野の医者は笑う 心の治療とは何か? (文春文庫)

  • 文藝春秋 (2023年9月5日発売)
4.38
  • (45)
  • (23)
  • (7)
  • (1)
  • (2)
本棚登録 : 606
感想 : 46
サイトに貼り付ける

本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています

Amazon.co.jp ・本 (400ページ) / ISBN・EAN: 9784167921019

作品紹介・あらすじ

われらがカウンセラー、東畑開人の
一般書デビュー作、文庫で登場!

文庫版あとがき「8年後の答え合わせ、あるいは効果研究」を付した
完全決定版です。

人生に痛めつけられたからこそ、
人を癒やす力を得た野生の医者たち。
彼女・彼らと共に過ごした
灼熱のフィールドワークの記録!

気鋭の心理学者にしてカウンセラーは、精神科クリニックを辞め、学界を揺るがすこと必至のフィールドワークを開始。沖縄で人々の心を癒やし続ける謎のヒーラー達を取材しながら自ら治療を受け、臨床心理学を相対化しようと試みた。「野の精神医療」と学問の狭間で辿り着いた驚愕の発見とは? 涙と笑いの学術エンタテインメント。

目次:
文庫版まえがき

プロローグ―ミルミルイッテンシューチュー、6番目のオバア

1章 授賞式は肩身が狭い―「野の医者の医療人類学」を説明しておこう
2章 魔女と出会って、デトックス―傷ついた治療者たち
3章 なぜ、沖縄には野の医者が多いのか―ブリコラージュするマブイ
4章 野の医者は語る、語りすぎる―説得する治療者たち
5章 スピダーリ―ちゃあみいさんのミラクルな日常
6章 マスターセラピストを追いかけて―潜在意識と神について
7章 研究ってなんのためにある?―学問という文化
8章 臨床心理士、マインドブロックバスターになる―心の治療は時代の子
9章 野の医者は笑う―心の治療とは何か

エピローグ―ミラクルストーリーは終わらない

謝辞

8年後の答え合わせ、あるいは効果研究―文庫版あとがき

文献

AIがまとめたこの本の要点

プレミアム

みんなの感想まとめ

心の治療に関する新たな視点を提供する本作は、沖縄の「野の医者」と呼ばれるスピリチュアル系の癒し手たちとの交流を通じて、著者自身の成長と発見を描いています。著者は臨床心理士としての立場を超え、野の医者た...

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 野の医者とは何者か?

    “癒しに関わり正規の科学から外れている人で、自身が病み、癒されたい人”

    大方、このように臨床心理士の著者は定義しています。

    “野の医者”を見ることで、臨床心理学はどういう学問か再考してみるというのが、本書のテーマです。

    何だかこのように書くと小難しい感じですが、いやいやどうして著者の語りは、めちゃめちゃ面白い。著者の東畑さんは、ご自分のことを“野の学者”と称しています。東畑節さくれつで、「ちょっと真面目にやってください!」とツッコミを入れたくなるぐらい面白い。

    場所は沖縄で、著者自らがヒーリング(怪しい治療?!)を受け、実況中継してくれるので説得力があります。なんと著者の就職活動の様子まで入っている。心理学の理論と、おバカ話?がいい塩梅に混ざり合って、飽きることがありません。

    著者と“野の医者”との間に溝があることも、正直に記されています。臨床心理学の考えと“野の医者”の考え、どちらが良いか決めつけることはできず、“人それぞれ”という結論に至るまでの過程が面白く読めます。

    “心の治療は時代を映す鏡”という言葉に納得。タイトルにある“笑う”これ、キーワードだなと思いました。この本は面白すぎるところが、一風変わった究極の癒しでした。

    著者のあとがきを読んで、東畑さんハートのある人だと感じました。クライアントさんが心を開きやすい方だなぁと。直接言ったら東畑さん、照れちゃうかも知れませんが。

    本書は、ouiさんに教えていただきました。仕事柄、認知行動療法、ソーシャルスキルトレーニング、コーチング、エンカウンターなどの本を読んできましたが、新たな視点を得られアップデートできました。ありがとうございました。

