- Amazon.co.jp ・本 (400ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167908256
感想・レビュー・書評
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「若冲」と言えば、多彩な色彩とその美しい彩色を思い出す。「動植綵絵」は、その多色彩もさることながら、写体の生々しさの中に実物とかけ離れた幻想的な鶏、鳳凰、草花などに見ているとその迫力に疲れを感じる時がある。
本作の第一章のタイトルとなっている「鳴鶴」は、以前行った特別展示会で、中国の文正の「鳴鶴図」が原画との説明があった。
色彩にしろ構図は似ているとしても私には全く違う鶴にみえる。鶴と言えばのイメージカラーの紅白も全く異にする白と赤である。実物とかけ離れたその姿は、意匠性を感じる。
これは、フランスの印象派ならぬ日本における印象派ではないかと個人的には思っている。
歴史小説として、若冲の生涯が記されている。1716年(正徳6年)、京の青物問屋「枡屋」の長男として生を受ける。
23歳で父・源左衛門の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門として、家督を継ぐも、
1755年(宝暦5年)、弟・白歳(宗巌)に譲り渡す。そして名も「茂右衛門」と改め、はやばやと隠居し絵の世界に没頭する。
本作は嫁・お三輪を娶るも、その2年後に自らが命を立っている。この妻に対する気持ちと、お三輪の弟で市川圭君の怨み、執念が絵師・若冲の作品制作の原動力となるようなストーリー展開である。
が、巻末の解説にも記載がある通り、実際には生涯婚姻歴はない。
若冲が残す作品の力強さについて、理由があった方が理解がしやすく事実ではなくても、次に作品を見たときの感じ方に広がりが出る。また、時代背景、政治的な背景は歴史通りであるようなので、この画家を理解する上でとても参考になる。
本作の最後に登場する白象群獣図、鳥獣図屛風にしろ、作品の力強さはもちろんのこと、写実でありながら奇想天外な想像を巧みに融合させた技は、実物からかけ離れたその意匠性を感じる。同じく江戸時代の画家である曾我蕭白や、長沢芦雪らと並び称せられているが、同じく想像的な作品ではあっても、全く異なった趣がある。
フランスの印象派ならぬ日本における印象派の画家ではないかと個人的には思っており、フランスの印象派時代よりも前にその動きが日本であり、日本では受け入れられていたと個人的な見解を持っている。
歴史的小説で時代を確認しながら読むことが好きなこと、日本画が好きなこともあり、読みやすかったこともあるが、この作品の理解しやすさの理由は、作者の描写、表現力だと思うところがいくつもあり、それを見つける楽しさもあった。
余談ではあるが、ゲイだと信じていた若冲が結婚して、その妻の死を引きずっていたという設定が私には新鮮であった。
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母親のふじ子さんの各種シリーズで馴染みの京都が舞台。
内容は直木賞受賞の「星落ちて・」と同様に暗く、10年ぐらいの間隔の進め方。ただ対象が若冲ということもあり、先日も美術館に見に行くぐらい関心があるので、興味深く読ませて貰った。
あの作品も、この作品も亡き妻に対する悔恨と恨みに想う義弟への対抗で描いたことに深い哀しみを見た。
ということだったが、巻末の上田秀人さんの解説によれば、結婚したという事実は確認されていない。作者の想像で書けるのが歴史小説との事。感動は作者の力量という事なのだが、解説を読んだことが良かったのか悪かったのか? -
歴史小説家の著者が、その類いまれな想像力で、昨年生誕三百年を記念する展覧会で熱狂的好評を博した若冲を、鮮やかに浮かび上がらせた。
池大雅、丸山応挙、谷文晁や与謝蕪村等々、当時の名だたる画家が登場し、彼の人生に花を添え、一方若冲の妻=姉の仇と憎み若冲の絵の贋作を描き続ける義弟の弁蔵が異様な存在感をもたらす。
彼の異母妹の眼を通して語られる画家の生涯が、歴史の闇に隠された史実であるかのように、読者に思わせてしまう時代長編。
作中語られる「若冲はんの絵がもてはやされるんは、他の者には考えもつかん怪っ態さゆえ・・・」「世人は・・・知らず知らずのうちにあの奇矯な絵に、自らでは直視することの出来ぬ己自身の姿を見出していたのだ。」に、現代の展覧会の熱狂の要因を重ね合わせてしまう。 -
澤田先生の代表作、満を辞して読破。
若冲についてはほぼ予備知識のない状態で入ったため、全てが新しく感じられた。澤田先生が描くからなのか心境への影響を与える事件は多かれど、人生への大打撃は天明の大火くらいだったのだなという印象。
本作は妹の志乃と若冲が章ごとに交互に一人称となり話が進む。1章ごとに明確なテーマがあり、1つの短編としての面白さを持ち、更に全体として少しずつ変化していく若冲の心境の描き方が秀逸。
そして、本作を貫くテーマである“憎しみと尊敬(畏敬)”。若冲は義弟の君圭に負けないよう自らの絵を磨き、君圭は若冲への憎しみから彼の絵を研究し、技術を高める。『鳥獣楽土』で若冲は君圭の絵をまさに自分の絵だと感じる。行き着いた先は二人で一人の絵師として未来に残る絵を完成させるところだった。調べると確かにこの絵は若冲の作品でないとする研究者が多いという。そこに目をつけ、こんなストーリーを想像したのは流石の着眼点。
どの章も好きだが、特に良いのは最後の『日隠れ』。再開できずに終わった若冲と君圭が絵を通して再会する。君圭の叫びもそこに静かにお膳立てする谷文晁らも皆が素晴らしい役割を演じ、美しいフィナーレになっていると思う。
*鳴鶴 序章、若冲と君圭の決別。失った夫婦像を映した鳴鶴図。鴛鴦図での離れた鴛鴦と対比的
*芭蕉の夢 憎しみを糧に地を磨く裏松光世に君圭の姿を重ね、それを受け止め維持で生きることを決心した若冲の心象風景を写した、月に浮かぶ芭蕉の義弟の
*栗ふたつ 弟の死、志乃と円山応挙の出会い、志乃の婚姻の決断など(少しテーマが定まらず?)
