- Amazon.co.jp ・本 (400ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167905163
作品紹介・あらすじ
四十年にわたる旅の終着駅。渾身のルポルタージュ史上もっとも高名な報道写真「崩れ落ちる兵士」。その背景には驚くべきドラマがあった。「キャパ」はいかに「キャパ」になったのか。
感想・レビュー・書評
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深夜特急の沢木さん。
ミステリーであり、ルポであり、事件でした。
キャパの名前は存じてましたがこの写真は知りませんでした。
そしてこんな謎を残していたなんて。
沢木さんの地道な努力が解決の糸口を掴む場面はドキドキがとまらない!
沢木説であり、全く真実とはまだ言えないけど、支持したいと思う。
いつか真相が分かるのもまた楽しみ。
キャパの恋人、ゲルダの苗字タローの由来がとても面白い。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
▼「キャパの十字架」沢木耕太郎。初出2013文芸春秋社。
この本を、新刊当時から「あ、読んでみたいな」と思っていて。
去年の段階で「よし、読もう」と購入し。「どうせならこの一冊を愉しむために・・・」と、準備運動読書を決意。
キャパは
・ハンガリー生まれ
・スペイン内戦で名を成した
とは知っていたので、
・図説 ハンガリーの歴史
・誰がために鐘は鳴る(上下)
・ロバートキャパ写真集(岩波文庫)
・物語スペインの歴史人物編
・物語スペインの歴史
・ちょっとピンぼけ・ロバートキャパ自伝
・評伝&写真「ロバート・キャパ」
・評伝「キャパ その青春」「その戦争」「その死」
と11冊を積み上げてきてとうとうゴールに至りました。
なんですが、ちょっと拍子抜けでした(笑)。
▼要は、キャパがスペイン内戦で撮った「崩れ落ちる兵士」という有名な写真が
・やらせなんじゃないか
・ひょっとしてシャッター切ったのは恋人のゲルダだったんじゃないか
というだけの本だったんです。
▼その疑惑は極端に言えば発表当初からずーっとあった訳ですが、2007年にその時期のキャパやゲルダの未発表写真が2007年に大量に世に出たことを受けて、の一冊なんです。
ただ、メキシコのスーツケースから発見されたので「メキシカン・スーツケース」とキャパ業界(笑)では呼ばれているその発見でも、ぎりぎりのところ分かんないんですね。ただ、前後関係と考えると、「やらせ・仕込み」であることは、ほぼほぼ状況証拠は真っ黒、ということなんです。
で、それ自体は実はそんなに新奇なことではない。2012年の本「ロバート・キャパ」(原書房)でもほぼその線で描かれています。それに、キャパのオモシロサっていうのは別段それでも色あせないわけで。
▼そこから沢木さんは、更に状況証拠で「これって実はシャッター切ったのはゲルダなんじゃないか」という線でいろいろ調べるんですけれど、これは結局なんにも確たる証拠は出てこない。
「やらせでしかも別人が撮ったとしたら、スキャンダラスで衝撃だよね」
という煽りをがんばってやって、それをやや大げさ気味に「すごいことだ」と言っているだけみたいな本で・・・。
▼沢木さんもそうだと思いますが、僕もプロには程遠いけれどモノクロアナログの35mmフィルムカメラ撮影と暗室ワーク、というのは昔けっこう体験したんですが。その感覚からするとこの本の中で沢木さんが
「雲の感じが光の感じが」とか「この表情を別アングルから数秒の間に撮るのは不可能」とか割と断定気味に推論しているのが、全然腹に落ちないんですよね…。「いやそんなの暗室ワークでいくらでも変わっちゃうでしょ」とか「いやいや、全然できるでしょ」とか思ってしまう。
そう思う自分を正当化するつもりはあんまりないんですけれど、そう感じたことは感じてしまうし、全体に「スキャンダラスで価値のある発見だ」という方向に持っていきたい感じ、というのが、感傷的な語り口とともにちょっと匂ってしまいました。
▼沢木さんはその語り口も含めて「テロルの決算」とか「危機の宰相」とかは大好きだったんですけれど。やはりこの手のフリーでノンフィクションでという仕事で言うと、うーん、なんというか「飛びついてみたけれどたいしたことなかったんだけど後に引けないから大したことがあったという論調で書かないと商品にならない」みたいなことはまあ、あるだろうなあ、と…。
▼なんだけど、この一冊に向けて旅してきたここまでの読書は大変に満足でした。そういう意味では感謝感謝の一冊です。 -
2020.08.30
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沢木耕太郎さんの最高傑作だと思う。素晴らしい!
