「空気」の研究 (文春文庫 や 9-14)

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  • / ISBN・EAN: 9784167911997

作品紹介・あらすじ

昭和52年の発表以来、40年を経ていまだに多くの論者に引用、紹介される名著。今年3月も、NHK Eテレ「100分deメディア論」で、社会学者・大澤真幸氏が本書を紹介し、大きな反響があった。日本には、誰でもないのに誰よりも強い「空気」というものが存在し、人々も行動を規定している・・・。これは、昨今の政治スキャンダルのなかで流行語となった「忖度」そのものではないか!山本七平は本書で「「空気」とはまことに大きな絶対権を持った妖怪である。一種の『超能力』かも知れない。」「この『空気』なるものの正体を把握しておかないと、将来なにが起るやら、皆目見当がつかないことになる。」と論じている。それから40年、著者の分析は古びるどころか、ますます現代社会の現実を鋭く言い当てている。「空気を読め」「アイツは空気が読めない」という言葉が当たり前に使われ、誰もが「空気」という権力を怖れて右往左往している。そんな今こそ、日本人の行動様式を鋭く抉った本書が必要とされている。『「水=通常性」の研究』『日本的根本主義(ファンダメンタル)について』と続き、日本人の心の中にかつても今も深く根ざしている思想が明らかにされていくのは圧巻。日本人に独特の伝統的発想、心的秩序、体制を探った、不朽の傑作を、文字の大きな新装版で。

感想・レビュー・書評

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  • 本著は「空気を読む」とか「その場の空気」などと言われる「空気」とは何かについて論理的に検証した本です。
    あらゆる理論や論理を超える「空気」の正体を解明していく本著ですが、私には難しく感じられました。
    ぜひぜひ読んでみてください。

  • 日本における「拘束の原理」を解き明かしていく本
    久々に難しい(抽象的な)本を読んだが、日本人のメンタリティを雑に要約すると、
    ①日本人は一神教徒とは異なり、「絶対的な基準」がない
    ②それなら全てを相対化できると思いきや、「絶対化の対象が無数にある」状態
    ③基準や支点となる、「臨在感的把握」の対象を求める
    ④基準を失いたくないので、それが非科学的・非論理的であっても口にしない(基準となる側と隠し合う)
     →空気の完成
    ⑤「それはおかしい」と誰かが水を差す
    ⑥「水」は我々の現実=通常性であり、結局は空気醸成の基となる(ここが難しい)
    ⑦別の対象へ転向→過去の「偶像」を破壊
    ↑これを繰り返す、「汎神論的な神政制」
    こんな感じ?

    【空気の研究】
    ・空気とは
     論理を超えた判断基準、宗教的絶対性
     抵抗する者は「抗空気罪」で葬られるほど
     空気により決断するが、空気なので責任は取れない
     決断の過程や根拠を後から言語化できない
     「人工空気」も醸成できる
    ・発生のメカニズム
     対象への臨在感的把握(髑髏、カドミウム)
     明確なのが帝国陸軍支配の基本でもある「死の臨在」
     一方向ではなく、網の目のように支配されている
    ・臨在感的把握
     対象の背後の臨在する何かに心理的、宗教的影響を受ける状態
     感情移入を絶対化し、それを感情移入だと考えない状態
     一方的な感情移入による対象と自己の一体化
    ・克服のための要点
     ①臨在感を歴史観的に把握しなおすこと
     ②対立概念による対象把握(相対化?)
     対象への分析を拒否する態度なので、対象の分析では脱却不可
     →脱却したと錯覚するが、別のシンボルへ転向しただけ
     宗教的回心(古き神々を悪魔として否定)と似ている
    ・明治的啓蒙主義
     啓蒙家は「物質を拝むのは野蛮なので棄却すべき」とは考えたが、「なぜ拝んでしまうのか」までは探求しなかった
     →「啓蒙的」ではあるが、「科学的」ではない態度
     →日本における「科学」は「明治的啓蒙主義」であり、探求解明による超克ではなく「受験勉強的」
     また、空気の支配自体を「ないもの」と棄却した
     →根本解決ではないので、「過去の偶像」は踏めても、教育勅語や御真影など「新しい偶像」が出てくれば踏めなくなる
    ・海外との比較
     西欧では偶像支配(物神化)との苦闘の歴史
     →空気の存在を認め、問題視し、支配を許さない態度
     一神教において、神以外のものは徹底的に相対化
     →日本はアニミズムで相対化がなく、「絶対化の対象が無数にある」状態
     中東や西欧のように、滅ぼし滅ぼされるのが当たり前の国で「空気の支配」を受け入れていたら存立できない
     →日本は平和で、戦前までは西欧など先進国を「臨在的に」把握し、空気支配で模倣していれば上手くいった
     聖書の「相対化」世界も、日本に持ち込まれると絶対性が付与され、臨在感的把握の対象になってしまう
    ・水
     空気の支配に対して「水を差す」という方法
     これは日本的儒教の体系内の考え方に対しては有効だった

