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Amazon.co.jp ・本 (256ページ) / ISBN・EAN: 9784167914639
作品紹介・あらすじ
勉強ができるようになるためには、変身が必要だ。
勉強とは、かつての自分を失うことである。
深い勉強とは、恐るべき変身に身を投じることであり、
それは恐るべき快楽に身を浸すことである。
そして何か新しい生き方を求めるときが、
勉強に取り組む最高のチャンスとなる。
日本の思想界をリードする気鋭の哲学者が、
独学で勉強するための方法論を追究した本格的勉強論!
文庫本書き下ろしの「補章」が加わった完全版。
みんなの感想まとめ
勉強とは自己を破壊し、新たな自分を創造するプロセスであるという視点が、本書の核心を成しています。著者は、周囲の価値観に縛られた自分を壊すことで、より多様な視点や自由な思考を得ることができると説きます。...
感想・レビュー・書評
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『勉強の哲学』は、勉強とは自己破壊である、それは、周りの環境から強いられた価値観によって固まってしまった自分を破壊して新たな自分になろうという自分の作り直しです。ものの見方が狭かった、好き嫌いも硬直的で融通が利かない自分を壊して、もっといろいろなものを肯定的に面白がれるようになる、世界をより面白がれるよう言語それ自体として操作する意識を高める。言語の「道具的使用」から「玩具的使用」へ。言葉をおもちゃのように操作し、自分のあり方の多様な可能性を、環境の求めから離れて自由に考えられることが勉強の方向である。
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ごくごく親しい友人間で今までやってきたことを肯定されたような、行為を上手く言語化されたような、そんな感覚を持つ。
文学系の学生界隈では、定義を定めたり根元に立ち返りたくなったりすることが多くてこれは結構皆そうなんじゃないかなと思うが、凡例を出しまくって更にその凡例をあげつらって話を広げていくので「これ何の話だっけ?」となることが往々にしてある。私鉄の地図記号の、横に一本通っている道から、縦の線を無数に引き伸ばすような感じ。際限がないんだよな、あれ。あと、そう、ハシゴを外すといおうか、JRに乗り換えるならまだしもタクシーとかバスとか自転車とか徒歩で行くとか宇宙浮遊してみる、とかの類の会話の飛躍。
だけどそれがたまらなく楽しい。それは、この本でいう「空気の読めない」ツッコミではなく、皆が会話自体を目的として言葉を玩具として遊べているからだと思う。同じサークル内でも学部がバラバラだったり、理系の学部だったり、男だけだったりすると、ちょっと変わってくるというか、その展開をやってしまうとちょっとした疎外感を持ったりする。それで関係が悪くなるとかではない。そこは「ある程度完成された関係」であるからなせる技なのかと思う。
そうなのだ。個人的には会話の中で、常に「大枠を外したい」という欲望がある。そして、それを試してみてノってくれるような対象に対して心を心から開けるように思える。自然とそうなる。選民的な言い方で恐縮なのだが会話を「この次元まで持ってこれる」間柄とでもいおうか、やはり大学時代の旧友同士であれば結構成り立つ。バックボーンが似通っていることが大きい。これを仕事柄、初対面で出会った人にこうした平衡感覚を持つ人に出会えると、仕事関係なく話をしたくなるしプライベートでも付き合いたくなる。
よりこうした三次元に無尽蔵に伸びていくような会話を色んな人としてみたい。そういう人々は必ず気づきや学びを与えてくれる存在であると信じる。良くも悪くも自分自身に影響を与えてくれる。その摩擦が勉強、学びに繋がるんだと思う。
改めて大学時代には友人に恵まれたと思っている。こうした今回言語化され解り易く整理された内容を自然に続けられているから、再会した時にまた新たな気づきを得られるような、飽きが来ないようなスルメ関係を気付けているんだなお思った。
p.s.付記がマジで専門的過ぎて全く入ってこなかった。 -
この本を選んだ理由
それは、「勉強の哲学とは何か?」と問われたとき、私にはきちんと答える自信がなかったからだ。
だからこそ、「あっ、これは自分の知らないことが知れるかもしれない」という期待を込めて、この本を手に取った。