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先月(12月)の読書の流れから本書にたどり着いた。
『歴史の証人 ホテル・リッツ 生と死、そして裏切り』に登場したキラ星のごとく豪華な布陣の中で際立っていたのが、ヘミングウェイとその友ロバート・キャパ。同書を読み終え、出版されたばかりの岩波文庫初の写真集『ロバート・キャパ写真集』を入手し、久しぶりに選んだエンタメ小説『未必のマクベス』には、沢木耕太郎『深夜特急』を彷彿とさせる展開があり、実際、文中にも沢木の名と『深夜特急』が登場する。そして、今回遂に手にしたのは、その沢木がロバート・キャパについて書いた『キャパの十字架』。
「遂に」と書いたのは、実はワタシはこの本が単行本で出た時からその存在を知っていて、ずっとウィッシュリストの中に入れていたからだ。ただ、何となく買うタイミングを逃し、文庫になり、「Back to the Future」の主人公のごとく、その存在が薄く消えかかっていた。
ところが、上記した予想外の読書の流れができ、期せずして最高のタイミングで本書を読むこととなった。まさに、満を持しての『キャパの十字架』なのであった。
そして、この作品はその期待を大きく上回る傑作だった。1988年にキャパの伝記を翻訳して以來、著者はキャパの存在を強く意識し、彼の名を戦争写真家として世に知らしめることになった「崩れ落ちる兵士」に疑問を抱く。この写真はどこで撮られたのか、本当にキャパが撮ったのか。生前のキャパはこの写真が様々な媒体に掲載されたにもかかわらず、全く語っていない。ならば、自力で調べようと思い立ち、この写真の舞台となっているスペインを始め、関係者を訪ねて各地に足を向ける。
ミステリー小説のような展開と言われればその通りなのだが、本書を形容するには不足を感じる。他の沢木作品と比べて、本書は沢木耕太郎という人の実直さがにじみ出ているように思うのだ。数多くの関係者に会って疑問に感じることは愚直に問いかけ、来る日も来る日も同じ写真を見続ける。空振りに終わった取材旅行も数しれず。取材中に犯した誤ちも包み隠さず、克明に記す。そして、本書に一貫する誠実な筆致。この人の書くことに嘘はないだろう、という確信めいたものすら感じてしまうのだ。「伝記的事実から受けるキャパの印象が、どこか私に似ているように思える」と語るほどキャパへの情愛に突き動かされた渾身のルポルタージュは、沢木耕太郎の最高傑作だと思う。
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冒頭の読書の流れは本作で完結するかと思いきや、それはもう少し先になりそうだ。キャパが写真を撮った現場に著者が出向き、同じ構図で写真を撮影してみたという『キャパへの追走』という続編が出ているのだ。ここまで流れてきて、同書を読まない理由はワタシには到底見出せない。
また、蛇足だが、文末に掲載されている逢坂剛の解説がとっちらかっていて実に面白い。(これは非難ではなく、賞賛) -
「崩れ落ちる兵士」は実際の戦場で撮られたものではない、は現在はもうほぼ通説ですが、まだ全く有名な説じゃなかった頃の筆なので研究者への取材も含め当時の勢いがあって面白かったです。カメラの縦横比率や前後の写真から「撮ったのゲルダでは?」に進むのはミステリーめいてた。
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1.本書について
本書の内容を一言で言うと、
<あの写真を撮ったのはキャパではなかった!>
