女の甲冑、着たり脱いだり毎日が戦なり。 (文春文庫)

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  • 文藝春秋 (2018年11月9日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (224ページ) / ISBN・EAN: 9784167911775

作品紹介・あらすじ

「都会で働くちょっと個性的な大人の女でありたい!」
そのために、きょうも我ら女子は、
心と体にゴテゴテと甲冑を身につける。

それは、敵から身を守るためなのか、
それとも世間に認めてもらうためなのか、
はたまた自らの純粋な欲望の発露なのか!?

たとえばヨガ、赤い口紅、オーガニック生活……。
憧れ半分、天邪鬼な気持ち半分で手を出してみては、
うっかりはまったり、しっくりこなかったり。

手にとった甲冑を着たり脱いだり毎日は忙しく、
心のクローゼットはいつもパンパン。

ややこしき自意識と世間の目に翻弄されながら、
日々を果敢かつ不毛に戦う、本音しかないエッセイ集。

脳科学者・中野信子さんのラブレターのような解説も必読です!

感想・レビュー・書評

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  • R3.6.30

     読んではみたけど、内容が入ってこない。読むのを挫折しちゃいました。

  • 女性らしさというものの、スーさんの考えが面白い。
    私も思うが、生まれた見た目(背丈、顔、体格)で周りの態度が変わり性格が構築されてゆく。もちろん親の育て方や環境で幸福度も変わる。異性から好まれる事が幸せなのだろうか?女性らしくある事が正しいのだろうか?そんな疑問に辿り着く年齢になったのだなとニヤリとする。媚びない、飾らないスーさんのエッセイは自分を肯定してくれるような心地よさがある。

  • ずっと、女は女はって女のことばかりやん、、、ってそりゃこの本のテーマだからだった。

    女は本当に大変なのね、やっぱり外見も大事だし。恋愛だって大切。仕事も最近は少なくなりつつあるけど男女格差あるよねー。あと加齢による変化も男よりシビア。生む生まないとか。
    色々わかるってことは私もれっきとした甲冑持ちなんだろうな。

    色々愚痴って蹴散らしてバーンッっていうストレスが解消されるようなスッキリ感じゃなく、自分をあえて下げて綺麗にまとめられておる印象。こりゃ女は手強い訳だ。



  • 非常に良かった
    素敵で読みやすい

    最初は林真理子をもっと対象年齢を下げたような人かと思ったが

    林真理子を下げる気は全くなく
    女という水場にどっぷりとつかりながら
    理知的にそれを俯瞰してみており

    その俯瞰している自分をまた水から
    俯瞰してみるような
    色々な視点を持っている点が心地良かった

    私はこの作者が好きだ

  • コロナ期に書かれた本。前髪ぱっつんわたしもしていたことがあったけど、サブカル系女に思われていたのかな、、でもあれは大学生の頃だしまだセーフ??

    面白いけどジェーン・スーさんの本はオーディブルで全部聞いちゃったかも

  • 「読書家への長い長い道のりで思ったこと」が印象的だった。
    ジェーン・スーさんの、痒いところに手が届くような、しかも人を傷つけない言葉の表現が大好きだ。
    そんなジェーン・スーさんが読書が苦手だなんて意外過ぎる。
    文章を書くことは楽しめるけど読書が苦手っていう人もいるんだなぁ。

    「対象物に劣等感を持っていると、自分の感覚が信じられなくなる。これは面白いとされているはずだから、面白がっておいた方がいいかな?と、楽しめなくても楽しいフリをしたり、美味しくなくても美味しいと言ったり、はたまた過剰にけなしたり。」(p75)

    わたしにとって劣等感を持ってしまう対象物は「アート」だった。

    昔から美術館は好きだった。
    なのに、なんだか美術館を楽しめなくなっていた時期があった。
    有名な絵画を見ても、絵よりまず解説文を読み、分かったような気になって絵をじっと見つめる。
    有名な作品なんだから、何か感じなければいけない、という強迫概念に苛まれながらとりあえず見つめる。
    だけど、特になんとも思わない。
    だんだん、これを見ても心が動かないなんて、自分には美的センスが無いんだろうか、と悲しくなってくる。
    そんな自分を認められずに、ミュージアムショップで中途半端なお土産を買って、無理やり楽しかった思い出として記憶する。
    そんな事を繰り返している時期があった。

