暇と退屈の倫理学

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  • 朝日出版社
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レビュー : 270
  • Amazon.co.jp ・本 (402ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784255006130

感想・レビュー・書評

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  • 「すべての人間は、退屈と闘っているんじゃないか?人間にとって一番つらいのは、もしかして”退屈”なのではないか??」という考えが、用事を済ませてホッとした私が車を運転しているとき、突然降ってきた。
    この仮説を「いや、違う」と否定してくれる別の考えは、私には用意できなかった。

    これは...もしかして、重大なことに気づいたのかも!!

    そう思った私は、すぐにネットで「暇 退屈 人間にとって最大の 哲学者」というキーワードをもとに検索。すると、この本が出てきた。

    読みながら、筆者と読書会?勉強会?をしているような気持ちになる。
    「先生、ということは、こういうことですか??」
    と、素直な気持ちで質問してみたくなる。
    知的好奇心を刺激してくれる本だった。また、今まで一度も哲学に興味を持ったことがなかったが、私のように「暇ってなんだろう」「暇と闘う方法」を考えるところから哲学が始まったとか始まらないとかいうことを知ったのも、この本をきっかけとしてだった。

    気晴らしをしながらも「楽しかった」と「退屈だった」が混在するくらいが一番人間として健全なのかなって、そういうところに落ち着いた。
    何かに夢中だったり、自分としか対話していなかったりしているときって、どちらにせよ、余裕がないから、時々自分の世界に不法侵入してくるワクワクするようなことも、キャッチできなくなってしまう。どこで待ち伏せしていれば、自分が動物的に夢中になれる何かが通りかかるのか・・・少しはわかるようになったのも、数々の失敗経験やこれまで食べてきた美味しいものや、別の人の考えにさんざん耳を傾けてきたことのおかげだったんだな。
    思えば、この本に出会ったあの考えが私の頭の中に不法侵入してきたときこそ、退屈と気晴らしが混在していた瞬間だったのだ。

    浪費と消費の違いについて、読んだときはよくわからなかったけれど、水中毒の患者さんの治療法を別のサイトで読んで、「浪費」がここで推奨されていることの意味がやっとわかりました。(読んでわからなかった方、調べてみてください。おすすめです!)

    学んでいかなければ、とことん楽しむこともできない。美味しい料理の味の違いがわからないのと一緒で。
    経験して、学んで、時々動物みたいに何かに夢中になって、また退屈して。気晴らしをするのであれば、とことん贅沢して、一瞬一瞬を味わって。もういらな~い!満足!ってくらいまで。
    な~んだ、そんなことでよかったのか。
    というオチだということは、自分の考えと合っていたということだろうか。哲学・倫理学に興味を持たせてもらったので、★5つ。

  • やりたいことが分からない≒人生の退屈、であることが一番大きい気付き。
    退屈は、①暇なので何も刺激を得られない退屈、②忙しいがもっと楽しい刺激があるのではないかと思ってしまう退屈、③状況によらず不意に感じる退屈の三つに分類される。そして、人は①③と②を交互に移動する。その移動は往々にして、移動の決断が先行した移動である。すなわち、本当の自分の衝動とは異なった衝動に生きようとするので、結果的にまた退屈を感じる。
    人間にとっての楽しみは、環世界の中なかから得た衝動である。環世界が人それぞれで選択可能だから、衝動も人それぞれで選択可能。つまり、楽しみは自由に選択可能である。

    よって、自分の環世界をイメージして自分の衝動が何かをよく探すことが、退屈から逃れる手段であり楽しさを享受する手段だ。

  • 幸福な人とは、楽しみ・快楽を既に得ている人ではなくて、楽しみ・快楽をもとめることができる人である、と。楽しさ、快楽、心地よさ、そうしたものを得ることができる条件のもとに生活していることよりも、むしろ、そうしたものを心からもとめることができることこそが貴重なのだ。(p.55)

     定住民は物理的な空間を移動しない。だから自分たちの心理的な空間を拡大し、複雑化し、そのなかを「移動」することで、もてる能力を適度に働かせる。したがって次のように述べることができるだろう。「退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であるとともに、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきたのである。」いわゆる「文明」の発生である。(p.88)