  • 僕は占いのみで生計を立てています。
    つまり、本書でいうところの “野の医者” です。

    これまでいくつかの東畑先生の著書を読んできましたが、本作も最高に笑わせていただきました。

    無職時代の東畑先生が、トヨタ財団研究助成プログラムの支援を勝ち取り、沖縄を舞台にスピリチュアル界隈を縦横無尽に駆け巡る、ワクワクするフィールドワーク冒険譚です。

    スピリチュアルのエネルギーは良くも悪くも強力です。
    臨床心理士として確固たる信念を持っているはずの先生でさえ、大量の謎のスピリチュアルエネルギーに染め上げられ、ミイラ取りがミイラになってしまいます。
    しかし、その包帯の隙間から覗く心理士としての眼を光らせ、“人を癒すとは何か” を追究する姿に、ページをめくる手が止まりません。

    僕にとって “人が癒される” とは、心がもともと持っていた温かさを取り戻すことです。
    それは「心はもともと温かいものだ」という仮定のもと、そこから熱を奪う原因を取り除く営みだと考えています。

    そもそも、「癒し」という漢字は、病で寝台にもたれる人の象形と、木をくり抜く工具、そして心で構成されています。
    そこには、体や心から悪いものを “くり抜き取り除く” という意味が込められています。

    そこで僕は、体や心に悪いもの、つまり悲しみの原因を取り除き、それから、その人に合った方法で温めていく。
    これが癒しだと思っていました。

    しかし本書を読み、“癒し” は一つではないことに気づかされます。
    悲しみに対して人は、取り除くだけでなく、受け入れ、消化し、より強い存在になっていく という選択肢も持っているからです。

    東畑先生は言います。
    治癒とは、ある “生き方” のことであり、治療者とは信頼のもとにクライエントへ新しい生き方を提示する存在である、と。

    生き方も、もちろん一つではありません。

    僕は今後も “野の医者”、占い師として、占いを疑い、
    「占いとは何か?」を問い続けながら、心理学・社会学・人文知など、ジャンルを問わずたくさんの本を読んでいきます。
    そして、そこで得たさまざまなものを、レヴィ=ストロースの言うブリコラージュ ― 身の回りの材料をつぎはぎして新しい意味を作る営み ― のように組み合わせて、無数の生き方を見出していきたい。

    その未開の地を切り拓いていく冒険のような人生を思うだけで、僕は今、にんまりしています。

    そう。
    “野の医者” は笑うのです。

  • 『野の医者は笑う』 「心の治療」問う意欲作 - 琉球新報デジタル|沖縄のニュース速報・情報サイト(2016年2月14日)
    https://ryukyushimpo.jp/news/entry-221238.html

    臨床心理士が精神科デイケアで学んだ「麦茶を入れること」の思わぬ効用とは | 文春オンライン(2019/04/14)
    https://bunshun.jp/articles/-/11385

    文春文庫『野の医者は笑う 心の治療とは何か?』東畑開人 | 文庫 - 文藝春秋BOOKS
    https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167921019

    野の医者は笑う - 株式会社 誠信書房
    https://www.seishinshobo.co.jp/book/b200599.html

  • 「野の医者」とは、とくに沖縄に多いスピリチュアル系の癒やしを提供している人々を指す。ヒーリングやコーチング、さらにはマッサージや占い、アロマテラピーといったいくつかのサービスと組み合わされているのが特徴である。そこに京都大学で心理学の博士号を取得し、臨床心理士として従事してきた著者がアプローチしていく。

    野の医者たちはほとんどが中年女性であり、面白いほどに共通点を持っている。若くして結婚・出産・離婚を経験して経済的に恵まれずに、自宅をサロンとしてBlogやSNSなどで集客しているパターンである。そして野の医者たちは施術者であり患者でもある。つまり、自らが癒やされる経験やプロセスを経て、他の人を癒やしたいと考え行動に移した人々なのである。

    このような野の医者たちの話を聞き、施術を受けていくにしたがって、学術的には正しい臨床心理学との境界が曖昧になっていく感覚を著者は感じていくのだった。むしろ近代科学の再現性やエビデンスといった論理よりも、野の医者たちの間に存在する共感や連帯こそが心理的に癒やされるためには重要なのではないかと気づく。

