月山・鳥海山 (文春文庫 も 2-2)

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  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167908850

感想・レビュー・書評

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  • 庄内平野をはさみ南に牛を伏せた山容の月山と北には秀麗な富士のような山容の鳥海山。共に北陸を代表する100名山とゆうことで読んでみました。
    肘折渓谷の難所を越えて十王峠へ至ると人間界から離れて死の山と言われる月山へと繋がる結界を越える。庄内平野を一望し月山、鳥海山を見渡せる展望地でもある様子にテンション上がってしまうのですが、あとは山形弁が強すぎて言葉の意味がわからない。多分半分も理解できてないと思います。
    主人公が注連寺で寺男の爺さんと越冬する話でした。時折、詐欺師(行商人)や富山(薬売り)、カラス(ドブロク買い)が出入りするとか。主人公は特に何もしないんです。風雪を避けるために和紙で蚊帳を作っただけでその中でカイコの様に眠り、寺で爺さんの出してくれる食事をいただくだけ。
    寺では念仏講も行われる様子で集落の爺さん婆さんに後家さんが食事を持ち寄り卑猥な唄を歌ってこの世の未練を断ち払うように盛り上がる亡者の集まり。そして全員が渡部姓だとか怪しい連帯感、酒の密造や行倒れをミイラにしたとか犯罪を匂わすようなホラーな雰囲気。ついつい子供の頃お泊まり会で聞いた怖い話の『カマイタチの夜』を連想してしまいました。それは、深夜に山奥にある古びれた山荘に集まって何やら始めるとゆう話で震えながら聴いてたのですが、全員が釜井さんとゆう姓で「釜井たちの夜」とゆうのがオチだったんですがオチがわかるまで無茶怖かった覚えがあります。ついでに別ヴァージョンで「カマイタチの呪い」とうのもあったんですがまあこれは釜井さん一族は全員足が遅かったってなるんですがお年寄りが多かったんでしょうねっw
    こういった話を聞くときの不気味な怖さを感じてしまったのです。
    後家の女は「オラももう、この世のものでない」と言いながらもまだまだ色香を残しつつ誘惑するは、発情した雌牛は暴れだすはで平常心でいられないなか主人公はどうしてたっけ、なんかよくわかりませんでしたが見てるだけでしたっw
    あっ近所の山には登ってたかなw
    そんな死生活を続けてた主人公も雪解けとなり十王峠から下界を目指してカメムシのように飛んで行った話でした。
    山形弁が理解できたらイントネーションから状況把握してもっと繊細な雰囲気とか死生観とか伝わってくるかもなんですが、ハイなのか、いいえなのか語尾も聞き取れませんでしたorz

    それと鳥海山、こちらは生の山とゆうことで対比してました。ナイトハイクで御来光見にいくような話が出てましたが話だけだったような。月山も麓から望んだだけだったし。
    どちらの山も麓から見ているだけではなんだかねえ、登ってみて初めて良さが解るんじゃないかなって思ってしまった。

    三浦しおんの「好きになってしまいました」でも山形に行ったとき即身仏の旅で森敦さんの滞在してた注連寺を訪れた事を思い出しました。お祭してある即身仏はDNA鑑定や指紋が一致して本物の偉い坊さんのものだったとか書いてあったな。 

    読了して、あの主人公なんだったんだろうと考えてたのですが、本の終わりらへんでは電力会社の職員だったようで尾鷲に転勤してダムのことに触れていたりしたので気になってたのですが、寺で越冬したときも鉄塔の記載があったのでどうも巡視員かなにかしてたんじゃないかって思いました。そうなると厭世からでなくそれとは別な視点がみえてきてしまいました。
    最初は村の人から税務署員じゃないかと疑われてた記載もあったしなあ。

  • 森敦さんといえば最高齢(62歳)で芥川賞を受賞したという印象、
    それは1974年のことで
    のちに(2013年)黒田夏子さんが75歳で受賞なさって記録が塗り替えられた
    そのことも話題になった

    すなわち、世に知られるのが遅いということである
    そのような作家の作品は奥深いかもしれない

    という期待を裏切らない、森敦さんの『月山』を初読みで
    なるほど、ストーリの内容としても文章としても味わい深いのであった

    枯淡かな思えば、この物語の主人公の年齢はまだ若いらしい

    「未だ生を知らず
    焉(いずく)んぞ死を知らん」

    などと扉に掲げて、実社会からの逃避して
    月山という奥深い雪山寺での極貧生活をやる

    なのに山の生活は
    生々しいような、霞がかかったような、にぎにぎしい有様

    ここもにも過去あり、現実あり、将来がある
    と言えば月並みのようだが

    導入文章に魅せられる​
    「ながく庄内平野を転々としながらも、
    わたしはその裏ともいうべき肘折(ひじおり)の渓谷にわけ入るまで、
    月山がなぜ月の山とよばれるかを知りませんでした。」

