勉強の哲学 来たるべきバカのために 増補版 (文春文庫)

著者 :
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (254ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167914639

作品紹介・あらすじ

勉強ができるようになるためには、変身が必要だ。勉強とは、かつての自分を失うことである。深い勉強とは、恐るべき変身に身を投じることであり、それは恐るべき快楽に身を浸すことである。そして何か新しい生き方を求めるときが、勉強に取り組む最高のチャンスとなる。日本の思想界をリードする気鋭の哲学者が、独学で勉強するための方法論を追究した本格的勉強論!文庫本書き下ろしの「補章」が加わった完全版。

感想・レビュー・書評

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  • 勉強の哲学

    勉強とは自己破壊であり、勉強をするとまずキモくなるという一節は面白かった。
    キャッチ―なフレーズで誘い込み、勉強の本質に迫る面白い本。

    勉強の方法論としては、物事を徹底的に疑うアイロニーと可能性の地平を広げるユーモアがある。これらを行っていくと、周囲のノリから解放されると共に、勉強している人特有の「キモさ」が出てくる。
    芸能人の不倫について話している時に「そもそも、不倫というのは悪なのか」「悪とはなんなのか」という際限ない疑問を提示してしまうのことをアイロニーを本書では呼んでいるが、簡単に言うとこれは結構キモい。周囲からすると、こいつめんどくさいと一瞬で敬遠されるような発言であろう。会話のコードを越えて、脱してしまうことで、コード進行を妨害する所謂「KY発言」(死語?)はアイロニーである。そして、ユーモアはというと、「不倫ってアートだよね?」というような事を言って、議論を全く別の地平に飛ばしてしまう、コードの複線化・拡張の役割をする。これ一種のKY発言であり、キモい。
    キモいという表現は、筆者が良く使っているが、物事を深く考える時、このキモさ無しでは不可能な要素であり、やはり勉強するためには不可欠な過程であるゆえに、肯定されるべきものではある。
    私の好きなオードリーの若林さんは、結構アイロニカルなことをラジオやエッセイに書いてあるが、個人的にはかなり好きだし、大半の人が意識しているコードについて一段異なる目線は新鮮でかつ面白い。また、千鳥のノブさんのツッコミ(本書でユーモア=ボケとしているが、ノブさんのツッコミは面白すぎるのである種ボケカウントもできるはず、、)も、一種のユーモアを感じる。
    脱線したが、勉強を始めることは、まず物事をアイロニーとユーモアで捉え、コードの絶対性を客観視することから始まる。アイロニーとユーモアは無限であり、際限がない。そうして、そのきりのなさに対して、一旦「中断」しつつ、続ける。そうしていると、勉強は享楽になり、言葉や思考を自己目的的に使うフェーズが来る。これを筆者はダンス的になると表現しているが、個人的なイメージとしてはジャズだ。コードから逸脱し、即興的に音を連ねていく、これは音楽の出来ない私には想像できないが、ジャズアーティストの悦に浸った表情を見るに、夢見心地の悦楽なのだろう。
     こうした、周囲のノリに同調するバカ⇒コードに疑念を持ち、それを発言してしまう小賢しいキモい奴⇒即興的・ダンス的・自己目的的に思考を愉しむ「来るべきバカ」という経緯をたどり、人は勉強の際限なきミステリーに螺旋的にめり込んでいく。この様子を、筋トレに例えて、増量期に筋肉(知)と脂肪(キモさ)を同時進行で増やし、減量期に脂肪(キモさ)を落としていくというプロセスに似ているとしていたのは個人的には非常に解り易かった。
     この一連のバカ⇒キモ⇒来るべきバカという流れはいささかニーチェっぽさがある。ニーチェは周囲のノリに同調しかできない人間を畜群と呼び、自ら価値観というフレームワークを生み出せる人間を超人と呼ぶ。人間とは一本の綱渡りの綱のようなもので、この畜群と超人の間にいて、「さあ、キミはどっちになりたいんだい?」とニーチェは呼び掛けるのだが、このニーチェのフレームワークに今回の勉強の話は似ている。ただ、筆者が異なるのは、「超人」とか「畜群をバカにする態度」は「キモい」という客観的というか平常の感覚を導入したことにあると思う。敢えて超人などと言わず、来るべき「バカ」と表現しているのは、学問という際限のない奥行きに対するリスペクトなのだろう。
    (この「来るべき」という言葉もいささかニーチェっぽさがあるのだが)
    しかし、人間が成長するにあたり、「ダンシング☆超人」を目指さなければないということはよくわかった。

