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Amazon.co.jp ・本 (304ページ) / ISBN・EAN: 9784198654412
作品紹介・あらすじ
事実に基づかない「不安と怒り」が
社会を扇動する。
デマ、フェイクニュース、流言蜚語
利益を享受するために「まがいものの正しさ」を
撒き散らす奴らの正体とは――。
「3.11後の福島」で
被災と「風評」の地獄を見た著者が
生々しい実体験と共に
この国に蔓延する「正しさ」の嘘を斬る。
東電原発事故
トリチウム処理水
新型コロナウイルス
HPVワクチン…
恐ろしいのは危機の本体だけではない。
不安と怒りを煽る「情報」が巻き起こす
「情報災害」
そしてそれを広げていく
「風評加害」だ。
『現代ビジネス』『SYNODOS』『正論』など
福島在住のジャーナリストが問う
言論界が注目する、初の著書刊行!
<目次>
はじめに
第1章 「情報災害」とは何か
メディアが「引き金」を引いた
デマや流言、風評は何故発生するのか
「神が去った」時代を迎えた社会
「情報過多」は「情報不足」と同じ
「寝た子は起こすな論」
活動家がデマや差別を再生産する
「嘘も百回い言えば真実となる」…ほか
第2章 複合的「情報災害」と福島
コロナ禍における「情報災害」とデマ
隠蔽、陰謀……テレビ報道による扇動
福島野トリチウムだけが害悪視
活動家の「反対」は何のため、誰のためか
福島と水俣の共通点としての「情報災害」
韓国の外交カードとしての風評扇動
陰に埋もれた「避難するリスク」
「ゼロリスク志向」が生み出す別のリスク
プロパガンダとしての「風評加害」
…他
コラム:「迷信」が差別を引き起こした例
第3章 印象操作という「引き金」
「ほのめかし」報道は何を狙うのか
脱原発学習会報告「福島はレントゲン室と同じ」
差別が原因で福島空港発便がキャンセル
次世代への被曝影響を誤解させる記事
…他
第4章 「情報災害」を記録するということ
福島を巡る言説は現場の声と乖離していた
「フクシマ」は忘却されるのか、消費されるのか
地域の「尊厳の喪失」から立ち上がるために
…他
コラム:放置しても「情報災害」は広がる
第5章 「情報災害」と、その後
「情報災害」の長期的な影響を知る
「浜焼き文化」復活の軌跡――相馬
風評加害と闘った生産者たちの11年――南相馬
ホッキメシと私の故郷――双葉郡
…他
終章 教訓は生かされるのか
マスメディアが「加害」に加担する構図
元首相5人が世界に放った独善の「正しさ」
「間違いの可能性」を含んで情報を伝える必要
…他
おわりに
みんなの感想まとめ
社会に蔓延する「正しさ」の嘘と、それを助長する情報災害の実態を鋭く描いた作品は、震災後の福島をテーマにしています。著者は、メディアや無責任な発言が引き起こす風評被害に対する強い怒りを表現し、情報の正確...
