岸辺の旅 (文春文庫 ゆ 7-2)

著者 :
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (232ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167838119

作品紹介・あらすじ

きみが三年の間どうしていたか、話してくれないか-長い間失踪していた夫・優介がある夜ふいに帰ってくる。ただしその身は遠い水底で蟹に喰われたという。彼岸と此岸をたゆたいながら、瑞希は優介とともに死後の軌跡をさかのぼる旅に出る。永久に失われたものへの愛のつよさに心震える、魂の再生の物語。

感想・レビュー・書評

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  • 積んで置く状態だった作品に、やっと目を通した。普通の積読ではない。毎日テレビを見る時のそば机の上に積んでいて、目の端で存在を確かめながらまる4年、それでも紐解かなかったのである。いつでも読める、内容は予想がついている、楽しい話ではない、といったことが分かっているときに、私の「直ぐにやらない脳」が発出する。

    買ったのは、黒沢清監督「岸辺の旅」(深津絵里・浅野忠信主演)が素晴らしかったからである。私の人生最恐のホラーは黒沢清監督の「回路」である。時々それに似た演出を見せながら、なんと恐怖感情ではなく意も言われぬ感情が出てきた。それを確かめたくて買った。

    夫・優介の失踪から3年目のある日、ふと顔をあげると配膳台の奥の薄暗がりに優介が立っているのが見える。瑞希は驚かない。優介の好物のしらたまを作っていたので、彼が幽霊であることを自然に受け入れて会話を始める。

    この導入部が素晴らしい。大切な人を亡くした者ならば、必ず思うはずだ。「あの暗がりに出てきてはくれないだろうか‥‥」。

    確かめたかったのは、これはいかにも黒沢清らしい演出だったのだが、いったい何処から何処までが、原作から引き出したものなのだろうか、ということだった。結論から言えば、ほぼ原作に忠実に監督は映画をつくっていた。全ての台詞と描写が映画に入っているわけではない。むしろ、どれを削ったかが、監督の仕事だったかのようだった。カンヌで監督賞を受賞したこの作品の世界観は、実は湯本香樹実の世界観だったことを知り、私は心底驚いた。

    2人は失踪の3年間の優介の魂の旅を辿り、彼が入水した海の岸辺に至る。映画では何度か確かめたが、優介には影がある。食事もする。ホントは生きているのではないか。亡くなっている人とも出会うが、生きている人と、優介はその間親交を持っていた。けれども、やはり死んでいるのである。それを納得する旅でもあった。岸辺は、此岸(この世)と彼岸(あの世)の境でもある。このとき、瑞希には2つの選択肢があるだろうし、それを迷っているはずだと私は思っていた。即ち、優介を追って後追い自殺をするか、それとも優介の成仏を見送るか。原作ではどうなっているか。結果は、映画と同じだった。そうだよな。それは瑞希の迷いではなく、私の迷いだった。

    ふと見上げると、机のそばの暗がりに積読状態だった「岸辺の旅」の文庫本が見えた。私は、自然とそれを読み始めた。

  • ” でももしかしたら、したかったのにできなかったことも、してきたことと同じくらい人のたましいを形づくっているのかもしれない。”

    表紙がすてきで購入。
    とても静かな作品。ときどき息をのむような美しい表現が、水面に反射しているようにきらっ、きらっとひかる。

  • 静かでじんわりとした余韻が残る作品。
    三年前に失踪した、瑞希の夫・優介が、ふいに現れます。
    ですが、優介いわく“俺の体は海の底で蟹に喰われてしまった”と。つまり、既に死んでいるというのです。
    そんな優介に導かれ、彼の三年間の足どりを遡るように二人は旅に出ます。
    旅の間、失踪中の不在だった期間を埋めるようによりそう、二人の何気ないやり取りに、かけがえのない人と過ごす時間の尊さというものが伝わってきます。
    もしかしたら、個人的に最近身内を亡くした事もあり、そうした事情で、“死者との繋がり”というものが殊更心に染みてくるのかもしれません。
    全体的に“水の気配”が濃厚に漂う、朧げな雰囲気は、常世と現世の狭間を感じさせるものがあります。
    この作品は、深津絵理さんと浅野忠信さん主演で映画化されているので、そちらも観てみたいと思いました。