と言うことになる。
探れば探るほど愈々深まる謎の解明に、徹底した現地検証を通じて、抑制の効いた簡潔な文体で迫る本作は、読む者を一気に結末まで連れて行ってくれる傑作ノンフィクションだ。
そして、誰もが一抹の哀愁を抱かざるを得ない余韻を残して、謎の解明物語は閉じられる。
その余韻を胸に抱いて、ブダペストにあるキャパの生家を訪ねた。。。
と言うと、何と物好きなファンか、と勘違いされそうだが、そうではない。
キャパの生家を尋ねたのは事実だが。。。
生家は、一階がアイリッシュ•パブになっている何の変哲もない共産主義国時代に造られた古びたアパートメント。
ハンガリー駐在時代に住んでいたアパートのすぐそばに偶々キャパの生まれたアパートがあったと言うのが、キャパの生家訪問の理由だ。
ブダペストの、エリーザベト橋の近くにあるアパートで本書を読んで、そこからものの5分もしないところにフリードマン•エンドレ(キャパの本名)が17歳まで住んでいたアパートがあると知って、本を閉じると、すぐさま訪問したのだ。
何のことはない、聖イシュトバーン大聖堂に向かう道の傍にある、良く通り過ぎていた建物だった。
共産主義時代の抑圧されたキャパの幼少年期を想って、キャパ少年の眼を持って街を眺め歩いた。
ロバート•キャパは誰もが知る世界で最も有名な戦場カメラマンだ。
彼は23歳にして、スペイン戦争に取材して<崩れ落ちる兵士>を発表、一躍伝説のカメラマンに祭り上げられる。
31歳の時には、多くの死者を出したノルマンディ上陸作戦に参加して、決死の撮影によって<波の中の兵士>をものして、その名声を不動のものとした。
人気絶頂の40歳の時に来日、その時<ライフ>誌よりインドシナ戦争中のヴェトナム取材の依頼を受け、日本からヴェトナムに飛び、そこで地雷を踏んで呆気なく死んでしまう。
<崩れ落ちる兵士>はスペイン共和国崩壊の挽歌と言われ、<波の中の兵士>は連合国軍の勝利を予告する進軍ラッパと呼ばれた。
見る者が唖然としたのは、どちらの写真もカメラマンが無防備に敵に背を向けた状態でシャッターを切っているということだ。
死をも顧みない勇気、乃至は、単なる阿呆の無鉄砲。
キャパは富と名声と美女(イングリッド•バーグマン!)を手に入れ、ノーベル賞作家ヘミングウェイに可愛がられ、およそこの世のすべてを手に入れたかという絶頂期に、意図的にではないかと思われるほどの呆気なさで、戦場の露と消えてしまう。
こんな物語のような人生があるのか!
人はただ感嘆•嘆息するより術はない。
キャパに自分と同じ体質を感じ取った沢木は、敬愛するキャパの出世作<崩れ落ちる兵士>に付きまとう違和感を拭い去ることが出来なかった、と言う。
その違和感が本書の旅の出発点だ。
そして、その違和感の根源を徹底的に探る内に、図らずも、キャパの背負う巨大な<十字架>の存在に気がついてしまう。
その十字架を発見した時の沢木の震撼を、本書は、読む者に共有させてくれる。
<わたしのしようとしたこと、したかったことは、キャパの虚像を剥ぐというようなことでなかった。
ただ、本当のことを知りたかっただけなのだ。
崩れ落ちる兵士は、本当に撃たれているのか、死んでいるのか? その問いが更に大きな別の問いをもたらすことになるとは全く思ってもいないことだった。>
これは沢木があとがきに書いたコメントだ。
これを読むだけで、誰もが一体キャパの背負った十字架とは何だったのか、と興味を掻き立てられずにはいられないだろう。
そして、沢木が、本書を<キャパの虚像を剥ぐ>行為と捉えられかねないことを恐れていることを知る。
<キャパの虚像を剥ぐ>とは一体どう言うことなのか?