    今考えるときっと、いつの間にかアートに関して、好きであるが故に劣等感を抱いていたんだと思う。
    アートが好きな自分でいたい、感性が豊かな人間でありたい、という自分への期待が裏切られる劣等感。
    作者が作品に込めた意図を理解したい、汲み取れるはずだ、そんな気持ちが空回りしてしまっていた。

    そこから抜け出すには、いくつか段階があったけれど、ある作品を見た時に完全に劣等感から脱却したと感じたことがあった。

    その作品は、大きいキャンバスいっぱいに緑で人が描かれていた。
    私はいつもの癖で「なんで緑で描いたんだろう。どんな意図が隠されているんだろう」と考えた。
    解説を読むと「好きな色をたくさん使いたくてこの絵を描きました」という趣旨の事が書かれていた。
    それを読んで、そんなのアリ?と思う反面、そっか、そりゃそうだ、と腑に落ちた。
    作品は作者が好きなように表現する場だ。
    好きな色だからたくさん使いたい、当たり前の話だ。
    そこに「人物を緑で描く事によって作者は何を表現したかったのだろう」なんて想像するのは勝手だし、それも楽しいけれど、答え合わせをする必要は無い。
    だってもともと答えなんて無いのかもしれないんだから。

    アートに対して自分の好きなスタンスで接することができるようになって、私はもっとアートを楽しむ事ができるようになった。
    有名だろうとなかろうと、家に帰ったらこの作品の事はきっと覚えていないだろうな、と思う作品はサラッと見て通り過ぎる。
    逆に、惹かれる作品に対しては、純粋に好きという気持ちで向き合う事ができるようになった。
    「作品に込められた作者の意図」ではなく、「なんで自分はこの作品が好きだと感じるんだろう」と、アートを通して自分の内面を掘り下げる感覚。
    それを味わうために美術館に行けるようになって本当に良かった。

    逆にまだまだ劣等感を感じているのは服装に対してだ。
    私は「装う」という行動に対等になれていない。
    洋服を選ぶ事を楽しめずに、流行の服を見て過剰に批判してしまう事もある。
    頭でなんやかんやと考える前に、どんどん色々な服装を試してみて自分が好きなものを探せば良いとわかっているのに、なぜか勇気を持てずにいつまで経っても「装う」事への劣等感を拗らせている。

    そんな卑屈な自分をさっさと認めて、自分に見合ったスケールで自由に楽しめるようになりたい今日この頃。

  • イイ。

  • 面白いけど、少し偏見も入っているように感じる。あくまでスーさんの意見。

  • くだらない。書いてあることすべておばさんすぎて理解も共感もできない。

  • ◾️record memo

    そこから理想の自分にたどり着くには、心身ともにさまざまな甲冑を装着せねばならない。たとえばその日に着る洋服、通勤中に聴く音楽、習い事、休みの日に読む本など。なのに、いつまで経っても甲冑選びがうまくならないのです。私を私たらしめるはずの甲冑には、まるで一貫性がありません。

    子どもを持つことにさほど興味もないまま40歳を過ぎ、人としてなにか欠陥があるのでは?とライトに己を呪ったこともある。が、結局そこに興味が持てなかったのだから仕方がないでしょう。他にやりたいこともたくさんあったしね。私は私をたしなめました。

    ズボラが祟るかと思いきや、水遣りは意外にもすんなり習慣になりました。育てること自体よりも、自分の口に入るものを作ることに興味があったのかもしれません。目に麗しい綺麗な花を咲かせることにはまったく興味が湧かず、関心を寄せるのは「収穫」の一択。情緒より実利のことばかり考える私が子どもを持たなかったのは、大正解でしょう。

    売り手(生産者ではない)は買い手の雰囲気重視な特性に甘えてイメージ先行型の割高な商売をし、買い手はその上澄みをすすって満足する共依存の関係。

    ジャパン・ディズニーは異端者を容易にあぶり出すのです。子どもも産んでないし、姪っ子や甥っ子もいない私はこのままランドもシーも楽しめないまま余生を送ることになるわけですが、まぁこれは別に克服しなくてもいいかなと思います。みんなが好きなものを好きになれなくたって、別に死にはしないんだし。あ、そういえば、火を使った龍のショーを観て「これ一回いくらかかるんだろう」と思ったのは覚えている。そういうのが顔に出ていたんでしょうね。我ながら可愛げがないな。

    海外有名ブランドのストラップなんてのもありましたね。それを付けたら携帯電話がブランド品になるわけでもないのに、有名ブランドがこぞって発売していたということはそれなりに売れていたのだろう。可愛いと狂気の境界線、なにに価値を見出すかは人それぞれと、わかりやすく教えてくれるのがガラケーでした。

