家族療法の基礎理論: 創始者と主要なアプロ-チ

  • 朝日出版社
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  • Amazon.co.jp ・本 (506ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784255003573

作品紹介・あらすじ

ひとりの「病人」に、ひとつの「病因」があり、それに対処するために薬物を投与するのではなく-人と人との関係=システムから精神病をとらえる。ウィーナーの「サイバネティックス」、シャノン、ベルタランフィー、そしてグレゴリー・ベイトソンを理論的支柱とし、プリゴジンやマトゥラーナを取り入れた新しい方法論。

感想・レビュー・書評

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  • ナラティヴ・セラピーは、家族療法のシステム・アプローチへの批判のなかから生まれたもの。

    とはいえ、システム・アプローチ自体がよくわかっていないので、その分野全体を一望できそうなリン・ホフマンの「家族療法の基礎理論」を読んでみた。

    大著で、結構、専門的なので骨がおれたが、これはすごいな〜。

    ある患者の症状は、その人自身の本質からでてくるんじゃなくて、家族のシステムが生み出しているかもという視点。

    そういうことあるよね〜、と思ってはきたが、その辺のところが理論的にも臨床的にも解説されていく。

    ダブルバインド理論に始まり、3者関係、セカンドオーダー・サイバネティクス、コミュニケーションから構造への関心の変化などなどの理論的進化。そして、グレゴリー・ベイトソンにはじまり、ヴァージニア・サティア、ミルトン・エリクソンなどの有名な心理療法家、そして、これまで名前を聞いたこともない家族療法の大家たちの理論と実践が紹介されている。

    これまでいわゆるシステム思考は、
    ・因果関係の構造をあつかうシステムダイナミクス(時間の概念を扱う)
    ・関係性の構造をあつかう社会システム論(関係性と場の概念をあつかう)
    というふうに理解してた。

    もちろん、特徴としてはそういうのもあるのだが、「家族療法」は、社会システム論だけではなくて、システムダイナミクス的な因果関係、時間的なパターン、構造も包含しているんだな〜と目から鱗。

    あとシステム的なアプローチがしばしば対象としているグループに挑発的に関わっていく理由がわかった。システムの恒常性を破壊して、そこから自己組織化が生まれることを意図しているんだね。(時代によって、その根拠している理論は違うんだけど)

    わたし自身は、心理療法をやっているわけではなく、ましてや家族療法をやっているわけではないのだが、個人やグループに対するコーチングやファシリテーションをやっているわけで、よくぞこれまで、グループのこういう複雑なダイナミクスへの理解なしにやってきたなとちょっと空恐ろしくなる。(最初に知っていたら、もうやれなくなっただろうね)

    さまざまな家族療法のアプローチがなされたところで、この本がでた1981年の時点では、ミラノ派のシステミック・アプローチが最先端という位置付け。この本の流れのなかでは、ミラノ派はたしかになるほど感高し。

    しかしながら、ナラティヴ・アプローチでは、リフレクティングが、ミラノ派への批判で始まっているわけで、ホフマンも、その後、ナラティヴに転回しているんだよね。

    理論上はうまくいきそうなシステムアプローチが実践的な限界に達したところでの転回としてのナラティヴアプローチ。

    一方、ミラノ派までくるとナラティヴ・アプローチまであと一歩という感じもあって、ナラティヴ・アプローチがそれまでのシステムアプローチのトライアル&エラーの上になりたっているということも感じる。

    ますます、ナラティヴへの興味が高まる。

    ちなみに、この本には、へリンガーのファミリー・コンステレーションの話はでてこないな。この時点では、まだこのアプローチは有力ではなかったのだな〜。

    そっちのほうも、軽く読んでみたい。

  • 2400円購入2006-05-08

  • ジャクソンは、その変化が愛する家族の問題解決を意味している場合でさえ、頑強な抵抗に遭うことに気 づき、「家族ホメオスタシス」という用語を作った。ジャクソンは家族の相互作用は、「出力あるいは行動の変数が、システムの反応を修正するためにフィードバックされた閉じた情報システム」だと述べている。