  • 自分の前から、この世界からいなくなってしまった人と時間を共にできたらどんなにいいだろう。相手について知りたかった事が全てわかるわけではないけれど、自分の心の整理になる。長い旅が終わりに差し掛かる気配が感じられる箇所では涙が出てきた。いい本でした。

  • 夫と旅に出る。
    3年前突然失踪し命を落とした夫と、夫の死後の軌跡を遡る旅に。

    静かで安らかな二人っきりの旅。
    会話の少ない二人だけれど、行間から穏やかな想いがひしひしと伝わる。
    「忘れてしまえばいいのだ、一度死んだことも、いつか死ぬことも。何もかも忘れて、今日を今日一日のためだけに使いきる。そういう毎日を続けてゆくのだ、ふたりで」
    生と死、本来相対する二つの領域の垣根を取り払ったかのように思えた二人。
    ずっと二人でこの世をさ迷っていたかった。
    けれど二人の間に静かに漂う淡い霧のような境界もいつかは晴れる。
    「きみには生き運がある」
    夫の発した寂しい言葉だけを後に残こして。
    ずっと曖昧に描かれていた生と死の境目。
    旅の終わりが近づくにつれ、くっきりと明確になってしまったことが、何より悲しくて辛い。

    深津絵里さんと浅野忠信さん主演の映画もいつか観てみたい。

  • 朝ドラの深津絵里が17歳の役を!すごい!となり深津絵里を検索したときに映画『岸辺の旅』のことを知った。原作が小説だったので読んでみることにした。

    最初からなかなか掴みどころがないふわふわとした話だと感じた。死んだと思って3年間探し続けた夫が急に目の前に現れた時、そのときの二人の会話からああ、この夫は死んだんだろうなとは何となくわかる。そのあとすぐにふっと消えてしまうのだろうと思ったら、なかなかどうして、ずっとそばにいる。普通にご飯も食べているようだし、主人公以外の人にも見えているようだ。
    いわゆる幽霊なの?なんなのこの存在は?と思いながら、いつ消えるのか、いつ消えるのかと思いながら読むけどなかなか消えないので、あれ、これはこのままいくのか?と淡い希望も持つ。

    このままずっとそばにいてくれたらいいのにな、と思うけど、そうはいかなさそうだということはきっと主人公にも初めから分かっている。分かっているからこそ、夫のことをしっかり見つめていよう、この手からすり抜けないように掴んでいようとする姿が切ない。

    ちょっと中だるみしそうかな…と思った時に、夫には実は浮気相手がおりその人と会って話をするシーンはまた物語に惹きつけられるきっかけになった。夫がいなくなった時に見つけてしまった浮気相手からの手紙が、怒りというよりは夫を探そうという気持ちを応援するお守りのような存在になっていて、そのある意味不謹慎な内容が夫を失踪や死から遠ざけていると感じられて救われていたんだろうなという辺りには、人間の複雑な心のありようを感じた。

  • 夫が失踪して3年あまりの時間は何も書かれていない。「どうして、一体何があったの?」という妻の答えのみつからない苦しみがベースに、この物語は突如現れた夫(しかもすでに死者だという)との二人の旅路を、水の流れる方向へ身を委ねるが如く、やがて本当の永久の別れるその時が来るまでを、淡々と刻々と、時を刻み妻と夫の心を刻みながら、進んでいくストーリーです。

    本の帯には「身を引き裂かれたのち、現在を生きる者がみずから魂の再生をなす物語。理不尽な痛みや過去…死さえも受け入れる強さをひとが獲得していくひとつの過程がここにある」と書かれてあります。
    でも、自分が実感してない痛みはどんなに主人公の心情に寄り添おうとしても、読めば読むほどに混沌とした気持ちになるのです。少なくても私は再生できるところまでは行きつかなかった。まだ切なくて悲しくて、残されたわが身を呪うことは出来ても。。
    愛する人の喪失は想像もしたくないけれど、必ず誰の身にも起きること。
    その時が来たら、再びこの本をもう一度、間違いなく手にするでしょう。それまでは、分からないままこの本に抱かれています。

  • 行方不明だった夫が帰ってきた
    しかし体は蟹に食べられたという・・・
    死者?となった夫との旅物語
    語り手の女性はでも普通に受け入れて旅生活を続ける
    そんな世界があってもいいのかなと感じたけど
    でも実際にあったらいろいろと混乱するなとも