    そもそも女の小物類は持ち主を体現していると思われがちです。そんなわけないと思います?ならば想像してみてください。化粧ポーチを5つ、ランダムに机の上に並べるとしましょう。その前に5人の女性が並びます。どの人がどのポーチの持ち主か当ててくださいと言われたら、女性とポーチの共通点を見出そうとしませんか?巨大なビジューで飾られた化粧ポーチと同系統のジェルネイルを指先に施している女性がいたら、私はその二つを線で結びたくなります。これは行き過ぎると偏見を助長する目線ですが、よっぽど自分で注意していないと、持ち物から持ち主をプロファイリングする癖は抜けません。

    人のスマホケースを見て「イヒヒ、あの女はこうに違いない……」なんて高みの見物をした気になっても一銭の得もありません。あ、でも最後に言わせてください。シンプルなデザインがウリのiPhoneにゴテゴテした蓋付きケースを付けている女を見ると、「あんた時代が時代なら黒電話に手作り布カバーをかぶせるタイプだね……」と心のなかで毒づきたくなりますよね。ならない?私はなるなー。ジョブズがあの世で泣いてるよ。

    「趣味は読書です」とほがらかに言える人に、私は心底あこがれます。「流行歌が好き」と言うより明らかに高尚ですし、なにより知的に見える。

    次に衝撃的だったのは、つまらないと思ったら読むのを途中でやめてもよいこと。子どもの頃、最後まで本を読めなかったのは、私にその能力がないからだとばかり思っていました。つまらないと思うのは、私が馬鹿だからだと。しかし「つまらなかったら途中で止めるでしょフツウ」と、小説、詩集、ルポルタージュや郷土資料まで読む読書家が私に言うのです。

    観察するに、本好きは頻繁に図書館を利用します。その都度大量に借りて気軽に読み始め、貸出期間中に読み終わらないものはザクザク返す。気が向いたらまた借りますし、つまらないと思ったら途中でやめるのも平気です。読書が進まぬのは、相性やタイミングの問題でもあると本能的に知っているからです。本好きはそうやって大量の本に触れるうちに自分の好みを把握し、好きな本はちゃんと買って手元に置く。なぜなら何度も同じ本を読むから!ああ、なんと合理的なシステムでしょう。

    不思議なことに、私は音楽では同じことができます。片っ端からサクサク聞いて、好きなものは買う。好みに合わなければ途中でやめる。最後まで聞いたことのないアルバムなんて手元にゴマンとありますが、罪悪感はゼロ。「最後まで聞けないのは、私の聞く力が乏しいからだ……」と劣等感に苛まれたこともありません。「あ、合わない」で終わりです。しかし読書に関しては、最後まで読むことが正しい読者の責務だと信じて疑わなかったのです。

    サクサク試して、つまらないと感じたら罪悪感なく止める。音楽ではできて、本ではなぜそれができないのか?私の苦手意識が本と対等に向き合うのを阻んでいると気付きました。

    本に限らず、生物以外の物体と対等に向き合うためには、主客の「主」が自分であることを自覚しなければなりません。対象物に劣等感を持っていると、自分の感覚が信じられなくなる。これは面白いとされているはずだから、面白がっておいた方がいいかな?と、楽しめなくても楽しいフリをしたり、美味しくなくても美味しいと言ったり、はたまた過剰にけなしたり。話題作を満喫できなかったというだけなのに「あれはさすがだ」「あれはひどかった」と嘯いて自分のスタンスそれ自体をテコにポジショントークをすることさえあります。そういうことをしていると空気を読むのに疲れてしまい、行為自体から距離を取るようになる。私と読書の関係性はこれです。

    苦手を克服すれば、楽しみが増えるのは間違いない。けれど、克服すれば上等な人間になれるわけではない。「これが出来るようになれば私はもっと……」という考えは、それができない自分を卑下し過小評価している証にしかならない。

    私はできるだけ幸福を感じながら毎日を過ごしたいと思っています。それを阻害するものを排除したいとも思っています。私のなかに間違いなく存在する欲望です。

    では、努力すれば撮影者と同じ目で自分が写った写真を見られるようになるかと言えば、答えはNOです。なぜなら、鏡だろうが写真だろうが、私は常に自意識色眼鏡の屈折レンズで己の顔を見ているから。要は、他人から見たらそこそこ良い顔でも、私から見たらブスに見える。本当の自分の顔なんて、当人は一生見られないのかもしれません。

