暇と退屈の倫理学

著者 :
  • 朝日出版社
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レビュー : 282
  • Amazon.co.jp ・本 (402ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784255006130

感想・レビュー・書評

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  • 「すべての人間は、退屈と闘っているんじゃないか?人間にとって一番つらいのは、もしかして”退屈”なのではないか??」という考えが、用事を済ませてホッとした私が車を運転しているとき、突然降ってきた。
    この仮説を「いや、違う」と否定してくれる別の考えは、私には用意できなかった。

    これは...もしかして、重大なことに気づいたのかも!!

    そう思った私は、すぐにネットで「暇 退屈 人間にとって最大の 哲学者」というキーワードをもとに検索。すると、この本が出てきた。

    読みながら、筆者と読書会?勉強会?をしているような気持ちになる。
    「先生、ということは、こういうことですか??」
    と、素直な気持ちで質問してみたくなる。
    知的好奇心を刺激してくれる本だった。また、今まで一度も哲学に興味を持ったことがなかったが、私のように「暇ってなんだろう」「暇と闘う方法」を考えるところから哲学が始まったとか始まらないとかいうことを知ったのも、この本をきっかけとしてだった。

    気晴らしをしながらも「楽しかった」と「退屈だった」が混在するくらいが一番人間として健全なのかなって、そういうところに落ち着いた。
    何かに夢中だったり、自分としか対話していなかったりしているときって、どちらにせよ、余裕がないから、時々自分の世界に不法侵入してくるワクワクするようなことも、キャッチできなくなってしまう。どこで待ち伏せしていれば、自分が動物的に夢中になれる何かが通りかかるのか・・・少しはわかるようになったのも、数々の失敗経験やこれまで食べてきた美味しいものや、別の人の考えにさんざん耳を傾けてきたことのおかげだったんだな。
    思えば、この本に出会ったあの考えが私の頭の中に不法侵入してきたときこそ、退屈と気晴らしが混在していた瞬間だったのだ。

    浪費と消費の違いについて、読んだときはよくわからなかったけれど、水中毒の患者さんの治療法を別のサイトで読んで、「浪費」がここで推奨されていることの意味がやっとわかりました。(読んでわからなかった方、調べてみてください。おすすめです!)

    学んでいかなければ、とことん楽しむこともできない。美味しい料理の味の違いがわからないのと一緒で。
    経験して、学んで、時々動物みたいに何かに夢中になって、また退屈して。気晴らしをするのであれば、とことん贅沢して、一瞬一瞬を味わって。もういらな~い!満足!ってくらいまで。
    な~んだ、そんなことでよかったのか。
    というオチだということは、自分の考えと合っていたということだろうか。哲学・倫理学に興味を持たせてもらったので、★5つ。

  • この本はとても素晴らしい。面白い、たくさんの発見があり、生き方を変え得る本だと思う。真摯に緻密に丁寧に書かれている。☆5つは、こういう本のために取っておかなくちゃいけなかったんだなあ、あの本は☆4つだったなあと思っちゃう。私の心の友書ランキングのトップを争う本になりました。ぜひご一読を!

  • やりたいことが分からない≒人生の退屈、であることが一番大きい気付き。
    退屈は、①暇なので何も刺激を得られない退屈、②忙しいがもっと楽しい刺激があるのではないかと思ってしまう退屈、③状況によらず不意に感じる退屈の三つに分類される。そして、人は①③と②を交互に移動する。その移動は往々にして、移動の決断が先行した移動である。すなわち、本当の自分の衝動とは異なった衝動に生きようとするので、結果的にまた退屈を感じる。
    人間にとっての楽しみは、環世界の中なかから得た衝動である。環世界が人それぞれで選択可能だから、衝動も人それぞれで選択可能。つまり、楽しみは自由に選択可能である。

    よって、自分の環世界をイメージして自分の衝動が何かをよく探すことが、退屈から逃れる手段であり楽しさを享受する手段だ。

  • 私たちは「退屈」とどう付き合って生きていけばいいのか。古来、哲学者たちが挑み続けてきた難題に向き合う一冊。
    確かに私もよく「暇だなぁ」と口にするし「退屈だなぁ」と感じる。二つの概念を区別せずに欝々とした気持ちを表していたけれど、よくよく考えてみたことはなかった。身近なクセモノの正体を明かしたい、と手に取ってみた。