  • ひさびさに一気に読み切った作品に。

    自身の「積ん読棚」を眺めていてふと目に入ったのが土曜の夜。「お、Kindle版あるのね」と気づいてサンプルを読みだしたら止まらなくなり、深夜を過ぎて日曜に入った頃には購入してた。本屋にぶらりと訪ねられるというのはこの街ならではの贅沢だったはずなのだが、コロナ禍を経てその贅沢でさえも控えるようになってしまったがゆえに手を伸ばしたKindle端末。今回のこの流れは正にその当初の動機に沿うものということで面目躍如。本屋がなくなっていいはずはないのであるがそれなりに頻度が増えてゆくのも仕方がないところか。

    序盤に味わう「あら、そんなにあっさりタネ明かしするのね…」という感覚は、「砂の女」を映像化作品→原作の順で味わったときと似ていた。映像作品側のレビューにおいては「靴音」がきっかけとなっていたことに触れたが、それを追い越す勢いで主人公の女性がなぜ白玉団子を作り出すことになったかを語ってくれる。

    とはいえ映画の中での浅野忠信と深津絵里があまりにもよかったので読みすすめる間は彼らのイメージのままで読ませてもらうことに。題に含められた「岸辺」こそは「彼岸」の意味に近いものだったのとだと鑑賞/読了後に感じたわけであるが、改めてWikipediaに目を落とすと彼岸ということばの本来の意味は「悟りに至る境界」とのことらしく、自身の勘違いに気づくと同時に彼ら二人は確かにこのあたりを旅していたんだよなということを改めて感じたりもした。

    親しい人を失ったときにふと近くに寄せてみたい作品。

    もしくはそんなひとが近くにいたらすっと差し出してみたいような気も。

  •  丸い白玉→満月→魚の目→滝の奥の洞窟
     連想ゲームのように、読んでいて心に引っかかってくる物が、小説に滑り込んできている。
     仏教の輪廻と、夫とともに流れ者のように旅する瑞希の姿には、流転という雰囲気が漂ってきていて、ゾクッとするほど、生きる者と死者との境界線が見えなくなっていた。
     ただ夫の失踪後、知らなかった夫の姿を知るために、死を実感したいがために、夫の浮気相手と会うという行為には、首を振りたくなった。
     これって愛情?? 知って欲しくない面も知り得てよいのだろか?? 
     だとしたら愛も残酷ですね。

  • 行方不明になって3年後、瑞希の夫・優介が突然家に帰ってきます。川を隔てた向こう岸の死後の世界(彼岸)から現世(此岸)へと、たゆたえながらの旅をしながら妻に逢いに来る、哀しさと切なさに震える幽玄界の物語です。優介は瑞希に「さよさら」を伝える旅に誘い出します。優介失踪の背景を探りながら始まった旅先で待っていたのは・・・。「いかないで。きえないで。このままずっと、そばにいて。」永遠の別れを切ないまでに語り紡いだ本作は、いつまでも記憶に残る愛情物語です。

  • ある夜しらたまを作る瑞樹のもとに三年間行方不明だった夫、優介がふいに帰ってくる。
    そして翌朝、2人は優介が帰ってきた道を辿り始める。
    永遠に最期の地に着かなければいいのにと願うように読んだ。

    瑞樹と優介は近づいているようでゆっくりと離れていたのだろうか。
    自分以外の誰かと生きるということは、なんて怖いことなんだろう。
    その人を失う瞬間を思うと怖ろしくて、笑ってなんていられないのでは‥?

    優介には瑞樹が知らない顔がいくつもあった。
    もちろんそんなのは当然のことだ。誰かのことを全て知るなんてあり得ない。
    それでも瑞樹のように二人の間の距離を大切に出来たらいいなと思う。
    相手が自分から離れていくこともあるかもしれないけど、それを怖れて無闇に距離を縮めようとすることはきっと何にもならない。

    ゆっくりと語られる二人の旅はどのくらいの長さだったのか。
    時間はあっという間に流れてしまったのではないかと想像する。
    日々をどんなに大切にしていても、振り返れば過ぎ去った時間はいつも一瞬のような短さだ。
    寂しくないなんて嘘。後悔しないなんて無理。
    でも、楽しかった、大好きだったと思いたい。
    なんて幸せな時間だったのだろうと感謝したい。
    そう思う。