    【水=通常性の研究】
    ・水とは
     最も具体的な目前の障害、今おかれている情況
     それを口にして現実に引き戻す=水を差す
     この水の連続(雨)が我々の「通常性」
    ・水の作用
     内村鑑三はこれを腐食に例え、外来の思想が実体を失い、名のみが日本風土に消化吸収されると述べた
     →徳川時代に儒教を取り入れたが、科挙はやらない等
     「内なる自然現象」なので、消化「酵素」と仮定する
    ・固定倫理
     人間を規定する尺度であり、「非人間性」を要請される
     →人間が触れられないからこそ平等の尺度となりえる
     →日本の人間的尺度である間(けん)に対するメートル
    ・日本的情況倫理(通常性)
     あの情況ではあれが正しい、この状況ではこれが正しい
     行為そのものではなく「情況への対応」が正当化の基準
     →批判する側もされる側も同一基準になっている
     →また、情況のせいにして個人の責任を無視
      自己の意思を否定している
     過去~現在を律する「固定倫理」「尺度」の欠如
     →「当時の情況を考察」という虚構の下に判断しがち
     日本はゴムの物差しで、尺度の方を身長に合わせている
     →この伸縮自在な倫理的尺度が「情況」
     →人間は基本みな「オール3」だが、異なって見えるのは「情況が違うから」という考え
    ・情況倫理の支点
     情況倫理そのままでは支点がないため規範とならない
     →情況を超越した一人間や集団、その象徴を支点とし従う
     →これが日本の伝統的な考え方である「一君万民」
      一人の絶対者、他は全て平等(一神教とも異なる?)
     →「君」が誰であろうと全体主義的無責任体制
    ・日本的儒教倫理(儒教に触発された「日本教」)
     子は父のために隠し、父は子のために隠す
     天皇は人であることを隠し、人民も天皇のために隠す
     事実を言えば不徳義とされる、集団倫理の社会
     →事実を事実と言う「自由主義者」は嫌われがち
     孔子は契約的な誠実さ「忠」と血縁的な秩序「孝」を別けた
     →日本は「孝」を組織や天皇へ拡大し、一家を形成しがち
    ・「何かの力」
     我々の通常性という無意識の規範の中から生じる
     →力である限りはプラスにも作用するはずである
      戦後の日本に「奇跡の復興」をもたらした
     →コントロールできなければ一挙に自壊する可能性もある
     虚構の中に真実を求める社会体制、「虚構の支配機構」
     →舞台は「演技であること」を演者と観客の間で隠すことで成立
     女形が男性であることを指摘すれば真実が崩れてしまう
     →このような関係性の形で「何かの力」が形成される
    ・問題
     この秩序で全日本をおおうなら、必然的に鎖国となる
     →政治、経済、外交、軍事、科学などの部門においても、この状態で種々の決定が行われて安全なのか?
     「演劇」に支障なき形に改変された情報しか伝わらない
     戦争とは、アメリカが日本研究をしたように「国際的事件」
     →逆に日本は英語教育を廃止したりと「超国家主義」
     外交においても「隠し合い」を樹立したがる