読んでみて印象に残ったのは、「バカになる」ため、つまり“脳汁ダダ漏れ”の状態をつくるために必要なことについて、筆者が語っていた点だ。
それは、いわゆる安定した雰囲気や価値観、暗黙の了解といったものを破壊し、その場から“浮く”ことが必要だという主張だった。
そうすることで発想が豊かになり、さまざまな方向に矢印を向けられるようになり、結果として「勉強=成長」を実現できるのだという。
ただし、筆者はその“浮いた状態”にもブレーキをかけつつ、うまく制御していくことの重要性も同時に説いていた。 -
勉強の仕方、ではないかも。
しかし私には為になった。
考えかたもそうだし自他というか
環境(自身の周りの雰囲気)を
少し分析しやすくなった気がした。
そのおかげで冷静さが身に付いた。
よく考える。
ということを大切にしたいと思う。 -
哲学というものについて、これまでなんとなく興味はあったけど哲学書を読むというところには至らなかった。
これは哲学書なのか、と言われたらどうなのかはわからないが、哲学者が書いた本なのできっとそうなのだろう。
千葉雅也さんを知ったのは坂口恭平さんとの対談をyoutubeで見てから。何度も書籍は書店で見かけていたが、難しそうだと敬遠していた。
この本で語られる、「勉強とは自己破壊である」という事について、深く納得させられた。
自分も数年前に断酒をし、たくさん本を読むようになった。
それによって、今まとは明らかに違う自分になっていった。そして、それに伴う寂しさがあった。
これについてモヤモヤしていたが、物凄くシンプルに「ノリ」が変わったからだと言われて腑に落ちた。
勉強し、新たな知識を得ることで今までの自分が破壊され、新たなノリが自分の中で生まれ、今まで乗っていたものにノレなくなる。
こんなにもシンプルな事が深く深く解説されていた。
これを機に他の哲学書を読んだり哲学史について学び始めた。
また自分の中の「ノリ」が更新されているのを実感している。 -
勉強の哲学
勉強とは自己破壊であり、勉強をするとまずキモくなるという一節は面白かった。
キャッチ―なフレーズで誘い込み、勉強の本質に迫る面白い本。
勉強の方法論としては、物事を徹底的に疑うアイロニーと可能性の地平を広げるユーモアがある。これらを行っていくと、周囲のノリから解放されると共に、勉強している人特有の「キモさ」が出てくる。
芸能人の不倫について話している時に「そもそも、不倫というのは悪なのか」「悪とはなんなのか」という際限ない疑問を提示してしまうのことをアイロニーを本書では呼んでいるが、簡単に言うとこれは結構キモい。周囲からすると、こいつめんどくさいと一瞬で敬遠されるような発言であろう。会話のコードを越えて、脱してしまうことで、コード進行を妨害する所謂「KY発言」(死語?)はアイロニーである。そして、ユーモアはというと、「不倫ってアートだよね?」というような事を言って、議論を全く別の地平に飛ばしてしまう、コードの複線化・拡張の役割をする。これ一種のKY発言であり、キモい。
キモいという表現は、筆者が良く使っているが、物事を深く考える時、このキモさ無しでは不可能な要素であり、やはり勉強するためには不可欠な過程であるゆえに、肯定されるべきものではある。
私の好きなオードリーの若林さんは、結構アイロニカルなことをラジオやエッセイに書いてあるが、個人的にはかなり好きだし、大半の人が意識しているコードについて一段異なる目線は新鮮でかつ面白い。また、千鳥のノブさんのツッコミ(本書でユーモア=ボケとしているが、ノブさんのツッコミは面白すぎるのである種ボケカウントもできるはず、、)も、一種のユーモアを感じる。
脱線したが、勉強を始めることは、まず物事をアイロニーとユーモアで捉え、コードの絶対性を客観視することから始まる。アイロニーとユーモアは無限であり、際限がない。そうして、そのきりのなさに対して、一旦「中断」しつつ、続ける。そうしていると、勉強は享楽になり、言葉や思考を自己目的的に使うフェーズが来る。これを筆者はダンス的になると表現しているが、個人的なイメージとしてはジャズだ。コードから逸脱し、即興的に音を連ねていく、これは音楽の出来ない私には想像できないが、ジャズアーティストの悦に浸った表情を見るに、夢見心地の悦楽なのだろう。