感想・レビュー・書評
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【まとめ】
1 情報災害の広がり
かつて歴史を動かしてきたのは武器だったが、現代社会では民意が社会を動かしている。先進国を中心に「ポリティカル・コレクトネス」が叫ばれて久しいように、民意に支持された「正しさ」こそが、社会を大きく変える最強の武器になったと言えるだろう。
その一方で、民意は「正義」「不安」「怒り」に容易に流されやすい。そのため、こうした「正義」による「正しさ」の上書きや、社会における地位や正当性を巡っての激しい主導権争いが、社会の至る所で見られるようになった。
個人が、メディアが、あるいは様々な意図を持った集団が流布した「情報」が、大量の人命を不条理に奪い、傷つける。このようなケースを本書では「情報災害」と呼ぶ。「情報災害」は、「報道被害」も含め、「誤った情報により助かったはずの存在に犠牲と被害をもたらす災害」でもある。
2 東電原発事故の情報災害
2011年に起こった東電原発事故でも多くの「情報災害」が発生していた。
この東電原発事故で、福島県の「震災関連死」は被災による直接死を大幅に上回った。直接死が1605人に対し、関連死は2331人にも及ぶ。地震や津波など災害本体で亡くなった数を上回る人々が、無理な避難や過度のストレスに関連して犠牲になっているのだ。これは同じ東日本大震災で被災した宮城県、岩手県と比べても突出しており、特異な状況である。
そして、東電原発事故では敷地外に放出された放射性物質の量は、結果的にはチェルノブイリの原発事故と比べて桁違いに少なかった。汚染された範囲の面積を比べると、汚染の広がりはチェルノブイリの6~8%程度。放射性物質の放出量で見ると、ヨウ素131はチェルノブイリの10%程度で、セシウム137は20%程度に留まる。
皮肉にも、福島の住民で直接健康に影響が出るような被曝をした人はいなかったのだ。
これらの結果から見えてくるのは、「避難自体が人命を奪った最大の要因であった」という極めて強い可能性の示唆である。
もっとも、事故当初はどれほどの量の放射性物質が放出されるかが未知数であった以上、避難には止むを得なかった面もある。加えて、事故によってパニックに陥った社会では「避難しなければ危ない」として、避難を当然視する言説が圧倒的な支持を集めてもいた。
だが、避難にも看過できない大きなリスクがある。それが原発事故での放射線被曝以上の健康被害を住民にもたらす可能性であることが、過去の教訓から再三指摘されていた。仮に事故前からこうした知見、すなわち「正確な情報」が共有され生かされ、誤った情報の駆逐や帰還支援がもう少し迅速に進んでいたならば、それが間に合わず避難した後であっても、「震災関連死」を大幅に減らせた可能性は高い。
一方、世間ではそうした「正確な情報」とは真逆の情報が発信されていた。例えば2011年当時、メディアには、〈(チェルノブイリでは)事故が起きた翌日にはキエフからバスを出動させ、原発の周辺地域に住む住民を避難させました。福島第1原発では事故が起きたとき、政府は近隣の住民を助けようとしませんでした〉〈子どもたちを無理心中に引き込まないでください〉などの言葉が溢れていた。
事故に乗じた誤情報や恐怖を煽り、間接的に「引き金を引いた」言説(情報災害)を野放しにしたまま、全ての責任を原発事故に押し付けるだけで良いのだろうか。再び何らかの災厄が起こった際、同じ構図が繰り返されてしまうのではないか。
3 安全と安心は別の問題
原発事故の文脈で漫然と使われてきた「安全」「安心」とはそもそも何かを整理しよう。
たとえば、何らかの災厄や問題が生じるたび、社会では解決目標として「安全安心」という言葉がしばしば使われてきた。一方で、実際に起こっている風評の問題を追うと「安全であっても安心できない」など、一見矛盾するかのような台詞を耳にすることが多い。
「安全」と「安心」はそれぞれ「災害本体」と「社会不安」という、全く別の問題に対応する言葉だと見ることはできるだろう。いわば災害本体からの復興が「安全」であり、社会不安からの回復が「安心」と言える。「社会不安」は「情報災害」を引き起こす大きな要因になる。「安全であっても安心できない」は、災害本体に比べ「情報災害」への対応が不足することで頻発する。同時に起こりながらも、対応すべき本丸を全く別にした「安全」と「安心」の言葉は、解決策を見誤らないためにも安易に混同されるべきではない。