    もちろん、作者森敦さんが若い時に文才を認められつつもその後長らく放浪生活を
    おくっていた作家だとの印象があるからこそ、どんな?なぜゆえに?
    という興味が湧くので、いやましに期待するところもある

    『鳥海山』のほうも同様の漂白旅路の果ての決算のような物語で
    名文でありながら、遅れて再登場というキーワードが
    後押しにもなれば、でないと書けなかったのではないかという作品であった

  • 表題作は1974年の芥川賞受賞作。その後映画化もされているけれどさすがに70年代のことは記憶になかった。本書には月山を舞台にした短編2作と、鳥海山にまつわる(まつわらないものも含む)短編5作を収録。連作かと思いきや各作品にとくに繋がりはなく、それぞれ独立した短編となっており、どれも一見私小説のようで、たぶん厳密には私小説ではなさそうな。

    月山(がっさん)は、山形県の庄内地方にある出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)のひとつ。同地方の注連寺(http://www2.plala.or.jp/sansuirijuku/index.html)には、江戸時代から伝わる鉄門海上人の即身仏があり、そのことについて書かれた三浦しをんさんのエッセイで、この森敦の「月山」のことも知り興味を持ったのでした。

    語り手はこの注連寺で暮らすことになり、村落へやってくる(作者は実際に注連寺に住み込んでいた時期があったらしい)が、滞在の理由やどういう立場なのかはよくわからない。そこで雪に閉ざされた厳しい冬を経験したり、寺や村落の「じさま」や「ばさま」たちのさまざまな挿話が繰り広げられる。方言なので、正直読み辛いが、方言特有のなんともいえないテンポと味わいがある。

    破れ寺の2階に繭のように和紙をはりあわせた蚊帳で寒さをしのいだ語り手は、春になるとその繭を破り捨てて、やがて去っていく。月山もこの寺も、現世でありながらすでに彼岸のような、こういう信仰の地は彼岸と此岸の境界が曖昧になっていくかのようだ。肝心の即身仏については、まるで偽物であるかのような(行き倒れのやっこの遺体を加工した)噂話が語られるのみ。それもまた人間の業の深さか。

    鳥海山のほうは、ほぼ標準語なので比較的読みやすく、「鷗」という短編の奥さんが可愛らしくて良かった。

    あと関係ないけど、湯殿山というと子供のころ角川映画で『湯殿山麓呪い村』というのがあったことをふと思い出し調べたところ、やはり即身仏がらみの伝奇ホラーミステリーのようなので、機会があったら原作を読んでみたい。


    ※収録
    月山(月山/天沼)
    鳥海山(初真桑/鷗/光陰/かての花/天上の眺め)