こうした、周囲のノリに同調するバカ⇒コードに疑念を持ち、それを発言してしまう小賢しいキモい奴⇒即興的・ダンス的・自己目的的に思考を愉しむ「来るべきバカ」という経緯をたどり、人は勉強の際限なきミステリーに螺旋的にめり込んでいく。この様子を、筋トレに例えて、増量期に筋肉(知)と脂肪(キモさ)を同時進行で増やし、減量期に脂肪(キモさ)を落としていくというプロセスに似ているとしていたのは個人的には非常に解り易かった。
この一連のバカ⇒キモ⇒来るべきバカという流れはいささかニーチェっぽさがある。ニーチェは周囲のノリに同調しかできない人間を畜群と呼び、自ら価値観というフレームワークを生み出せる人間を超人と呼ぶ。人間とは一本の綱渡りの綱のようなもので、この畜群と超人の間にいて、「さあ、キミはどっちになりたいんだい?」とニーチェは呼び掛けるのだが、このニーチェのフレームワークに今回の勉強の話は似ている。ただ、筆者が異なるのは、「超人」とか「畜群をバカにする態度」は「キモい」という客観的というか平常の感覚を導入したことにあると思う。敢えて超人などと言わず、来るべき「バカ」と表現しているのは、学問という際限のない奥行きに対するリスペクトなのだろう。
(この「来るべき」という言葉もいささかニーチェっぽさがあるのだが)
しかし、人間が成長するにあたり、「ダンシング☆超人」を目指さなければないということはよくわかった。 -
ノリが悪くなる、キモくなる、ズレる、ツッコミとボケ、などなど、日常の平易な言葉を駆使しようとする感じが鼻につく。しかし、勉強することでノリが悪くなりキモくなるというのは個人的に自覚があり悔しくも共感してしまった。
文章の構成が良いからか(スネーク法で書かれている)、スッと頭に入ってくる。
連想、名付け、言語=環境、享楽、といったキーワードたちはまさにラカンの理論そのものであり、その分野についてある程度知っていると理解しやすい。
言語によって裏打ちされている環境のコード(=その環境において正解と思われている法・言語)に対して、アイロニー(=ツッコミ、コードの根拠を繰り返し問うこと)したり、ユーモア(=ボケ、コードから連想をすること)したりして、環境からズレて環境を相対化していくことが勉強である。アイロニーもユーモアもやりすぎるとナンセンスに陥るから、享楽に基づいて過剰にならないよう途中で中断する仮固定をすることが勉強のコツである。また自己目的的な享楽に辿り着くことに自由の余地がある。これを来たるべきバカと言っている。というより目指すべきバカである。
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勉強を哲学的に捉え更に実践の仕方もあり、読み応えがあった。
アイロニー=「根拠を疑う」こと
ユーモア=「見方を変える」こと
この2つが勉強におけるキーワードとなる。
序盤の哲学的な表現の仕方が私にとっては不慣れな為、読みにくさがあったが、身近な表現での具体例により読み進めることができた。
また、実践編では以下の部分が参考になった。
・自分の実感に引きつけないで読む、というのは、あるテクストを「テクスト内在的」に読むことである。それはテクストの構造=設定における概念の機能を捉えることである。
・二頂対立を把握する。普段の生活から、何を読む時でも、反対語に気づくよう心がけるといい。 -
環境にどっぷり浸かってることで生じる、そのノリとの癒着やマゾヒズム、すごくわかる気がしました。硬直した自分を破壊して、バラバラにするところからはじまるのが勉強。周りの空気にのまれずノリの良くないキモい人になってみるのが第一歩かな。言語さえも他者と割り切れたなら、もっともっと軽やかに自分の内なるものを曝け出して、それを拾ってくれる他者と『勉強』を深めていくことができるのかもしれない。
社会人経験、子育て経験積んだ今の方がずっと、あぁ生きている限り一生勉強なんだ、と思う機会が多いので、読んで良かったと思いました。何度も読み返して理解を深めていきたいです。たくさん『勉強』をして、いろんなことを面白がって生きいきたい。
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タイトルが大げさで、いかにも、なことが書いてありそうな雰囲気があるんだけど、全然そんなことなくて面白かった
國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』けっこう好きなんですけど、似たような話で、自分が依存している環境から抜け出して(自己破壊して)新たな環境へと移っていく。みたいな話
ただ本書はその"過程"、"間"に注目してる。