仮に被害状況が可視化共有されたとしても、その解決には大きな困難が伴う。どれほど厳重に「安全」を確保し、裏付けとなる客観的な根拠を山ほど積み重ねて説得したところで、人の「不安」をはじめとしたお気持ちの問題は、最終的には本人の納得でしか解決できないからだ。
4 情報過多は情報不足と同じ
ここで一度「情報災害」の大きな要因となるデマ(主に事実に反した誤情報)、風評(主に人々の内心の不安や誤解による忌避)、流言(デマや風評の伝達)などの「事実と異なる印象や誤解の発生、およびそれらの伝達と共有」が、何故どのようなメカニズムで起こるのかを考察した先行研究をいくつか参照してみよう。
たとえば「a」と「c」とが存在し、両者の間にあるべき「b」が不足していると、人々は全体を首尾一徹させるために「bダッシュ」を作り上げる必要に迫られる。つまり、流言蜚語は情報が不足している状況下で、それを補う「何らかの確からしさ」という材料が一定程度提供されることで生ずるというのだ。しかし当然ながら、埋め合わせに使われたそれらが事実と一致するとは限らない。
まして情報化社会と呼ばれて久しい現代は、莫大な量の「確からしさ」と成り得る材料が縦横無尽に飛び交っている。人々は供給過多の選択肢を前に真偽を区別できず、結果として「(選択肢が多すぎて何が正しいのか判断するための)情報が不足している」状況が多発している。皮肉なことに、情報の過多は情報不足と同様の意味をもたらしてしまうのだ。
アメリカの日系人社会学者、タモツ・シブタニは、流言を「人々が情報の真偽がはっきりとせずそれを確認する方法もない『曖昧な状況』に巻き込まれると、主に口頭コミュニケーションを用いて情報を交換し合う補助的チャネルの情報を通して、曖昧な状況を合理的解釈で定義付けようとする試み」に原因を求めている。
情報過多な現代社会において何らかの風評が続く場合に考えられる主因は、次の2つにあると言えるだろ。
・ユーザーの関心を充分に引き付けられていないこと
・粗悪な情報が放置され続けてきたこと
決して「正しい情報が不足している」からではない。伝達を妨害するノイズこそが問題の本質なのだ。
5 福島に起こった風評加害
「情報災害」には、問題をさらに複雑かつ深刻にする存在がある。それは、流言蜚語や風評被害を拡散・温存させようとする「風評加害」だ。
このような「意図的な虚偽情報の伝聞」「伝達情報の特定部分の強調や変形」「非合理的で恣意的な解釈によって虚偽情報がまき散らされる」行為によって正確な情報の伝播拡散を妨害し、誤解や偏見と温存・拡大させようとする言動を、本書では「風評加害」と呼ぶ。
オルポートらはデマがやりとりされる動機の一つに、「デマは心を鎮めるような言葉の捌け口を設けることによって、感情の存在を擁護・正当化し、あるいは周囲の世界を認識する欲求を満たす」「人が知らない情報を『知っている』ということで優越感を満たす」としている。「風評加害」を繰り返す人々は、「客観的かつ正確な事実を求めて流言に受動的に惑わされた」のではなく、「主観的かつ自分達が望む『真実』を求めて流言を能動的に広めた」のだ。
福島で発生した風評加害は、「政治的プロパガンダ」「商売目的」「自己顕示欲の発露」などを要因とした複数の「情報災害」が同時に発生していた。この状況をもたらした原因は何か、といえば「正しい情報の発信が足りなかったから」ではない。デマや印象操作、不安をかき立てる「虚偽や粗悪情報」が溢れたためである。さらに踏み込めば、正しい情報の浸透を遮り妨害してきた勢力が少なからず存在することに問題の核心がある。
一部の人間にとって、原発事故は単なる自然災害やインフラ事故ではなかった。「唯一の戦争被曝国」であるわが国において、しばしば政治的な意味を持たされてきた「原子力」は、その事故も当然のように極めて政治的な問題と化し、政治的な対立に利用されてきた現実がある。
福島では被曝そのものでの健康被害が出ていないことが、国連科学委員会の2013年報告書の時点ですでに明らかにされていた。しかし、あれほど福島を気遣い、「心配」するあまりに数々の不安を振りまいてきたはずの言論人の多くがこの朗報を黙殺、メディアも報告書をまともには取り扱わなかった。
