吉沢久子、27歳の空襲日記 (文春文庫)

  • 文藝春秋 (2015年6月10日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (256ページ) / ISBN・EAN: 9784167903947

作品紹介・あらすじ

B29が本土を爆撃し始めた太平洋戦争末期。飢えや焼夷弾の恐怖……戦時下のことは思い出すのも嫌だという著者が、プライベートな当時の日記を敢えて公開。容赦なく落とされる焼夷弾の脅威の中で、明日の命をも知れぬ非情な現実を前に、著者が見て感じて考えた事とは? 働く女性が見た太平洋戦争(解説・梯久美子)



爆弾がいつ落ちるか分からない中での通勤、空襲以上に深刻な食糧不足。わずかな食料で苦心工夫した手料理、命の危機にさらされながら心をどのように平穏に保っていたのか……生活評論家として活躍する吉沢久子の原点がここにある! 若き著者が率直に綴った貴重な記録。



昭和十九年十一月 銃後から戦争へ

初めての空襲警報

身ぎれいにしなければ



昭和十九年十二月 人気のない街

頭上ま上に、敵機が

空襲はイヤなお客さんのよう

除夜の鐘の代わりに待避半鐘



昭和二十年一月 空襲以上に深刻な食糧難

モンペ姿で竹槍訓練

ウィスキー一本が月給より高い

わずかな大根が一人三日分の野菜



昭和二十年二月 赤紙一枚で連れて行かれる男達

ついに一作さんも軍隊へ

新聞記事に一人噛みつく

男子駅員のユーモア



昭和二十年三月 爆弾で隣人が亡くなる日常

配給ほとんどなし

突然、下宿人との生活始まる

東京大空襲の日

商店街はまるで古道具市



昭和二十年四月 政府の無責任さに腹が立つ

無感動になった自分の頬をたたく

本を焼かれたくない

人の足元見て金儲け

闇買いで家計はめちゃくちゃ



昭和二十年五月 火の粉が降り注いだ夜

偉大な外交官がいてくれたら……

歯みがき粉のにおいがするビスケット

アメリカ人も同じ人間

辞書と針箱と紅茶の缶



昭和二十年六月 正確な情報がない中で

一番の贅沢は眠ること

敵は本土に上陸か?



昭和二十年七月 連日続く空襲警報

髪にシラミが

防空壕も水びたし



昭和二十年八月 原爆投下、そして終戦

広島に大型の新型爆弾

玉音放送に、街の人は

空襲がないとは何と嬉しいことか



解説 梯久美子

感想・レビュー・書評

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  • 戦中日記の読み比べシリーズ第三弾。高見順「敗戦日記」、「大佛次郎敗戦日記」そして本書の順にお読みください。今回は東京大空襲があった3月〜4月を読む。

    吉沢久子、生活評論家、エッセイスト。2019年101歳で逝去。昭和19年、秘書をしていた古谷綱武氏(将来の夫)が出征するとき自宅の居留守を頼まれた。その折りに「外部のさまざまな変化から心持ちの変化に至るまで、できるだけ詳しい記録を残してくれ」と頼まれて日記を書き始める。そして阿佐ヶ谷にすむ。勤務先は神田の鉄道の技術関係の教科書をつくる会社。速記の能力を買われたらしい。解説で梯久美子さんが「職業を持つ若い独身女性の日記は珍しくまとまったものを読んだのは初めて」と書いている。梯さんは、戦中の日記、手紙、インタビューによって当時の状況を再現するジャーナリストの第一人者であり、その人にこう言わせるのは、ホントにこの本が貴重だということなのだろう(2015年発行なので、昨年、田辺聖子の日記を読んで梯さんの認識も新たになったに違いない)。

    3月1日
    高見順 敵の本土上陸候補は、九十九里浜、伊豆、静岡。その時は、自分も銃をとって戦うのだろう。

    吉沢久子 総務部長は九州上陸説、久子は東京が先。

    3月4日
    吉沢久子 午後、隣組城常会。みなさん食べ物の話ばかり。配給はほとんどないものだもの。今朝の空襲はすごかったと話し合う。爆風で家がふらふら動いているよう。

