支那論 (文春学藝ライブラリー 歴史 1)

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  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (341ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784168130038

作品紹介・あらすじ

中国をどう見るか、中国にどう向き合うか――これこそ日本にとって、最も重要で、最も難しい課題である。そして今日、中国の急速な台頭を前にして、われわれにとって、いっそう切実な課題となっているが、最も頼りになるのは、内藤湖南の中国論であろう。なかでも戦前、最も読まれ、同時代中国を論じた『支那論』(1914年)と『新支那論』(1924年)を本書は収める。 湖南は、『日本人』『万朝報』『大阪朝日新聞』『台湾日報』などで、ジャーナリストとして活躍した後、京都大学に招かれ、東洋史学講座を担当した。中国史全体に関する学者としての博識と、中国現地でのジャーナリスト経験を合わせもつ稀有な存在として、清朝滅亡以降、激動する同時代中国を観察し続けたのである。 その中国論は、一言で言えば、皇帝の権力が強くなる一方、貴族階級が消滅して平民が台頭し、商業が盛んになった北宋(960年~)の時点ですでに、中国は近世(近代)を経験した、というものである。 「支那の歴史を見れば、ある時代からこのかたは、他の世界の国民の……これから経過せんとしているところの状態を暗示するもので、日本とか欧米諸国などのごとき、その民族生活において、支那よりみずから進歩しているなどと考えるのは、大いなる間違の沙汰である」――湖南は、中国の民主化の挫折を予言するのであるが、それも、中国が「近世」の段階にすでにこれを経験・失望し、西洋や日本の「近代」での経験に先んじていたからなのである。 政治的独裁と経済発展が混在する現代の中国。湖南の中国認識は、今日、いっそうのリアリティを持っており、われわれ自身の中国認識の出発点となりうるだろう。

感想・レビュー・書評

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  • この名著が復刻されたことを素直に喜びたいところだが、本書のような歴史的洞察に満ちたリアルな中国認識が、戦後という空気の中でタブーのごとく忌避され続けてきたことを考えると、突如降ってわいたかに見える日中関係の悪化を契機にそれが俄かに注目を浴びたところで、表面的なブームとして消費されやがては忘れ去られるであろうことも半ば予想されてしまうだけに、手放しでは喜べないものがある。本書の解説に與那覇潤氏を配した編集者の軽薄なセンス(商業ジャーナリズムとしては卓抜なセンスと言うべきか)をみるにつけても、その意を強くせざるを得ない。

    與那覇氏といえば、湖南の唐宋変革論(近世は西洋に先駆けて宋に始まったとする説)を自らの歴史ビジョン(=世界は中国化する)に都合よく図式的に当てはめた著書がベストセラーになった「気鋭の歴史学者」である。氏の歴史ビジョンとは、例えば本書の解説において、民間主導で社会をリードする中間層の形成を説いた福沢諭吉の「ミッヅルカラッス」論と、「封建の意(精神)を郡県に寓する(組み込む)」ことを唱えた明末清初の顧炎武の所説とを、両者の歴史的・社会的文脈を度外視して同列に論じ、後者が前者に先行することをもって、「維新以降の日本の近代化は・・・大陸では昔から論じられてきた歴史の一コマに過ぎぬ」と断じる類のものである。その與那覇氏が湖南にこと寄せて説く「同病相憐れむアジア主義」とは、有り体に言えば、日本と中国は所詮同じ穴のむじなであるが故に、お互いの欠点を認め合い仲良くやって行きましょうという、戦後の対中政策のあまりに陳腐なヴァリエーションに過ぎない。それが湖南と何の関係もないことは言うまでもない。

    湖南の中国観が全て正しいと言う訳ではない。例えば、支那のような長い文化を有する国は政治を低級なものとみなし、芸術に傾くのは必然であり、むしろ欧米や日本より進歩しているのだとする点などは、支那の政治的停滞への失望感と支那への深い愛情との狭間で折り合いをつけるための強弁としか思えない。それは日本の大陸進出を正当化したなどと言うつまらぬ理由とは全く無縁な次元での湖南の限界であり、與那覇氏のような亜流を生む遠因でもある。

    こうしたマイナーな瑕疵にもかかわらず、国家と社会の乖離や官吏のモラルの低さ、希薄な遵法精神、周辺諸民族との関係などについて、現代中国にもそっくりそのまま当てはまる鋭い指摘は百年前の時事論としては驚嘆に値し、今なおその価値を失ってない。京大東洋史での湖南の同僚であり、戦後完全に黙殺され続けた矢野仁一の「現代支那概論」も合わせて復刻されることを望みたい。

  • [お隣の奥底]題名そのままに、ズバリと中国についての考えをまとめた作品。辛亥革命と中華民国建国という怒涛の流れを、同時代で見た中国通だからこそ書ける内容が多数散りばめられています。著者は、ジャーナリストと研究の二足の草鞋を履き、東洋史学上の「京都学派」の先駆けとしても知られる内藤湖南(本名:虎次郎)。


    書かれてからおよそ一世紀が経過している作品ではありますが、中国について考える上で糧となるような記述が数多く見られました。当時の情勢をただ記すだけでなく、中国の歴史を紹介した上で時勢分析がなされているため、中国という国を長い時間軸にそって思考する上で有意義な一冊かと。


    興味深かったのは、単直線的な歴史観の中で中国を老成した国と捉え、そこに日本がどう「携わって」いけば東洋全体が西洋文明と比して檜舞台に上がれるようになるかという考え方。内藤が生きた時代において、東洋の団結を唱える東アジア主義と日本の帝国主義が表裏一体になっていた「噛み合わせの悪さ」が下記のような主張にも表れているかと。

    〜支那とか日本とか朝鮮とか安南とかいう各国民が存在しておるのは、各国家の上には相当に重要な問題ではあろうけれども、東洋文化の発展という全体の問題から考えると、それらは言うに足らない問題であって、東洋文化の発展は国民の区別を無視して、一定の径路を進んで行っておるのである。……(中略)……日本の経済的運動等は、この際支那民族の将来の生命を延ばすためには、実に莫大な効果のあるものと見なければならぬ。恐らくこの運動を阻止するならば、支那民族は自ら衰死を需めるものである。

    なかなか味のある一冊でした☆5つ

  • 【「中国の民主化」は原理的に不可能なのか?】博識の漢学者にして、優れたジャーナリストであった内藤湖南。辛亥革命以後の混迷に中国の本質を見抜いた近代日本最高の中国論。

  • 細かな議論になると、たぶん現在の日中関係には役に立たないところが多々あるのでしょうが、この本を読む意義はそんなところにあるのではありません。むしろ、歴史を踏まえつつ未来を展望し、なおかつ決して蔑視することのない目で中国を見ることではないでしょうか? とは言いつつも、現代にも通じる指摘が多々あるのはさすが湖南です。

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