    ここで、頭の中にキリンジの「メスとコスメ」が流れ始めます。整形して美しくなった昔の女と再会する男の歌なのですが、その歌詞に、変わった女に対し「君のなりたい "本当" になればいい」というフレーズがありまして、私はこの引用符付きの "本当" を聴くたびにドキリとしてしまうのです。「君のなりたい "本当" 」と、ありのままを意味する引用符なしの「本当」には雲泥の差があることを雄弁に語る秀逸な歌詞です。「本当」って、いったいなんなんでしょうね。

    ここまでややこしく考えない人が多く存在するのは、インスタグラムを見ればわかります。キメ顔、加工、修整、フィルターのフルコンボで念写された写真を見つけるたび、私の背中はゾワゾワと縮こまる。「私のなりたい "本当" を読み取れ」と、写真が訴えてくるからです。不健全に出来の良い写真をSNSにアップすると、被写体の脳内に存在していただけの「なりたい私」は一瞬で実存になってしまう。その瞬間が、私にはとても苦しい。そんな人、どこにも存在しないのに。

    加工笑顔の後ろに透ける、暗くて湿った深い深い穴。それを満たすはコンプレックスに裏打ちされた底なしの欲望。

    私はこの写真に嫉妬をしている。
    他人の自撮りは、私の大きな大きな穴から暴れる龍を引きずりだします。そして皮肉なことに、人様に見せられないこの暴れ龍だけは、嘘のない本当の私の姿だと確信できるのです。

    自尊心とは、他者の干渉に振り回されない強い心のこと。海外でも痩せたモデルや女優は人気ですが、それでもさまざまな体形の女性がビキニを楽しんでいます。これは世間が寛容だから……だけではなく、大きな体を持つ彼女たちが、自分で自分にOKを出しているからだと思います。これまたうらやましいことこの上ない。私にとって自分の肉体に自分でOKを出すのは、数ある難行のなかでも五本の指に入るものですから。

    彼女には、部下と接する時に守るルールがあるのだそうです。曰く、部下の怠慢やミスが目に付きどんなに腹が立とうと、まず「いま私が完全に満ち足りた状態だったとしても、これを指摘し改善を要求するか」を考える。そして、それでもふるいに残ったものに限り注意する。それ以外には目をつぶる。一貫性のある態度をとるために必要な手順だと言っていました。

    カッとなったら深呼吸などと昔から言われていますが、深呼吸したところで不服な気持ちは顔に出てしまう。顔に出た不服は言葉を帯同していない分、相手の心に不安と不信を生みます。ああ、なんか文句あるんだな、でも言う気はないんだな、めんどくさいな、この人……と思われてしまう。

    伝えたいことがあるならば、はっきり言うときは言う。言わないときは言わない。なによりも、その態度に一貫性を持つ。気分で対応を変えないことに注力する。これこそ人の上に立つ人間に求められる資質だと思いました。

    彼女が「すべて私が満ち足りていたとしたら」とシミュレーションしてから注意するのは、ヒステリックな女と思われないための防衛策でもあります。腹が立つことに、女が抗議をするだけで「感情のコントロールができない人」と烙印を押される場面がまだまだあります。誤解を正すためには、そうではない女がいることを実体として証明しなければいけないのです。本当に面倒なことだ。でも、やるんだよ。

    少し前、「読者モデル」なんていう手に届きそうな存在が人気を博しましたが、私は圧倒的に手が届かないもの、後天的にはどんなに頑張っても手に入らないものに打ちのめされるのが好きです。「育ち」はその最右翼と言えるでしょう。自分では選べないからこそ、本人は無自覚だからこそ、圧倒的なのです。

    山田明子が持っていたもの、それは他のモデルが追随できない育ちの良さでした。この女は子どもの頃からドイツ車のドアの重さを知っているに違いない。そう思いました。

    誰もが自分の生活を身の丈以上に見せたがるのが当然のご時世で、山田明子はブレた写真も酔っぱらった写真もお構いなしにバンバン載せる。ツイッターでは家が古くガタがきていることにブツブツ文句も言う。真木蔵人の息子も、ノア坊ちゃんという名前でよく出てくる。彼女は広い心と深い愛情の持ち主なんだろうと思いました。「東京から少し離れたところでゆったりロハスライフ」なんて気取っても良さそうなのに、自分を高く見せるようなことは一切しない。そんな生き様が伝わってくるブログが素敵でした。