  • 勉強することは、自己破壊である。これまでのノリ;コードから自由になる。
    勉強することは、獲得することではなく、喪失することだ。昔の自分でなくなる。
    そして、勉強することで、「来るべきバカ」になるのだという。
    著者は、へそ曲がりなのだろう。「来るべき賢者」というのが恥ずかしいのだろう。
    まぁ。あとがきに、バカには、特異性という意味が残響していると言っているのは、照れ隠しか。
    よく私は、「あーぁ。今日も勉弱した。なかなか勉強できない」などと言っていた。
    著者が言うように「変身するような勉強」と言った意味で勉強はしていない。変身も自己破壊も起きていない。そんなに簡単には、変われないのだ。
    「勉強によって自由になるとは、キモい人になることである」と言う。
    要するにノリが悪くなるのだ。ノリが悪くなって、さらに突き進んでいく。
    情報刺激が多い現代、わかりやすく、質がいい情報がたくさんあり、基本は本にあるというのは納得だ。インターネット上では、やはりフェイクも多いし、軽い情報も多い。
    その中で、勉強を有限化することが大切だという。深追いのしすぎと目移りの誘惑に負ける。
    環境概念は、「ある範囲において、他者との関係に入った状態」
    環境に依存して生きており、こうするもんだという暗黙の了承がある。
    環境には、目標があり、目的地と共同的な方向性がある。
    他者とは、自分自身でないもの全てであり、生とは、他者に関わることだという。
    そして、自分とは、他者によって構築されたものである。
    言葉は、使われて初めて意味を持ち、辞典とは人々が言葉をどう使ってきたかの歴史書。
    言語を通して、私たちは他者に乗っ取られている。言葉偏重の人という言葉があり、納得した。
    言語は、人間のリモコンであり、言語と現実を結びつけて、思考し行動する。
    道具的な言語の使い方と、玩具的言語の使い方がある。玩具的で自己目的な言葉の使い方に習熟する。言語は、架空の世界を作ることができる。例えば、りんごはクジラだ。
    例として、不倫は悪い。から、良い不倫があるという論議を積み重ねること自体、「不倫」という言葉自体が、もう悪いのだから、無理があるなぁ。昔は不倫と言わず、浮気と言ったり、芸人や歌舞伎の世界みたいに、芸の肥やしと言っちゃったりするわけで、閉じられた言葉の空間で論議しているのがちょっとこの男は、切ないなぁ。

    ツッコミとは、ちゃぶ台返し。ボケとは、論点ずらし。
    それをツッコミ=アイロニー。ボケ=ユーモアという風に置き換えるけど、だいぶちゃうだろうと思う。やはり、状況というか環境が違いすぎる。論理的に論理飛躍させる。ちょっと無理やり感があって、なんとなく、若いなぁと感じてしまう。なんか、自分の行きたいところに、無理やり行かせようとする。結局「我田引水」哲学の類なのだろうか。ツッコミとアイロニーを一緒にすることで、最初からアイロニーを論じたかったのだというあざとささえも見せる。
    アイロニーは根拠を疑うこと。ユーモアは見方を変えることだという。
    ツッコミは根拠を疑うこと、ボケは見方を変えることと言い換えると随分と違和感があるなぁ。
    著者は「ユーモアの過剰とは、コード変換による脱コード化である。この帰結は、意味飽和と呼ぶ。
    意味飽和は、あらゆる言葉が無意味になる。ユーモアの極限は、意味飽和のナンセンスである。」という。もう言っていることが、よくわからない。アタマが飽和状態で受け入れられない。
    どうも著者は、空気が読めず、知識をひけらかすことで、嫌われるタイプなので、それを反転させようと努力しているようだ。無駄なあがきだ。とにかく、これまでの要約してきたことが、「原理論」らしい。