そればかりか、テレビ朝日『報道ステーション』はその後も「被曝影響で甲状腺ガンが発生している」かのような、国際的知見に真っ向から反対する報道を繰り返した。
一連の出来事に共通しているのは、人の健康や差別にも関わる重大な情報であるにもかかわらず、国際的な知見やエビデンスの積み重ねを経た事実が伏せられたまま、偏ったイデオロギーに根差した願望、感情や情緒的な決めつけが「真実」のごとく取り扱われ、社会に押しつけ続けられてきたことだ。
何故、このような事態が起こってしまったのか。
そこには、原理主義的な「反権力こそ正義」との幻想と、根底に潜む選民思想と福島への差別意識があったからにほかならない。
「リベラル」「弱者の味方」を自認していたはずの人々が独善的な正義に拘泥し、強い善意のままに「正しい」と信じて、福島への風評加害者となってしまった要因を3点挙げておきたい。
①「お客様」「被害者」意識が強く近視眼的である。自分達の日常を支えている仕組みに対する想像力に欠け敬意もない。常に自分が評価・選択できる権利を当然と考え、人の思惑が及ばない科学的事実よりも自分達の「お気持ち」が優先されるので、議論や対応の前提となる客観的事実や情報が正しく共有できない。
②国民の安全と健全な民主主義を護る手段としての「権力の監視」自体が目的化・私物化されてしまっている。これは復興も含めた様々な政策への執拗な妨害につながり、国益の損失という害につながっている。
③自らも実は別の巨大権力であるという自覚がなきまま暴走し、恣意的に弱者を選別したり、弾圧することを厭わない。自分は権力に抵抗しているつもりなのに、やっていることは被災地・被災者の利益や人権を攻撃することになっている。
6 行政は加害を食い止めてこなかった
福島県を中心にこれまで続けてきた「風評対策」は、「正しい情報さえ発信し続ければ理解が進み、偏見や風評が消える」かのような、善意を前提とした対応ばかりで、強かさに乏しいものだった。ウェブサイトやパンフレットの作成・配布にしても、「福島のものは美味しい」と物販支援に力を入れたこと自体は否定はしない。だが一方で、行政は枕詞のように風評「被害」を何度も訴えていながら、対となる風評加害の存在と原因からは一貫して目を背け続けた。悪意に満ちたデマや差別、嫌がらせに対して、法的手段どころか直接反論すらせず野放しにし、一般住民を攻撃の矢面に立たせた。「政治的な役割から行政が逃げ続けた」とさえ言えるだろう。
処理水の放出に反対する福島の漁師は、その理由として「行政の不作為」と「当事者への救済の無さ」を挙げている。
「いや、そもそも処理水流したところでさ。基本的にウチらにはデメリットしかないじゃん。馬鹿じゃねぇの?って」「そりゃ科学的に安全だなんて知ってるよ。馬鹿にすんなよって。でも、率先してどんどん流してください~、なんて自分らから言った日には結局、ウチらが矢面に立たされて、悪者にされて、はい、オシマイでしょ?」「だから海洋放出反対だよって言ったら、今度は別の連中から悪者にされる。ウチらの立場なんて全然考えてないよね」
政治と行政の役割とは、過度に政治的事象から一歩身を引いて世論の「交通整理」をすることではない。行政が本来の政治的責務を放棄し、「対峙すべき相手」から頑なに目を背けていたのでは、緻密な理論武装や活発なロビー活動も生まれるはずもない。
7 情報災害解決のために何ができるか
情報災害の性質をまとめると、
①「情報災害」とは風評など人々の内心の不安やデマ、それらが伝播する流言によって生じるものであり、災害本体に勝るとも劣らない人的・物的被害を発生させる。
②特に現代社会において「情報災害」が多発する要因は、人々にとっての「信頼性を担保する存在」の不足と、それを補うための「救い」が多様化したことにもある。
③情報化社会かつ人権意識が高まり、「救い」も多様化した社会においては、誤った情報伝達の多くは、「正確な認識」あるいは「救い」と信じられ、共有された独善や正義によって行われる。
課題解決のために我々には何ができるのだろうか。
まず1点目について。「災害そのものでの直接的被害」との混同を避け、「情報災害による被害や犠牲」を可視化させていく必要がある。これは専門家や政府、マスメディアが大きな役割を担ってくる。
2点目は、「人々の関心を引きつけ信頼性を得ること」と、「人々を惑わせる危険で誤った『確からしさ』の排除」である。