  • 終始「水」のイメージを強く感じた。
    水のように一箇所に留まらず、流されるように旅を続ける瑞希と優介。瑞希の、優介に会えた嬉しさよりも、優介がまた居なくなるかもしれない恐怖が強く感じられて、ずっと光の届かない海底にいるような、ゆらゆらと揺れるような話。


  •  最愛の人を失う。失うは瞬間的ではなくて、失った状態が続くこと。失い続けること。

     夫が失踪して3年経ったある日、突然、私の前に夫が姿を表す。
     
     生きているのか。否、3年前に海に身を投げた夫は、既に海底で身体を蟹に食われてしまったと言う。

     〝私〟は夫に促されるまま、夫が家にたどり着くまでに、辿った場所、暮らした所、お世話になった人、を巡る、岸辺の旅を、始める。

     チベット密教だったろうか、人は死後、様々な場所を霊体となって旅し、転生するという教えがあった気がするが、本作は、死者と生者のファンタジーというより、残された人が、最愛の人の死と共に経験する、喪失の継続を描いているように感じる。

     二人が旅で巡り会うのは、死者や、死者となんらかの形で関わり続けている人間。

    〝死者は断絶している、生者が断絶しているように。死者は繋がっている、生者と。生者が死者と繋がっているように〟

     生者同士は、生きているという共通点を持ちながら、その実、違う時間軸を進んでいる。例えるならば、長い長いマラソンの区切られた隣のレーンの人と接触しないことに似る。

     一方、死者はもう前には進めない。地から離れた死者は、ふわりと宙に浮き上がる。死者を思う生者の気持ちが、それまで越えることのできなかった、触れることのできなかった、魂に触れられる。

     言い換えれば、死者はもう自分一人では、現界し続けることができない。生者の思いによって輪郭が定まる。死者自身は、生者だけのものになる。生きているとそうは行かない。

     先の一文を、〝私〟はこう解釈している。

     〝階下から、あいかわらず規則正しい水滴の音が聞こえてくる。どう理屈をつけても、時間を巻き戻せない。私たちはもう二度と、私たちの家でもとどおりに暮らすことはできない。ただひごとに近づく何かわからないもの向かって、進んでゆくことしかできない‥‥でもこの安らぎは何だろう。なぜ今になって私はこんなところで、こんなに安らいでいるのだろう‥‥〟

     「安らいでいる」

     この言葉が、とてもしっくりくる。最愛の人を失った悲しみも、拭えない喪失感も、容赦のない現実も。それを作り出す「死」という現象が、この上なく、大きな争いようのないものとなって「私」を包み込む。

     「死」を尊ぶつもりもないが、そんな側面もあるということが、救いになる。
     
     「私」の感慨にも、そんな描写が現れる。

     〝あの頃、時間はひと続きの一本の棒のようなものだった。それが、今はどうだろう、いろいろな時間がそっくりそのまま、別々に存在している。そう私には感じられる。優介と暮らしていた時間、優介がいなくなってからの時間、まだ優介と会う前の時間‥‥いや私が生まれるよりずっと前の時間も、死んだ後の時間もぜんぶ含めて今の今、何一つ損なわれてなどいないのだ。不思議な幸福感が胸に押し寄せる。まるで一足飛びに未来に来てしまったみたいな気がする。想像さえしたかった、広々した、これ以上どこにも行けない未来に。〟

     「人は自由の刑に処せられている」とは、よくいったもので、自由は、その言葉が意味する概念よりも自由ではない。

     「未来がある」は未来を望む人にとっては自由かもしれない。しかし、望まない人にとっては自由だろうか。

     もっと言えば、先住民族に「未来」という概念は無い。無いから自由では無いのか、違う。あるから自由では無いのだ。

     「私」は「時間が損なわれ続けるもの」と認識していたが、バラバラに存在することで損なわれてなどいなかったと言う。

     過去も未来もない人にとって、時間の概念はおそらくこんな風に解釈されるのではないだろうか。ちょうどそれを象徴するのが水滴の一文だろう。

     覆水盆に返らずではない。水は消えない。蒸発しても消えたわけではない。自然のシステムによって循環して、再び地球を巡る。

     夜空の星はどうだろう。質量を伴った粒子が輝くが、命を失った星は再び粒子となり、他の粒子と結びつき、また輝く。

     水も星も同じ。では、人は。人はどうだろう。人も同じではないか。肉は消え、骨も溶け、土に帰る。その土が‥。

     本作は人の在り方にまで、深くメスを入れる。

    〝したかったのにできなかったことなんて、数えだしたらきりがない。でももしかしたら。したかったのにできなかったことも、してきたことと同じくらい人の魂を形づくっているかもしれない。この頃はそんな風にも思う。〟