〈自由になる、つまり環境の外部=可能性の空間を開くには、「道具的な言語使用」のウエイトを減らし、言葉を言葉として、不透明なものとして意識する「玩具的な言語使用」にウエイトを移す必要がある。〉
このように、原理的には言語の問題なんだと、話は進んでいく。言葉を、自己目的的に、詩的に使っていく。
みたいな話を通して最後は具体的な勉強の仕方にも言及している。哲学の少し専門的な話も絡めながら一般書として分かりやすく落とし込まれていて読みやすかった。 -
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勉強するとノリが悪くなる。
最後まで読み通して改めてこの言葉を見ると、初めに読んだ時とは全く違う重みで読める。
当たり前じゃないかと(笑)ちゃんと著者の意図するところが身体化してた。
最後に要点をまとめてくれるのは、先に読んだ「現代思想入門」と同じ。几帳面な性格なだけのかもしれないが、私はこの人は本当にやさしい人なのだと思う。(「現代思想入門」でも感じた)こういう本にありがちな偉そうさが全くない!ホントにわからせてあげたいという気持ちが伝わる。
そういう意味では、ノートの取り方、入門書の読み方、文学の捉え方、すぐに、自分が変われるスキルがいっぱいだ。
若いのに。できてる。 -
なんとなく手にとって読み始めた本。
自分が勉強の仕方がわからず、直面していた問題がこの本の中に書いてあった。
マクロ的にも、ミクロ的にも「勉強」というものが哲学(説明)されている。
私が個人的に腑に落ちたのは、そもそも言語は生きてきた環境などによって意味が変化しやすい。言語の不透明性に気づき、言語をわざと操作する意識をもつようになることこそがどんな勉強にも共通する一般に重要なこと、ということ。
そして「玩具的な言語使用」こそが勉強の根本だということ。その上で、「言語のアマ・モードとプロ・モード」を使いこなしながら勉強すると自他の区別ができてより勉強がおもしろくなる。
本の感想をここに書くにしても、言語偏重をうまく利用して自分なりに文学するのも、来たるべきバカになるための勉強だと思った。
この本は勉強におけるバイブルになりそうなので、もっと本を繰り返し咀嚼して味を深くしていきたい。 -
こう言ってはなんだが、この本に書かれていることは恐らくさほど目新しいことではない。それでも紛れもなく読む価値のある本、そして青二才が言うのもなんだが「もっと若いうちに読んでおけばよかった本」の一冊だ。
前半の原理編の内容は、非常にざっくりと意訳すれば「人は変化する過程で、一時的に浮ついた状態に(=キモく)なる」「勉強すれば、周りに流されず自分をしっかり持てるようになる」「決めつけをせずに、考え続けることが大切だ」といったもの。こうして切り出して見てみればどれも当たり前のこと、少なくともこの本を手に取るような人の多くが無意識的にせよ了解していることではないだろうか。
その上で本書の価値は、これら「当たり前のこと」を有機的に結びつけて一つの哲学体系を作り上げたことと思う。
付記を見るまでそうと気づけなかったが、本書の議論の進め方はかなり緻密に現代思想や精神分析の流れに則っている、つまりは見かけよりもずっと手堅い議論になっている。暗黙知や経験則の体系化としての哲学の実践例、とでもいえるだろうか。流行りの言葉を使えば、非常に学問的信頼性の高い「言語化」である。中でも「享楽的こだわり」の概念なんかは、思考の補助ツールとして今後お世話になりそうだ。
後半の理論編では、実際的な勉強の方法についてともすれば露悪的なくらいに懇切丁寧な解説がなされる。これもまた、勉強や仕事の方法論について敏感な人の間では共通認識といえるくらいの、ある程度「当たり前」の話なんだろう。
自らの情報感度の低さに恥じ入りながら、とりあえずはノートアプリでも入れてスマホのメモやwordに散らかしっぱなしの覚え書きを一元化しようと決めた。サプリメント的な自己啓発書としても価値を発揮するのは本書の大きな美点だと思う。
文庫版書き下ろしの補章は、昨年上梓された『センスの哲学』へと繋がる内容。原理だけでなく各論にも踏み込んでおり、同書を読んでからこちらを読むと理解しやすい。 -
まずは第1章のアウトプット
キーワード
自己破壊
コード、ノリから距離をとる
有限性
言語の他者性
ニュアンスの差異=偏りのイデオロギー
言語は人間のリモコン
自己と他者、他者は他人ではなく、自分以外の何でもである。他者の中に言語も含まれるのが重要。環境コードによって生み出される言語だからこそ、その人のイデオロギーが分かる。