    ここで私はひとつのことに気付きます。山田明子のいちばんの魅力は、いわゆる無意識過剰なところだと。自意識過剰な演出ばかりが目に付くSNSで、山田明子の佇まいは、育ちの良さが無自覚に滲み出ていた二十代の頃と変わらず圧倒的。

    山田明子は、不健全に人から必要とされたがらない。それは彼女が自分で自分を満たすことができるからでしょう。山田明子は自分におおらかです。不完全な自分に自分でOKを出している。自分におおらかなのと「どうせ私なんか……」と諦めるのは大違い。己に過剰な期待をせず、見切らず、そのバランスはとても難しい。

    愛されるために料理をするなんて、馬鹿みたい。男に定型の男らしさをアピールされたら、私はその俗っぽさにテンションがダダ下がりするでしょう。ならば、私が無理して手料理を作り、シナを作るのも同じように気持ちが悪いはず。「作るの面倒だから寿司食べに行こうよ、寿司。払うから」と気前のよいことを言いながら、回りそうでぎりぎり回らない、しかし代用魚はそれなりに出てくるぐらいの手ごろなお寿司屋さんに男を連れて行くのが私なのです。ちょっと情けないけど、仕方ないよ。まるで自炊ができないわけでもないんだし、得意な人が得意なことをやればいいではないか。

    手料理を褒められた結果として愛されることと、愛されるために手料理を作るのは同義ではない。頭では理解しています。しかし、ふと弱気になると、自分を幸せにするためにあるこの両手を、人から愛情を引き出すためだけに使いそうな危うさが、人を支配するために有り体をなぞって気に入られようとする危うさが私の中にもまだあるのです。思い込みとか刷り込みっていうのは、人が弱ってる時に濃度を増すものなのだ。気を付けないと、あとで痛い目を見るのは自分なのにね。

    この友人も私も、商業的スピリチュアルが大の苦手です。安価で楽して得しようと浅ましく思った時、スピリチュアルという言葉はとても便利だから。誰に便利かと言えば、その名のもとに商売をする人間にとってです。持つだけでモテるようになる石、聴くだけでお金持ちになるCD。どちらも「安価で楽して得しよう!」の典型ですが、効果は測定不可能で儲かるのは業者だけ。つまり、楽して得できるのは業者だけ!こっちには大事な金を失うリスクしかありません。ハマり過ぎたら友達まで失うかもしれないですし、いいことなんかひとつもないよ。

    相手を思い通りにコントロールしようと躍起になり、期待から外れた行動を責めるようになる。それは好きでも何でもない、ただの執着なのではないでしょうか。

    彼氏や彼女の間柄なら、それが許される理由は私には見当たりません。ってことは、「彼女かよ」「彼氏かよ」と揶揄される過干渉や立ち振る舞いは、やっぱり彼氏と彼女のあいだでも不適切なんだと思います。ロクでもねぇよ、恋愛感情ってやつは。

    だから恋愛体質なんてさ、別にえらくもなんともないと思うのですよ。恋それ自体は至高でも究極でもないよ。恋愛至上主義って、それイカレポンチのカムアウトですよ。恋を奇跡と高みに置いたり、それができることで優越を感じたり、できなくなることを恐れたりするもんじゃない。同時に、それができないからと自分を卑下して特異性を演出するものでもない。「恋愛してると、自分が自分じゃなくなっちゃうのよね」とバーのカウンターでうっとり鼻から煙を出すもんでもない。

    「だからぁ〜、その普通じゃない自分がむき出しになるのが楽しいんじゃない」と、バーのカウンターでグラス片手に髪を掻き上げるそこのあなた!そう、そのフェイズが楽しいことは間違いない。しかし、その間にもっと大切なことがないがしろにされている可能性があると、大人なら知っておくべきではないだろうか。

    惚れた腫れたを歌ったり、愛憎を昇華させて人の心を動かす演者の商売でもしていない限り、燃え上がる身勝手な感情よりも優先した方が身のためになることがあると思うのですよ。普通の生活を営みたいと思うならば。あー気を付けよ。明日は我が身だよ。

    愛情は、誰かから注がれてはじめて、他者に注げるようになる。

    王子様に見出され、女子の夢を叶えたトップ・オブ・ザ・女子が、自分の人生を自分の手に取り戻す。彼女は他者の目に映る自分ではなく、鏡の中の自分自身を愛する方法を体得したように見えました。