    【日本的根本主義について】
    ・アタマの切り替え
     進化論と天皇が共存(現人神はサルの子孫)する日本人
     進化論裁判のあったアメリカ人にとっては理解不能
     →情況に応じて切り替えるので、進化論or現人神の択一にならない
    ・根本主義(ファンダメンタリズム)
     キリスト教でいえば、聖書を絶対とする超保守主義
     進化論(聖書の教えに反する)を講ずることを州法で禁ずるなど
     →起源である聖書の絶対化が「改革」を生むという奇妙な関係
     明治維新の王政復古にも同じ傾向がみられる
    ・ミュンツァー
     合理性追求と聖書絶対を一体化するための思考体系が神学
     我々にとって対立する二つの面が一体となっている
     一方の追求は、究極的に一方の成就という発想
    ・合理性と非合理性
     合理性の象徴である「法」は、非合理性の制御となりえても、
     それ自体が何かを改革したり、自らを破滅させる「力」はない
     むしろ非合理性が「新しい合理性の追求」の力となっている
     伊藤博文は西欧の「神政制と合理制」のうち合理性だけを分離
     →我々日本人においても合理性と非合理性が結合している
     合理性だけ抽出分離しても失敗する
     →非合理性の力を制御して改革へ転化する発想が必要
    ・日本のファンディ
     「神の前での平等」と対比されるべき「一君万民・家族的平等」
     この倫理主義を強行しうる「強権」への喝采
     絶対化を行いつつ「ドグマ」を何よりも嫌いうる
     相矛盾する言葉を平然と併存させておける状態
     汎神論を基礎とした「汎神論的神政制」
    ・これから
     空気に基づく行動が、回りまわって自分の首を絞めていく
     →これは日本人だけの傾向ではない
     黙示文学は「言葉の映像」の積み重ねで読者を拘束
     拘束されると、論破されても心的転回を起こさず殉教
     →黙示録的支配からいかに脱出してきたかの歴史が参考となる

    【あとがき】
    ・空気支配の歴史
     徳川~明治初期には、空気に支配されることを恥とする文化
     いやしくも男子たるものが、その場の空気に支配されて~
     →昭和に入ると、いつしか空気は不可抗力的拘束に
    ・再把握
     一人格の中に当然ある「賢なる部分」「愚なる部分」
     明治以降「愚なる部分」は棄却して今日に至った
     →民主主義の名の下に「消した」ものが我々を拘束している
     それを再把握することだけが脱却の道

  • 「空気」へと決定打をあびせた本書の論考をもってしても、現在において「空気」という現象はしぶとくつよく僕らのあいだに根付いてしまっています。でも、ちょっと難しいながらも、本書の内容をある程度咀嚼できる人が増えたならば、「空気」を覆すチャンスも増えていくし、本書が読まれ続けることで、「空気」に抵抗するためのファイティングポーズは継承されていく、つまり覆すチャンスが潰えずつないでいけるのだと思うのです。

    本書は、具体例を多く引きながらだけれど、でも中心は本格の抽象的論考で進めていく形ですから、言外でイメージするところでけっこう苦労しました(というか、この本で僕は、読書中にその内容を言葉を離れて考えていがちなことにはっきり気付かされました。そして読書は本来そういうものだとも思います)。読んでいる途中の抽象的論考のその後の展開を推理する、対象となっている「空気」を自分なりにどう捉えてきたかをふわっと整理する、「空気」に関する考えで著者を出し抜く気持ちもまんまん(だって時代の利がある部分はあると思っていますからね)。合計すると、まあ疲れるし思ったほど読み進まないのでした。が、しかし、そのワンダーランドを濃密に冒険しているのは確かなのです。

    ほんとうによい読書になりました。こういった、「格闘に似た対話」となるような読書でこれまで読解力をつけてきたんですもの。まだまだ自分にとって高い山はたくさんあるのだ、と希望に近いなにかを感じるのでした。

    閑話休題。

    最初に「空気」とはどう生まれるのかについて。「臨在感的把握」という語句で著者は表現していますが、モノや言葉、人などから元々感じとれるイメージのようなものがあります。お寺のお札や神社のお守りになにを感じるでしょう? そうやって自然と感じとることが「臨在感的把握」であり、ここから空気が生まれます。そうして、その空気が共有されてつよくなり、仕舞いには科学的な論証までもはねのけて物事を決定する動力源になってしまう。太平洋戦争中に戦艦大和が、沈む覚悟で出港して撃沈されたのも、空気による決定のためだと、本書で例に引かれていました。

