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Amazon.co.jp ・本 (224ページ) / ISBN・EAN: 9784167912444
作品紹介・あらすじ
「とても大きな小説を読んだ」 津村記久子氏(解説)
通夜のために集まった親族たちの一夜のふるまい、思い、記憶――傑作の誉れ高い第154回芥川賞受賞作。滝口悠生の代表作を文庫化!
単行本未収録作「夜曲」収録。
みんなの感想まとめ
葬儀の場に集まった親族たちの心模様や思い出が、巧みに描かれた物語が展開されます。故人とのエピソードが語られる中で、登場人物たちの想念が移ろい、時間の経過や感情の変化がリアルに感じられます。親族の様々な...
感想・レビュー・書評
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葬儀に集まった親族達の所作や心模様
故人とのエピソードが語られていく物語
場面 視点 会話 可視化された想念が
いつのまにか切り替わっていく文体
脳内映像は俯瞰したりズームアップしたりと
忙しない
けれどそれが時間経過や人々の浮かんでは消えていく想いのリアルそのものだと思いました
故人への想いが強烈に伝わってくる
わけではないけれど
ふと湧き上がってくる思い出で生前の故人を偲ぶ
そこに現れる故人は死んでいない者たちと同じ強さで心のうちに現れていました
人々の想念が移ろっていく様を読みながら
今まで参列してきた葬儀で
死んだらどうなるのだろう
生まれ変わりってあるのかなぁ
などと頭をよぎった事を思い出して
当時よりも濃密な時間を過ごしたような感覚に
なりました
くにちゃんさんからのコメントがきっかけで
出会えた小説です
しみじみと心に響く良い小説でした
くにちゃんさん ありがとうございました
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ある老人のお通夜に集まる親戚一同の
どこにでもあるような風景
親戚といっても知っているような
知らないような
わちゃわちゃとした感じが
すごく共感できた
それぞれの生き方であったり
思いであったり
いろいろな物語があって
いろいろなものが交差する
つい最近読んだ「100年の孤独」のような
一族というとてつもない繋がりを
感じる
そしてまた繋がっていく未来も見える
とかくめんどくさい親戚であっても
大きな繋がりのひとつであって
そこが途切れると自分の存在もまた
なくなってしまう
なんだか壮大な歴史の中で生きている
自分て小さいな‥ -
ある通夜から紡ぎ出す、死んでいない者たちが、故人を送る時に、何を感じるのか。死んでいない者たちの様々なストーリーが紡がれていく。
芥川賞を受賞した著者の代表作です。
登場人物が多いので、頭の中で整理するのが難しかったです。解説で、津村記久子さんが、「こんな大きな小説は読んだことがない。」と、言われていたので、ストーリーの壮大さと、親族間の人間関係にも注目してほしいです。誰にでも訪れる死、死を迎えた人と、迎える人たちの厳かな濃密な1日を、感じてほしいです。 -
久しぶりに大好きな小説を手に取った。3日で2回、1回目は音楽も流さずに気になるラインや凄いと思った箇所に付箋を立てつつ頁に直に書き込みもしながら、2回目はそこに流れている川のことやフィールドレコーディングするキャラクタのことも意識して水の流れる音からはじまるアルバム、吉村弘の「GREEN (SFX version)」を流しながら文章とエピソード、それに音楽が作る流れに乗って一気に読んだ。凄かった。素晴らしかった。どちらの読み方でも楽しんだ。やっぱり好きだな、と改めて思った。
気を抜くと口にしてしまいそうな、個人と世界の間に漂う、思考や記憶の表面に近い浅い部分。それでも普段は見ることの出来ないそれらが、分かったり分からなかったり、信じていたら嘘だったり、繋がったり離れたり、思い思われたりしながら折り重なって、その夜を、世界を、小説をかたち作っていく。そこには、本当に説明の出来ない、する必要のない不可思議な出来事も当然起こる。
思い出の輪郭、確定しているように語られる未来、現実と幻想の間を語りも視点も不確かに移ろいながら、そこにある、あったはずの思考と記憶、感情や振る舞いも心地の良い違和感と一緒に乗せて時間が押し流していく。そこにあるものも世界も理解することは出来ないけれど、それでもこれは小説が書くことの出来る世界のかたちだし、実際の世界もこうやって出来ているはず、と分かった気になれる。数々の人生、それがある世界が、よく読めばはっきりと記録されているのだ。