勉強することで、社会学だったら社会問題、心理学だと心理に対して敏感になるが、環境コードが変わると転用は難しい。なのでより根本的な言語の操作性に意識的になるべきと理解した。言語で現実との距離をとる=言語遊びによって環境コードに縛られない、有限性での自由を獲得する話。
言語との向き合い方は考えたことがなかったが、人間のリモコンである言語を再考することでその場のノリを客観視できるのではないか。
咀嚼必須。 -
タイトルは面白そうなんだけど、私には今ひとつだった。
勉強を深くすることで、ロクなことにならないこともある。勉強のマイナス面を説明している本らしい。
確かに自己破壊するんだと言っている。
実践編の勉強を有限化する技術がわかりやすかった。
まず、入門書から。教科書、基本書で詳細を確認。読者は、拾い読みでも読書。完璧な読書などない。バイヤール「読んでない本について堂々と語る方法」は、多様な読書を肯定している。
ツッコミ=アイロニー(根拠を疑って真理を目指す)ボケ=ユーモア(根拠を疑うことをせず見方を多様化する)で、ノリの悪い語りをし、環境のノリから自由になる。
小説的に世界を捉える…人のやることは両義性、多義性。恋人の言葉は愛の言葉だけれど、何か自分を責める意味が含まれているかもしれない。
嫌いな人の言動にも直情的に反応せずに、一旦受け流すことができるかも。ああ、この人はこういう人なんだ、しょうがないなとちょっとクールに眺めて距離をとる。
佐藤優の解説
19世紀活躍したロシアのグリボエドフ。「知恵の悲しみ」戯曲。
外遊から帰ってきた主人公はロシア上流階級の姿が尊大、阿り、無知蒙昧のグロテスクに見えた。率直に指摘したために狂人とみなされ、斬首される。勉強しノリの悪い生き方をしたせいだ。 -
全編なるほど〜わかる。という感じで、特に増章部分が本編と言っていいくらい読み応えがあった。
普段あんまり本を読まない人には、結構頑張って「読む」姿勢を維持しなきゃいけないかもしれない(自分がそう)、けどそんくらい頑張って読んでみてもいいと思った。きっとこの本はそれくらい勉強の筋肉が落ちてる人のために開かれていると思う。 -
日々是ロジカル、ラテラル、クリティカルシンキング也。ほんまにそれでいいんか?と問うてツッコんでボケて、ボケたついでに例えツッコミとかもしちゃって、ある程度のところで まあいっかで仮固定しては比較し続けよ(※繰り返し)、と思いました。とりあえず自分年表つくろ。
- ある結論を仮固定しても、比較を続けよ。p.141
- 信頼に値する他者は、粘り強く比較を続けている人である。p.142
- どこまでが他人が考えたことで、どこからが自分の考えなのかをはっきり区別して意識しなければならない。p.190
- 小説では、人のやることは両義的、多義的であると考えて、解釈の交差点としての「ただの出来事」を記述している。p.227 -
勉強することは、自己破壊である。これまでのノリ;コードから自由になる。
勉強することは、獲得することではなく、喪失することだ。昔の自分でなくなる。
そして、勉強することで、「来るべきバカ」になるのだという。
著者は、へそ曲がりなのだろう。「来るべき賢者」というのが恥ずかしいのだろう。
まぁ。あとがきに、バカには、特異性という意味が残響していると言っているのは、照れ隠しか。
よく私は、「あーぁ。今日も勉弱した。なかなか勉強できない」などと言っていた。
著者が言うように「変身するような勉強」と言った意味で勉強はしていない。変身も自己破壊も起きていない。そんなに簡単には、変われないのだ。
「勉強によって自由になるとは、キモい人になることである」と言う。
要するにノリが悪くなるのだ。ノリが悪くなって、さらに突き進んでいく。
情報刺激が多い現代、わかりやすく、質がいい情報がたくさんあり、基本は本にあるというのは納得だ。インターネット上では、やはりフェイクも多いし、軽い情報も多い。
その中で、勉強を有限化することが大切だという。深追いのしすぎと目移りの誘惑に負ける。
環境概念は、「ある範囲において、他者との関係に入った状態」
環境に依存して生きており、こうするもんだという暗黙の了承がある。
環境には、目標があり、目的地と共同的な方向性がある。
他者とは、自分自身でないもの全てであり、生とは、他者に関わることだという。
そして、自分とは、他者によって構築されたものである。
言葉は、使われて初めて意味を持ち、辞典とは人々が言葉をどう使ってきたかの歴史書。