    形式的にはこの行動(統合失調者の家族の行動)は、フォン・ノイマンとモーゲンスターンの『ゲーム理論』で紹介された五人ゲームの不安定状態と類似していることを、ベイトソンは指摘した。フォン・ノイマンは、ゲームでは頭脳明晰で利にさといプレーヤーは利益が最大になる同盟を結ぶだろうと予測した。しかし、プレーヤーが五人になると状況は変わった。 フォン・ノイマンは、五人ゲームでは、連合関係は最初から不安定になると述べている。勝敗が決まるたびに、自己の利益を求めようとして新たな戦いが起こる。

    家族理論に対するボーエンの主要な貢献の一つは、家族相互作用における三角関係の役割についての考察である。三角関係形成は、全ての家族、全ての社会集団で起こる過程であり、第三者を排除あるいは対抗するために二人組みが形成されることを言う。

    ボーエンによれば、二者間情動システムはストレスにさらされると、三者間システムを形成する。たとえば、二者間に緊張が生じると、不快感をより強く感じているほうが第三者を「三角関係化」によって巻き込み、その人物を話題にすることで緊張を解消しようとする。そこで、緊張は 新しい二者関係に移り、元の組の緊張は解ける。しかし、部外者もいったん関係に引き込まれると、どちらか一方との連合を受け入れることで緊張に対応せざるを得なくなる。

    「精神病院」で著者らは、患者が病棟内で興奮状態になることと、その患者に対する二人の権威者の態度や支持が矛盾していることが関連している事実を見出した。二人の権威者は、意見の不一致を否認し、同時に自分たちの立場は慈悲心から出たものだとする態度を表明していたのである。ウィークランドは、患者の立場についての説明を引用してこう述べている。「患者の人生にとって最も重要な二人の人物が、彼を正反対の方向に引っ張っている」。

    ヘイリーは、家族あるいは家族内に内部分裂がある場合に、家族員の中に は、いずれかの側につくことで罰せられ(味方にならなかった相手は罰を強要する)、同時に味方にならないと言っては処罰される、という苦境に追い込まれる者も出てくるだろうと仮定した。そのような場合には、その人物は人とのコミュニケーションすべてを無効化してしまわねばならなくなるだろう。

    平均的なサイズの拡大家族、つまり両親と二人の子ども、そして各々の親には両親がいる場合について、三角関係の数を数えてみたところ、ヘイリーはこの集団内の一人の人物は同時に二十一の三角形に巻き込まれていることに気づいた。もし、誰もが仲良く一緒に暮らしていれば、何の問題もない。しかし、もしある子どもが対立状態にある二つの三角形や集団の連鎖に立っているとすれば、その子ど もは難しい位置にいることになる。もしその子どもの母親と母方の祖母が、父親と父方の祖母と対立していれば、その子どもは注意深く行動しなければならない。なぜなら、一つの集団の気に入れば、他の集団を不愉快にしてしまうからだ。もしその子が住む二十一の三角形のすべてが分裂状態にあれば、生き延びるためにその子は矛盾した行動を取らざるをえなくなるであろう。そのような行動は、しばしば気違い沙汰であるとか、奇妙だと見なされる。

    「社会再適応評価尺度」を作成したホルムズとラーによって1967年になされた研究で、出来事の否定的認知とそれに付随するストレスの度合いとの間には何の関連もないことが指摘された。394名の被験者によって、ストレスに順応するために要した時間の長 さについて評定された。43の人生上のストレス的出来事のリストのうち、上位14項目中の10項目は家族成員の増加あるいは減少に関わるものであった。興味深いことには、「結婚調停」のような、おそらく肯定的意味合いの出来事が「性の不一致」のような否定的意味合いを持つものより、その尺度ではストレスが高いと評定されたことである。

