- Amazon.co.jp ・本 (385ページ)
- / ISBN・EAN: 9784198634711
作品紹介・あらすじ
生きるぼくらは原田マハさんの作品です。
波乱万丈な人生の24歳の主人公の人生は大好きなおばあちゃんのために蓼科に向かいます。おばあちゃんと一緒に機械を使わない昔ながらの田んぼ作りを体験していきます。自然の中でおばあちゃんと暮らしながら自分を成長させていきます。日本人としてお米を食べたくなってしまう気持ちになる作品です。
感想・レビュー・書評
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直近の内閣府の統計では総数100万人を超えるという『引きこもり』と呼ばれる人たち。『引きこもり』期間が実に30年以上に及ぶ人が6%もいるというその統計の数字が示すもの。『実際、とても楽なのだ。誰にも会わない、ということは、煩わしい人間関係に巻きこまれずにすむし、他人の目を気にして生きていくこともない』という毎日。きっかけは人それぞれなのだと思います。続ける理由も人それぞれなのだと思います。では、それは『さなぎの中の幼虫は、目覚めるタイミングを辛抱強く待っている』という時間なのでしょうか。『長い冬を過ごし、春がくれば、殻を破って透き通った羽根を広げる』という日がやがて来るのでしょうか。そして、その先に『大空へ飛び立つのだ』という日が、いつか…。
『腹へった』という『いつも同じひとり言で、一日が始まる。といっても、それはたいてい午後二時か三時、ひどいときには夜になって起きることもある』という二十四歳男子・麻生人生 (あそう じんせい)。『ネットゲームに興じ、他人のブログに中傷コメントを書きこみまくって』という夜を過ごす日々。『一日じゅう、四畳半の自室にこもりっきりで暮らしている』という人生は『働いてもいないし、学校に通ってもいない。友だちなんて存在しない。当然、カノジョがいるはずもない』と『自室に居座るほかはない』毎日を送ります。『どこへも出かけずに、自室という名の宇宙に棲息する、現実社会にはなんの役にも立たない生物』であると自覚する人生。その一方で『人生の母は、昼間は都内の雑居ビルの清掃のパート、夜はパチンコ店の清掃のパートに従事している』という忙しい日々。『朝八時には家を出、帰りは夜の十時過ぎ。終日出かけっぱなし、一日じゅう働き通し』の毎日を送ります。『両親が離婚して、母とともにここへ引っ越してきたのは、人生が小学校六年生のとき』。それから十二年の時が経ち現在の生活が固まった麻生家。普段顔を合わせることもない二人。そんなある日『あれ?と異変に気がついた。部屋が、なんとなく薄暗い』と母の自室に違和感を抱く人生。『いつもと違う。そう気がついた瞬間、とてつもなく悪い予感が疾風のように胸を横切った』という人生の心の内。そんな人生は座卓の上に白い封筒を見つけました。『人生へ』という宛名。『恐ろしいほど震える手で、封を切った』という封筒の中の手紙には『私は、もうだめです…疲れ果ててしまいました。しばらく休みたいので、どこかへ行きます。死んだりはしません』という衝撃の言葉が並びます。『あなたはあなたの人生を、これからも好きなように生きていってください』というその内容にショックを隠せない人生はもう一枚の手紙に気づきます。『この中の誰かに連絡を取ってみてください。あなたのことを助けてくれる人が、ひょっとするといるかもしれない』という内容。そして10枚の年賀状が同封されていました。そんな年賀状を見た人生はそこに『大好きだった祖母の名前』と『私は余命数ヶ月…』というまさかの一文を見つけます。『長野県茅野市…』、両親の離婚後行けなくなったその場所。『蓼科へ、行こう』、『きっと、母が自分に託した、たったひとつの「希望」に違いないのだ』と人生は立ち上がるのでした。