     この一文には、随分と考えさせられた。

     目に止まったのに、なぜ目に止まったのかが分からなかった。しかし、ようやく気づいたことがある。

     「人の魂を形づくっているもの」それは、成し遂げたり、所有したりしたものだけじゃないということ。

     それが「心」の正体ではないのか。

     輝く星も、手に掬う水も。目には見えない粒子から生まれてきた。心はその粒子を抱える土壌のようなもの。目に見える全ては、全て目に見えないものが無数に集まったもの。

     安らぐ。そう考えれば、普段、どれだけ目に見えるものだけで、自分は生きているのだろうかと、ガクリとする。

     〝死んだ人のいない家はない〟

     だから孤独の人などいない。そう続けたい。本作はここで区切られていたが、読みながら勝手に口ずさんでしまう。

     それはとてもとても優しい小説だった。

     『夏の庭』に続いて、湯本香樹実さんの小説は二作目となった。

     生と死への洞察。捉え方が暖かく、不思議な穏やかさに包まれている。そこが好きだ。

     静かな筆致が、小雨のようにサラサラと心地いいのも好きだ。堅苦しい私の筆致も、こういう、優しい筆致に触れることで、和らいで行って欲しい。

     そして、大切な人にぜひ勧めたい一冊だ。

    (読了1読目 2021.9.28)
    (感想、2021.10.7)

     

  • ファンタジーであり不条理であり寓話でありロードムービーでありコメディでありハートウォーミングものでありホラーでもある。

    浅野忠信はもとから魂の抜けているような顔。なのにチャーミングという。
    ばっちりの演技。(空も風も痛いという凄まじい台詞は、そこらへんの役者には言えないだろう。)
    深津絵里は静かに悲しみを持続しているような顔。
    だからこそ笑顔や笑い声が嬉しい。
    怒った手つきで白玉団子を作るとか、いい。
    なにやかやと手仕事をする所作も素敵だ。
    蒼井優の自信たっぷりのしたたか悪女。
    ほか、小松政夫をはじめとして「いいツラ構え」のおっさんたち。

    旅は4つに分割できると思うが、「自分の死に気づかない人」と生者のそれぞれの在り方を見届けることで、自分たち夫婦の在り方も決着をつけようと決意する。
    死者の未練、生者の執着、それぞれがお互いを引き止めたり引っ張ったりする。

    この均衡不均衡は、生者死者だけでなく夫婦の関係性でもあるのだ。
    死後でも「愛の確認」をしなければならないとは。(恨みの幽霊は存在しない。)
    そして普段の生活では自分に見せてくれなかった「別の顔」を見て、理解を深めていく。

    生死の境界や通り道は、黒ではなく白や霧や湯気のイメージ。

    全編仰々しいとともに美しく幸福なオーケストラ。
    これも清節と思えてしまえるくらいには盲目的信者である。
    しかし、ここまで不穏なのに幸せな感動に浸れるのは、もう清でしかありえないのではないか。

    #####

    と、映画版で書いた。

    抒情的な怖さを醸し出す設定や小道具や人物や背景やは清の工夫なのだろうとてっきり思っていたが、
    実は原作をかなり忠実になぞっていた。
    ということは「湯本香樹実の黒沢清性」。変な表現だが。
    「死者は断絶している、生者が断絶しているように。死者は繋がっている、生者と。生者が死者と繋がっているように」
    という台詞なんて、「回路」に出てきてもおかしくない。
    死者が自分の死に気づいていなかったり、生者に交じっていたりするところも。

    むしろ映画のほうが、ピアノ勝手に触らないで! や、今度結婚するんです、ふふふ不敵な笑み、や、殴り合い、などなど、エモーショナルな場面が多くなっているほど。
    つまり原作は相当に淡々としている。それでいての叙情だから、良作なのだ。