    禅の師家が弟子に不可能な課題を与えるのは、この味方から理解できるだろう。師家が弟子にこう問いかける。
    「ここに棒がある。もしお前がそれを真実と言うなら、わしはそれでお前を打つ。もしそれが真実でないと言うなら、それでお前を打つ。もし何も言わぬなら、わしはそれでお前を打つ。」弟子に残された道は、ただその棒を取り去ることである。弟子に とってのポイントは師家と「対等」になることなのだが、しかしそれは師家の命令からも、あるいは師弟の関係からも出てはこない。弟子は何とかして自分自身の取るべき道を「自分自身で」考え出さねばならない。

    十三歳のピーターは朝寝坊をして、学校に遅れるようになった。母親はピーターを起こすことに疲れ始め、とうとうこう言い始める。「どうして私があんたをたたき起こして学校に行かせなきゃならないの。ちゃんとやったらどうなの。あんた自身の将来のために、学校に行きたいと思うべきなのよ。あんたの父さんなんか六時に起きて、学校へ行く前に新聞配達までしてたのよ。気温が零度の時だってそうしてたんだから」など。
    これは拘束(単純な)である。なぜなら、もしピーターが「 一人前にふるまえば」、相称的関係を示すことになるが、しかし同時に彼が登校すれば、それは母親の要求に応じたことになり、彼と母親との関係は相補的だと定義されることになるからである。

    サティアは「私はいつも代名詞で治療場面を判断する」と言っている。これは、「意見の一致に敏感な」あるいは「もつれた」家族が、誰に話す時にも「私」よりも「われわれ」を使う傾向をもっていることをさしている。この説明で、サティアがコミュニケーションにおける「ずれ」を明らかにすることに関心をもっていることが分かる。

    ウィタカーは、治療効果をあげるために、自分が患者から「捕らえられ」ねばならないと語ったことがある。彼はこの目的のために工夫を凝らし、わがままで横柄な娼婦 のように治療関係に障壁と障害をもうけた。

    ミニューチンによれば、適切に組織化された家族は明確な境界を持っている。夫婦の下位システムは、夫と妻のプライバシーを守るための閉じた境界を持つ。両親下位システムは、親と子の間に明確な境界を持つが、子どもを養育するために必要な接近ができないほどに通り抜けられないものではない。

    家族療法でのミニューチンの主たる貢献の一つは、うまく行っていない家族には兄弟の正常なハイアラーキーに混乱があることを指摘した点であった。そこでミニューチンはローラに、妹が双子か、もっと年上にさえ見えるし、両親も二人を全く同じように扱っているようだと話した。

    ミラノ・グループの指摘によれば、統合失調症的交流を行う家族にあっては、人々は関係を定義し、差異に気づくことを避けており、したがって、この技法を使うことでこれらの家族に大きな影響を与えられる。

    私は、「恒常性はシステムをバラバラに切断できる」と述べたアシュビーの文章を読んだ時に、詩的であると同時に真実をついた表現だと感銘したが、この接近法はそれを実際に応用したものである。

    1、言うまでもなく、直線的ではなく円環的思考に力点をおくことが基本である。直線的思考は、かつて診断と呼ばれたものや、特定の疾患や苦悩を「引き起こした」ものを推測することにぴったりあてはめられる。円環モデルは、その枠組みから完全に脱している。ベイトソンは、システム内の全ての回路がいかに適合し、連結しているかに気づくことが知恵だと言う。これは家族が、個人の問題を「引き起こした」り、ましてやその逆だと決つけることを意味しているのではない。何かに先立つ、あるいは他をコントロールするような要因は一つもない。ブロディーはかつて全く同じ言い回しで、しかも詩的な簡潔さである事例について語った。

    「子どもは、『両親は僕をちっとも家から出してくれない』と言い、『私達はそうしようとしたのに、この子がいつも迷子になってしまうんです』と、両親は言った。そこで、その環はいつまでも回り続ける」。

    2、因果関係の発想から「適合性(fit)」という概念に近い考え方に変えねばならない。この概念モデルは『ホメオスタシスを超えて』で見事に発展させている。デルはその違いを次のように説明している。