両親の離婚、いじめ、引きこもり、認知症、農村の後継者問題等々、とても多くの事柄を一冊の本にまとめたこの作品。冒頭と結末に象徴的に描かれる『おにぎり』、その中の具である『梅干し』、そして麻生人生が『自分と世界とを繋いでくれていた唯一の糸』という『ケータイ』の三つが麻生人生の心の内と巧みに連動して物語をぐんぐん引っ張っていくこの作品。ここでは、『梅干し』を取り上げたいと思います。『人生は、子供の頃、決して梅干しが嫌いではなかった』という幼い頃の人生。正直なところ『梅干し、すっぱいからやだな』という人生。それに対して『小さい頃はいやだったけど、おばあちゃんに教えられたのよ。薬だと思って食べなさい、って』という母。『思い切りほおばって、すっぱいッ、と大げさに顔をしかめ』 ながら食べると『いつも母が笑うのだ』という反応を意識します。『母を笑わせたくて、そして喜ばせたくて、人生は、ちょっと苦手な梅干しを毎日欠かさずに食べた』という幼い人生の喜び。『親子三人のおだやかでささやかな暮らし』が『そのさきも、ずっと続くと思っていた』という人生にとって、梅干しはその象徴でもありました。それが両親の離婚により生活に余裕がなくなった日々は、梅干しを漬ける時間を母から奪います。『ごく自然に、食卓の上からも人生の弁当からも、梅干しは消えていった』という辛い毎日。しかし、しばらくして母は再び梅干しを漬けます。『母でない人が作る梅干しは、あの色、あの酸っぱさ、あのむずむずするなつかしさをたたえたものではない』という母の特別な梅干し。『樽の中で赤く染まっていく梅干しを、早く口に入れたいような思いにかられた』という梅干しを再び口にする日を楽しみに待つ人生。そして、いよいよ、そんな梅干しを母のおにぎりと共に頬張る日がやってきます。しかし、その心待ちにした日は『いじめる側にはいじめる理由など何もない。ただ感情の赴くままに、ターゲットと見定めた者に向かって暴発する』という激しいいじめの暴力の正にその中で訪れました。『砂まみれの白飯のひとかたまりを、右手がつかんだ。その真ん中に、梅干しが埋まっていた。人生は、それを口の中に押しこんだ。ガリッ、といやな音がした』という陰惨を極めるいじめによって梅干しを強引に口にせざるを得なかった人生。その後、二度と梅干しを口にしなくなった人生。梅干しを避けるようになった人生。それは梅干しが、最悪の瞬間の記憶を呼び起こすトリガーになってしまったからに他なりませんでした。そもそも我々に食べ物の好き嫌いがある場合、それは単にそのものの味や食感だけが理由とは限らないと思います。そのものをかつて食べた時の思い出、それは楽しいこと、嬉しいこと、一方で悲しいこと、苦しいこと、そんな記憶がその食べ物を食べることで一緒になって蘇ってくる、食べ物が過去の記憶を呼び起こすトリガーになることがあるように思います。食べ物は、視覚と味覚と臭覚という三つもの感覚を同時に刺激するものであるからこそ、それをトリガーとして蘇る過去の感情には抗しがたいものがあるのかもしれません。この梅干しが後半どう描かれていくか、これ以上は触れませんが、食べ物をこんなにも印象深く、かつ全編に渡って主人公の感情の細やかな動きとともに、その心の内の象徴のように描いてゆく原田さん、これは凄いと思いました。
そして、『堂々と、自分の人生を、自分の好きなように生きなさい』と書き残していなくなった母。四年以上にも渡って引きこもりの毎日を送ってきた人生には、これはまさしく青天の霹靂です。『自分の好きなように』と言われても生活力のない身には、明日を考えることさえ困難な状況になるのはある意味やむを得ません。そんな人生が頼った人物は『特に記憶障害が顕著で、それも対人に限って記憶が失われている』という認知症の祖母でした。そして、そんな祖母と『こんなにうまい食事をしたのは、いったい、いつ以来だろうか。誰かと一緒に食事をする、そのこと自体がひさしぶりだった』という機会を得ます。『誰かと向かい合って、人の手のかかった食事をするひととき』、その心の内に湧き起こる『あたたかく体中に溢れてくる、この気分。それはまぎれもない「喜び」。長いあいだ忘れていた感情だった』という食の風景が幼い頃の幸せな日々の記憶を人生に呼び起こさせます。『ああ、おれは、なんて長いあいだ、この豊かなひとときを忘れ去っていたんだろう』と何かが変化していく人生の心の内。