22歳のハンガリー人フリードマン•エンドレ(ハンガリーでは、日本と同じように、姓-名の順で表記する)は、恋人である年上のユダヤ人女性ゲルダ•タロー(パリで有名だった岡本太郎から取られた名前だ)と二人三脚で、<本当の戦闘>を求めて、カメラを抱えて、スペインに戦場巡りを行う。
その最中、アンダルシアのある地方で撮った写真、それが<崩れ落ちる兵士>だった。
戦場でゲルダと別れたキャパはその写真を<ライフ>誌に送り、それが<ライフ>の表紙を飾るに及び、キャパの名は世界に轟く。
その頃、ゲルダは、暴走した味方(共和国軍)の戦車に押し潰されて亡くなっていた。。。
沢木はその有名な<崩れ落ちる兵士>の写真の撮影された場所を特定するために何度も現地に飛び、その写真と同時に撮られた写真を詳細に分析することで、驚くべき事実を明らかにしてみせる。
その事実は、キャパが重い十字架を背負っていたことを明らかにし、それを明らかにした沢木自身もその衝撃にたじろがざるを得なかったほどのものだった。
沢木が明らかとしたのは、
(1)アンダルシアのその場所ではスペイン戦争時代に戦闘が行われたことがなかったという事実
(2)他の兵士の談笑写真から見て、そこで行われていたのは戦闘訓練で、<崩れ落ちる兵士>は、単に足を滑らせて転んだだけだった可能性が高いという推測
(3)他の写真によりネガのサイズが判明して、それがキャパの使用するライカのサイズではなく、ゲルダの使用するカメラ(ローライフレックス)のサイズであったという事実
ということは、(撃たれていない)<崩れ落ちる兵士
>は、キャパではなく、ゲルダの作品だったという
結論になる。
ここで明らかとなったのは、キャパは、死んだ恋人ゲルダの撮影した写真によって世界的に有名になった、という衝撃的な事実だ。
これこそがキャパの背負った十字架。
この事実を明らかにしたことを、沢木は<キャパの虚像を剥ぐ>と語ったのだ。
自分で撮ったのではない写真で世界的な名声を得たキャパは、その名声に真に応えるために、重い十字架を背負い続けなければならなかったというのが、沢木の見立てだ。
そして、キャパの半生は、自分に世界的名声を与えてくれた、ゲルダの残した<崩れ落ちる兵士>を名実共に超える作品を生み出すことにあったと考える。
それはキャパにとって脅迫観念にまでなったと言える。
キャパが、ようやくゲルダの撮った<崩れ落ちる兵士>に匹敵する写真を自分自身で撮ることが出来たのは、周りの兵士たちの大半が死んでいった超激戦のノルマンディにおいてだった。
キャパは十字架を下ろすために、ナチスの銃弾をその背に感じながら、連合国軍の兵士の上陸するシーンにカメラを向けたのだ。
それは背負った十字架を下すために、自己を犠牲に供する行為であったとも言えるだろう。
ところが、その死を賭けて撮影したフィルムは現像の失敗で大半は失われてしまう。
そして、たった一つ現像に成功した写真はピンぼけだった。
だが、そのピンぼけが返って迫真性を増して、<波の中の兵士>は、世界的に有名な写真となった。。。
と、ここまでほぼ沢木の論述を辿ってきたが、本書を読んだ後に、キャパ本人のインタビューの肉声を聞いて、背筋が凍るほどの違和感を感じた。
キャパ本人が<崩れ落ちる兵士>を撮影したのが、キャパであったと、あっけらかんと語るインタビュー録音だ。
十字架を背負ったキャパがこんなに屈託なく語ることが出来るのか、というのが違和感の根源だ。
キャパとは、そんなに非人情な、イヤな奴だったのか?
そうではあるまい。
男からも女からも、誰からも愛される男だったのだから。
だとしたら、このキャパのインタビューをどのように理解したら良いのか?
<崩れ落ちる兵士>を撮ったのは、キャパが語るように<ロバート•キャパ>であったとしたらどうなのか?
キャパは沢木が思っている十字架など背負っていなかったのではないか?
十字架を背負っていたとしても沢木の指摘する意味合いとは異なっていたのではないか?
キャパの肉声を聞いて感じた違和感について、本書とは離れて、少し考察してみよう。
沢木の論証を踏まえても、違ったキャパの姿が見えてくるかもしれない。
2.ちょっとした追加考察 <プロジェクト•キャパ>
ロバート•キャパとは、作られた架空の人物だ。
それを、フリードマン•エンドレとイコールで結ぶことが誤解の元なのではないか?
ロバート•キャパは、フリードマン•エンドレと言う固有名詞を引き継いだ名前ではなく、プロジェクト名と見做すことで、新たなキャパ像が見えてくるのではないか?