    さて、40年くらい前の本ですが、ここで語られる日本人像はいまもそうは変わらない。まず、政治家や官僚、会社員などさまざまな人々は何かを隠しているものだと前提するいわば「不信」の態度を持っていることがそのひとつ。次に、これは欧米では革新的な視座ではあるのだけれど、実は日本人的だとされるものがふたつめ。それは、ある出来事にはその背景にこそ原因がある(生活習慣病の原因は高カロリーの食物を入手しやすいからなど)という現象学的(現象学という概念にもさまざまな捉え方があるようですが)といえるような捉えかた(本書では「情況論理」と表現)に潜む「無責任さ(自己無謬性=自分は関係していないという意識)」。

    つまり、「不信」と「無責任さ」が大きく二つ、日本人の気質としてあるのだと読める。これこそ、空気を生みやすく、そして空気に翻弄されやすい気質でしょう。この、「空気」と密着した気質は、何を起源としているか。明治以降のみを考えれば、王政復古によって力をもたされた天皇を「空気」で把握しなければならなくなったことが大きいのかなと思いました。そこで「空気」の扱いが血肉化したのかもしれないと推察するところです(ただ、あとがきによると、明治がきっかけでも、初期はそうでもないようで、徐々に空気支配がつよまっていったようです)。

    明治維新によって、それまでの臨在感的把握を切り捨てる方向へとパラダイムシフトを促されます。そういったものは科学的ではない、西洋的ではない、だからいわば「ドライ」な考え方を持ちましょう、という有名どころでは福沢諭吉らによるリードです。著者は、このようにあるものを「ないことにする」ことによって、かえってそれは深く沈潜し、逆にあらゆる歯止めが利かなくなり傍若無人にふるまいだすことになり、結局、「空気」の支配を決定的にする、と述べています。抑圧して失敗するパターンです。

    また、「空気」支配はつきつめると、暴力などの「原理主義」行動に行き着く。だから、警戒してそこから脱却するのがほんとうはよいことです。対象を相対的に見れなくて、絶対的に見たうえで対象と一体化してしまうのが空気醸成のエネルギーですから、脱却のためには自由でいないと、なのでした。それも生半可な自由(水を差して現実へ引き戻す自由程度のこと)では、空気から脱却したはずの通常化したところからさらに空気支配が生まれてしまうとのこと(ここはもっとちゃんとまとめて説明しておきたいところなんですが、気になる方は本書をあたってください)。だから突っ切った自由が大切になる。それはたぶんに、孤独をかなりの割合で含んだ自由です。さらにいえば、その自由とは、一体化から逃れた自由であり、自分を拘束している「空気」を把握することだそうです。これは今でいえば、メタ認知的に「空気」を見てみることではないでしょうか。

    それにしても、ここまで分析・考察されていても、「空気」ってまだまだ現代でもつよいですもんね。「空気」という現象を否定しようとすらしない人が多いし。「空気」を自分のために使ってやろうとする気持ちが上の世代から下へと再生産されてきたからじゃないのかなとも思いました。あるいは、空気に逆らったら怖い、という気持ちの再生産、でしょうか。

  • 著者は大正生まれで、この内容は1977年の連載なのに、今でも通ずるものだった。「空気を読む」と「水を差す」
    忖度という空気とそれを一瞬で壊す水、さらに通常性という水にまた帰る。
    日本ではただの人にすぎない天皇を神格化した時代があり、霊を信仰する文化があり、事実を言葉にすると非国民となる。空気・水が浸透、醸成する国。
    事実を相互に隠し合うことの中に真実がある。納得しかない。
    13冊目読了。

  • 山本七平の名著。40年以上経って、当時とは状況が変化しているけれど、日本人の世間の空気を読む能力は変わらない。政治もメディアも空気を読んで動いている。その空気を読んで、人が動く。みんな昔から知っていた事だけど、それを考察して本にした功績はあると思う。

  • 「空気を読め」「あの時はそうするしかない空気だった」
    この「空気」とは何か?の研究書。
    データも論理も一切無視され、「空気」によって物事が決定される場面がある。戦争や公害問題が大きな例だが、生活の中でも、何かを決定する時、この「空気」が決定権を握る場面がある。
    著者は、「空気」とは「臨在感的把握」であるという。臨在感的把握とは、目に見えなくても何かが存在している、という感覚。日本は八百万の神というように、いろいろなものに魂が宿るという感覚がある。逆に、一神教にはその感覚はない。
    見えないものをあるように感じ、それが多くの人に共有される時、「空気」は醸成される。例えば「文明開化」や「忠君愛国」も意味以上の影響力を持った例だという。
    また、「空気」には永続性がないという特徴もある。だから日本人は、例えば「天皇主権」から「国民主権」というイデオロギーの大きな変化にも対応できた。