    誰とも何もシェアしない、私の最高の日曜日。インスタグラムにもフェイスブックにも載せるものがまるでない、低め安定の休日。平日の頑張りはこれありきですよ。ダラダラするのに高尚な理由も言い訳も、そこから得られる特別な気付きも、なーんにもいらない。ただ、ダラダラする。それでいいのだ。

    ただ、生活を共に暮らすなかで、致命傷にはならない程度のかすり傷を頻繁に負っている可能性はあるのではなかろうか。取るに足らない言葉に傷付いたり、感謝をしてもらえなかったり、オチのない話を咎められたり。それぞれはどうってことない傷なのだけれど、続くとドッと疲労感が溜まる傷。

    女の若くて脆くて穢れを知らない時期、つまり十代半ばから二十代の終わりごろまでを音楽学校と歌劇団で過ごし、その成長を観客が見守る。不躾な一部の異性から値踏みされたり搾取されたりせず、傷ひとつない靴のようにピカピカのまま、最も美しい状態で美しい花を咲かせるのを「観る」ことで「守る」。このシステムの秀逸さにも感銘を受けました。

    現実世界では彼女たちのように威勢よくはできないものの、理想としては運命に翻弄されるより自分の力で立ち上がりたい。誰にどう思われたってかまわないと宣言したい。愛する人がいることは素晴らしいけれど、その人と添い遂げることを至上の幸福とはしたくない。

    類稀なる観察眼と、配慮に満ちた文章を書ける人だから、いろいろなことをスルーしてしまうにはあまりに繊細で、多くのことを考えてしまうだろうと思うのです。

    入れ墨談義が昨今では周期的に物議をかもすことがありますが、日本国であろうがなかろうが、洋の東西を問わず、入れ墨をしている人はMRIに入ることができません。強力な磁場により金属粒子で着色されている入れ墨の皮膚の部分に電流が発生しやけどを負うことになるからです。ダメ絶対。

    女がアラフォーとなって、自分の意思を守りながらも社会性を維持して生き延びていかなければならない。そのために必要な何かを「甲冑」と表現する言語感覚の面白さ。

    モテやキラキラに安易に流されることなく、それらを冷静に観察して、時にはそれに染まろうと四苦八苦しても、自分の中にある確実な自分自身をきちんと大切にできるスーさんだからこそ、こういう言葉を紡ぐことができるんじゃないかと思います。

  • ジェーン・スーさんのエッセイは2作目。
    「読書家への長い長い道のりで思ったこと」と「働く女の隠し味」が特に共感できたり発見がある話だった。

    私は本じゃなくて、仕事で自信いっぱいに話す人が苦手。冷静になれば言ってることは時には理に適ってないことをあるかもしれないけど、話し方だけに圧倒されてしまって、自分より偉い/賢いと思ってしまう。。。あと営業ってだけで、お客さんより下っていう刷り込みが強すぎて、抜け出したい。お金をもらうのはその分の価値を提供するからであって、対等な関係でありたいんよなぁ。。。
    脱線したけど、自信満々に話すような人になりたいと思うことはまるで無いけど、この状態は脱したいなぁー


    働く女の隠し味は参考になった!
    私も転職には尻込みしてしまうし自信もまるで無いから、今の会社で働き続けると思う。「いま私が完全に満ち足りた状態だったとしても、これを指摘し改善を要求するか」と考えることは今後役に立つ気がする!

  • ジェーンスー氏の日常の切り取りと言語感覚の面白さに驚く。

    以下覚書
    ・自分と付き合っている人は自分の写し鏡。もっといい人を探すならお前がもっといい人になれ。
    ・相手してもらったことを素直に喜ぶことが大切。それができないのは経験値が少ないかプライドが高いから。
    ・人の心を汲み取る前に自分好みの空間を作ろうとするな。
    ・男は繊細で傷つきやすくプライドが高い生き物。
    ・長い同棲は結婚する意味を見失わせる。
    ・愛情は誰かから注がれてはじめて他者に注げるようになる。

  • 女が武装(自分をよくみせる)のために使ういろんなアイテムにまつわるエッセイ。たしかに個々のアイテムを導入するかしないか自体、当人がそんな意図的に選んでなかったとしてもそれも含めてその人のキャラクターをあらわしてしまうんだよなあ。という着眼点から目から鱗だった。

    自分や周りの人や世間の目に対する、深く切り込んだ冷静な分析が面白くて、あと四十路ならではの視点にもところどころで共感した。

  • なんとなく「負け犬の遠吠え」の酒井さんのようなイメージ。いろいろこじらせるほど頭のいい方なんだろうなぁ、きっと。自虐みたいなネタが多く、たまにちょっとなーと思うのもあったけど、「体重計に情はない」が面白かった!