    また小説で気づいたのは、決して夫婦の話に限定していない、むしろ親と子という軸が盛り込まれた作品なのだということ。

    あとは全編を通じて水の気配。これは小説ならではの巧みな技巧だ。

  • きみが三年の間どうしていたか、話してくれないか… 長い間失踪していた夫・優介がある夜ふいに帰ってくる。ただしその身は遠い水底で蟹に喰われたという。彼岸と此岸をたゆたいながら、瑞希は優介とともに死後の軌跡をさかのぼる旅に出る。永久に失われたものへの愛のつよさに心震える、魂の再生の物語。

  • 蟹に食われたという夫が3年ぶりに帰宅。その帰ってきた道のりを逆にたどる旅。その旅で色々な人と出会い、知らない夫の一面を知ることになる。風景と会話が見事に溶け合っている。波の音、月の満ち欠け、この心地良いリズムは不可思議な設定に違和感を感じさせない。何回か読みたくなる魅力をもっている作品です。
    カンヌ映画祭で黒沢清氏が監督賞を受賞。
    電線が風に揺れているみたいな音「ひょーん、ひょおぉーん」という表現が繰り返しでてくる。映画では場面転換で使われると予想。どんな音が鳴るのか?楽しみです。

  • 本屋さんでぷらぷら本を探していて、冒頭を読んだ時、すぐに心を攫われた

    しらたま

    夜の台所で作るしらたま

    ずっと聞こえてた水音 最後は風の音

    15センチのドアの隙間から洩れる光

    思ってたよりも複雑な人の心

    今自分で思ってることが全てじゃない。今自分が喋ってることとは全然違う自分が居たりする。どれが本当でどれが嘘でとかじゃなくて、出会った人の分だけ、その人の中で、自分の中で、自分が生まれ消えていく

    それで良いんだと思った

  • 彼岸と此岸、死者と生者、死ぬことと食べること。
    それぞれ相反することではなくて、曖昧な境界線を挟んでつながっているのだと思う。
    死んだ人のいない家はない。つまり、誰かを失ったことのない人はいない。それでもそこにあった時間は、記憶は、失われることはなくて、私たちはふたりぶんの荷物を持って、波の寄せる岸辺の旅を続ける。

  • しらたまを作っている夜中、失踪して3年経つ夫が配膳台の向こうの暗がりに立っている、から始まる。ホラーでもなく夢想でもなさそうな感触で、訥々と交わす夫婦の会話ぶりはなんとなく川上弘美の著作を思い出させる。
    蟹に食べられて身体は無いと言い切る夫と、死んでから夫が辿ったという道を共に旅する妻の旅路。
    すべての描写が美しく感じられるから映像に向いてるんだろうなと思ったらとっくに映画化されていた。
    誰が演じたのか調べないままに読んで良かった。(ちょっとイメージ違う)
    ずっと「死」が近くにいる、美しくも寂しい小説だった。


  • ようやく再会できた最愛のひとは、果たして私の知ってるあのひとなのか。
    水の中をゆらゆら揺れるふたりの関係。姿が掴めない夫の輪郭のなさ。

    そこに戸惑いつつも、新たに関係をつむぐふたり。きっと、夫と妻の立場が逆だったらこうはいかないだろう。瑞稀の愛と芯の強さ。
    大切な人を亡くした人なら、誰しも幾度となくもう一度会えたら、と思うだろう。夫と旅をする彼女は、羨ましくも映る。

    そして、タイトルの秀逸さ。「岸辺の旅」
    岸辺は、水と陸地の境にある場所。物語は、その分け隔てられた存在であるふたりが「岸辺」のようにその境が揺れながらでも隔てられていることが印象的。

    ひとつに、生と死という隔たり。

    瑞稀があちら側にいってしまうのではないか。それが彼女の望むことだと思う。それでも、いくら死の淵に行きかけても彼女は必ず生きる。
    これからも生きていくんだということに、著者は読者へ試練であり、希望を与えているように感じた。この終わり方で良かったと思いたい。

    さらに、夫婦という存在の隔たり。夫婦という決して血はつながらないのに、最も近しい存在のふたり。

    隔たりと強調しつつも、この作品で生と死は親しい。死は忌み嫌うものではなく、もしかしたら本当に死者も生きている人みたいに過ごしているのかもしれないなと思わせる。

    あと、出てくる食べ物が非常にリアル。美味しそう。生と死をテーマにした話なのに緩やかで、ファンタジー要素が強いのにリアリティを感じるのは登場する食べ物のおかげだろう。どんな状況にあっても、死者も生者も腹は減る、その愛おしさ。しらたま、鍋、餃子、ロールケーキ、、たべたい。