    そしてそこには沖縄という地域の課題も見え隠れする。高い離婚率とサービス産業に依存する経済、南国の太陽というポジティブなイメージに癒やしを求める人々は吸い寄せられ、また新しい野の医者となっていく。野の医者たちはスクールを開き、イベントを開催して相互に施術し合っている。癒やしのプロセスは軽薄であればあるほどに模倣され広まっていく。

    そこには家族や職場といった従来のコミュニティでは相談しづらい悩みや課題を共有し、共通点を持つ者同士が連帯していくことでお互いに癒やされていく場が存在しているのだった。

  • ストーリーズには少し読みながら考えたことなんかを書いたりもしたけれど、結論を端的にいうならめちゃくちゃ面白くて最高な一冊だった。
    答えと「癒し」を求めて奔走する取材と迷走する妄想に笑って、その後の思索を読めば色々考えて知的探求のスリリングさも感じたり、セミナーやスクールの描写に驚いたり呆れたりもしながら、辿り着く「発見」と真摯な結論には納得して感動もして、その後の人生と選択にも共感もしていた。スピリチュアルではなく現実が繰り出してくる「ミラクル」なオチも素敵だった。そして、最後の最後には微笑みながら少し泣ぐんで本を閉じていた。ともすれば軽薄に感じて冷めてしまいそうな部分もある文体を、文庫版のまえがき、あとがきでしっかりと押さえているのも”分かっていて“良かった。
    沖縄に「傷ついた人が、傷付いた治療者」になる野の医者たちが、特に女性が多い原因が社会にあることや、彼女たちの高いテンションと明るさの後ろに過酷な人生があったことは意識しなければいけないけれど、それでもこの本を読んでいると元気が出てきた。著者も含めたこの本に書かれた人たちの多くが野の医者から「生き方を与え」られたように、わたしもこの本を読むことでそれを与えられた、のかもしれない。そうだと良いなと少し思う。それが「新しい生き方をもたらす」のかは、わからないけれど。
    また長くなってきてしまったけれど、これはおすすめ!と珍しく普段書かないことをわたしも書いておきたい1冊。ここ最近で1番付箋のが立った。急いで買いに行って正解だった。またあとで付箋を拾いながら、わたしの生き方についても少し考えてみることにしよう。

  • 治療とは「生き方を再構築すること」、という一節になるほどと唸らされた。

    だから癒やすことで癒やされたり、支えることで支えられることがあるんだなと感じた。

    誰かの役に立ちたいという思いは、もしかしたら私が「傷ついた治療者」であり「癒やす病者」であるからなのかもしれない。

  • 野の医者(スピリチュアル的な)と精神科医(カウンセリングやセラピー)
    この対比的に沖縄での暮らしが描かれていく。

    冒頭に、この本を書く前と後では私は変わってしまった。という趣旨の事が書かれていた。
    変わろうとして変わるのか、変わっていくのか、変わってしまうのか。自分が変わるということはそれだけ多様であるし、選択的に変わるわけではない。ということは私の中に深く残った。

  • 問題点も含めて、新しい視点をくれる本だった。
    自分自身、精神的な病を抱える母が、スピリチュアルに傾倒していく姿を間近で見ており、当事者としてではないが、本の内容に身に覚えがあることも多かった。
    そして、なおかつ、ここは問題点でもあるかもしれないのだが、そうした当事者の姿を、あえて軽く、明るく書いてくれていたので、最後まで読み進められた。
    私の母も、野の医者になりかけたのだが、私も含めた周囲がそれを受け入れることはなく(できず)、結局その後、病がより大きな波となった時期に、数ヶ月の入院生活と、薬物療法によって、病を調整することとなった。
    入院直後は、薬物の影響か、病の転調か、抜け殻のように話さなくなってしまった母の姿も見ているので、薬物治療に抵抗のある当事者がいることも少しわかる。
    今も母は、薬を飲み続けているが、入院期間の薬の調整がうまくいったようで、かなり穏やかに生活しており、病の兆しも見えなくなった。
    ただ、そうした、外部からみて、「病の兆しがない」、ということが、当人にとっての寛解と言えるのかは、わからない。