    3月5日
    吉沢久子 古谷綱武の弟・綱正(新聞社勤務)の隣の部屋に爆弾が落ちて隣人なくなる。やがて綱正が吉沢久子の家に下宿し、さらに綱正の同僚が下宿始める。

    3月7日 
    高見順 上野。御徒町で降りて広小路に出て、公園へ歩く。右側は惨憺たる焼け跡。震災でも焼けたところだ。不忍池から動物園裏口電車通りへ(帝大の頃からいえば20年ぶり)。根津神社前。徳田秋声の家でお茶。帝大図書館。

    吉沢久子 阿佐ヶ谷の自宅は、まだのんびり。一貫め四百円で砂糖を買う。1ヶ月の給料は120円。

    ケストナー(ベルリン) ようやく(ドレスデンにいる)両親から郵便が届いた!3月1日の空襲では窓に貼った厚紙が落ちただけで済んだという。腹立たしいのは2月13日から電気も水も来ないことらしい。オケで水汲みをしなければならないからだ。そしてアパートの低い建て増し部分と裏の棟が炎上したため、両親は当時の反対側に住むナウマンの家の廊下で恐怖の一夜を過ごしたと言う。

    3月8日
    高見順 文藝春秋社に3時。原稿料をもらう。30枚180円。敵の上陸作戦のことが話題。

    3月9日
    高見順 快晴。深夜、B 29の音らしいのが東京に行き、ラジオがいきなり数十機が関東地区一帯の上にいると報じ、そのあとうんともすんとも言わない。不安だった。

    吉沢久子 「今日は朝からひどい風だ」「11時警戒警報、しばらくして空襲警報に変わる。ラジオが敵機は編隊を解いて一機ずつ海上から来襲とつげる。南から北からで、高射砲ははげしい音を立てている。今にも火の粉が飛んでくるかと思われるように、天が紅に染まり、外は昼みたいだ。こんなことははじめてで、いよいよ私も焼け出されるのかと思ったりもした」

    吉沢久子  後のメモ「この三月十日から、ほとんどの人が戦争は勝つなどとは思わなくなったのではないかと、後になって思った」「(あの昼のように明るくなった空の下には)まさに地獄の苦しみがあったのだと、一人で泣いたことを思い出す」「東京大空襲での膨大な犠牲者の遺体は軍などによって公園や寺などに仮埋葬され、遺体を掘り返して埋め変える改葬作業には約3年の月日を要した」

    3月10日
    高見順  昨日と同じ快晴。陸軍記念日。
    昨夜の爆撃に関する大本営発表をラジオで聞く。被害の詳細がわからず不安。(略)省線が品川とまりで、市内不通。被害激しいと察せられる。
    ラジオが、仏印における駐屯軍が単独防衛の行動に出たと報じた。政府の声明を聞いていると、猪俣和子さんが突然福島から訪れてきた。東京はすごいという。本郷で、焼け出されの家族を連れて、大の男が泣きながら歩いて行くのを見たという。心痛む。

    3月11日
    高見順 夜義兄来る。9日夜の、というより十日暁方の爆撃の被害は今までにないひどいものだった由。罹災家屋二十五万軒、罹災民百万と言われている由。

    吉沢久子  町内緊急集会。「罹災者を各家庭で迎え入れる手筈を」とお達し。久子は隣組に伝えたが、そのあと布団や食器などの供出の連絡。夜になって、こちらの町内には来ないと連絡。隣組も大混乱だった。

    大仏次郎   仕事うまくいかぬので散歩に出て矢崎君を訪ねると六興は無事だったが魚河岸の実家焼けてなくなった、避難し来たれりとって家中混雑す。野原宅を見舞う。子供たち元気。古本屋へ回る。人が混むと思ったら、電車、公用か罹災者の外は鎌倉大船間の切符も売らぬためなり。大船用ある人山越に行き歩き行くとて亀田氏に道を問いたいと。街で生き合う人皆避難民に見える。
    ○焼け出される荷物を疎開しありしを開けてみたら紋付きと礼服だけだったと言う話あり。日用品を考えず庭に埋めしもの骨董的陶器のみとて宋胡録を小鉢に、赤絵の皿、朝鮮の箸で飯を食っていた人もありしと。
    ○茶碗を持ち出ず花瓶の破片で炊き出しの飯を受けているものありしと。