    「適合性は、病因や因果関係に触れることなく、単純に家族システム内で起こる諸々の行動には一般的相補性がある、つまりそれらはぴったり組み合っていると仮定する。一方、因果関係は適合性の解釈の一特殊型であり、観察された相補性を、AがBを引き起こすというような形態をもつものとみなす。たとえば、悪い親が子どもをだめにするという解釈がそれに当たる」。

    3、われわれは症状行動に対する通常の否定的解釈に、肯定的側面を付加せねばならない。それは変化の戦略としてではなく、そうすることによって事を一層複雑にし、直線的思考を防ぐことができるからである。症状は、その家族が何かの問題をもっていることを示す、一種の否定的なサインのようなものだと考えるかわりに、それが家族を新たな異質な状態に押し出す一要因とみることもできる。いかにして「肯定的意味づけ」をまとめようかと苦労していたときに、私はまず症状を変化の前兆と考えるようになった。この過程で関与した仕事は、家族システムのレベルで、問題の存在を組織化する原理を見出すことであった。さらに、症状は、不快もしくは有害に見えるかもしれないが、家族がその進化の道程で遭遇するジレンマを解決する一方法だと解釈できることがよくある。これは肯定的意味づけが「真実」であるとか、否定的意味づけのようには直線的でないというだけではなく、二つの「線」がちょうど陰と陽が循環するように「円」を作りうることを示している。

    4、心理療法にとっては役に立たないお荷物として、長い間封印されてきた「時間」の正当性を再度、示さねばならない。生命システムについての現今の考え方は、生命の過程が常に不可逆的である点を強調する。同じ川の流れに二度戻ることはできない。とくにシステムの全ゲシュタルトにおける変化は、決して逆転させることはできない。万華鏡を再度ご覧いただきたい。

    5、予測不能性の概念を受け入れねばならない。ある場合には、蓋然性を都合よく見積もることができるが、主要なシステム変化は決して予測できそうにはない。これは、目標に重点をおくのをあきらめて、もっと偶然性に注目した方がよいことを意味する。われわれは、家族がどうあるべきかについてのわれわれ自身の考えを押し付けるよりは、無数の解決の可能性をもつ各家族の「特異点」に敬意を払うべきである。家族はわれわれがなしうるよりは、はるかに驚嘆すべき解決策を考え出すことができる。

    6、自分が望むところに家族を押したり引いたりしていく闘牛士のように治療者を考えることを止めねばならない。諸力が事象に作用するニュートン的宇宙の概念を捨てるのであれば、クライエントや家族に作用する力としての治療者の概念を捨てねばならなくなる。ミラノ派が、治療的場のなかに自らを注意深く位置づけていることや、彼らの言う「中立性」を強調していることは、ベイトソンがその認識論的思考の中でおこなった、同種の考え方を具現化している。

    7、通常抵抗はクライエントや家族のなかにある対抗的特性と考えられているが、この伝統的発想を捨てねばならない。クライエントが「抵抗」しているという発想や、家族の「ホメオスタシス」が抵抗の原因だと考えるのは、全く直線的である。デルが主張するように、「システムは『抵抗』するのではなく、ただそれ自身の一貫性に従って行動するにすぎない」
    ホメオスタシスは、個人療法での抵抗概念に対応する、家族療法での相棒である。抵抗は、治療者とクライエントあるいは家族が交わる場所の人工物にすぎない。さらに。抵抗を肯定的に考えることもできる。なぜなら、変化を達成するのに必要なモーメントを、抵抗が作り出すことが多いからである。戦略・システミック派の治療者なら誰でも治療の中でこの柔道的な技を用いる。