    この本の中に出てくる野の医者が、具体的に何の病を抱えていたのかは、言及されていないため、母と同じ病ではないかもしれないが、彼らが「他者を癒す」という人生の目的を得て、生き生きと過ごす姿には、スピリチュアルにハマっていた時期の、母の姿が重なる。
    彼らが野の医者になろうとする背景には、私はおそらく、何かの役に立たなければ、という強い焦燥感のようなものがある気がする。
    私にもその気持ちはとてもよくわかる。
    普通に日々の生活を送っているだけでは、自分がこの世界に何も貢献していない、役立たずであると感じる。
    役立たずであるところの自分は生きている意味が無いとさえ思ってしまい、毎日生活するだけで、無力感に苛まれていく。
    そんな時夢見るのは、誰かの役に立てるような仕事を得ること。
    自分のように苦しみを抱える誰かを癒し、感謝され、自分はこの世界にいる意味がある、と認めてもらうこと。
    野の医者になればこうした欲求を叶えることができる。

    母がスピリチュアルにハマった時、私は彼女が科学的にものを考えることができないのだと思った。
    そしてそんな母を哀れに思った。
    しかし、私の母は、愚かなのではない。
    母は、私よりも何倍も努力して、良い大学に入り、理系の学問を学んでいた。
    そして、父よりも多く稼ぎ、父よりも長い時間家事をし、家を成り立たせるための仕事全てを担っていた。
    母方の祖父の闘病もあった。
    祖父の病を治したい一心で、良いと噂されるものをさまざま試していたが、完治することなく、祖父は亡くなった。
    そして、限界を迎えたのだ。
    祖父が亡くなる、前後から、明らかに母は普段と違う状態になっていった。

    科学的な思考で生き続けることは、完璧であり続けることだ。
    無駄を許さないことだ。
    しかし、人間は生身の生き物であり、完璧であり続けることなんてできない。
    洗濯物はたまり、料理だってうまくいかない時はあり、仕事も常に迫ってくるし、祖父の治療はうまくいかない。
    しかも、目の前にいる世界では、自分の求める完璧さとはかけ離れた様相が広がっている。
    自分がこんなに辛い状況なのにも関わらず、家事を手伝わない夫も、自分とは似ても似つかないぐうたらな娘も、科学的根拠に基づいて生活などしていない。
    思うがままにのんべんだらりと生活しているだけだ。
    そんななんの理論も通じない理不尽な相手と世界を受容しなければいけない苦難に比べれば、スピリチュアルを信じる困難さなど屁でもないだろう。
    そして、理想になれない自分自身を変えたいと強く意志して、癒されたい、癒したいと思った結果、スピリチュアルな治療へと踏み出していく。

    母はスピリチュアルな治療と、ついでに新興宗教にハマっていった。
    そして、そのコミュニティで楽しそうに過ごしていた、と思う。
    旅行に行ったり、誘われてライブを見たり、集会に参加したり、かなり頻繁に大きなイベントを体験していた。
    しかし、その頃ちょうど世界で一番無知な中学生だったであろう自分は、とにかくそのことが不気味に思えて仕方なかった。
    世間では、新興宗教にしろ、スピリチュアルにしろ、頭のおかしい人がやるものだ、という風に言われていたし、私もそれを鵜呑みにしていた。
    そして、私は母の病名について、何も知らされていなかったし、また、いつからそうした治療を始めたのかも知らなかった。
    精神的な病に関する知識もほとんど無かった。
    ただ母は頭がおかしくなったのだろうと思った。
    おそらく内面ではどこにも吐き出せない不安を抱えて苦しんでいたであろう母相手に、しっかり反抗期を迎えて、毎日を不機嫌に過ごした。
    私は記憶力がかなり悪く、この後どう言った経緯で、母がそうした活動をやめたのかを覚えていない。
    しかし、気づいた時には、そうした活動はやめていた。
    そして、その後母は酒にハマり、治療薬を断ち、そのことによって怒涛のごとき病の勃興があり、大学で、心理学入門をとった私は、そこでようやく自分の母の病名がわかるのだが、問題なのは、新興宗教とスピリチュアルにハマっていた時期、母が一見幸せそうだったということである。
    スピリチュアル的な治療について、本や、講習で学んだ新しい知識を私に話したり、試したりする母は、とても充実している様子だった。
    私はよくその治療を受けさせられたのだが、その時の母は、もちろん当たり前だが、金儲けを望んでなどいない。
    とにかく私の肩こりだの、腹痛だの、そうした症状を治してあげたい、という気持ちで臨んでくる。
    おそらくそこには、この怪しいような気もしなくもない治療が本当に効果があるか試したいという気持ちもあるだろうが、とにかく私を癒したいと、思う気持ちが持てること自体が、人生に目的が生まれたようで幸せなのかもしれない。