  • (2023/03/26読了分)初読ではつかみきれなかったけど、新井満「森敦--月に還った人」を読み、映画「丘の上の本屋さん」を読んだ後に再読したことで、目が文にべたっと張り付くようになって、すみずみまで味わうことができた。祈祷簿として使われてた和紙で蚊帳をつくり、隙間風入る寺の二階ですこしは快適にすごせたこと。椀のなかのカメムシに見る生命の儚さと力強さ。親切に声をかけてくれた女への微かな想いとどこへもつながらなかった想い。やっこや薬売りの来訪と、行き倒れがミイラにされた話し。最初は敵視されたけどおそらく密造酒があばかれるのではという危惧があったこと。それらを経て、最後は迎えに来た友人とともにどことなく旅立つまでを味わい(「月山」)。併録の「天沼」は、月山の時間軸のある一点をとって、じさまと山に登ったときのダイアローグ。◆死とは死によってすべてから去るものであるとすれば、すべてから去られるときも死であるといってよいに違いないp.82◆ひとというものは、なんでもそうしたものをつくり上げて、憎むなり疎むなりしねば収まらねえもんでのp.109◆なにもかも去ってしまった!p.116(以上「月山」)◆やがては春になるというそのことによって、美しい大きな約束のあることを信ぜよという天上の声のようにも思えるのです。p.174(以上「天沼」)◆3編から8編目までの短編が「鳥海山」。鳥海山まわりの集落でのできごとが描かれるが、最後の一篇だけ、鳥海山から遠く離れたダムの現場だったのはなぜかなあ、と思いつつ。◆なぜなら、わたしたちもこうして生きていると思っているが、どうしてそれを知ることができるのか。それを知るには死によるほかないのだが、生きているかぎり死を知ることはできないのだ。p.216(「初真桑」)◆ひょっとすると、すぐ枝をのばし、葉をつけ、花を咲かせるそのために、むしろ折ってもらいたいとすら言われたかての木ではないだろうか。もしそうなら、糧(かて)にもならぬにかての花と笑われていたが、すべての木も草も枯れ果てたとき、人が最後の糧にした花の木だったのではないだろうか。p.305(「かての花」)◆(2023/03/03読了分)「月山」のみ読了。新井満つながり(文学的な師弟関係)、関口良雄「昔日の客」つながり(森敦が登場)、三浦しをん「好きになってしまいました」つながり(「月山」が登場)。 で、手に取る◆庄内平野、月山。その集落の破れ寺に無為徒食する主人公。そこに住むじさまや集落の人々とのやりとり、集落の習俗、風景、心象が描かれ。ちょっと最初は方言に目がおよぎ、なかなかにとっつきづらく。◆ひとりの女が安心しきったかのように、男の住む二階で寝ていたシーンとその後のやりとり。「寺のじさまはだれに聞かされたかミイラを信じてい、いわば祈りとして来たおのれの信ずることを、とてもわたしが信じるはずはないと思っていたのです。」(p.121)といった一節が印象に。

  • 129

  • 東北の雪深い山の雰囲気に染まれる。芥川賞受賞の月山が特に人間模様などがあるので面白い。庄内セミナーの下調べに。

  • 「食って、寝て、起きそして食べる」

    森敦(1912-1989)の『月山』は1974年に第70回芥川賞を受賞した作品で、
    森は62歳、黒田夏子が75歳で受賞するまでは最年長記録だったそうです。
    この度文春文庫で新装版が出たので手にとってみました。
    そして驚愕で身が震えるほど感動しました。

    月山の麓にある古ぼけたお寺に一冬居候することになった「私」。
    本を読むでもなく、絵を描くでもない私は、
    寺の仕事手伝うでもなく雪深い農家をただぶらりとし、農家の人々の話を聞く。
    「私」がやったことといえば、お寺の隙間風を防ぐため
    お寺にあった古い古い祈祷帖の和紙で蚊帳をつくっただけ。
    あとは寺男のじいさまがつくった大根だけ入った味噌汁とご飯を食べ、
    毎日まいにちぼぉ~と過ごしていたのです。
    それでもこの小さな農家ではいろいろなことがおきますが
    「私」は何をするでもなく、それらをじぃ~と見聞きしているのです。
    そして春、友人が来たのでお寺を去ることを決意します。
    別れにあたって寺にじいさまは手弁当と手作り割り箸を差し出し、
    紐で結んだ眼鏡を外して涙するのでした。

    この作品はこれまでのものとは全く異質の、
    ほとんど起伏のない、雪が深々と積もるような静かな世界を綴っています。
    そして今、思うことは、「私」という男は古代の人と同じように、
    ただ飯を食って、寝て、起きそして食べる、
    他の動物とほぼ変わらないような生活してきたということです。
    ひょっとしたら人の一生も煎じ詰めればこれに尽きるのではないか?

    ここの農家の人々もごく普通の人間ですかから少しは遊び
    (古儀⇒日常的な生活から別の世界に心身を開放してその中に身を浸すこと)を
    していますが、彼はそれにも無関心だったのです。
    いわんや金持になって美味しものを食べ、何でも手に入れられような人にも、
    また偉い人になって人を指図するように人々にも、
    「私」は全く関心をしめさなかったのです。
    これが仏教で言う無私なのでしょうか?

    この小説の文頭に、「未だ生を知らず 焉んぞ死を知らん」
    という孔子の言葉が掲げられています。
    勿論、どなたにもというわけにはまいりませんがお気にめされたらご一読ください。

  • 【いまも読み継がれる芥川賞史上最高作と名高い小説】月山の麓にある注連寺に居候した「わたし」は、現世と隔離されたような村で冬を越す。此の世ならぬ幽明の世界を描いた芥川賞受賞作。

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