それは『あの、お替わり、もらっていいすか』という自然なコミュニケーションの第一歩を踏み出します。そして、ここに『おにぎり』の登場。『おにぎりって、なんかこう、実にいいかたちをしてると思わない?』という問いかけにハッとする人生。『人の手で結ばれたかたちをしているから』というその理由。『ふたつの手と手を合わせて、ほっこりと握る。それがおにぎりのかたち』という納得の理由。そして『これを食べる人が健康でいっぱいご飯を食べられますようにっていう、作った人の祈りのかたちなんだ』という言葉の説得力が人生の心を打ちます。そんなきっかけが、後半に向けて『おれも、自分で作ったお米で、ばあちゃんにおにぎりを作ってあげたい』と人生の心の中に前向きな感情を育んでいきます。前向きな気持ちを持つことで開けていく未来、力強く、真っ直ぐに、そして顔を上げる、上を向く、そんな人生の姿が一切の不自然さなく感じられてしまう結末。この作品が持つ人生の感情の変化の説得力には、『梅干し』、そして『おにぎり』という食べ物の印象的な描写がとても大きな役割を果たしていたと思いました。
全8章からなるこの作品では後半3章をぶっ通しで米作りの風景がとてもリアルに描かれます。『一生けんめいに、何かひとつのことに打ちこむ人間は、こんなふうに輝く』という人生が歩み出した道。『ぼくらは、みんな、生きているんだ。生きることをやめない力を持っているんだ』というすべての生き物が持つ力。そう、私たちは力強く生きることができる。あきらめさえしなければ、どんな状況にあってもきっと再び立ち上がることができる。『「自分の力」を信じて、とことんつき合ってあげなさい。ー自分自身に』。そう、そして、未来へ。
「生きるぼくら」、それは人が持つ、そして自然が持つ生命力の圧倒的な強さを再確認させてくれる、そんな作品でした。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
引きこもりだった主人公の人生(じんせい)24歳、対人恐怖症のつぼみ21歳、就職活動がうまくいかない大学生の純平、若い三人が米作りを通して成長してゆく。
人生のおばあちゃんのこだわる、「常識的ではない米作り」。機械も農薬も使わず、肥料さえも施さない。さらには田んぼを耕すことさえしない。何もしなくても自然にふかふかの土になる。
「冬のあいだも生き物たち、がんばってくれてたんだ」「がんばってないよ。自然のまんま、そのまんまなだけ。がんばらなくても、みんな一緒に生きてるのよ。私たち、繋がり合って生きているのよ」
米の一生は人間の一生に似ている、と話すおばあちゃん。お米が、悩みを抱えた三人の若者たちの姿とも重なって、立派に実りますように‥‥と祈らずにはいられませんでした。
おばあちゃんのこと、そして三人の若者たちのことを見守る近所の大人たちがみんなあったかい人たちばかりで本当に良いお話でした。 -
原田マハさん『生きるぼくら』
本の表紙を見ると、田んぼの中から
素敵な笑顔の女の子と手を振る男の子がこちらを見ている
『あれ?読者に向けて手を振ってるのかな?』と思ったら、裏表紙に木陰で休んでいるおばあちゃんがいたっ!笑
おばあちゃんに向けた2人の笑顔、
んー、良い!とっても可愛い!
2人はマーサおばあちゃんのお孫さん。
2人とも心に深い傷を負い家に引きこもっていたが、ある年賀状をきっかけにおばあちゃんの家で出会う。そして壊れてしまったおばあちゃんの代わりに昔ながらの特別な方法で米作りに挑戦する。
おばあちゃんは言う。
『お米の一生は、なんだか、人の一生に似ているのよ。』
春から秋にかけての米作りの季節
若い2人がぐんぐん成長する姿が、小さな籾が成長し金色の稲が沢山のお米を実らせてキラキラと風になびく景色と重なる。
感動が山盛りいっぱいにつまった作品。
日本のソウルフードお米、おにぎりの
素晴らしさを再確認できたっ!
読後、自分もぐんぐんとはいかなくても、
1ミリでも2ミリでも成長していきたいなと思う
お話でした(〃ω〃)
ひろ、aoi-soraちゃんのおすすめ本。
本当に良いお話だったよ
ありがとう‼︎-
あおちゃん、おつかれー!