    また、野の医者が病者と接することで癒されるのは、そこに当事者同士がオープンダイアローグをするときのような効果があるんじゃないかと思う。
    病者は、健常者がいるから病者になるわけで、病を抱える当事者しかいない空間では、病者ではなくなる。
    そこでは病はお互い持っているので、そこに劣等感を持つ必要がない。
    そうした空間で話すことは、きっと安心感があるだろう。
    新興宗教や、スピリチュアルの集会が盛り上がるのも、そうした理由が、少なからずある気がする。
    そしてそれは行われる内容ではなく、集まること自体によってだが、確かに癒しが得られるのだと思う。
    しかも、野の医者として患者をみるときは、相手は自分より症状が重いことが多い。
    そうした人と自分を比べて、相対的に自分は健康だ、と思える効果もあるかもしれない。
    そう見ていくと、これらは否定されるべきものとは思えなくなってくる。

    しかし、この本でも触れられている通り、スピリチュアル系の治療が目指す健康状態は軽躁状態をさす場合がある。
    私の母がスピリチュアルに傾倒していた時、おそらくはその状態にあった。
    それまでの生活からは考えられないほどに、驚くほど活動的で、やる気に満ちていた。
    感情の起伏が激しく、多弁で、とても調子がよさそうだった。
    だが、それは私の知る母ではなかった。
    私の知ってる母は、物静かで、自然が好きで、人との交流が苦手なタイプの人だった。
    私は別人のように過ごす母が、どこかおかしいのではないかと感じて、受け入れることができなかった。
    だが今思えば、あのとき、本人は幸せだったのじゃないかと思う。
    今も、躁状態にならないように服薬しながら過ごす母を見て、それが本当に正しいことなのか、と思うことがある。
    本人にとって、幸せな状態を抑えることが、果たして良いことなのか、それは私たち家族や、世間による、抑圧なのではないかと悩む。
    もちろん躁状態になることは、いいことばかりではない。
    エネルギーが暴発しすぎた結果、社会的信用を失うような行動をしてしまうこともあるし、体は気づかないうちに、消耗して、エネルギーを使い果たしたあと、急激な鬱症状に悩まされることもある。
    しかし、躁状態を抑えたことで、得られている「穏やかな生活」が、本当に本人にとっての幸せかは、疑問だ。
    本の中での当事者の充実している様子を読んで、この疑問がより膨らんだ。

    一方で、野の医者による治療が表面的で一時的なものになってしまいがちなのも事実だと思う。
    母がスピリチュアルにハマった後で、急激に病を悪化させていったことにもあるように、根本的に病が治るわけではない。
    そして、軽躁状態で、服薬をやめた結果、とても大きな病の波がきてしまった。

    母が今、穏やかに過ごせているのは、服薬の調整の影響もあると思うが、父と私が、大きな波を経験してようやく、家族の生活に参画し始めたことも大きいと思う。
    母の心の病について家族内話をして、共有し、今まで母に任せきりだった家事を分担して担い、母と出かけ、話を聞く。
    こうした地道な生活に癒しがあるのだと思う。

    母が病であることをはじめは受け入れることがなかなかできなかった。
    病を悪化させる酒を飲み続けていることが許せなくてなんども怒りをぶつけてしまったし、病者の母よりも、自分の辛さが先に立ってしまって、なかなか母の苦しさに思い至ることができなかった。
    母の病名を知ってから10年近くを経て今ようやく、病を含めた、母の人生そのものを、あるがままに受け入れられるようになってきたと思う。