読むたびに同じようなことを思ったり分かった気になったり、なんかもう少しで分かりそうな気がしていたりするけれど、毎回それは新鮮に感じるし、少しづつだけれど深くなっている、いたら良いなと思う。世界の見方も見え方も、また少し変わった気がした。
高架線を走る電車のシートで読んでいたとき、少し伸びをしようと顔を上げると車窓から見える景色は大きな川を渡るところだった。同じようなシュチュエーションで登場人物が感じる「川が見えた一瞬、心が開けるような、不安や心配が取り払われたような感じ」が分かったような気がした。その後に「もう一度川が見えたら」という彼の願掛けのような思いはこの路線ではあっけなく叶ってしまうことには少し笑った。そんなシンクロしたと思い込みたいシュチュエーション、思いや気持ちとタイミング。そこでこの本を読んでいたことも、全部OKだなと思えた、そんなエピソード。
そもそも、この本をまた読もうと思ったのは「百年の孤独」がきっかけなのだった。2つの小説には構造や描かれ方にも色々と共通するものがあると思うのだけど、多くの血縁のある登場人物とその分からなさについては、10人の孫の関係性を説明された故人の幼馴染の放つ「誰が誰だか全然わかんねえよ」が代弁してくれていた気がしてしまったし、そんな気持ちも持ちながら小説を読んでも良いと思う。だって、世界ってそういうものだから。
小説は世界を分かりやすく書くものというよりも、その分からなさを書くのだと思っているんですよね。解決しない物語。
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この投稿をした後に、急に思い立って向かった先で思いがけず滝口さんの文章についての話が出来たのが嬉しかった。
あの、内と外、思索や記憶がその場の光景、会話にグラデーションしていったり、続いていた思考が最後には別のところに着地したりする、あるいは現実と妄想が判断出来なくなっていく感じには心地良い違和感を感じているけれど、それらは現実の世界では普通に起こっていたりすることでもあって。
考え事や思い出に浸っていても、周りでは世界は進み続けているし、ひとつのことに集中して考えているつもりでも、まったく別のことが思い浮かぶこともある。肉体的な行動と頭のなかで行われていることは必ずしも一致していない。この小説で鉤括弧が使われていないのは、そういう部分を効果的に表現するためかもしれない。これは今思いつきました。
世界をフィクション、小説として書き出すときには整えられて削られてしまうであろうそんな部分をそのまま書こうとしたら、きっとああいう文章になるのだろう、という気がしている。世界を読みやすく”整える“ことがフィクションたらしめる要因のひとつだとしたら、それはリアル過ぎるのかもしれないけれど、そんなリアリティのあるが故に違和感を感じる文章、小説が読みたい。そこにある違和感に心地良さを感じたい。そう思っているのでした。 -
著者は1982年の生まれらしいから、これを書いたのは34歳より前になる。
でも、34歳でこれって、ちょっと枯れすぎてない?w
人って。
生まれて、まずは両親や兄弟。次いで、祖父や祖母。さらに親戚や従兄弟と人間関係を広げていって。
歩き始めると、近所の同年代の子ども、そして幼稚園の友だち。
小学校に入り、学年が上がっていくにしたがって、学校の友だち…、つまり親や従兄弟等の血のつながりのある人間関係より、自分の世界で出会った人間関係のウェイトが高くなっていく。
とはいえ、小学生くらいまでは、まだ血のつながりのある人間関係のウェイトはまだまだ高い。
それがイコール、あるいは自分が出会った世界の人間関係の方が高くなっていくのは、中学の部活の人間関係や親友と呼べる友だちと出会えた時だろう。
高校だと、さらに血のつながった人間関係のウェイトは低くなって。
大概の人は、高校を卒業と同時に自分が出会った世界の人間関係が中心になっていくように思う(今だと、さらにネット上の知り合いというのもあるんだろう)。
従兄弟や親戚等血のつながった人たちと再び交流するようになるのは、それらの関係の人の不幸がきっかけだったりすることが多いのかな?