ほんとーーーに、良いお話だったよぉ
東山魁夷さんの表紙も素敵だねぇ♡
そうそう、感想に書こうか悩んで書かなかったん...あおちゃん、おつかれー!
ほんとーーーに、良いお話だったよぉ
東山魁夷さんの表紙も素敵だねぇ♡
そうそう、感想に書こうか悩んで書かなかったんだけど、
みしゃか池の場面凄かったねっ!
あそこの場面だけ突然文章の色が変わったというか、自然の香りまでこちらに届くような文章に感動したよぉ!
そして大好きな東山魁夷作品の描写、素晴らしかったなぁ(*´꒳`*)
いつか絶対にみしゃか池に行こうって思ったよ
あおちゃんとひろのおすすめ、本当に感動が詰まった作品ばかりだよ
いつもありがとう(^^)
晩御飯のゆくえ気になるぅ〜(>_<)2022/07/28 -
御射鹿池の描写は、本当にすごいね。
神聖な場所にいる空気感に変わるというか…
私、この本読むまで、東山魁夷の事もよく知らなかったの。
...御射鹿池の描写は、本当にすごいね。
神聖な場所にいる空気感に変わるというか…
私、この本読むまで、東山魁夷の事もよく知らなかったの。
まぁ聞いた事ある、くらいで(^_^;)
けど、これ読んだあと調べて、この場所は絶対に行こうと思ったよ!
長野の美術館にも、作品があることを知り、興奮。
(わたし地元は長野県(^_^;))
☆夕飯は、冷やしうどん☆2022/07/28 -
御射鹿池の場面の事を話せて嬉しい!
うんうん、この池も美術館も行ってみたいよね!
あおちゃん、長野出身なんだね
じゃあ、帰省したら、どちら...御射鹿池の場面の事を話せて嬉しい!
うんうん、この池も美術館も行ってみたいよね!
あおちゃん、長野出身なんだね
じゃあ、帰省したら、どちらも行けるかもだね
ふふ、うちも、明日は冷やしうどんにしよっかなぁ
(^^)2022/07/28
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この本の主人公の、人生(じんせい)くん。
三浦しをん作『神去なあなあ日常』の、勇気くん。
誉田哲也作『幸せの条件』の梢恵ちゃん。
お節介な仲人おばさんと化して3人のところに押しかけ、意気投合させて
「日本の第一次産業を引っ張ってくぞー!の会」結成の瞬間を
ぜひ見てみたい♪ なんて妄想してしまいます。
「男子ふたりの名前が揃いも揃って暑苦しい」と、梢恵ちゃんに突っ込まれそうだけれど。
マーサさんのおにぎりが、亡くなった母が握ってくれたおにぎりに重なって
ああ、あのおにぎりを、もう一度食べたいなぁ!と思いました。
友達のお母さんが握るおにぎりは、小さい俵型とか三角とか、どれも可愛らしいのに
母のおにぎりはゲンコツみたいに大きくて、まんまるで
幼心になんだか恥ずかしかったりもしたのですが。
小さいおにぎり、三角おにぎり、ゲンコツおにぎり、そのどれにも
炊き立ての熱々ごはんを握ってくれた人の想いが込められていて。
そして、そんなおにぎりをリュックに詰めて出かけた遠足。
バスの車窓から「きれいだね~」と無邪気に眺めた青々とした田んぼでは
ひと粒の種籾から4000粒のお米が取れるのだと言うけれど
その4000粒をつつがなく収穫するまでには、気が遠くなるくらいの
手間と時間がかかっていて、そこにも、関わった人の想いが乗っかっていて。
今も田んぼを「きれいだなぁ」と眺めるばかりの私が
簡単に感動した!なんて言うのは申し訳ない気がするのですが、
いじめ、引きこもり、加齢、認知症など、生きていればこその辛さを
自分たちの血となり肉となる米を作ることで、キツさも喜びも含めて
じわじわと乗り越えるつぼみや人生に
うん、そうだろうなあ、そうでなくちゃ!と、やっぱりうれしくなるのです。
自分で作ったお米で、大切な人におにぎりを作ってあげたい。
そんな具体的で、現実的で、がんばればきっと手が届く希望を胸に米を作り
誰かが握ったおにぎりに、生きることをやめない力をもらう。
そんなふうにして続いていく人の営みが、しみじみ愛おしくなる1冊です。 -
いじめから、ひきこもりとなった二十四歳の麻生人生。頼りだった母が突然いなくなった。残されていたのは、年賀状の束。その中に一枚だけ記憶にある名前があった。「もう一度会えますように。私の命が、あるうちに」マーサばあちゃんから? 人生は四年ぶりに外へ! 祖母のいる蓼科へ向かうと、予想を覆す状況が待っていた−−−−。人の温もりにふれ、米づくりから、大きく人生が変わっていく。
「徳間書店 内容紹介」より
いろんなテーマが入った素敵な作品.ちょと涙がこぼれた.