    心の病の1番の苦しみは、他人に理解されないことだと思う。
    自分は明らかに他者と違うという気持ちを抱えながらも、表面的には健常者と全く変わらないと言うこと。
    健常者と同じ土俵に上がり続け、同じルールの中で戦うことを強いられること。
    これは日々の生活で傷を蓄積させていく。
    目には見えない傷をたまらないようにするには、ルールを改訂するしかない。
    周りの健常者を啓蒙したり、当事者同士で話すことで、ルールの通用しなさを認識しあったりする場をもうけることで、少しずつ、自分と他者のルールの範囲を広げて、生きやすい状況を作り上げていく。
    それには時間がかかるが、毎日すり減っていた傷は確実に少なくなる。
    その積み重ねが病を癒していく。
    劇的な癒しではないが、着実で、静かな営みだ。
    私はこの劇的さのない、治療を信じたい。

  • 3年前に読んだ「居るのはつらいよ」(医学書院)を皮切りにこのところ注目してあれこれ読んでいる心理学者のかなり早い時期のいわば青春の書。単行本は2015年8月、誠信書房から。
    巻末に「8年後の答え合わせ、あるいは効果研究」と題した文庫版あとがき。

  • この数年の私の中でのモヤモヤを吹き飛ばしてくれた。この本に出会えて良かった。 

    この感動をしばらく味わい、きちんと言葉にしたい

    私はケアを仕事にするならば、やはり自分にも問いつつ、疑いつつバージョンアップしていきたいんだ。学問とは疑うことが出来る事。ミラクルで治癒するのでなく。コツコツと。そうだ!!
    それかあ!!本当に有り難うございます。東畑先生。野の医者にはきっと私はなれないけれど、
    いや、人生って何があるかは分からないからね(笑)

  • 著者作「コラージュ」を前書きと目次の次に持ってくるところにセンスを感じる。

    得体の知れない匂いのする題名のわりに、この本のテーマは明確だ。「野の医者と、私たち臨床心理士の違いはないにか?」大学では、心理学や現代医学が絶対的な真理であるという考えの中で心理学を学ぶ。しかし、本当にそうなのか。「現代医学はいくつもある文化の一つなのではないか。沖縄に偏在するスピリチュアルな治癒者が、沖縄文化の産物であるのと同じように。」この問いは、著者の沖縄でのフィールドワークの中でだんだんと形作られ、やがて一つの答えが生まれる。「現代医学は野の医者を嘲笑することはできない。形は違えど、どちらも数ある文化の一面だ。」この本で東畑さんが得た結論は、だいたいこういうことだ。

    この本の白眉はこの結論を導きだす過程にあるといえる。彼の沖縄でのフィールドワークが本当に面白いのだ。沖縄のヒーラーたちの治療を受け、ヒーラーたちの人生を聞き、ヒーラーたちに生き方を与えてもらう。なんとも稀有なフィールドワークが、東畑さんの実に軽快な文体で生き生きと表現される。
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    <医療人類学>
    現代医学の先端技術と知識をアフリカの奥地の呪術的な治療と同じ目で見る。アフリカの呪術使いはアフリカ文化の賜物であって、同じくあらゆる文化圏の規定によって医学は定められている。医学や治療は科学現象ではなく文化現象だ。
    ”野の医者を鏡に、現代医学と見つめ合う”

    <オーラソーマ:ヴィッキー・ウォール(英)盲目の医師>
    美容オイルをつくる為の瞑想中にカラフルな光に包まれて「水を分けなさい」と言われ、「モーセじゃないのよ」と言いうも、その後、数時間気絶した後、バランスボトルというカラーボトルが完成していたという。それが物販会で売れに売れ、買った人にでかい腫物や頭痛、腰痛がオイルを塗るだけで消えるという奇跡が起きた。しかも客は彼女が客の中に見出すオーラの色と同じ色のボトルを持っていく。

    <沖宮護国神社>
    海の神をまつる琉球国王公認の神社。もとは那覇港あたりにあり港改革に際して安里八幡宮へ移るも、沖縄戦で焼失。その後、昭和28年にトラック運転手、比嘉真忠がカミダーリ:神がかりをして「御嶽神教ーうるま琉球沖縄神道記」を記す。ここでの神は「天受久女龍宮王御神(てんじゅくめりゅうぐうおおおんかみ)」である。