<崩れ落ちる兵士>を、<ロバート•キャパ>名で発表された時、キャバパはひとりの個人を指す固有名詞ではなく、プロジェクト名だった、と考えてみるのだ。
沢木耕太郎は、<崩れ落ちる兵士>をゲルダの作品で、キャパの作品ではないことを証明してしまったと、辛そうに語っている。
しかし、実は、その認識は誤っていたのだ。
我々がキャパと考えているフリードマンは、キャパ名での作品発表を、フリードマン作品と言っているわけではないのだ。
あくまで、キャパの撮影した作品だと述べているに過ぎないのだ。
沢木が証明したのは、キャパの作品とキャプションに謳われている作品は、ゲルダの撮った写真であって、フリードマンが撮った写真でないということまでだ。
それをフリードマンとゲルダが聞いても、あっさりと<そうだよ>と答えるだけだろう。
何故ならそれはフリードマンとゲルダが合意して進めていた<プロジェクト=ロバート•キャパ>の写真だからだ。
どちらが撮影しようが、<ロバート•キャパ(プロジェクト)>の作品に変わりはないのだ。
それをキャパ=フリードマンと思い込むことによって、フリードマンへの誤解•不信感が生じるのだ。
フリードマンはゲルダの作品であることを隠蔽して、自分の作品であるかのように偽って有名になったのだと。
我々がキャパと呼んでいるフリードマンが、明快にそう語らなかったことは確かだ。
だから、世間に誤解を招いたと言う意味では、フリードマンは批判を浴びなければならない。
しかし、彼にとって、そして死んだゲルダにとっても、<ロバート•キャパ>は架空の人物で、プロジェクト名に過ぎなかったことに変わりはない。
我々がキャパと呼んでいるフリードマンは<プロジェクト=ロバート•キャパ>を、ゲルダの死後、一人になってからも、粛々と進めていたのだ。
したがって、彼のファインダーにはフリードマンの視線だけでなくゲルダの視線がダブっていた筈だ。
<ロバート•キャパ>とは、謂わば<同行二人>のことだったと、言えるだろう。
お遍路を辿る人には、必ず弘法大師が一緒に歩いてくださるという。
それは人生を弘法大師と共に歩むと言うことだ。
だからこそ、お遍路の持つ傘には<同行二人>と書かれる。
フリードマンが<ロバート•キャパ>の名を名乗る時、そこには、常にフリードマンとゲルダの<同行二人>の意味が込められていたと、考えることが出来る。
ゲルダは、弘法大師のように、常にフリードマンに寄り添って歩いていたのだ。
スペインだけでなく、ノンマンディでも、アメリカでも、日本でも、そしてベトナムでも。
我々がキャパと呼んでいるフリードマンは、沢木が指摘したように、重い十字架を背負っていたのではなく、常にいつもゲルダと<同行二人>の旅をしていた、と考えることで、フリードマンの発言のひとつひとつが充分に納得出来るように感じる。
二人でスタートさせた<プロジェクト=ロバート•キャパ>は、ゲルダの死後、フリードマン一人で遂行された。ゲルダを<同行二人>とすることで。
こう考えることで、シャンパンを愛し、女を愛し、タバコを愛し、ポーカーを愛し、誰からも愛される明るい、我々がキャパと呼んでいるフリードマンを、虚像の仮面を被ったいかがわしい男と考えなくても良くなる。
尤も、タイトルが<キャパの同行二人>では、<キャパの十字架>の持つキャッチーな魅力は失われてしまうが。。。
スペインに一人残ったゲルダは、<ロバート•キャパ(プロジェクト)>とは別の人格として、カメラマン=ゲルダとして生きたかったのかもしれない。
しかし、ゲルダは戦場で死んだ。
ゲルダの死後、フリードマンは<ロバート•キャパ>の名を背負うことで一生ゲルダと共にいることを選んだと言えるだろう。
ゲルダが生きていたらそうはならなかった。
ゲルダの死こそが<ロバート•キャパ>を作り出したと言うのが悲しい。
ゲルダと言う死んだ恋人と生涯添い遂げること。
それこそが、フリードマン•エンドレが、<ロバート•キャパ>の名を担い続けた理由だったのだ。