    言語偏重になり、自分の享楽を活用し、有限性を意識する勉強。
    本を読んでも、完璧に読むことはできない。一字一字全て読んでいるかは確かではないし、通読しても覚えていない。読書とは、不完全なものである。読書において本質的なのは、本の位置付けをすることです。自分に引きつけて理解しようとしないことも大切。というが、自分に引き寄せなければ、面白くない。自分の感覚を拡張するとか。難しい本を読もうとするのは、無理に納得しようとするからであるというのは、賛成。わからなければ、飛ばしてもいい。いつかわかる時が来るかもしれない。
    現状把握をメタ認識で行う。大きな構造的問題の中にある。
    著者の興味があったのが「多様性、複数性、マイナー性」にあったという。どう時代と欲望論的に結びつけるかというのも必要だ。享楽的こだわりが、自分らしさを発揮できる。
    難しかったけど、最後まで読めたというのは、著者がえらいのかもしれない。
    何れにしても、人間は死ぬまで勉強するわけだから、常に勉強だね。

  • これを機に、自分の中の無意味・雑念をきらめかせるために勉強ノートをつけ始めました。

    【メモ】
    酒井敏著『京大的アホがなぜ必要か』のアホなこと・無駄なこと に関する記述と、分野は違えどどこか似た主張だなと思い、これが本書で言う "きらめき"なのかと目から鱗でした。

  • 無理して周りのノリに合わせない。その根拠は?の問いを繰り返すと非合理に行き着く。それではきりがないので、視点を横にずらして、別の見方で考える。ずらし続けてもきりがないので、しっくりくるところで仮固定する。つまり常に変化可能な状態を保っておくこと。いつも相対的に物事をみて、変化し続けられる状態であることなのかと思いました。

  • 社会問題を知れば知るほど、他の問題にも絡み合ってる複雑な状況を知って、情報の刺激を受けすぎて、何からやればいいのか、何がしたいのかわからなくなってしまった時に出会った本。

    深く勉強する=ノリが悪くなる
    その逆=周りに合わせて動く生き方

    これにすごく共感していて、一年前の自分が読んでも分からなかったかもしれない。でも「ノリが悪くなる段階を通って新しいノリに変身するという時間がかかる勉強法」を経て、①みんなでワイワイやれる自分、から、②昔の自分がいなくなるという試練を経験した。驚くほどに辛かったけど、③その先で来たるべきバカに変身する。まだしてないけど、、したい!だから③に向かうことを決意。

    この本いわく、勉強≠同じままの自分+新しいスキル。むしろ、勉強=自分の破壊=自由になるため、今までのノリから解放すること

    「日本社会は同調圧力が強くて、ノリが悪い者は排除され、出る杭は打たれる。その上限界を破って自分の新しい可能性を開くため、今までできてたことができなくなる=能力の損失が起こるかもしれない。それでも勉強するのか?」といったような問いに対して、どう考えて、どう決断していくか、、

    でも勉強したい、③に行きたい!出会えてよかった本!

  • 勉強とは過去の自分の自己破壊である、新しい自分を作り出すイメージを持てた気がする。勉強に向かう姿勢のデトックスになる。

  • タイトルに惹かれて購入。「深く」勉強するにはどうしたらいいのか?独学で勉強するための技術を解りやすく解説した本。とても面白く読みました。第4章の「勉強を有限化する技術」は実践編として大いに役立ちそう。巻末にある補章「意味から形へ――楽しい暮らしのために」は読んでいて創作活動において目から鱗か落ちたような気分です。私の中にあった上手く言語化できない部分を語っていてストンと腑に落ちました。