従兄弟等の結婚等慶事がきっかけになることもあるんだろうけど、従兄弟の年齢が比較的近いことを踏まえると、それらの時というのは、まだ若いから自分が出会った世界の人間関係の方を重視する傾向が強いし。
なにより、仕事や自分の家族、あるいは自分の家族をつくることで忙しいから、慶事がきっかけで従兄弟たちとの交流が再び活発になることは少ないように思う。
一方、不幸だと、自らの齢もそれなりになっていることが普通だから。
その頃だと、学生時代に獲得した人間関係が疎遠になっていたりする反面、仕事上の友人という、多くの場合、お互いに一歩引いた友人関係(出会った時の一歩引いた関係を引きずった人間関係?)のウェイトが高かったりする。
従兄弟等血のつながりのある人たちと再び交流するようになるのは、そんな風に自らの人間関係にちょっとした真空地帯がある状態の時に親戚の不幸がきっかけになることが多いような気がするのだ。
というか、少なくとも自分はそうだった(^^ゞ
つまり、これを読みながらそんなことを考えていたら、著者がこれを書いた34歳頃でこれって、ちょっと早すぎない?と思ってしまったのだ。
34歳だと、このお話の故人の子ども世代の人生のあれやこれやって、まだ実感していないのが普通だろうし。
30代の人生観と、40代のそれは結構違うし。50代では全然違う。
というか、今だと30代で結婚・子どもという人が多いだろうから、30代も前半と後半でかなり違うはずだ。
にもかかわらず、通夜に集まった兄弟とその連れ合い、それらの子(従兄弟たち)や孫、それぞれの人と人のビミョーな関係の綾、あるいはそれに対する思いが巧みに表現されているなぁーと。
読んでいて、思わず「あるあるw」とクスッとしちゃって。
クスッとしちゃってから、あぁー、巧く見てるなぁーって感心しちゃうのだ(^^ゞ
34歳でこれって、ちょっと早すぎない?と思ってしまうのは、読んでいて、なぁ〜んかすごく70年代っぽい!と思ったというのもある。
というのも、読んでいて頭の中に浮かんでくるのが「ウナ・セラ・ディ東京」の、“まちはぁ〜 いつでもぉ〜 うしろぉ姿のぉしあわぁ〜せばかりぃ〜”なんだもん(^^ゞ
ま、「ウナ・セラ・ディ東京」は1964年らしいけどさ(爆)←いい加減w
(ちなみに、自分が「ウナ・セラ・ディ東京」を初めて聴いたのは井上陽水のカバー)
一方で、これはちゃんと今っぽい豊かさも描かれているから、フォークは合わない。
でも、ニューミュージックだと新しすぎて(古すぎて?w)全然合わない。
シティポップなんて問題外!(Jポップだと、次元が3つくらい違うw)
70年代の中ばより、ちょっと前くらい?
そのくらいの歌謡曲が一番合う感じ?
お話の時代も、そのくらいみたいなーw
やっぱり、出てくる親戚が多いからかなぁー?
昔はそれが当たり前だったし。自分の親戚もこんな感じだったけどさ。
今、こんな風に、兄弟どの家も子どもが複数人いる一族ってあまりないように思うんだけど?
「ウナ・セラ・ディ東京」の、“まちはぁ〜 いつでもぉ〜 うしろぉ姿のぉしあわぁ〜せばかりぃ〜”が浮かんじゃったのは、故人の三女(?)の子である知花と美之の“あいつらは、いっそ、お兄ちゃんが、典型的な。新聞やニュースで見るような、引きこもりの青年であってくれればいいんだ”、でもこれは私が考えたことじゃなくて、テレビでそういうことを言っている人がいたのを見たんだけど。(中略)お母さんがああしろこうしろ言う時に、なんでって私が聞いても全然変な、変なっていうか全然納得出来ない理由しか言わなくてね、で、それは私のことじゃなくって、なんかこう、なんていうの、世間? 世間の? 世間の常識? みたいなもの? そういうものを信じて話してるんだなってわかったのね。そういうのって、もう、くっだらないくそったれじゃない。”
“でも、親ってのはたぶんだいたいそういうもんでさ。(中略)世の中、ていうか世界はどこ行ってもくそったればかりで、親だけじゃなくて、みんなくそったればかりで、お前の雑さに乗じて言わせてもらえば、世の中九分九厘くそったれだよ。”という二人語りの後。
その場にいない、故人の長男の息子であり、一族の厄介者とされていた寛の自らの生を振り返る一人語りが始まって。