3点目は、「人々の関心を引きつけ信頼性を得ること」「人々を惑わせる危険で誤った『確からしさ』の排除」に加え、人々の事実共有を妨げる悪質なエコーチェンバー、過度の党派性(イデオロギー主義)破壊が必要になってくる。言い換えれば、不要な不安や事実に反したデマが繰り返し共有されている、煮詰まったコミュニティに風穴を開けることだ。
ジャーナリストの武田徹は、報道についての「『可謬主義ジャーナリズム』の可能性」を説いている。それは「ジャーナリズムが無謬主義、つまりこれは間違いなく正しいという態度で情報を伝えるのではなく、現時点ではここまでわかったけれど、今後、新事実が出てくれば訂正されるかもしれないという間違いの可能性をあらかじめ含んだ可謬主義でなければならない」とするものだ。これが行政にまで生かされていたならば、硬直したこれらの問題の解決にも間違いなく資したに違いない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
2023年の処理水のタイミングであらためてベストセラーに返り咲いた、震災後福島の情報災害の記録。印象的な津田大介氏のTwitterの引用から始まる。
SNSをみていて情報の分断はもう避けられないのかと思っていたが、考えさせられた。 -
テーマはど真ん中でそれ自体は正しいのですが、どうにも本として稚拙過ぎて、読み進めるのが苦痛で、低評価になってしまいました。割と高評価が多いのですが、私と同じように合わなければ時間の無駄なので切り替えてもらえればと思い、この評価で登録します。
同じ福島出身者として、3.11からの混乱・風評被害には著者と同じく憤りを感じて過ごしています。この本は、その想いが強すぎて、むしろ「毒」として作用してしまっているから性質が悪い。事実を正しく発信する重要性を説いているのに、やってる事は強い言葉で人を扇動するデマと紙一重。
徳間書店の校閲や編成力ってこんな程度なの?
・どんなことでも正しさと誤りはある。なのに、誤りだけを取り上げて、発信者を無責任だと断じること自体が無責任な論調
・冒頭で津田氏の「専門的な知識が必要な情報は素人判断できないから有益な情報は広め、定点観測し、誤りがあった場合などは訂正などアップデートしていく」というやり方を断罪しているのに、本書では「専門的な知識が必要な情報を然るべき人が広め、デマや誤りは訂正するようアップデートしていく」と同じやり方を推奨している
・当時の混乱が結果的に誤りであったことを、今の時点で断罪し、それによる被害を訴えているが、あの時点で世界に例のない災害に対して正確無比な情報を提供することは不可能で、著者の言い分に従っていたら、取り返しのつかない被害が出ていた可能性があり、であれば初動としては取らざるを得ない選択肢だったことを考慮していない
・「恣意的に選ばれ続ける「地元の代表」」という章があるが、内容は「マスコミが欲しい言葉を言う特定の人物が毎回代表として載っている」ことを批判しているのであれば、「恣意的に選ばれる」のはその対処法として正しいのでは?もしかして、「意図的」「作為的」な意味で「恣意的」を使っている?校閲もOKなの?
・散々、間違った情報を広めた人やマスコミを責めてきたのに、最後のまとめは「「間違いの可能性」を含んで情報を伝える必要」というオチはどういうこと?
これは、著者ではなく、編集が責められるべき本だと思います。もっとうまく著者の想いを世に届けられる本にして欲しかった。 -
誰からの批判も受け付けつけず、ここまできてしまった第四の権力。メディア、報道。
福島を「フクシマ」、安倍元総理を「アベ」と呼び、人の不安を煽ったり、角度をつけた編集で、独自の正義を、デフォルトの正義に仕立て上げ、逸脱者を「追及」したりする姿は見るに堪えない。
丹念な記録で、そうした姿を露わにする著書。 -
福島に対する情報災害をもたらしたメディアや無責任な人々への強い強い怒りを感じた。
せめて自分は、風評加害に安易に加担しないように一歩立ち止まって考えるクセをつけないとなぁ、と思った。 -
「まがいものの正義」がどこから来るのか、誰から来るのか、私たちはもう知っているはずなのに、どうして対策がとれないのだろう?
「情報」というあまりにも危険な代物を扱うには、それなりの訓練を受け、資格を持った者に限るべきなのではないのか?と思うが、言論の自由とぶつかるからダメなんだろうか?