    <ぶーぶ:血抜き>
    ヒポクラテスも推奨。やらないほうがいい。

    <「説得と治療ー心理療法の共通要因」ジェローム・フランク(米)>
    心理療法が人を助けられるのは説得するからだ。無意識の意識化と不敵学習の再学習こそ治療である。すべての治療の本質は科学的真実でなくレトリック:雄弁術にある。

    <京都大学心理学科>
    ここはもともとユングの牙城であった。後に精神分析という学派が入ってきた。両者はあるクライアントが発達障害かパーソナリティー障害かで議論したが、そもそも見ている世界が違うので収集のしようがなかった。

    <兵頭昌子:歴史家>
    潜在意識と無意識は違う。近代科学によって神は死んだ。精神という脳の作用に過ぎないものが見出す神は消えた。しかしそれでは困る。だから、潜在意識なるもの、つまり神とつながる精神を人間は発明した。潜在意識には神が宿っているのに対し、無意識には神が宿っていない。

    <メスメル>
    New thought:考え方が変われば世界が変わる
    これが宗教の基本である

    <ヘンナー>
    「正しい甘えが心を癒す。沖縄文化に見る日本人の源流」

    <レヴィ=ストロース>
    「ケサリードは病気を治したから大呪術師になったのでなない。大呪術師になったから病気を治したのだ。」

    <クラインマン>
    臨床心理学

    <ダヴィンチの教訓>
    パトロンには自分を大きく見せろ

    <ジェローム・フランク>
    イワシの頭も信心から。

    ・精神分析もどきのコンアンフレイヴァー溢れるロジェリアン
    ・デンガロンハット
    ・説明モデル
    ・プラセボ効果=転移性治療
    ・「笑いは楽しくなるためだけにあるのではない。馬鹿になるためだけにあるのでもない。現実逃避するためだけにあるのでもない。苦しい場所で一瞬自分から離れて、そこに逞しくとどまり続けるためにあるのだ。(本文より)」


    ・医者と教育が別の物だというのは現代科学が作った常識である。
    かつて、ヨーロッパでは、病んだ人はキリスト教に触れキリストの教えを学ぶことで癒された。

    ・現代医学における医者と野の医者の違いは数学と算数の違いだ。
    「汝、自信を知れ」は力ある者(白い巨塔)の道。
    「汝、今を生きろ」は這いつくばって生きる者(傷ついた治癒者)の道。
    後者は、「心理などどこにもない。あるのは頼りないもっともらしさだけ。」というポストモダンの不安、または神(心理)の不在への不安と結び付けることができる。そこには人の数だけ心理があり、すべてはレトリックに過ぎない。この文脈のもとにアメリカのセールス文化を起源とする自己啓発文化が現れる。ポストモダン以降の「自分探し」「空虚」の時代が1995年まで続き、次に「自己啓発」「新宗教」の時代がやってきた。そして現在は「経済的不安」「グローバリゼーション」「コーチング」の時代である。この時代において人のつながりが薄まるのは当然といえる。このような時代の変化に対応して心の治癒者の需要が高まった。この意味において心の治癒者は時代の子なのである。
    また、生き方を与える、押し付ける、という意味において治癒は加害行為、すなわち捕食である。宗教も文化も例外ではない。なぜなら、これらはマインドブロックバスター、つまり潜在意識を書き換える存在だからだ。
    なかでも沖縄の治癒文化は異質だ。沖縄のチャンプルー文化のようなブリコラージュの文化が、沖縄の治癒文化を築いた。
    在朝の臨床心理学は在野のあらゆる文化と同じく無色透明ではない。化学は文化であり、そこでは激しく原色が氾濫している。どれも無限に広がる世界観の一つでしかない。そして、どの文化も世界の一部であるという意味で、世界の本質のDNAを確実に持っている。すべては真理であり、これだけが唯一の心理であるという思考以外はすべて本質なのだ。
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  • ①2025/11/21 初読