人って自分がやりたいことを自分で何かを選んでいくのが一番いいんだなと思う.それは年齢とか関係なく誰にとってもそう.それから、人が生きていくのは一人ではないんだなと改めて思った.精神的に子どもな時は、そんなことには気が付かないのだけれど、いろんな経験を経てやっぱり人は一人では生きていけないんだなと再確認する.
私は周りの人に感謝できているかな.原田マハさんの作品を読んでいつも思うのは、翻って自分はどうだろう、ということ. -
とてもいい話でした。
ひきこもりの若者が立ち直っていく話が、淡々と自然に、じつは熱をこめて、描かれています。
学校でのいじめがきっかけで、ひきこもりになった麻生人生。
母は働きづめで、毎日おにぎりと大量のカップ麺を用意しておいてくれたが、人生が24歳のある日、疲れたと出て行ってしまう。
その正月に来た年賀状を見るようにという書置きを残して。
蓼科に住む祖母のマーサ(真朝)には、両親の離婚後会っていなかったが、年賀状を見て訪れることに。
座敷童子のような女の子が同居しているのに驚くが、つぐみというその子は相次いで両親を失って対人恐怖症になっているという。
マーサおばあちゃんは認知症になっていた‥
マーサおばあちゃんは古来からある農法で米を作っていて、農薬を使わないために大変な手間がかかる。
近所の人に教わりながら、マーサおばあちゃんの田んぼで米を作ることにした人生。
やや上手く行き過ぎの感もありますが、これだけ一気に環境が変わると、そういうこともあるかもしれない。
農業の描写に熱がこもっているため、説得力があります。
作者が何度か取材したというレベルでなく、1年にわたって通い続けたからなんでしょうね。
就活に行き詰って家に逃げ帰ってきた大学生に、さりげなく物を教える立場にいつの間にかなっているという。
母親になかなか連絡を取らないのが気になっていました。
お母さんは本当に疲れたんだろうなあ、でも今突き放せば何とかなるのではないかという感触もどこかであったのでは‥それにしても、はらはらしていたことでしょう。
最後は感動的で、心からほっとしました。 -
高校生のとき、ひどいいじめにあったことがきっかけで引きこもり生活を送る、24歳の麻生人生。食事は母親が準備したコンビニのおにぎりやカップ麺。ずっと支えてくれていた母親も生活に疲れ切ってしまい家を出た。一人残された彼は残されていた年賀状を頼りに、父方の祖母が暮らす蓼科の家を目指す。
ようやくたどり着いた家には、父親の再婚した相手の連れ子である、21歳のつぼみがいた。不機嫌そうな彼女もまた、両親を失い、祖母であるマーサばあちゃんを頼ってきたのだった。
頼みの綱の祖母は、息子を失ったショックが引きがねとなり、認知症の症状を呈し、人生のことを思い出せないようで・・・。
それでも人生のことを気の毒に思った祖母が用意してくれた食事の、とくにご飯のおいしさに目を見張る人生。今までの彼は空腹を満たすためだけにものを口にしていたことに気付き、相手を思って用意した心のこもった食事によって心も満たされていく。
祖母の家を自分の居場所として根を下ろすことを決め、仕事に就き、ついには、つぼみや周りの人たちの助けを借りて、無農薬の不耕起栽培で稲作に挑戦することを決意する。
なんといっても、収穫した米をかまどで炊き、豚汁や漬物とともに、米作りを助けてくれた人たちと一緒に味わうシーンがいい。苦労してきた過程の一つひとつが味わいを深め、本当にうまいご飯を笑顔でほおばる人生たちがいる。
香りや匂いは脳に直接届くらしいんだけど、うまい!という感情も脳を直撃しそうな気がする。