     (ハイデガーの言述)哲学に関してどんなに広範囲のことを扱ったとしても、問うことによって私たち自身が感動させられているのでないならば、何事も理解はできない。結局はすべて誤解にとどまる。(p.200)

     本当に恐ろしいのは、「なんとなく退屈だ」という声を聞き続けることなのである。私たちが日常の奴隷になるのは、「なんとなく退屈だ」という深い退屈から逃げるためだ。
    私たちの最も深いところから立ち昇ってくる「なんとなく退屈だ」という声に耳を傾けたくない、そこから目を背けたい……。故に人は仕事の奴隷になり、忙しくすることで、「なんとなく退屈だ」から逃げ去ろうとするのである。(pp.240-1)

    人間の大脳は高度に発達してきた。その優れた能力は遊動生活において思う存分に発揮されていた。しかし、定住によって新しいものとの出会いが制限され、探索能力を絶えず活用する必要がなくなってくると、その能力が余ってしまう。この能力の余りこそは、文明の高度の発展をもたらした。が、それと同時に退屈の可能性を与えた。
    退屈するというのは人間の能力が高度に発達してきたことのしるしである。これは人間の能力そのものであるのだから、けっして振り払うことはできない。したがってパスカルが言っていた通り、人間はけっして部屋に一人でじっとしていられない。これは人間が辛抱強くないとかそういうことではない。能力の余りがあるのだから、どうしようもない。どうしても「なんとなく退屈だ」という声を耳にしてしまう(p.244)

    人間にとって、生き延び、そして、成長していくことは、安定した環世界を獲得する過程として考えることができる。いや、むしろ自分なりの安定した環世界を、当方もない努力によって、創造していく過程と言った方がよいだろう。
    はじめて保育園や幼稚園まるいは学校といった集団生活のなかに投げ込まれた子どもは強烈な拒否反応を示す。それは、それまでに彼ないし彼女が作り上げてきた環世界が崩壊し、新しい環世界へと移行しなければならないからである。これは極めて困難な課題である。だからしばしば失敗も起こる。(pp.322-3)

    単に「考えることが重要だ」と言う人たちは、重大な事実を見逃している。それは、人間はものを考えないですむ生活を目指して生きているという事実だ。
    人間は考えてばかりでは生きていけない。毎日、教室で会う先生の人柄が予想できないものであったら、子どもはひどく疲労する。毎日買い物先を考えねばならなかったら、人はひどく疲労する。だから人間は、考えないですむような習慣を創造し、環世界を獲得する。人間が生きていくなかでものを考えなくなっているのは必然である。(p.325)

  • 暇と退屈について深く掘り下げて考察していく。
    経済史・人類史・自然科学など多岐にわたる切り口でこれを考え、
    結論(人生の楽しみ方)に収束していく過程が面白い。
    難しくて読み飛ばした箇所もあるが、
    哲学ってこういう学問なんだということが少し理解できた。

  • 君君、その暇その退屈どうするの、と。
    ハイデッガー云う退屈の第二形式“気晴らしと退屈が絡み合った状態”に人間らしさを見る。これ正気。鼻息荒く「なにかしなくては!!」という狂気に隷属しない。
    気晴らしと退屈が絡み合う第二形式は人間の高い環世界移動能力がなせる技。退屈に対する刺激を楽しむ余裕。刺激を消費でなく浪費する(観念のゲームに陥らない)。気晴らしを存分に享受する“贅沢”。
    退屈の中で気晴らしを楽しむ余裕が人間らしさ。この人間であるということを楽しむことをベースに大きな流れに身を任せる(自分が取さらわれる瞬間)ことを待ち構える。“生命・人間の本性”と“人間の運命”は行ったり来たり。振り子の運動で楽しむことができると思う。

  • とっても面白かった!