    結論、衣食住であるとか、芸術作品であるとか、人付合いのための会合であるとか、嗜好品であっても構わないんだけど、きちんとその“モノ”自体を丁寧に受け取り、考えて(勉強して)楽しむことが、「退屈」と付き合うコツなのだと。その繰り返しによって、自分がズッポリと絡めとられる、嵌り込める対象がなんであるかが分かるようになると。

    なるほどなぁ。
    本書にあるように、私たちは本当の「贅沢」からは程遠い、「消費」活動を強いられていると思う。やれ有名店でランチだの、やれ人気ブランドの財布だの、やれ隠れ家的スポットだのを求めて、そのものの価値は分からずに「意味」だけを受け取り、発信しては受け流す。“満ち足りた”とは程遠い気持ちで。
    理想は本来の「浪費」つまり「贅沢」を通して満足すること。私はまだその感覚を掴めていないだろう。その感覚を知りたい、分かりたい。“モノ”自体を受け取って楽しむって具体的にどうすることだろう。例えば私は読書が好きだし、お菓子やワインも好きだけど、それらを本当に楽しむって?それらを研究し、精通するってこと?もしかして、“それらを好む私”という自意識から離れるってこと?
    思考は続く。

    だけど間違いなく言えるのは、今後「あぁ暇だなぁ」「退屈だ」と感じたとき、私はきっとその暇と退屈さを“楽しめる”だろうということだ。


    以下、本書の“私なりの”要約。
    ●人類はいつ「退屈」に出会ったか
    そもそも私たち人類が「退屈」と生きねばならなくなったのは、定住生活を送るようになったからだ。気候変動による環境変化で狩猟が困難になり、貯蔵が必須になったため止むを得ず定住化が進んだ。遊牧生活では優れた潜在的な探索能力を存分に発揮できたが、定住生活では探索能力は行き場をなくした。それが「退屈」の始まりだった。私たちは「退屈」を回避する必要に迫られることになる。

    ●「退屈」とはなにか
    パスカルが、人間は部屋の中にじっとしてはいられない、気を紛らわせてくれる騒ぎを求める生き物だ、と言ったように「退屈」は私たちにとって身近な存在だ。

    そして「退屈」は否定的な概念として捉えられる。
    ラッセルは『幸福論』の中で革命の只中にある国に暮らす若者は世界中のどこよりも幸せだろうと論じた。打ち込むべき仕事を外から与えられているからだ。つまり「退屈」ではないからだ。「幸福である」とは“熱意”をもった生活を送れることらしい。

    では、表題にもある「暇」と「退屈」の関係性とは?「暇」とは何もすることのない時間。客観的な概念である。一方「退屈」とは何かをしたいのにできないという感情。主観的な概念だ。
    この2つの概念の関係性を、本書では4象限で説明している。すなわち、
    ①暇であり退屈である
    例:資本主義の展開により労働階級が裕福になり(ブルジョワジー)、時間的金銭的に余裕が生まれ、いきなり「暇」が与えられた。
    →何をして気晴らしをすれば良いか分からない。そこでレジャー産業が出現した。何をしたらよいかわからない人たちに、やれ旅行だの、やれ映画だの、やれかっこいい車だの、生産者主導で「したいこと」「欲望」を与える。消費者は「モノ」そのものではなく「気晴らし」を与えられることに慣れきってしまう。
    ②暇であり退屈ではない
    例:かつての“有閑階級”のように代々裕福で暇との関わり方を知っている人たち。
    ③暇ではなく退屈でもない
    例:四六時中やるべきことに追われている人たち。
    ④暇ではなく退屈である
    ★こここそ、私たちが苦しめられている象限。