  • 一気に読んだ。

    あとがきがミュージカルの
    カーテンコールに感じるくらい
    圧巻の物語だった。

    私が見てきた世界が
    次々言語化され爽快だった。

    2025年で一番必要だった本。

  • 心理学の数だけ現実があり、治療者の数だけ療法があり、傷ついた人の数だけ生き方がある。

  • 「野の医者」への憧れや信仰みたいなものの成り立ちがよく理解できた。薄っすら分かっていたことをとても詳しく優しく説明してもらえたような、すっきりとした読了感。

  • うららさんリリ-ス

  • 沖縄の野の医者を巡る旅は、作者のコミカルな文章と相まってとても面白かったです。読んだ後、沖縄がより好きになりました。
    夢の中でもこの本を読んでいて、何故か涙が出そうになるという不思議体験をしました。

  • 6/30 東畑開人著「野の医者は笑う 心の治療とは何か?」読了。
    ★感想★
    ・めちゃくちゃ面白かった。
    ・医療人類学という学問を初めて知る。心理学と名の付く様々な分野があって混乱していたが、理解が深まってよかった。
    ・心の治療とは何か、ということに明確な定義が与えられ、すっきりした。

  • 沖縄に多くいるヒーラーたち、野の医者たちとの交流の中で、専門であるはずの臨床心理学を再発見していく物語。
    野の医者たちはみな、自身が傷ついた経験からスタートしており、癒やされていく中で、みずから癒やす存在になっていく。傷ついた治療者であり、癒やす病者(p.179)である。
    ポストモダンなヒーラー、ドラゴンとトカゲなど、面白いフレーズがたくさんでてくる。野の医者たちはみな味の濃い人たちで、正直言って会えば苦手なタイプだと思うけれど、不思議な魅力を持って現れてくる。

  • 面白かった。
    アメリカではADHDと診断されてリタリンを処方され治療プログラムを組まれる子が、沖縄ではマブイを落としたと言われマブイグミと呼ばれる魂を込め直す作業をするかもしれないし、アフリカの狩猟民の世界では勇敢な狩人とされるかもしれない。
    健康って何だろう。治療って何だろう。そんなことを考えさせられる本だった。

    この本の結論としては、
    ・なにをもって「治癒した」といえるのかは、治療法によって異なる。
    ・「治癒」とは、ある生き方のことで、特に「心の治療」とは生き方を与えること。
    ・治療とはある文化の価値観を取り入れて、その人が生き方を再構成すること。
    ・治癒も生き方もひとつではない。臨床心理学と野の医者は親戚とも言える。
    ということなんだと思う。

    この著者のドライアイも、就職が決まったらすっかり治ったんだもんな…そんなことを考えると、いくら科学的に正しいとか言われても、点眼薬の処方だって「怪しげな療法」とも見られるのかもしれないよな…。

    あと、野の医者と貧困の関連性も、もう少し考えてみたい問題。

    ともあれ、私は、マタヨシ博士の「(治療とは)信頼だよ。相手がこっちを信じるか、信頼できるか。どんな治療もそれじゃない?」とか、ちゃあみいさんの「でも誰か、究極に健やかな人っているのかな。みんな病みながら生きていて、それを受け入れるってことがありのままなんじゃないかな」という言葉がとても好きだった。

全44件中 1 - 20件を表示

著者プロフィール

1983年生まれ。専門は臨床心理学・精神分析・医療人類学。京都大学教育学部卒業、京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。白金高輪カウンセリングルーム主宰。博士(教育学)・臨床心理士・公認心理師。著書に『野の医者は笑う:心の治療とは何か?』(誠信書房、2015年/文春文庫、2023年)、『居るのはつらいよ:ケアとセラピーについての覚書』(医学書院、2019年)、『心はどこへ消えた?』(文藝春秋、2021年)、『聞く技術 聞いてもらう技術』(筑摩書房、2022年)、『雨の日の心理学』(KADOKAWA 、2024年)、『カウンセリングとは何か:変化するということ』(講談社現代新書、2025年)など。『居るのはつらいよ』で第19回(2019年)大佛次郎論壇賞受賞、紀伊國屋じんぶん大賞2020受賞。

「2025年 『カウンセラーの選びかた』 で使われていた紹介文から引用しています。」

東畑開人の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×