    8、われわれは、均衡よりも不安定を支持する学習をしなければならない。プリコジンが正しいとすれば、生命システムは永久に不安定なのだから。たとえば、一つの町でも、人や商品の流れが行き来し、絶えず変化している。進化するシステムは、不安定状態から比較的固定した状態、そして新たな不安定状態へと動いていくのであろう。これは古典的物理学の逆転であり、常識の逆転である。「入ってらっしゃい、あなたを不安で、神経過敏な、そして憂鬱な状態から助け出し、また不安定にしてあげます」というメッセージなどクライエントにはとても受け入れがたいであろうが、それは治療者にとってもつらい試験であることを意味する。

    9、『ホメオスタシスを超えて』の中で、デルはホメオスタシスの代わりに一貫性という新しい概念を使った。一貫性は、システムの内部と外部環境のバランスが取れるようにシステムの諸要素を一つにまとめることである。ホメオスタシスは凝集性よりも弾力的で力強さをもつのに対し、 ―その点がこの概念を捨てがたい理由でもあるが、― 一貫性は認識的感覚の点ではより純粋である。私は、一つの場の中で家族と関わっていく点からも一貫性の方を好む。家族はその環境に適合せねばならない。それは、個人が家族内で適合し、個々の器官が生理的自己であるシステムの中で互いに適合せねばならないのと全く同様である。また全ては全体の生態系の中で適合せねばならない。

    ここで、筆者が述べ来たった立場をたいへん的確に表現している、パウル・クレーの「ノート」の一節を引用したい。

    「かつて、芸術家は地上で目にする事象や、人々が見たいと望んだもの、あるいは見たかったものを描写した。今では、目に見えるものの相対性が明白になり、可視的事象は宇宙から得た孤立した事実でしかなく、見えるものよりも見えざるものの中により多くの真実があるとする信念がひろがった。

    例:舟を操る古代人はその仕掛けのすぐれた快適さを楽しみ、すっかり満足していた。したがって古代人はその場の主であった。今日、汽船の甲板を歩くときに現代人が経験するのは、1.自分自身の動き、2.反対方向への船の動き、3.海流の方向と速度、4.地球の自転、5.軌道、6.月と惑星の軌道、である。
    結果:船上の「私」を中心とする宇宙の運動の相互作用。

    花が咲いているりんごの木、根、樹液、幹、年輪の断面、花、花の構造と生殖機能、果実、心、そして種子。成長状態の相互作用。
    睡眠中の人間、血液の循環、肺の呼吸量、腎臓のデリケートな機能、頭の中にある運命の力に関連する夢の世界。機能の相互作用が休息のなかで統一される。」

    この一節に含まれる認識論は直線的ではなく円環的である。それは多面的であるがゆえに、システミックである。ある部分を他の部分の上においているのではない、つまり、二元的ではない。生態系をばらばらにしているわけではない、つまり全体的である。ある時期の観察者と別の時期の観察者を結びつけている点で、回帰的である。いっそう複雑な変化を遂げる点を強調してるゆえに、進化的である。
    上述の一節は、また本書の多層的な視野に対する比喩となっている。家族運動が始まった1950年代初頭から、二人の指導的天才、グレゴリー・ベイトソンとミルトン・エリクソンが死去した1980年までの間に一世代が経過した。この終章は、まさにその新世代に捧げられたものである。つまるところ、進化的パラダイムについて語っているのである。

  • 家族療法の歴史的変遷、理論の基礎となるところ、また、家族療法の歴史上欠かすことのできない各セラピストの臨床についてまとめられている一冊である。
    原著は1981年出版のため、少し内容的に古いところもあるかもしれない。しかし、本書は家族療法の表面的な解説に留まらず、より本質的な部分を掘り下げていくように論じられており、大変骨の太い作品に仕上がっている。
    したがって、古いー新しいという単純な基準で安易に切り捨てずに読み進めていくとより身のある学習ができるのではないかと思う。これは先代との対話でもある。この大きな文脈をつかむことは大変重要な作業といえよう。
    とはいえ、実際そのような大袈裟な努力は必要ないかもしれない。なぜなら、そこには色褪せることのない理論の数々が今もなお輝いているし、天才的なセラピストの斬新なアプローチに幾度も衝撃を受けることになるのだから。

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