれたことを、しっかりと実現し、偶然そのような先輩がいてくれた部署に配属されたその幸運を、自らの有責性の表れと解釈し、それによって得られた便益を還元するという責任を果たすために、まずは身近な人に何か良いことをしたい。
(まずは韓国旅行のお土産の韓国ノリを配る。) -
久しぶりに内田先生の著書を読破ー‼️って言って良いのか❔