    3月12日
    高見順 いつもは半ページか多くて1ページほどの日記が、この日だけは5ページにかけて焼け野原の東京を歩いた経験を書き連ねている。高見順としての、作家の義務感?執念?不安?鬼気迫る文章。
    東京駅から上野駅に降りて浅草に回り、全てが「焼け落ちた」ことを見て周り、全ての思い出がなくなったことを嘆く。罹災者たちの様子を出来るだけ記した。

    3月14日
    吉沢久子 今日は社を休んで綱正さん(古谷綱武の弟)たちの荷物を、大切なものだけでもリュックに入れて持ち出してこようと、大野さんと3人で本郷までゆく。本郷あたりの爆撃のあとを見る。破壊された家々の中から引っ越してゆく人たちの顔はすでに必勝の信念など見られないし、街で大声で立ち話をしている人たちは、罹災したときの様子を、気持ちのたかぶりのまま互いに話し合っていた。

    3月16日
    高見順 鎌倉が危うくなったら、みんなで蓼科へ難を避けようと言うことになった。蓼科には大きな牧場があって牧夫を求めている。宿屋に雇われて帳付けをやっても良い。何とか食えるだろう。そんな話が出た。
    「久米さんに会ったら、貸出文庫をやろうと言っていた。川端さんも賛成していた」と中山くんが言う。「僕も蔵書を出そう」と私は言った。
    ←文学史において、鎌倉文士が蔵書を集めて貸出文庫を始め、それがやがて出版社へ発展した鎌倉文庫が、初めて話題に登った。この時期になると、みんな金が有ればすぐにでも蓼科あたりに逃げたかったようだ。


    3月22日
    ケストナー(マイヤーボーフェン村) ベルリンで書き記した最後の日記は3月9日になっている。1週間前から私はチロルにいる。(略)事の起こりはロッテとエーバーハルトが映画撮影所で出会ったことにある。エーバーハルトが驚いて尋ねた。
    「どうしてまだここにいるんだ? 」
    ロッテは答えた。
    「エーリッヒがここを離れないんです」
    そこでエーバーハルトが言った。
    「なんとかしよう。私は明後日から、ロケをすることになっている。彼にその気があるなら、連れて行ってもいい。今晩家にいらっしゃい。相談しよう」

    ←こうやってケストナーは、最大のベルリン陥落戦が始まる直前に映画脚本家の体でベルリン脱出に成功している。もしあのままベルリンにいたならば、無事でいたかどうかは神のみぞ知る。

    3月26日
    高見順  山田さんが来て私の家の辺り一帯の強制退去の命令が出たと言う噂を聞いたがと言う。初耳だ。デマにしろひどく応えた。我ながら情けなくなるほどひどい衝撃を受けている自分を見出せねばならなかった。
    ←この頃、本気で家探しをしている。

    3月28日
    ケストナー(マイヤーホーフェン村)アメリカ軍は数日でライン川からギーセン、リンブルク、ベルツブルクの各町へ進出し、シュッペシャウトの森林地帯へ突入した。ラジオ放送は解説抜きで、ただ事実を伝えるだけになった。いずれにせよ終わりが近い。全軍が戦闘を停止し、降伏するだろう。 




    4月5日
    高見順 ○ 10日の空襲で、貞山(講談)(以下十数人略)庶民とともにあった芸人は、庶民とともに死んだのである。
    文士は今のところまだ死んでいない。だがそのうち、犠牲者はきっと出てくる。
    そして上層の政治家、富豪等は最後まで死なない。

    4月6日
    大仏次郎 日本造船に頼まれて話をしに横浜へ行く。9時10何分の電車、20分あまり遅れる。ニューグランドのホール、聴衆は重役部課長のみにて4 、50人、日本人の心と言う題。一緒に食事をし自動車を借りて市中の疎開取り壊しの姿を見る。壁を落としてから兵隊や隣組が柱に綱をつけて匹倒すがなり。