  • この方、矢張り言語化のオタク

  • 冷静な毒の塊だ〜。冷静なメタ認知と、時たま入る自虐と。おそらく冷静すぎて、心に刺さってしまう。ジェーン・スーさん、何冊か読んでるけど、あまり得意ではないのかも?

    p.90 観察すると、本好きは頻繁に図書館を利用します。その都度、大量に借りて気軽に読み始め、貸し出し期間で読み終わらないものはザクザク返す。気が向いたらまた借りますし、つまらないと思ったら途中で止めるのも平気です。読書が進まなのは、相性やタイミングの問題でもあると本能的に知っているからです。本好きはそうやって大量のほうに触れるうちに自分の好みを把握し、好きな本はちゃんと買って手元に置く。なぜなら、何度も同じ本を読むから、あー、なんと合理的なシステムでしょう。本好きの人間は、本と対等に対峙している。

    不思議なことに、私は音楽では同じことができます。片っ端からサクサク聞いて、好きなものは買う。好みに合わなければ途中で止める。最後まで聞いたことない。アルバムなんて手元にゴマンとありますが、罪悪感は0。「最後まで聞けないのは、私の聞く力が乏しいから…」と劣等感にさいなまれることもありません。「あ、合わない」で終わりです。しかし、読書に関しては、最後まで読むのが正しい読者の責務だと信じて疑わなかったのです。サクサク試して、つまらないと感じたら罪悪感なく止める。音楽ではできて、本ではなぜそれができないのか?私の苦手意識が本と対等に向き合うの阻んでいると気づきました。
    本に限らず、生き物以外の物体と対等に向き合うためには、主客の「主」が自分であることを自覚しなければなりません。対象物に劣等感を持っていると、自分の感覚が信じられなくなる。これは面白いとされているはずだから、面白がっておいたほうがいいのかな?と、楽しむなくても、楽しいふりをしたり、美味しくなくてもおいしいと言ったり、はたまた過剰に貶したり。話題作を満喫できなかったと言うだけなのに「あれはさすがだ」「あれはひどかった」と嘯いて(うそぶいて)自分のスタンス、それ自体をテコにポジショントークをすることさえあります。そういうことをしていると空気を読むのに疲れてしまい、こういう時代から距離を取るようになる。私と読書の関係性はこれです。

    p.128 結局のところ、私は東京に依存しているんだと思います。ここは女が1人で暮らすのに、何もかも便利がよすぎる。スープストックで1人の夕食なら何でもないし、人恋しさと疲れが募ったら行きつけのマッサージに行けばいい。大体配偶者の子供もいないのだから、私なんて人生単位で1人旅をしているようなものじゃないか。わざわざ自分らしさを取り戻に遠方に出向かなくても、私はここで充分自分らしく、生きている!

    p.138 伝えたいことがあるならば、はっきりと言う時は言う。言わない時は言わない。何よりも、その態度に一貫性を持つ。気分で対応を変えないことに注力する。これこそ人の上に立つ人間に求められる資質だと思いました。

    彼女が「私が満たされていたとしたら」とシミュレーションしてから注意するのは、ヒステリックな女と思われないための防衛策でもあります。腹が立つことに、女は抗議するだけで「感情のコントロールができない人」と烙印をされる場面がまだまだあります。誤解を正すためには、そうでない女がいることを実態として証明しなければいけないのです。本当に面倒なことだ。でも、やるんだよ。

    p.146 何が最高なのカフェ?山田亜希子は完璧では無いから。完璧では無いことを、隠していないから。完璧では無いことを隠さない人は、逆説的に完璧だから。不完全は不幸と等号で結ばれないことを、山田亜希子は全身で証明してくれているから。私は事あるごとに彼女のインスタを友達に見せているんですが、小さなお子さんを持つ働くお母さんがぽろっとこぼした言葉が忘れられません。彼女は言いました。「ほっとする。そうだよね、愛情があれば、それでいいんだよね」と。