それらの苦労と味わいによって、人生は祖母や母親に対して「ごめんなさい」と「ありがとう」が心の奥から引き出されてくるのだけど、相手を思って行うことが、結局自分の足元をしっかりと固めてくれていたんだよね。
年末年始ハレの食事が続いて、出かけた先で贅沢して非日常が続いていた私。どれももちろんおいしく満足だったんだけど、日々のごはんも暮らしも無理のない範囲で(←現実的!)大切にしたいなあと、読み終わって思うのでした。 -
人もコメも、愛情を込めて、手間暇をかけて根気強く育てることで、美味しい実がなるんだなあと改めて思った。
そして、それ自身の「育つ力」を信じること。
手作りのおにぎりは格段に美味しい。特にかまどで炊いたコメでなんて最高だ。
コンビニのおにぎりはどうしてあんなに味気ないのだろう。不思議。
いじめを受けて、不登校、引きこもりになった主人公の人生。
知り合いに、同じような経験をした人がいて、その人の境遇に重ねながら読んだ。
あの人も、人生のように救われるだろうか。
心が回復するだろうか。
とはいえ、ちょっと田舎を美化しすぎてるなとは感じた。
悲しいかな、現実の田舎はこんな優しさばかりに溢れてはいない。
そして認知症も、こんな奇跡はそんなに起こらない。
こんな物語の中のような優しい世界だったらいいのに。
かまどで炊きたてのお米が食べたくなった。 -
いじめ、とか身内の死、とか老いによる痴呆とか。
それまではすっきりと晴れ渡っていた青空が
突然現れた暗雲に覆われてしまうと
途端に
不安になる。
泣きたくなる。
絶望する。
そして
時に死にたくなる事さえある。
だって
もう見上げても(生きる)希望なんてどこにもないから。
私達の心は
鏡の様に空を映す、まるで海の様だな。
でも、
心は海でも体は違う。
体は単純に生きたがる。
腹が減ると
ぐうぐう鳴って
(食べましょう!食べましょう!)
と、騒ぎ出す。
食べましょう、食べましょうとは
即ち
生きましょう、生きましょう、と同じ事。
『生きるぼくら』は、
私にとって、晴耕雨読小説だ。
晴れた日はくたくたになるまで
働き、
(物語では米作り、これが相当楽しいっ♪)
何にも出来ない日は
読書で一休み。
表紙では物語の主人公の若い二人が
お日様みたいな笑顔で手を振っている。
その裏表紙には木陰で2人を見守るおばあちゃんの姿。
私はどっこいしょ、とおばあちゃんの隣に腰掛け、
宮沢賢治の詩集と
東山魁偉の画集を広げ、
この素晴しいひと時を楽しむのだ。
暗い雲の事など、読後にはすっかり忘れてしまうだろう。 -
母子家庭でのつましい暮らし。ひどいいじめをきっかけに高校を中退し、就職口を探すも見つからず。。いつしか引きこもり4年目を迎えた人生。そんな折、母が突然失踪し困り果てた彼は蓼科でひとり暮らす祖母を訪ねることにしたのだが、ようやく会えた彼女は認知症を患っていた・・・。
マーサおばあちゃんと人生、そして「もうひとりの孫」つぼみと。奇妙な3人の生活が始まり、、、
トラウマから抜け出せず、梅干しを食べられない人生と両親を失い、心ない人々のせいで対人恐怖症になったつぼみ。マーサおばあちゃんの認知症の進行を食い止めるきっかけになればと、自然農法による米作りを再開しようとする二人だがそれは思った以上に困難な道であった・・・。
愛情を込め、人の手で握られたおにぎりの味。自分たちで育てたお米の甘み。赤くて酸っぱい梅干し。
いじめ、ひきこもり、認知症、介護、就職難・・・現代の問題を包括しながらも、美しく厳しい蓼科の自然と、あたたかくパワフルなおっちゃん・おばさんに囲まれて変わっていく若者たちが清々しい。