    そのうえで、「退屈」とはなんなのか。
    ハイデッガーは退屈を大きく三形態に分けた。
    【第一形態】は「何かによって退屈させられている」状態。例えば駅舎で何十分も遅れている電車を待っているようなときは、遅れている電車によって退屈させられている。他にやるべき事(仕事)があり電車を待っているが、周りの物がわたしが期待しているものを提供してくれず、時間がぐずついている。そのため、いくつも“気晴らし”をしながらやり過ごす。
    これはやるべき事(仕事)の奴隷になっている状態である。例えば、内戦や対外戦争の只中にいる国民もこれだ。やるべき事に戻れば、退屈からは逃れられる。
    【第二形態】は「何かに際して退屈である」状態。何かを待っているわけではなく、自分で選択して何かを行なっている(例えば飲み会に参加している)。楽しく会話して美味しい食事もとり笑っているが、帰宅してみると「何だか退屈だった」と感じるような。こんなとき、実はその飲み会自体が“気晴らし”であり、“気晴らし”そのものが退屈だったと言うことに気付く。
    革命や強制労働などに隷属しているわけではなく、自分と向き合う余裕はあり、普段の私たちはこの状態といえる。イベントを企画してみたり形式を重んじてみたり。やることを選べて「暇」は回避しているけれど、「退屈」を感じる状態。
    【第三形態】「何となく退屈」という状態。第二形態のような“気晴らし”が行われたのは、この「何となく退屈」という状態に定常的になっているからだ。そして「何となく退屈」だと気付いてしまったら、そこから逃れるべくわざわざ日々の仕事の奴隷になることを決断し、やるべきことを作ってしまうことも。すると第一形態に陥る。

    ●「退屈」は人間だけのもの?
    ユクスキュルは「環世界」という概念を説く。人間の環世界、犬の環世界、かたつむりの環世界…それぞれの種は異なる環世界を生きている。例えば、ダニは木のような高いものに登り、哺乳類が近づくと飛び移り血を吸う。…と、人間は人間の環世界を通してそう解釈するのだが、ダニの環世界を通すと違う。視力も聴力も保有しないダニは、哺乳類が発する酪酸を嗅覚で捉えるとそれを合図に飛び、摂氏37度を感じとるとそれを合図に吸血行為を行う。「哺乳類」ではなく「酪酸」や「摂氏37度」をシグナルとして衝動を停止したり解除したりして行動を制しているらしい。人間とダニの環世界は違い、環世界ごとに時間の流れ方も違う。
    では、人間と動物の違いは何かというと、「環世界間移動能力」の差だ。人間は他の動物よりも格段に高くこの能力を有し、容易に他の環世界との間を行き来する。ときに科学者の目線で、上司の目線で、母親の目線で、周囲の環境を生きることができる。そのことゆえに人間は「自由」である。ただ、新しいもの全てに反応するのは疲れてしまう。フロイトの「快原理」によると生物にとっての「快」状態は安定した状態である。興奮状態は不快だ。(だからこそ、興奮したら最大限度まで高めて解消させる。)だから、いちいちショックを受けて考えないで済むように、習慣を獲得し、安定を得る。

    でも、想像できるように、習慣を作り出すとマンネリ化して「退屈」が首をもたげる。
    人間は快状態(安定した状態、考えなくていい状態)を作るために習慣を作るが、それゆえ退屈が生まれ、それをごまかすために気晴らしを行う。

    ●ところで「贅沢」とは?
    「贅沢」は“不必要なもの”と関わる。私たちは“必要なもの”だけでは有事にあたってのリスクが大きく、生きていけない。人が豊かに生きるには「贅沢」が必要だ。
    「浪費」と「消費」の違いも「贅沢」の概念で説明できる。「浪費」は必要以上に物を受け取り吸収すること。例えば、腹十二分に食べるなど。物自体を受け取るのでどこかで満足が訪れる。これが「贅沢」をする、ということ。
    一方、「消費」は対象が物ではない。概念や意味。ブランド品を買うとかSNSで話題のお店に行くとか。物自体を受け取らないので満足が訪れない。
    現代の消費社会は生産者主権のため売りたい物しか市場に出ない。まだまだ利用できる旧型のPCも車も市場から消えていく。物が足りない。私たちに新型モデルの“カッコよさ”“今風さ”を買わせ、浪費家ではなく消費者にして、浪費によって満足すること(贅沢)を妨げている。