*つくも神 錦高倉市場の営業停止騒動。解決に導いた中川清太夫をモデルに描いたつくも神図。誰もが何かに取り憑かれている。
*雨月 果蔬涅槃図。若冲と母お清の確執、蕪村と娘の対立と同じ構図。
*まだら蓮 大火後、御所再建に際し君圭と再会。身分を偽って描いた君圭の蓮の絵。
*鳥獣楽土 2つの屏風絵
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江戸時代に京都で活躍した画家の生涯。物語の根幹を成す「妻の自死」が作者の創作によるところに小説の自由さを感じる。確かに300年も前の画家の生活の記録などは残っているはずもないものの、同世代に活躍した画家達を上手くかけ合わせつつ、人間、若冲いきいきと描いています。
実在の市川君圭を生涯の宿敵、盟友とするところも「鳥獣花木図屏風」から着想を得たのでしょうね。
少し違和感を感じたのは「つくも神」の章で、半次郎が綿高倉市場を潰す暗躍に立ち向かう若冲の章、なんだからしくないなぁと感じるとともに物語が横道に逸れる感があった。
機会があれば作者の絵画を鑑賞したいです。 -
名だたる代表作の描写が想像を掻き立て、詳細を求めてネット検索してその作品を見ながら読んだ。設定が面白い。若冲の明らかに逸脱している作風に対する考察にストンと腑に落ちるものがあった。
著者の作品を読むのは初めて。同志社大学で史学の修士号を取得されてるという著者ならではの作品はこれからも読んでいきたい。 -
史実とは異なると思うが、とても面白い小説に仕上げている。著者は京都で学んだおかげで絵に対する造詣も深いのか。絵に対する描写も細やかで、物語が真に迫る。若冲が、なぜ独特の奇矯な絵をなぜ描けたのか、独創的な想像力で物語に仕上げている。しかもただ、単に面白い物語だけではなく、もしかしたら筆者が絵の中に見た若冲の姿は、本当に若冲のなかにあったのではないか、と思わせる。最後の弁蔵の独白。「美しいがゆえに醜く、醜いがゆえに美しい、そないな人の心によう似てますのや。そやから世間のお人はみな知らず知らず、若冲はんの絵に心惹かれるんやないですやろか」
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連作短編集?という気もしなくもない。
若冲の隠居の頃から、八十を超す高齢での死の後までが、間歇的に描かれている。
短編間では描かれる時間に少し間があるが、その間何があったのかはわかるように描かれている。
物語の結末は、こう言っちゃ何だが、半ばくらい読んでいくと見えてくる気がする。
けれど、その結末に向かって、じっくり、丁寧に描いていくのがこの作家の特質yのような気がする。
周到な書き方はは「枡屋源左衛門」から「茂右衛門」を経て、「若冲」と呼び方を変えていくことにも表れている。
こういった細かい事実が、説得力を生んでいる。
京都の老舗の野菜問屋の主人であった若冲。
生来の弱気から、母にいびられて自殺に追い込まれた妻を救うこともできない。
妻の弟、弁蔵から激しい怒りを向けられ、若冲の贋作絵師として生涯、彼を追い詰め続ける。
自分の苦しみに沈潜し、固執して作品を描き続ける自身に、やがて若冲は苦しみはじめ…というお話。
生涯にわたる義弟との確執は、恩讐の彼方に、といった感じ。 -
伊藤若冲。
苦しく哀しい物語でした。
その絵には圧倒され、不思議な感じも、少し怖い感じもすることがあるけれど、この若冲の物語を読んで、その不思議さや怖さに深みを感じるようになりました。
池大雅、円山応挙、与謝蕪村、谷文晁といった絵師たちとの関わりも興味深かったです。
原田マハさんの書かれる西洋アートの世界とはまた違う日本画の世界もおもしろい。
にゃー
にゃー
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https://amegasuki3.blog.fc2.com/blog-entry-287.html
blog拝見させて頂き、すごい読書記録に感激しております。読みたい本がいっぱいです!
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