その中で、寛が祖母(故人の奥さん)の葬式に行くのに電車で向かっている時に車窓を眺めながら、“さっき、川が現れた一瞬、心がぱっと開けるような、不安や心配が取り払われたような感じになった。また川が現れないかと窓の外を見て、もう一度川が見えたら、その瞬間の気持ちを絶対忘れないようにして、酒もやめて、ちゃんと生活する。仕事もする。家族を幸せにする。”と思ったのに川は現れなかったエピソードが語られる。
その後、今度は故人(通夜の主である祖父)と奥さんの二人語りが始まるのだが。
その中にある、“お前の頼りにならなくちゃいけない。本当はそんなに強いわけじゃないのに、そうやって思っていると、だんだんそういう風に、頼りになれているみたいに、自分が強いと思えてくるもんだから。”、“それでいいじゃない。じゅうぶん。”という5人(2人→1人→2人)の心模様に、人の後ろ姿が思い浮かんじゃうからだろう。
この知花と美之らの子世代、寛らの親世代、故人夫婦の祖父祖母世代、3世代の現在の人生観や世界観(自分が見知っている世界の範囲)や価値観を、3世代順番に書くことで、それらが巧ぁ〜く表現されているのみならず。
親戚の厄介者とされている寛も、その子たちからは「子どもには優しい父親だった」と言われているように、著者のそれら三世代への優しい眼差しが感じられて、ここは見事だなぁーと思った。
“まちはぁ〜 いつでもぉ〜 うしろぉ姿のぉしあわぁ〜せばかりぃ〜”
誰も、幸せなばかりじゃない。
寛なんて、結局家族に合わせる顔がなくなって、子どもを捨てて失踪してしまったくらいだ。
故人とその奥さんも、生前はそのことで心を痛めていたはずだ。
そんなみんなだけど、なんとか踏ん張って毎日を生きている(踏ん張って生きてきた)。
つまり、街を往く人々の後ろ姿の幸せというのは、知花や美之、寛、そして故人である祖父や祖母の後ろ姿を、彼ら彼女らを知らない赤の他人が何も知らずに羨んでいる風景でしかないんだろう。
自分も赤の他人からそう見られていると気づかずに。
森見登美彦の『きつねのはなし』の4話目「水神」も通夜に集まった親戚のお話だったけど。
これも、どこかそれに似た感触がある。
ただ、あっちは、やっぱり京都の夜なのに対して、こっちは都心から電車に乗ってウン十分の郊外の夜。
その特別っぽくないところがいいんだよね。
そこは郊外といっても、家が立ち並び碁盤の目のような道が通る住宅街ではなくて。
かつて農村だった頃の面影が多く残る、田んぼや畑、あるいは草ボウボウの空き地の中に住宅が点在しているような場所。
そんな中に道が通っていて、夜だから点々と街灯が灯っている。
「水神」の舞台は京都だから、たぶんこのお話の舞台より家が立ち並ぶところなんだろうけど、「水神」の夜の方が闇が深い気がする。
というより、こっちの夜は暗いと言っても、普通の夜の暗さのイメージと言ったほうがいいのかな?
ただ、マンションやアパートの建ち並ぶ郊外ではないから、夜の暗さが濃くて。かつ、夜の風景がその暗さに沈んだ感じなんだろう。
そんな夜の風景の中を通る道と、そこに点々と灯っている街灯の静けさ。
でも、そこはなんの変哲もない普通の夜だから、何が起こるわけもなく(ちょっとだけ変なことが起きるw)。
通夜に集まった一同に、夜は等しく優しい。
ホント、それだけのお話なんだけど、なぁ〜んかしみじみしちゃう(^^ゞ
そこがよかった。
「作家の読書道」を見ると、著者は子どもの頃、車好きで。中古車屋のチラシを見て、車の名前を全部おぼえてしまうような子どもだったらしい。
寝る前に父親がお話をしてくれていたらしいのだが、車好きだったこともあって。
例えば桃太郎のお話をしてもらうなら、「カローラに乗って犬がやってきて」といった話にしてもらってよろこんでいたということだけど、それって、実はそれなりの創作能力がないとそういうアレンジって出来ないんじゃないだろうか?
そう考えると、著者の創作の能力や意欲というのは父親から受け継いだものなのかな?なんて思った。
あと、ウィキペディアには、著者の奥さんはブックデザイナーで。
“フリーペーパーを書いていた頃に文章に「ひと読み惚れ」されたことで知り合った”とあるんだけど、「ひと読み惚れ」される文章ってどんななんだろう?