    さて、私がなぜ会ったこともない同世代の女性に、これほど肩入れしているかと言えば、そこには下衆な理由があります。決して後天的には、手に入らない出自に圧倒されながら、生まれや育ちで全てが飛び級できるわけでは無いことを、私は彼女の中に見たいのでしょう。模倣できない、彼女のたおやかさにねじ伏せられる快感を味わいながら、育ちが人生の全てを約束するわけではなく、幸せはあくまで自分でつかむもので、その点において人は等しく平等だと彼女に証明してほしいと願っている。どんなに育ちが良くても、各地の子の愛情の交換では、誰もが傷つく可能性がある。けれど、そこから立ち上がって、前を向ける者だけが、より深い愛情の持ち主になれる。そう信じたいのでしょう。そんな下衆な心を、私は勝手に山田亜希子へ投影しているのです。

    p.154 手料理を褒められた結果として愛されることと、愛されるために手料理を作る事は同期ではない。頭では理解しています。しかし、ふと弱気になると、自分を幸せにするためにあるこの両手を、人から愛情を引き出すためだけに使いそうな危うさが、人を支配するために有り体をなぞって、気に入られようとする危うさが、私の中にもまだあるのです。思い込みとか刷り込みっていうのは、人が弱ってるときに濃度を増すものなのだ。気をつけないと、後で痛い目を見るのは自分なのにね。

    p.208 普段のママ友さん、旦那さんを愛していないわけでは無いのでしょう。ただ、生活を共に暮らす中で、致命傷にはならない程度のかすり傷を頻繁に負っている可能性があるのではなかろうか。取るに足らない傷に傷ついたり、感謝をしてもらえなかったり、オチのない話を咎められたり。それぞれはどうってことない傷なのだけれど、続くと疲労感が溜まる傷。宝塚とは、そういうものを癒してくれる場なのかもしれない。女が男を演じる時点で、リアリティーなんて誰も求めていないが故に、現実で期待したら一蹴される都合の良い理想が叶えられる空間。

  • めっちゃ笑ってしまった、共感

  • 流行へのコンプレックス、ファッションとしての健康志向が作り物めいてて気に入らない、楽して綺麗になりたい自分…どれもこれも女性(TRFの世代ではないけど、最近の流行り物への皮肉とかは30代の私を含めどの世代でも共感されそう)の気分を的確に言語化してて、あるある、そう!その通り!と思う。全体的に自嘲を込めて楽しく書かれてるのでたまにクスッと笑ったり、とにかく笑いとばせる。(自意識過剰な自分を自覚して文字にして笑い飛ばしてしまおうというサバサバと読者と共有しようという著者の自意識が見えるという入れ子構造ではあるけどw ) この本を居心地悪く思う人は、同族嫌悪に近い気がする。抜けきれない恋愛体質を理屈っぽく書くのはちょっと飽きた。前半のレギンス、TRF、プチトマトあたりが面白かった。手料理、自撮り「修正箇所は逆説的にコンプレックスを正確に言い当てており」、核心をついててドキッとする京都は名言が多い。「時代という名の遠心分離機」「ヤングの京都は同ブランドのセカンドライン」「文化的サビ抜き」


    p6「京都に興味が持てぬ自分を後ろめたく思う一方で、ハワイに現を抜かす連中に鼻白む。結果、それらの甲冑を軽やかに装着する婦女子をうらやみながら「あのブドウは酸っぱいに違いない」と、いらぬ言葉を吐いてしまう。
    (略)
    フランス人は10着しか服を持たないと言うし、ときめくものだけ残せと言う人もいます。思い込みのストッパーを外し、ひとまずぜんぶ試着する。」

  • 言語化が上手だなあ

  • スーさん節炸裂!って感じ。意外だったのはここまで書ける人が読書が苦手で、全て読み切らないといけないと強迫観念的な意識を幼少から持っていたこと。 ものすごく共感できたのはぱっつん前髪女性の生態について、ぱっつんが甲冑になるなんて考えても見なかった。鎧はその都度着脱可能と思いつつもいざとなったら脱げない、捨てれないものが増えていくばかりだなと。

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著者プロフィール

1973年、東京都出身。作詞家、コラムニスト、ラジオパーソナリティー。『ジェーン・スー生活は踊る』(毎週月~木曜午前11時TBSラジオ)に出演中。『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』(幻冬舎)で講談社エッセイ賞を受賞。著書に『私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな』(ポプラ社)、『生きるとか死ぬとか父親とか』(新潮社)、『これでもいいのだ』(中央公論新社)、『ひとまず上出来』(文藝春秋)、『きれいになりたい気がしてきた』(光文社)など。

「2022年 『OVER THE SUN 公式互助会本』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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