    時間をかけて読んだ。  

  • 居なくなった優介に全く共感が出来ず、半分で読むのを辞めてしまった。もう少し心に余裕があるときに読み直したいと思う。輪郭のないあやふやさを感じる物語。


  • 西日暮里 BOOK APARTMENTで購入。
    表紙が見えないようにされており、「考えると変な話ですが妙に残ってしまいます。」という一文の紹介で購入。
    感想「確かに。」

  • 死んでしまった人に思いのある人にとってなんと心に響く物語だろう。
    白玉を作っていたらひょっこり現れた優介。生者のような死者と根源に向かうような旅。静かに流れる時間がそれぞれの過去の時間軸と重なり合ってたゆたって存在している。現実感のある不思議な世界でした。

  • 三年前に失踪した夫が帰ってきた。話を聞くと、すでに死んでいて身体は海の蟹に食われてしまったそうだ。
    夫と妻は旅に出る。夫が家に帰ってきた道を辿る旅路。

    途中、新聞店や中華料理屋、タバコ畑で働く二人。どの場所も夫が死んでから戻ってくるまでに立ち寄った場所らしい。自分が死んでいることに気づいていない人もいる。

    終着の海辺で夫はこの世を離れる。失踪する前と同様に、荷物から取り出したコーヒーを飲んで消えた。

    ---------------------------------------

    子どものころ、幽霊がとても怖かった。
    トイレやお風呂に一人で行けないだけではなく、一人で家にいる時間が耐えられなくて、雨の降る庭で傘をさして家族が帰ってくるのを待っていたこともある。

    今でも霊的なものを信じているけど、怖さはあまりない。たぶん、知っている人が亡くなる、ということを何度も経験してきたからだと思う。いずれは自分も霊になりたい。

    ---------------------------------------

    この物語は、三年前に失踪した夫が帰ってきて、自分がもう死んでいることを妻に告げる場面から始まる。
    夫が自殺した場所を目指す旅に出る二人。
    壮大な物語ではない。どんでん返しもない。移動して、食事をして、すこし働く二人。クライマックスがあるとすれば、夫がこの世を離れる前夜に抱き合うシーンだと思う。ただ、それも大きな波ではない。日常のなかで起こりうる小さな波。

    人がいなくなるということは、日常が失われてしまうということ。しらたまを食べたり、お茶を飲んだり、相手に合わせた日常が無くなるということなのだ。
    夫婦二人はかつての日常会話のような空気で旅を続ける。

    壮大さや大きな波は人生に必要ない。
    いつまでも続く日常。繰り返す営み。自分らしい生活を人生と呼びたい。

  • 読み終えてからしばらく経っても、この本のことを思い出すと、静かに沈み込むような気分が蘇ってきます。そういう小説はそんなにあるものではない、まさにこの表紙の写真のような空気感の物語です。

    暗いお話は得意ではないのですが、随所にぞくりとするような表現があったりするので、またこの文章に触れたい、と思ってしまう。

  • とても綺麗な表現をするなぁという印象。

    映画も見たけど、小説の方が好きです。

  • 読み終わってすぐには感想がすぐに見つからなかった。
    なんと表現すればいいのか収まりつかなかったからだ。
    3年間失踪していた夫が帰ってきて、いなかった間どうしていたかを話して欲しいと言った。
    お互いにいなかった間は分からない。そうしたら夫が過ごしていた場所に連れられた。
    死者の世界と生者の世界が交わって、行き来し、何かを共有する。
    何か切ない。多分、歳月が過ぎればもっとわかることがあるかもしれない。

  • 秋に映画をみたので。
    映画よりも感情描写がおさえられてる感じがした。その描写が読んでるこちらをかなしい気持ちにさせるような。
    薫さんの旦那さんとのやりとりとか、みずきの父親とのシーンは小説のが断然よかった。

    生きているうちに、大好きな人たちとたくさんたくさん話をしておきたいと思った。

  • いとしくて泣きそうだった

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著者プロフィール

1959年東京都生まれ。作家。著書に、小説『夏の庭 ――The Friends――』『岸辺の旅』、絵本『くまとやまねこ』(絵:酒井駒子)『あなたがおとなになったとき』(絵:はたこうしろう)など。

「2022年 『橋の上で』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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