    ←この時期に有名作家を迎えて、おそらく倫理的な話を聞くという企画を立てる方も立てる方。おそらく愛国心を鼓舞する話になったと思う。大佛次郎は文学報告会で活動はしていないが、高田順と役割はほぼ同じとみていいかも。

    4月11日
    高見順 ←鎌倉文庫のことで大佛次郎宅へ行き、蔵書を出すとう、いろいろ会話をしている。大佛次郎日記には記述はない。食い詰めている高見順、余裕ある大佛次郎という構図。

    4月13日
    吉沢久子 明日、会社で臨時賞与を出すと言うことになったので、郵便局に振替貯金を取りに行く。なんだか手続きが面倒で、1日がかりになってしまった。待っている間に「ルーズベルト急死」と言うニュースが流れ、戦争が終わればいいなと思う。
    ←実際には、トルーマンが臨時大統領になることで、原爆投下にGoが出たのだ。吉沢久子はおろか、誰もそんな未来のことは知る由もない。


    4月16日
    吉沢久子 会社から特別賞与として150円もらった。これで家賃3ヶ月分前払いしておくつもり。綱正さん(居候)から130円、大野さん(居候)から50円を、生活費として月初めにもらったのと、私の月給120円、教習所からの速記料30円、これが今月の収入のすべてになると思うが、闇食料品の高さは驚くばかりに値上がりを続けている。でも闇で買わなければ飢え死にしそうだ。会社へくるおじさんに頼んだ牛肉は百匁60円、菜種油一升200円だという。すごい。
    ←闇を少し買うだけで、1ヶ月生活費の半分が飛ぶ。それが都会生活の実態だった。いったいどうやって生きていたのか、不思議なくらいだ。男の日記には、絶対出てこない記述だろう。


    4月17日
    ケストナー(マイヤーボーフェン村)  ルーズベルト大統領が没した。肖像画の製作途中、脳卒中で死去した。4月12日木曜日のことだ。(13日の金曜日ではない。)
    ←吉沢久子の情報より遅れること4日。案外遅くなかった。

    4月18日
    東京新聞に貸本屋のことが出ていた。
    「文士が産業戦士の貸本店」
    (略)久米正雄、大佛次郎、里見弴、川端康成、高見順、真杉静枝氏らの計画で(略)鎌倉駅前付近に場所を選定中で、開店の暁には高見順氏が店に座って大番頭をつとめるほか、久米氏らが交代で店員役をつとめる。

    ←記事にあるように「文化運動のために」ではなく、東京大空襲で食い詰めた文士の窮余の策なのだが、高見順はわざわざ書き写していた。名前が出るのが嬉しかったのか?大佛次郎は名前のみ貸した気がする。

    4月21日
    ケストナー(マイヤーホーフェン村)アメリカ軍がライプツィヒに迫り、赤軍はドレスデンを目前にしている。ベルリンは孤立無縁だ。鉄道網が空爆で絶えず寸断されているからだ。T34型戦車はマルスドルフとブーフホルツで前進を止めた。

    高見順 庭のつつじ、赤い芽を出す。
    ベルリン攻防戦の火蓋が切られた。

    4月22日
    大仏次郎 ○沖縄の敵が無条件降伏したと言うデマが飛び駅でマイクロホンで伝え、巡査までがそう言って歩いたそうである。電車の中では罹災者が総立ちとなり万歳を叫んだと。こういうデマを人が信じるのが奇怪なのである。

    4月25日
    大佛次郎 ○ベルリンは両断されたと報道せられる。それでも抵抗しているのだがナチの辺でデゼスペレ(絶望的)の仕事にとどまるだろう。ここまで来ては全く無意味なことである。残った興味はヒトラーがどうなるかである。ペタンはスイスに入りバルス首相は入国を拒まれたよし。
    ←外国情報は素早く正確に入る。国内情報は入らない。まるで現代日本のよう。