ていうか、文章を読んで「ひと読み惚れ」する人って、どんな人なんだろう? -
亡くなった故人を偲ぶ為、通夜に集まった親戚のそれぞれ。故人と関わり、今なお生きている者達、生きていく者達との回想録。挽歌。登場人物が多く、認識するのが大変だった。まともと言われる者とはみ出し者、果たしてその線引きはどこで誰の基準で判断されるのか?それぞれの事情と語られることのなかった事実。どこにでもありそうで、どこにでもいる者達のどこにでもない物語。
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行間に、自分の記憶が浮き上がってくる
今はもう会えない祖父との二人だけの思い出、恋人と歩いた二人きりの道、そういうものはどちらかがいなくなったあとどこにいってしまうのだろうと考えて宇宙の塵になってしまうようでとても悲しくて涙が止まらなくなった日のことを思い出す
それぞれの人との記憶と、その周辺のためらい
わたしが大切にしたいと思っていたのにいつのまにか忘れてしまっているためらいのひとときがここには記されている、ように思う
今の自分をとりまく環境によって、読むたびに印象が変わりそう -
こう言っては失礼だが、、すごく面白い訳じゃないけど、何となく心に残る話だった。
葬式で身内が集まって、不謹慎だかどことなくお祭り感のある空気が絶妙。
ただ、登場人物が多すぎて、よく理解できなかった。相関図書けば良いっちゃ良いんだけど、サボった。
同時収録されてる「夜曲」が良かった。本編に深みが出ている。 -
表題作は芥川賞受賞作品
それともう1短編収録
表題作は、死んだ男の通夜に集まった親族たちの
一夜のお話
男の子供たちそのまた子供たちと登場人物は多く
とても把握しきれませんでした
なんてことないお話と思っていますがでもそこに
何かを感じることができるのかもしれない
短編はママさんがやってる飲み屋のお話
ママの過去がちょっと語られるがもっと
深堀してほしかったかも -
-
死んで、居ない者 と 死んでいない=生者 のダブルミーニングのタイトルがぴったりだなぁと思った。
大往生し子や孫が多かったある老人の通夜の後。身内だけが居残っていて、特に悲しみも感傷もなく飲んだり会話したりしている。
その光景は自分の記憶のようにはっきりと目に浮かぶ。
何も起きないがところどころにわずかなささくれがある。
終始まったくシチュエーションは変わらず時間もほとんど進まない。
なんというか、不思議な読後感だった。
同時収録の「夜曲」もとあるスナックのとある時間帯で終始し、ところどころにわずかなささくれがある。この作家のスタイルなのだろう。 -
一人の老人が亡くなりその葬儀に集まった親族達の様子を、それぞれの視点で何気ない一言や頭の中で考えていることが次々と描写されていく短編小説。
登場人物達自身も、葬式の場で久しぶりに会う面々でお互いに「誰の家族か、何て名前だったか」という状態のため、次々と視点の主が変わるので「今、誰が話の主なのか」が時折混乱してくる。しかしそこで描写される情景は、何気ない過去の記憶(なのになぜか良く覚えている)に飛んだり、発した言葉の一瞬のうちによぎった思いだったりが巧く表現されていて、「こんな感覚、たまにあるよなあ」と思わされる。
特に大きな事件が起こるわけでもない。全体的にゆったりと時が流れて行く話だが、そんな「たまにある感覚」を妙に楽しめる小説だった。 -
初めての滝口悠生。芥川賞受賞作なことは知らずに手に取った。
最初は、とにかく登場人物が多いことと通夜に集まったそれぞれの視点や記憶を行き来する書き方に戸惑い、また各人のエピソードが延々続くのに正直少し疲れた。ただ途中で、「この作品は誰がこう考えてる、どういう境遇にいる、ということが物語の筋に関係するものではないため、把握しなくていいんだ」と理解してからは、その渾然とした印象も含めて不思議な味わいを楽しんだ。
その場に集まった人々にとっての、人生の中でのたった一夜の話で、しかもそれぞれにおいてそこまで重要ではない一夜。「親戚」という括りで繋がっているだけで普段はそこまでやり取りをしない人々は、葬式が終わればまたそれぞれの人生に戻っていって、この一夜も大した意味を持たずに日々に埋もれていくんだろう。
ただ一方で本当の意味での「何でもない日」では決してなくて、その後の誰かの人生を変えるようなことはなくても、連なる日々の中の、「"何か"のあった一日」だったんだろうなと思う。