スペインに<本当の戦闘>を求めて向かった時、フリードマンは22才、ゲルダは26才。
その二人が偶然写っている戦場写真が残されている。
後ろ姿からも、二人の若さ、青春が匂い立つようで、胸を打たれる。
一年後、ゲルダは死に、三年後、スペイン共和国は滅びる。
そして、<崩れ落ちる兵士>は、反ファシズムのアイコンに祭り上げられる。
その機能が終わったとき、新たな批評がなされることは当然だろう。
ただ歴史の中で果たした<崩れ落ちる兵士>の役割は消えない。
キャパは、真実よりもフィクショナルなインパクトを写真に付与することで、その歴史的意義を強調したと言えるだろう。
彼はこの写真に付いて決して語らなかったと、沢木は述べている。
しかし、キャパのラジオインタビューの録音が残されていて、そこでキャパは自らの口で、<崩れ落ちる兵士>はキャパが撮影したこと、兵士が戦闘で撃たれる場面を撮ったこと、その戦闘で多くの兵士が死んでいったことを雄弁に語っている。
そして、その口調には何ら疾しさも、屈託も感じられないのだ。
フリードマンの弟コーネリアは、<ロバート•キャパ>のスペインでの写真を詰め込んだスーツケースがメキシコで発見され、それがアメリカに運ばれるのを見届けて死んでいった。
そのコーネリアはじめ、写真結社マグナムの面々は、キャパのインタビューを100%信じている。
それは信仰と呼んでも良いほど強固なものだ。
したがって、マグナムは、沢木耕太郎説を真っ向から否定している。
(1)<崩れ落ちる兵士>はキャパが撮影としたものでゲルダの撮影したものではない。
(2)<崩れ落ちる兵士>は、ズッコケただけと言うのではなく戦闘で射殺された場面を撮ったものだ。
その兵士が誰であるかと特定も出来て、その後戦闘で戦死したことは確かである。
と言っているのだ。
しかし、その証拠は示されていない。
その意味では、沢木の論証は、否定されてはいない。
マグナムの盲信を廃し、沢木の論証を活かすのは、我々がキャパと呼んでいるフリードマンは、インタビューにおいて、事実を語っているのではなく、フィクショナルなインパクトを強調し補強した、と見做すことだ。
戦場で<プロジェクト=ロバート•キャパ>が消え去ったというのが象徴的だ。
プロジェクトは、戦場で生まれ、戦場で成長し、戦場で消えていったと言うことだ。
当初、フリードマンとゲルダの二人で始められた<プロジェクト=ロバート•キャパ>は、ゲルダの死後、ゲルダを同行二人とすることで、フリードマンによって遂行された。
そして、フリードマンが地雷を踏むことで、プロジェクトは終結したのだ。
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ちょっとどうかなぁ、そうではないと言いつつ、やっぱり疑いからスタートしているから、展開が基本はそこに紐づいていると言わざるを得ないかなと。
当方、キャパに関する知識がない無教養なもので何ともですが、ちょっと薄いような気がしなくもなく。 -
20世紀を代表する報道写真家、ロバート・キャパが一躍注目を浴び世に出ることとなった写真「崩れ落ちる兵士」にまつわる疑惑について、著者の沢木耕太郎が長い年月をかけた取材と現地調査の果てにある結論へ辿り着くまでの経過を記録したノンフィクション。
作中では真相究明の手掛かりとなるいくつもの写真が示され、真相を追っていく経過に数多くのページが割かれ、ある種の歴史ミステリーの様相を呈するが、本作の核心は「キャパの十字架」というタイトルにもあるように、知名度と引き換えに思わぬ形で背負った十字架を心のうちに秘めて生きようとした(と推察される)キャパの内面に思いを馳せる最終章にある。最終章の一番最後に示されているゲルダとキャパがそれぞれ撮ったとされる2枚の写真は、沢木氏が言うように2人の運命を暗示しているようで、切なくもあり読後まで印象深く記憶に残った。
事実はどうであったのか、その答えを確定することはもはや不可能だとしても、著者は充分に核心に迫ったと感じられるし、最終章のまとめ方も見事だった。