    4月29日
    ケストナー いくつかの噂が流れた。ムッソリーニがドイツ軍将校の制服を着て逃亡を図って捕まり、ミラノで他のおもだったアシストたちとともに銃殺されたと言う。2つ目の噂、赤軍は高齢のレンナー博士を首班に臨時オーストリア政府を樹立したと言う。3つ目のうわさ。フォアアールベルク州からドイツ軍が撤収したと言う。
    ←ムッソリーニのそれは、日本より2日早い(しかも当日のうちに掴んでいる)。ドイツでも外国の情報は素早く入る。自国の情報はなかなか入らない。古今東西同じなのか。だとしたら現代日本の我々は、国際情報はメディアから普通にとって大丈夫。自国の「大切な情報」は、かなり批判的精神で洞察力持って見る必要があるという事だろう。

    4月30日
    ケストナー 今日は寡黙な1日だった。ミュンヘンの放送局が口をつぐんでいただけでなく、外国の放送局も沈黙した。どんな言語の放送もないなんて、どういうことだろう。沈黙を旨とするトラピスト修道会の国際会議を放送中だとでも言うのだろうか。放送で流れる嘘なら、お粗末なものでも、巧妙なものでも、解釈することができる。だが一斉に沈黙するとは奇妙だ。(←実際には、ヒトラーが自殺していた。その確認に混乱していたのだろう)

    吉沢久子 今年も4ヶ月が過ぎた。日々生きていることが不思議に思われる。どんな中でも、たとえ明日はないとしても、今を明るく生きよう。自分の周囲を明るくしていきたい。

    ←こうやって、東京大空襲があった3月と4月は終わってゆく。3月21日に吉沢久子は書く。「おひがんの中日。美しく晴れた空を見ていると、切ないほどに感じるのは、戦場にになる日も近いかもしれない東京へのいとおしさだ。生まれ育った土地であり、それがこんなに荒れてしまったのに、空は澄み切っている」
    ←前回の日記で「比較的自分のところは安全だと思っているのだろう」と、私は彼らの心情を推察したが、訂正したい。この頃、鎌倉でも阿佐ヶ谷でも、彼らは「明日にでも米軍の陸上戦が始まる」と、ホントに予想していたのだ。だから、肉や米などの食べ物が入ると、ほとんどその日のうちに食べてしまっている。いつこれが最後の晩餐になるかわからないという暗黙の了解があったからだろう。彼らの心の平穏は「明日の命は保証されない」ことを見越した上での平穏なのである。

    • 土瓶さん
      くまさん、おはようございます。
      父と母が生きているうちに戦争の話を聞いておくべきだった。
      じいちゃんとばあちゃんにも聞いておくべきだった。
      ...
      くまさん、おはようございます。
      父と母が生きているうちに戦争の話を聞いておくべきだった。
      じいちゃんとばあちゃんにも聞いておくべきだった。
      そう思う。

      正しいことは、いつも手遅れになってから分かる。愚かだ。
      2022/08/14
    • kuma0504さん
      土瓶さん、おはようございます。
      ホントにそう思います。
      戦争中の話をもっと聴いておくべきだった。

      ちょっと長くなります。
      うちは、戦争の話...
      土瓶さん、おはようございます。
      ホントにそう思います。
      戦争中の話をもっと聴いておくべきだった。

      ちょっと長くなります。
      うちは、戦争の話をしていたのは父親でした。呉の海軍兵学校へ、14歳の時に志願して、兵長にずっと虐められた話を、子供たちが「またか‥‥」と思っているのに繰り返しました。「連帯責任でな、尻を出せ!と言われて順番に殴られるんだぞ」。でも彼は戦争に行って仲間を殺されてもなければ、殺してもないのです。反対にいえば、だからこそあんなにも語ることができたのです。
      ホントに聴かなくてはならなかったのは、祖母の気持ちであり、母親の体験であり、伯父のシベリア体験でした。‥‥と、吉沢久子さんの日記を読んで、今年初めて気がつきました。あまりにも遅い!!
      母親は、あまりにも賢くて優しかった兄をビルマでなくしています。父親はそれを苦にしたのか、戦後すぐに亡くなっています。12歳で敗戦を迎えて叔父が帰るまで家族をささえたのは母親でした。でも一切何も聴いてません。ホントに何も聴いていない!!
      伯父はシベリア抑留帰還者ということは知っていましたが、私が反戦的なことを語ると「何もわかっておらん」と一言言って黙ったので、気まずくて一言も何も聞いたことがありませんでした。子供がいないので、看取って全ての葬儀の段取りをしたのは、私なのに!!
      聞くことは大切です。
      特に黙っている人から聞くことができるのは近親者しかいないかもしれません。でも、それは時にはとても大変な事です。