個人的に、冒頭の「押し寄せてきては引き、また押し寄せてくるそれぞれの悲しみも~」の部分、方丈記や奥の細道のような古典文学の入りを思い出して好きだ。 -
なんとも言えない寂しさが残る感じ。
生がある者としてみんな生きていく。 -
文芸春秋
滝口悠生 「死んでいない者」
芥川賞受賞作を読んでみた
葬祭の場で起きる 故人と親戚の追憶の物語。死から生を問うているようにも読めるし、親戚の滑稽さとしても読める
主人公は誰なのか、話し手は誰なのか 不明のまま、親戚(死んでいない者)が 次から次と出てきて 故人との記憶をたどる展開。私には読みにくいが、玄人好みなのかもしれない
最初の文章〜斎場からお通夜に至る悲しみの感情の変化の描写は見事だと思う。親戚たちについて「血のつながっていない配偶者たちもなぜかどこか似ている」というのも面白い
自分の死について、それがなんなのかさっぱりわからないまま、刻々それに近づいている、あるいは近づかれている〜生きるとは結局その渦中にある連続
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絶妙である。
お祖父さんが死んで、その葬式の一夜の話なのだが、その子、孫、ひ孫の様子や側面を少しずつ描いていき、一族の全体像が見えてくる。
みんな本当は全然別の考えを持つ他人なのに、家族という雑な枠組みで集まってくる異様さ。
葬式という厳粛な場だけど、非日常の祝祭感もある。
爽やかさもある。
こういう面白さがほんわか感じられるのが良い。 -
芥川賞受賞作品かー。
と思いながら、手に取る。
大体の読後感の予想をして、買う(笑)
曾祖父の通夜に、親族一同が集結したり、集結できない人がいたり。
たくさんの「身内」の中で、わやわやと気の置けない話が始まる。
私はこういう「身内感」が苦手である。とても。
踏み込まれ方とか、分かっていないのに分かったふりをして物語を作っていくのとか。
だから、プレハブ小屋から出てこない美之に共感するし、身内感の薄いダニエルを追ってしまう。
でも、苦手であるということに、きっと何らかの力があるんだろうなあ、とも思う。
お正月とか、お盆とか、冠婚葬祭とか。
そういう時に、一族と呼ばれる人々が集まって、わやわやとする。
そのことで、自分の中にひとつカテゴリーが出来るというか、まあ、上手く言えないんだけど。
津村記久子は「とても大きな小説」と評しているけれど、結局のところ、その大きさが私には気持ち悪さなんだろう。
死んではいない者なのか。
死んで、いない者なのか。
曾祖父は、この物語をどう聴いているのかな。 -
やっぱり振り回される
滝口さんやめてよーって
振り回されながら喜ぶわたし -
154回芥川賞受賞作。
個人となった老人の掃除機に3代にわたる親族があつまる。その通夜の1日を描いた表題作。個人の5人の子供。10人の孫、曾孫と、登場人物が多いので、少しづつ語られる関係や年齢をメモしながら読んだ。学校をリタイヤして故人と同居していた義之、妹の知花の関係。通夜に備えてみんなで風呂屋に繰り出したり、酒盛りをする未成年たち。などなど、通夜の特有の空気感がよく表現されている。意外によかった。
5人兄弟の配偶者のうち、保雄の妻だけが出てこなかったようにおもう。
2篇目の「に登場する長谷川は、表題作のはっちゃん名のか? -
ある老人の通夜に集ったり集わなかったりする親族たちの、過去と現在と未来が、混線しながら描かれた短編。
何か事件が起きるわけでもなく、これといった盛り上がりのない話なんだけど、長編小説を読んだような読後感。
この本が好きな人におすすめの本
著者プロフィール
滝口悠生の作品
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感想 :

3年前にこの本を読んで、「やっぱり芥川賞の作品だよなぁ すごいなぁ」と心に残っています。今、自分の...
3年前にこの本を読んで、「やっぱり芥川賞の作品だよなぁ すごいなぁ」と心に残っています。今、自分のレビューを見返したら、1文しか書いてなくて あれ〜 でした 笑
rainさんのレビューで、思い出すことができました。ありがとうございます♪
去年読んだ『たのしい保育園』、作風が違ったので、ちょっとビックリしました。作家さんて、すごいですね!
芥川賞の小説って意識して読んだことは
無いですがこれを機会に
他の芥川賞小説も読んでみたくなりました!
芥川賞の小説って意識して読んだことは
無いですがこれを機会に
他の芥川賞小説も読んでみたくなりました!