    暇(生活に余裕ができて空いた時間)と退屈(満たされない、自身に抱く疎外)に、どう向き合うべきかを説いた本。


    結論はある。だけど、真の結論は読者に委ねられる。

    この本を読んだ人は皆、同じ講義を通じてそれぞれの結論を持ったはずです。

    知的な読書体験がしたい方にオススメ。
    ぶ厚いですが、さらっと読めます

  •  読みたいとは思っていたもの手付かずになっていた本。読み始めると、一晩で読み終わった。

     ハイデガーの退屈の第三形式においての「決断せよ」が、そこから先に進んでくれて本当に嬉しかった。これはサルトルをかじった時に「君は自由だ。選びたまえ。つまり造りたまえ」と言われて、きょとんとしたのを本書のおかげで乗り越えれたからだと思う。

     いろいろな方向からアプローチしている分、本書には随所に興味深い箇所があった。ただ、ハイデガーの『形而上学の根本諸概念』を通じての退屈の議論で、最後に第二形式に光を見出したのがなんだか残念。その前の箇所で、アーレントのマルクス理解が「本来性」にとらわれているせいで誤読していると指摘があるが、退屈の議論そのものも結局は本来性を想定しているために生まれる議論という点が自分としては否めない。西田、西谷の無の概念(本来性なき議論)と退屈を絡めてみるとおもしろそう。

     西谷の『宗教と非宗教の間』で真の遊びについて論じられているけれど、自分としてはどうもそちらの議論ほうが上な気がする。

     

  • 毎日忙しくすごしているとき誰もが「ああ、休みが欲しい…」「ゆっくりしたい…」と思うのではないでしょうか。
    しかし、いざ、休みが取れるとなにをしたらいいかわからない…なにかしたいことがたくさんあるはずなのに、なにもすることが思い浮かばない…
    そんな人が多いんじゃないかと思います。
    そして悩みは深まり、自分は仕事をするためだけに生まれてきたのか?そんなはずはない…じゃあなんのために?と哲学的な問いにたどり着いてしまったりして…笑

    そんなときに、この本、暇と退屈の倫理学です。倫理学なんて聞いたことも見たこともない人でも読める平易な文章です。
    退屈とはなんなのか?暇とはなんなのか?その対処法とは?といったところを様々なー自分では絶対に読まないようなー文献を参照し筆者の意見と共に論じられていきます。

    タイトルに惹かれる方、考えがちな方、暇を持て余す大学生(笑)におすすめの一冊です!買って損はないと思います。
    特にこういった類の本をはじめて買われる方にはおすすめ!

  • 人生論について思いを巡らすのに「退屈」という感覚を軸にするのは確かに有効であるが、それだけでは不十分だと感じる。つまり仕事や現在の生活のことなど、短期的な領域、つまり「生きること」に対しては幅広く適用することができても恋愛や自己実現といった長期的な領域、「生きていくこと」については「退屈」はカバーできないのではないか。

    たとえば「寂しさ」。筆者はパスカルの言う通り、本当に不幸の原因は退屈だけだと考えているのだろうか。それとも寂しさは退屈に含まれるとでも?

    暇がないから「退屈」でもなく、完全に不幸は克服できないにしても衣食住足りて「自分の仕事」ができているからといって「寂しさ」に目を背けることのできる社会は受け入れ難い。それは、自分がなるべく「かけがえのない誰か」として他者に関わりたいからだ。

     そこには、一人でも多く、いや、たった一人でもいいから自分のことを本当に分かってほしいという甘えも含まれている。

     その程度には強く、その程度には弱くありたい。以上が、「暇と退屈の倫理学」に感銘を受け、また触発されて明らかになった、私の倫理観である。

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著者プロフィール

1974年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。高崎経済大学経済学部准教授。哲学。著書に、『スピノザの方法』(みすず書房、2011)『暇と退屈の倫理学』(朝日新聞社、2011)『来るべき民主主義』(幻冬舎、2013)ほか。訳書 デリダ『マルクスと息子たち』(岩波書店2004)コールブリック『ジル・ドゥルーズ』(青土社2006)ドゥルーズ『カントの批判哲学』(ちくま学芸文庫2008)、共訳 デリダ『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉』(全2巻、岩波書店2006)フーコー『フーコー・コレクション4』(ちくま学芸文庫2006)ガタリ『アンチ・オイディプス草稿』(みすず書房2010)。

「2016年 『他の岬 [新装版]』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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