言語を通して、私たちは他者に乗っ取られている。言葉偏重の人という言葉があり、納得した。
言語は、人間のリモコンであり、言語と現実を結びつけて、思考し行動する。
道具的な言語の使い方と、玩具的言語の使い方がある。玩具的で自己目的な言葉の使い方に習熟する。言語は、架空の世界を作ることができる。例えば、りんごはクジラだ。
例として、不倫は悪い。から、良い不倫があるという論議を積み重ねること自体、「不倫」という言葉自体が、もう悪いのだから、無理があるなぁ。昔は不倫と言わず、浮気と言ったり、芸人や歌舞伎の世界みたいに、芸の肥やしと言っちゃったりするわけで、閉じられた言葉の空間で論議しているのがちょっとこの男は、切ないなぁ。
ツッコミとは、ちゃぶ台返し。ボケとは、論点ずらし。
それをツッコミ=アイロニー。ボケ=ユーモアという風に置き換えるけど、だいぶちゃうだろうと思う。やはり、状況というか環境が違いすぎる。論理的に論理飛躍させる。ちょっと無理やり感があって、なんとなく、若いなぁと感じてしまう。なんか、自分の行きたいところに、無理やり行かせようとする。結局「我田引水」哲学の類なのだろうか。ツッコミとアイロニーを一緒にすることで、最初からアイロニーを論じたかったのだというあざとささえも見せる。
アイロニーは根拠を疑うこと。ユーモアは見方を変えることだという。
ツッコミは根拠を疑うこと、ボケは見方を変えることと言い換えると随分と違和感があるなぁ。
著者は「ユーモアの過剰とは、コード変換による脱コード化である。この帰結は、意味飽和と呼ぶ。
意味飽和は、あらゆる言葉が無意味になる。ユーモアの極限は、意味飽和のナンセンスである。」という。もう言っていることが、よくわからない。アタマが飽和状態で受け入れられない。
どうも著者は、空気が読めず、知識をひけらかすことで、嫌われるタイプなので、それを反転させようと努力しているようだ。無駄なあがきだ。とにかく、これまでの要約してきたことが、「原理論」らしい。
言語偏重になり、自分の享楽を活用し、有限性を意識する勉強。
本を読んでも、完璧に読むことはできない。一字一字全て読んでいるかは確かではないし、通読しても覚えていない。読書とは、不完全なものである。読書において本質的なのは、本の位置付けをすることです。自分に引きつけて理解しようとしないことも大切。というが、自分に引き寄せなければ、面白くない。自分の感覚を拡張するとか。難しい本を読もうとするのは、無理に納得しようとするからであるというのは、賛成。わからなければ、飛ばしてもいい。いつかわかる時が来るかもしれない。
現状把握をメタ認識で行う。大きな構造的問題の中にある。
著者の興味があったのが「多様性、複数性、マイナー性」にあったという。どう時代と欲望論的に結びつけるかというのも必要だ。享楽的こだわりが、自分らしさを発揮できる。
難しかったけど、最後まで読めたというのは、著者がえらいのかもしれない。
何れにしても、人間は死ぬまで勉強するわけだから、常に勉強だね。 -
フォロワーさんとの読書会で課題本になっていた
勉強をするとノリが悪くなる、今まで見えていたものや考えもしなかったことを考えるようになり、それがノリの悪さにつながっていくというものだった。
これについてはたしかに実感があった。偏見や差別的なことはそれが発生する下地や背景、構造を知ってしまうとそれにはノれなくなる。ネットミームなんかはかなりそういう割合が高く、もともとが差別的な意味合いから出発していることが多いために、もはや最初から使わないほうがいいのではないかとすら思う。
ただこうしたノリの悪さを手に入れるということはあらたな自分になることでもあると著者は述べている。
たしかにノリが悪くなり、大きな波やその場の盛り上がりには合わせられないかもしれないけれど、私はノリが悪くなった自分が嫌いではない -
20歳の私を強制的に「大人」にしてくれた本。
ここに書いてあることは、今の私に既に起こっていることであった。そんな私に彼は、「必然的で唯一の現実を生きたいという夢(=私たち人間を取り囲むVRの絶対的な外部に脱出する)、それは果たせない」と残酷におしえてくれる。そしてついに私はそれを諦めることができた。これからの20代、それは偶然性を大切にして、しかし安易な決断主義に陥ることなく生きていきたい。最悪にして究極のダンスを踊りたい。
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