  • 著者の「動きすぎてはいけない」の実践編とも言える書。現在に著書が対峙する為の理論書が「動きすぎてはいけない」なら、本書はそれを元に具体的にどうアクションするのかを「勉強」をテーマに展開している。
    が、議論はかなり理念的なもので所謂、ハウツーではない。かといって、かつての浅田彰の「逃走論」みたいなのかなぁと思ったが、さにあらず。抽象的な思想を背景に現実的な実践方法を濃度を希釈することなく語ってみせている。寧ろ、勉強を題材に言語論を展開してみせたという感じ。決断主義を回避する為のユーモアのコード変換(の潜在的多義性)がクリプキのクワス問題からの引用とは!言語の相関主義的議論を踏まえた上で、思弁的実在論のモノ自体性も言語の物質性、美学性を語る上で織り込んでいるあたりは興味深い。DGというより、分析哲学的、思弁的実在論の言語感に依拠した原理論かな。アイロニー(ツッコミ)の現実界そのものの希求、根拠づけへの意思が決断主義主義へ逢着するいうのは、柄谷行人が「建築への意志」いうて独我論の外部へいかにして出るか?というので論じてたやつやな。彼もそのあとやっぱ、ウィトゲンシュタイン、クリプキを論じとったな。元々、このへんてH・アルバートとかアーペルとかの批判的合理主義が主題化したんとちゃうかったかな。ドゥルーズや思弁的実在論を足掛かりに何とか現在における倫理を描き出そうと格闘している点はいかにも哲学書なんだが、やはりこうした議論に今いかほどの価値があるのか悩ましいところだなと感じる。議論としてはかなり道徳論、美学論に近い。カントの第二批判みたいな感じ。そもそも、「全体性に回収されること」がなぜそんなに忌避されないといけないことなのか、当たり前に前提されているがこの辺りは一般的な読者からはわかりにくい。ダスマンとしての幸福に浸ることだって別にいいんじゃね?と思う。

  • 概要

    ・勉強とは、現在のコード(環境における共通理解)から別のコードへ乗り移って、言語自体を見ること
    ・思考にはアイロニーとユーモアがある。
    アイロニーは根拠を疑って真理を目指すもの。
    ユーモアとは根拠を疑うことはせず、見方を多様化する。
    アイロニーを追い続けると、「世界の真理」、「世界の絶対的根拠」を求めることになり、これは存在しないため実現不可能である。本書ではアイロニーをやりすぎず、ユーモアに折り返すことを推奨している。
    ユーモアも行きすぎると無限に発散してしまう。これを仮固定するのが「享楽的こだわり」。
    ・勉強の基本姿勢は比較を続ける途中で中断し、ベターな結論を仮固定し、また比較を再開する

    ・実践編。まず入門書を複数比較し、大枠を知る。
    その後、教科書や基本書で詳細を確認(完璧な通読はできなくてよい)
    ・勉強の本体は、信頼できる文献を読むことであることから、勉強こ1番底に置くべきは、歴史ある学問(哲学、歴史学、数学、法学、生物学、法学など)であり、その上に現代的・現場的な専門分野を載せる

  • ハウツー本かと思ったが、かなり哲学的な文脈が多い。でも勉強の本質を捉えていると思う。

    「勉強とは自己破壊である」こと、「有限性がある」ことがすごく印象に残っている。学校では「勉強すること社会での成功が確約される」といったこと刷り込まれ、常に将来のためだと言い聞かせられた。

    振り返ってみると、本書でいうところの「勉強」はできていなかったし、勉強していたとしても思考は完全にとまっていたのかもしれない。

    学生生活も終盤を迎えており、ちゃんと学問に向き合える時間はあとわずか。しかし大人になっても勉強が大事というように、今後も「勉強」は続けていくと思う。自分なりに勉強に向き合っていきたい。

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著者プロフィール

千葉雅也(ちば まさや)
1978年、栃木県生まれの研究者。専攻は哲学、表象文化論。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。代表作に2013年第4回紀伊國屋じんぶん大賞受賞作『動きすぎてはいけない』、ベストセラーになった『勉強の哲学』などがある。『アメリカ紀行』などエッセイも執筆。『新潮』2019年9月号に、初小説「デッドライン」を掲載。

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