    ●退屈とうまく生きていくために
    ①退屈の【第二形態】=”人間であること”を楽しむ
    【第三形態】の「何となく退屈」という声に絡めとられて、【第一形態】である「仕事などの奴隷状態」に逃げることを決断することなく、【第二形態】の気晴らしを存分に享受する。お菓子作りであるとか、芸術鑑賞や旅行であるとか、気の合う友人との飲み会であるとか。それらを“きちんと”楽しむ。
    そのためには、消費ではなく、ものを受け取りちゃんと浪費し、その物について考え楽しむこと(=贅沢)を取り戻すべし。食べ物のおいしさ、民芸品の素晴らしさ、景色の美しさ。生活に根ざしたものから教養を求められる娯楽に至るまで。

    ②“動物になる”
    自らの環世界に侵入する何か(おかしいな、あるべきではないな、とら感じること)を待ち構え、受け取り、新しい環世界を作って浸る。とりさらわれる。

    自分がとりさらわれる対象は何か?
    それは①の過程で何ものをも楽しみ、そして待ち構えることで出会える。

    ○その他心に残ったこと
    スピノザ
    何かを理解した時、自分にとって“理解するとはどういうことか”も同時に理解する(反省的認識)
    →本を読むとは、その論述との付き合い方を読者が発見していく過程。結論だけ読んでも、その結論の奴隷になるだけ。

  • 幸福な人とは、楽しみ・快楽を既に得ている人ではなくて、楽しみ・快楽をもとめることができる人である、と。楽しさ、快楽、心地よさ、そうしたものを得ることができる条件のもとに生活していることよりも、むしろ、そうしたものを心からもとめることができることこそが貴重なのだ。(p.55)

     定住民は物理的な空間を移動しない。だから自分たちの心理的な空間を拡大し、複雑化し、そのなかを「移動」することで、もてる能力を適度に働かせる。したがって次のように述べることができるだろう。「退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であるとともに、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきたのである。」いわゆる「文明」の発生である。(p.88)

     (ハイデガーの言述)哲学に関してどんなに広範囲のことを扱ったとしても、問うことによって私たち自身が感動させられているのでないならば、何事も理解はできない。結局はすべて誤解にとどまる。(p.200)

     本当に恐ろしいのは、「なんとなく退屈だ」という声を聞き続けることなのである。私たちが日常の奴隷になるのは、「なんとなく退屈だ」という深い退屈から逃げるためだ。
    私たちの最も深いところから立ち昇ってくる「なんとなく退屈だ」という声に耳を傾けたくない、そこから目を背けたい……。故に人は仕事の奴隷になり、忙しくすることで、「なんとなく退屈だ」から逃げ去ろうとするのである。(pp.240-1)

    人間の大脳は高度に発達してきた。その優れた能力は遊動生活において思う存分に発揮されていた。しかし、定住によって新しいものとの出会いが制限され、探索能力を絶えず活用する必要がなくなってくると、その能力が余ってしまう。この能力の余りこそは、文明の高度の発展をもたらした。が、それと同時に退屈の可能性を与えた。
    退屈するというのは人間の能力が高度に発達してきたことのしるしである。これは人間の能力そのものであるのだから、けっして振り払うことはできない。したがってパスカルが言っていた通り、人間はけっして部屋に一人でじっとしていられない。これは人間が辛抱強くないとかそういうことではない。能力の余りがあるのだから、どうしようもない。どうしても「なんとなく退屈だ」という声を耳にしてしまう(p.244)

    人間にとって、生き延び、そして、成長していくことは、安定した環世界を獲得する過程として考えることができる。いや、むしろ自分なりの安定した環世界を、当方もない努力によって、創造していく過程と言った方がよいだろう。
    はじめて保育園や幼稚園まるいは学校といった集団生活のなかに投げ込まれた子どもは強烈な拒否反応を示す。それは、それまでに彼ないし彼女が作り上げてきた環世界が崩壊し、新しい環世界へと移行しなければならないからである。これは極めて困難な課題である。だからしばしば失敗も起こる。(pp.322-3)