    「空気」と「水」と「自由」の話も興味深かった。「水」とは通常性であると著者はいう。「水を差す」という言葉があるが、これは話に通常性を持たせることで、「空気」を崩壊させることを意味する。だから、水を差す人は白い目で見られる。
    戦後盛んに言われた「自由」とは、「水を差す自由」だという。
    翻って現代、「空気」に「水」を差す「自由」を、私たちは持っているだろうか。

  •  著者のことは知らないが、中島義道が引用していたので、「常識」と一緒に手に取った。「常識」の後読み始めたが、こちらの方は非常に読みにくい。加えてこちらは検証しようのない噂話や胡散臭いエピソードが込められていて、不快感すら覚えてしまう。
     共産党も丸紅も、こんにちとなっては社会を抉り出す代表的なものではなくなってしまったのだろう、この本に著された「日本」はなんだかパラレルワールドに見えてしまうし、それゆえ形而上の論証を加えて語られている空気も水も、今の日本(世界)とは異なる点を通る平行線をたどっているようなもどかしさを感じた。

  • 「思考すること」と「自分の軸」の大切さ。

    生きていく上で、「空気を読む」ことは重要ではあるものの、同時に嫌気がさすこともある。職場では特に、空気を読む機会が多く、その空気に屈する機会も多々ある。言いたい意見も空気を読んで発言しないとか、そもそも自由に言えるような空気じゃないとか、そんな空気を何度も味わった。そもそも空気ってなんだろうと思い、この本を読んでみた。

    空気とは
    ・感情移入の絶対感
    ・こうあるべきであるという絶対感
    によって生まれる。
    感情移入の絶対感とは、例えば上司が「俺がいいと思うからお前らもそう思うよな」とか「こんなのできて当たり前だよな」といった個人の感覚によるものを出してしまうことによって発生する空気
    こうあるべきである空気とは、みんながやってるんだからやるべきとか、社会人はこうあるべき、この階級ならこうあるべき、といったような同調圧力のような空気である。
    そして、そういった空気は狭い人間関係の場所に特に発生しやすい。

    空気に対抗するのは「水」であり、抗えないような空気にたいして、最もらしい反対意見を述べてみたりすることだ。まさに「水を差す」といった言葉はそのままである。しかし、その水は
    「状況倫理」という、あの空気間ではああするしか無かったといったような圧倒的な空気感によって淘汰されることも多々ある。
    更には、その「水」がさらなる空気や同調圧力を生むことにもなる。

    そういった空気に対抗するためには
    思考して、常に自分の軸を持ち根本に立ち返る事が重要である。
    そうすることで空気に流されることもなく、自分をはっきりと主張する事が可能になる

  • 全体を支配する空気。
    水に流すの意味。
    色々と考えることの多かった本でした。
    ただ、書かれた時代の事柄を例にした部分が多過ぎて話が分かりにくい部分がある。
    本書を最後まで読むのには、そこを上手く理解して(流して?)読み進められるかどうかに係っている。

  • そもそも研究対象が「空気」なので仕方ないのだろうが、論拠が著者の思考によるものが多く、表現も抽象的な部分があり所々自分には「ちょっと何言ってるかわからない」感じだったものの、全体的には言われてみればそうだなと思わせる内容であった。
    日本を悲惨な敗戦へと至らせ、戦後も日本人を様々な場面で支配している「空気」を見抜き、研究対象としたこと自体とても画期的なことだったのだなと思った。

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著者プロフィール

1921年、東京都に生まれる。1942年、青山学院高等商業学部を卒業。野砲少尉としてマニラで戦い、捕虜となる。戦後、山本書店を創設し、聖書学関係の出版に携わる。1970年、イザヤ・ベンダサン名で出版した『日本人とユダヤ人』が300万部のベストセラーに。
著書には『「空気」の研究』(文藝春秋)、『帝王学』(日本経済新聞社)、『論語の読み方』(祥伝社)、『なぜ日本は変われないのか』『日本人には何が欠けているのか』『日本はなぜ外交で負けるのか』『戦争責任と靖国問題』(以上、さくら舎)などがある。

「2020年 『日本型組織 存続の条件』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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