      「なんもわかっておらん」
      「戦争だけはやっちゃおえん」
      テレビドラマでも聞くようなそんな一言を、テレビで見るのと、直に聞くのとは「雲泥の差」があります。

      もう一つ、(すみません)、今年水島空襲を語り継ぐ会を企画した時に、知り合った85歳のおばあさんから体験を聞く段取りをしました。2-3m先に爆弾が落ちた貴重な体験を、久しぶりに発掘しました。二回会って「やっぱり止めるわ」というのをなだめすかして、聞き手の質問に答えるだけでいいから、と段取りを取ったのに、4日前に親戚の葬儀があるからとキャンセルになり、急遽録音だけして誤魔化しました。‥‥それほどまでに、直に話を聴くことは大変なのです。

      もはや、戦争体験者から直に話を聴くということは困難になりつつあります。でも、私たちは、多かれ少なかれ「直に話を聞いた」世代でもあるのです。だからその「実感」を次の世代に伝える義務があるように感じています。戦争は歴史上の出来事ではなく、ドラマやゲームの中にだけあるものでもない、と。
      2022/08/14
    • 土瓶さん
      なんていうか、
      こちらの「聞きたくない」と、体験者の「言いたくない」の思いの重さは、羽毛と月ぐらいに違うのでしょうね。

      そんなことを思い...
      なんていうか、
      こちらの「聞きたくない」と、体験者の「言いたくない」の思いの重さは、羽毛と月ぐらいに違うのでしょうね。

      そんなことを思いました。
      2022/08/14
  • 吉沢久子さんの作品、ブクログ登録は2冊目。

    著者、吉沢久子さんは、ウィキペディアによると、次のような方です。

    ---引用開始

    吉沢 久子(よしざわ ひさこ、1918年1月21日 - 2019年3月21日 )は、日本の評論家・随筆家。東京都江東区深川出身。文化学院文科卒。

    ---引用終了


    で、本書の内容は、BOOKデータベースによると、次のとおり。

    ---引用開始

    「戦争はいやだ」と言っても、起きてしまえば誰もが否応なしに巻き込まれていく。空襲下の事は思い出すのも嫌だという著者が、当時の日記を敢えて公開。容赦なく落とされる焼夷弾の脅威の中で、明日の命をも知れぬ非情な現実を前に、著者が見て感じて考えた事とは?率直に本音で綴られた貴重な記録。

    ---引用終了

  • 空襲警報下で「源氏物語」を読む。意外でリアルな戦時下の暮らし 『吉沢久子、27歳の空襲日記』 (吉沢久子 著) | 書評 - 本の話
    https://books.bunshun.jp/articles/-/3052

    文春文庫『吉沢久子、27歳の空襲日記』吉沢久子 | 文庫 - 文藝春秋BOOKS
    https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167903947

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    図書 2022年7月号
    (本の栞にぶら下がる) 三人の女性の「敗戦日記」/斎藤真理子

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著者プロフィール

吉沢久子

一九一八年、東京生まれ。文化学院卒業。生活評論家、エッセイスト。十五歳から仕事をはじめ、事務員、速記者などを経て、文芸評論家の古谷綱武氏と結婚。家庭生活の中からの見聞や、折々の暮らしの問題点、食文化などについて提案し、執筆や講演活動、ラジオ、テレビなどで活躍。姑、夫と死別したのち、六十五歳からの一人暮らしは三十年を超えたが、二〇一九年三月、一〇一歳で死去。著書多数。

「2021年 『100歳の100の知恵』 で使われていた紹介文から引用しています。」

吉沢久子の作品

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