「風評加害者」を効果的に取り締まらないと、いつか民主主義が成立しなくなるのではないかと危惧してしまう。 -
ネットリテラシー全般に言える事だが、本書は3.11の実例を元に正義ではなく正確なデータを。
感情論ではなく、現実論で向き合う。3.11に限らず陰謀論なども跋扈している世の中なので、向き合い方は参考になる。現状(alps処理水など)がベストとは言えないが、現時点では妥当なのかもしれない。あくまでも災害後の風評被害に関する本で原発の必要性を問うものではない。 -
福島の方のリアルな声。
もっと正確に言うなら無観客の東京五輪では悪化しなかった、では??あくまでわかっているのは。
何を書かないかで印象って簡単に変わる
「自分達が想像した虚構の中に閉じ込め支配しようとする意識であったと言えるだろう」
これあちこちで起こってるよなぁ…「○○のため」と自分が全く関係ない分野で正義感に駆られて活動して、実際の立場の人が苦しむ構図だったり、実際をよく知ることなく勝手に相手を下に見て、自分を上と錯覚するような。
いくら正しい情報が発信されていたとしても、有象無象ある中で見つけ出すのは本当に難しいと感じる。
この方は情報の取捨選択にある程度信頼をおけると思える人を各分野ごとに見つけ、その人が紹介してくれることで知識を広げられる。
でも出だしを失敗すると、沼にハマってしまう。
相手のためを思えと言いながら相手を傷つける言葉を発する。
正しい情報を見いだすのが難しい場合もあるけど、明らかなデマや偏見の場合、振り回されていない人がいても、その場合はわざわざ存在をアピールすることはなく、でもデマや偏見は相手に届けることを目的にしているから余計に厄介。
「日本の避難基準設定は、チェルノブイリの反省と知見もある程度踏まえた上で、ICRP(国際放射線防護委員会)が示した、安全とされる年間20~100ミリシーベルトの範囲の中で、住民の安心を最優先した年間20ミリシーベルトを避難の基準として採用した。」とかもそうだけど、この本を読んでやっぱり歴史とか流れを知ることって大事だなって改めて思いました。自分の無知を棚に上げないよう気をつけていきたい。
人って普段いかに無頓着でも、1度見えてしまうとどんな数値も冷静に見れなくなって意味がなくなってしまうものなんだな。世の中0・100じゃないのに。
肩に止まった虫がいなくなっても根絶やしにしないと気が済まないようなものだな。
値下げを要求されることを見越して、最初から落とし込みたい数値は出さずに余裕を持たせて提示するというような頭はどこにでも必要なのかもしれない。
すごく丁寧に書かれていて、同じ話が何回も出てきまくるのがちょっと疲れちゃいました。特にまとめは1回でお腹いっぱい…。
こういう天変地異的なことが起きるとこじれやすいもので、余裕がなくなると視野が狭まり、皆が敵に見えてきて、疑心暗鬼でより自ら分断を深めてしまうものであり、結局当事者以外ができる1番のことって黙って見守るしかないんじゃないかって思いました。実際のところなんて外からはわかりません。
復興の形は人それぞれとあるとおり、一人ひとり、目指すもの求めるものが違うもので、であれば自分で動くしかない。
それに、ゆかりがなければ他人事になるのは仕方ないと思うんです、だってそれぞれ自分の生活があるんですから。原発のことがなくても、他の何かしらに相対しているものであり、そちらにだって敬意は必要です。
んで確かにその後の情報を追う意識というのは大事だと思うんですけど、それぞれの人生には他にもいろんな物事が起きるわけで、日々の中で全部追うなんてまぁ無理ですし、だからこそこうやってまとめて発信する存在は大事になってくると思います。そうすればこうやって読んで知ることができますしね。いろいろな困難を乗り越えての執筆ありがとうございます。
制限された一部地域はどこを指すんだろ?とかの情報も一緒に書かれているとありがたい。 -
原発事故から日が経たないうちの生々しい数々の報道を思い返すことができた。
全ての報道に悪意があるとは思わないが、所詮メディアは自分たちが作ったニュースを見てもらいたいがために刺激的に着色していることを念頭に置かなくてはならないと改めて思った。
声を上げるべき人(原発事故であれば政府や福島県)がきちんと正しい主張をするとともにデマへの取り締まりも行うべきである。
私たちが情報災害に立ち向かうにはセンセーショナルな報道にこそ疑問を抱き、一次情報への接続を試み、メディアや著名人の主張に流されないことだと思う。 -
風評被害が発生したならば、その加害者も必ず存在する。社会不安や怒りの煽動は、あたかも当事者のように詭弁を振るっているにすぎない。