    単に「考えることが重要だ」と言う人たちは、重大な事実を見逃している。それは、人間はものを考えないですむ生活を目指して生きているという事実だ。
    人間は考えてばかりでは生きていけない。毎日、教室で会う先生の人柄が予想できないものであったら、子どもはひどく疲労する。毎日買い物先を考えねばならなかったら、人はひどく疲労する。だから人間は、考えないですむような習慣を創造し、環世界を獲得する。人間が生きていくなかでものを考えなくなっているのは必然である。(p.325)

  • 暇と退屈について深く掘り下げて考察していく。
    経済史・人類史・自然科学など多岐にわたる切り口でこれを考え、
    結論(人生の楽しみ方)に収束していく過程が面白い。
    難しくて読み飛ばした箇所もあるが、
    哲学ってこういう学問なんだということが少し理解できた。

  • 君君、その暇その退屈どうするの、と。
    ハイデッガー云う退屈の第二形式“気晴らしと退屈が絡み合った状態”に人間らしさを見る。これ正気。鼻息荒く「なにかしなくては!!」という狂気に隷属しない。
    気晴らしと退屈が絡み合う第二形式は人間の高い環世界移動能力がなせる技。退屈に対する刺激を楽しむ余裕。刺激を消費でなく浪費する(観念のゲームに陥らない)。気晴らしを存分に享受する“贅沢”。
    退屈の中で気晴らしを楽しむ余裕が人間らしさ。この人間であるということを楽しむことをベースに大きな流れに身を任せる(自分が取さらわれる瞬間)ことを待ち構える。“生命・人間の本性”と“人間の運命”は行ったり来たり。振り子の運動で楽しむことができると思う。

  • とっても面白かった!

    暇(生活に余裕ができて空いた時間)と退屈(満たされない、自身に抱く疎外)に、どう向き合うべきかを説いた本。


    結論はある。だけど、真の結論は読者に委ねられる。

    この本を読んだ人は皆、同じ講義を通じてそれぞれの結論を持ったはずです。

    知的な読書体験がしたい方にオススメ。
    ぶ厚いですが、さらっと読めます

  •  読みたいとは思っていたもの手付かずになっていた本。読み始めると、一晩で読み終わった。

     ハイデガーの退屈の第三形式においての「決断せよ」が、そこから先に進んでくれて本当に嬉しかった。これはサルトルをかじった時に「君は自由だ。選びたまえ。つまり造りたまえ」と言われて、きょとんとしたのを本書のおかげで乗り越えれたからだと思う。

     いろいろな方向からアプローチしている分、本書には随所に興味深い箇所があった。ただ、ハイデガーの『形而上学の根本諸概念』を通じての退屈の議論で、最後に第二形式に光を見出したのがなんだか残念。その前の箇所で、アーレントのマルクス理解が「本来性」にとらわれているせいで誤読していると指摘があるが、退屈の議論そのものも結局は本来性を想定しているために生まれる議論という点が自分としては否めない。西田、西谷の無の概念(本来性なき議論)と退屈を絡めてみるとおもしろそう。

     西谷の『宗教と非宗教の間』で真の遊びについて論じられているけれど、自分としてはどうもそちらの議論ほうが上な気がする。

     

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著者プロフィール

1974年、千葉県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。高崎経済大学を経て、現在東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専門は哲学・現代思想。著書に『スピノザの方法』(みすず書房)、『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社、増補新版:太田出版)、『ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書)、『来るべき民主主義』(幻冬舎新書)、『近代政治哲学』(ちくま新書)、『民主主義を直感するために』(晶文社)、『中動態の世界』(医学書院)、『いつもそばには本があった。』(互盛央との共著、講談社選書メチエ)など。訳書に、ジャック・デリダ『マルクスと息子たち』(岩波書店)、ジル・ドゥルーズ『カントの批判哲学』(ちくま学芸文庫)などがある。『暇と退屈の倫理学』で第2回紀伊國屋じんぶん大賞、『中動態の世界』で第16回小林秀雄賞を受賞。

「2019年 『原子力時代における哲学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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