東日本大震災の当事者である著者の、実体験に基づく説得力を感じた。
現代は情報過多で、情報を受け取る側の取捨選択負担が増加していることを実感する。
だからこそ、「正しさ」を主張するならば、流言蜚語を否定する証左を提示しなくては、信用に足らない。
だが、「情報災害」は広められるだけでなく、ことごとく放置されてきた。結果、真の当事者に被害と代償だけが残されてしまう。
「正しさ」を主張した個人が矢面に立たされ、傷つけられる社会であってはならない。
自身も風評を広め加害する立場になってはいけないと痛感するとともに、「情報災害」から個人を守るのはそれこそ行政、メディアの役割ではないだろうか。 -
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その通り。でも声をあげて本にしておかないと。福島県の放射能汚染から見える人間の本能の特性。誰もが持っている感情かも。
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名著。全人類に一読を勧めたい。
「情報災害」についてこれほどきちんと取り扱われた文献は他にはないのであろうか。東日本大震災被災当事者の著者と同列に語ることは誠に僭越ではあるが、繰り返し非科学的でイデオロギーまみれのデマに煮湯を飲まされてきた経験がある者として著者の怒りややり切れなさは理解できるところが多い。
圧倒的な誠実さで事実が語られている分、デマ屋お得意の「キャッチーなわかりやすさ」に欠けるところがなんとも悔しいところ。 -
第49回ビブリオバトル〜明石の陣〜テーマ「正義」で紹介された本です。オンライン開催。
2022.10.13 -
東2法経図・6F開架:361.45A/H48t//K
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東日本大震災に始める情報災害をどう読み解くか
「ファクト」という言葉も意味を持たなくなりそうな現状、この本はネットやSNSを使うための新しいリテラシーではないだろうか?
合わせて、優しさ〜も読みたい -
風評被害に対し、その加害者が存在するという観点がまず面白かった。今後の情報災害を未然に防ぐための公益性、という筆者の主張には賛同するが、同時に抑えきれない怒りみたいなものも同居しているように思う。
加害者として書かれている中で特に酷いのはやはり朝日新聞・東京新聞、れいわ・共産党といったいわゆる左翼陣営で、彼らが弱者の味方として政権批判をするために被災者に対する風評加害を如何にして実行してきたか、これを冷静に読むのは正直難しい。悪戯に分断を煽っても仕方無いのだが、彼ら加害者は一度は自分たちの過去の言説を振り返り、客観的・科学的な報道・情報発信を心がけるようにしてほしいものだ。 -
ちょっと筆に熱が込められすぎているというか、「福島の風評被害を伝えなければ!」という思いが大きすぎるせいで、メディアに対する批判の言葉があまりに強く、かえって筆者の見える範囲が狭まっているのでは?と思ってしまった。(←実際にはそんなことはないのだろうけど、そういう風に感じてしまうような文体だった、ということです。)
本書では「フィルターバブル」という言葉が引用されながら、結局、その人が見たい・知りたいと思っている情報しかその人には届かないということが触れられていて、それ自体は納得できる。しかし、では、正しい情報が自分のところに届いたと言えるのはどういう状況なのか?という部分をきちんと論じていないのが残念。
そこを説明していないと、筆者がフィルターバブルに陥っていないとは言い切れないと思う。
タイトル「『正しさ』の商人」というのは、正しさを商売道具として金儲けしているメディアに対する批判だと思うが、私の目には、結局のところ、風評被害を流すメディアも、それを批判する筆者も、お互いが「自分の方が正しい」と信じているだけにすぎないのでは?と思うような箇所もちらほら見受けられた。
正しさと正しさの衝突という状況が、陰謀論や風評被害やフェイクニュースへの盲信に繋がっているのだとしたら、結局この本が根本的な解決を提示したとは言えないと思う。
メディアの無責任な報道や人々のそれに対する無批判な盲信が、福島の風評被害につながり、現地の人々をひどく苦しめたということを記したルポとして読めば十分価値があると思ったが、タイトルが大仰すぎる。
筆者が書こうとしていることと実際にこの本の内容とにやや乖離がある。
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