断片的なものの社会学

著者 :
  • 朝日出版社
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  • Amazon.co.jp ・本 (244ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784255008516

作品紹介・あらすじ

路上のギター弾き、夜の仕事、元ヤクザ……
人の語りを聞くということは、ある人生のなかに入っていくということ。
社会学者が実際に出会った「解釈できない出来事」をめぐるエッセイ。

◆「この本は何も教えてはくれない。
  ただ深く豊かに惑うだけだ。
  そしてずっと、黙ってそばにいてくれる。
  小石や犬のように。
  私はこの本を必要としている。」

一生に一度はこういう本を書いてみたいと感じるような書でした。
ランダムに何度でも読み返す本となりそうです。
――星野智幸さん

どんな人でもいろいろな「語り」をその内側に持っていて、
その平凡さや普通さ、その「何事もなさ」に触れるだけで、
胸をかきむしられるような気持ちになる。梅田の繁華街で
すれちがう厖大な数の人びとが、それぞれに「何事もない、普通の」
物語を生きている。
 * * *
小石も、ブログも、犬の死も、すぐに私の解釈や理解をすり抜けてしまう。
それらはただそこにある。[…]社会学者としては失格かもしれないが、
いつかそうした「分析できないもの」ばかりを集めた本を書きたいと思っていた。(本文より)

感想・レビュー・書評

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  • 「道端に落ちている小石の様に、どこにでもあるが同じものがない物語の断片」

    著者が出会った物語、またはそれよりも小さい出来事の寄せ集め。

    教訓めいたこともなく、教訓めいたものもある様にも読める。

    「優しさ」の様に見えて「お節介」なのか「暴力」なのか?
    こんな人もいてもいいし、別の決断をしても良いし…と
    なんというか「何も残らない」のだけどプラスマイナスゼロと言うか、どちらでも生きてて良い。みたいな多様性の肯定と難しさみたいなものを両極伝えてくれる本。

    気になったのは「異性装をしていながら普通にそのことには触れずブログを書いている人」の話と、「作者の方の飼い犬が死んだ時、主人がいない間に気遣って死んだのだよと慰めようとした方に怒った話」

    「異性装」の方のブログに対して「普通になろうとした人の情熱と勇気によって作られた作品」と言って、「猫の死」については「ただの死であり犬は飼い主に気を遣ったりしない気休めを言うな」と言う感覚がまだ消化できてない。
    私には異性装の方がどんな方なのかわからないので「普通になろうと」が、どうしても引っかかるし、その分「犬」の件も気休めを言ってくれただけで何故怒るのかがわからない。気休めを真剣に「犬への私の愛情を否定する」と捉えること、それほど真剣にその方との会話に向き合っているということなのか…

    本当に細切れ、オチもなく、たまたまラジオをチューニングしてる時に聞こえてきてしまった様な話の連続

    本屋で立ち読みして、結局購入した。
    何度も読み返す気がしたから。
    自分の中にある物語の断片を振り返る。

  • 以前、岸先生と雨宮まみさんの、『愛と欲望の雑談』を読んで以来、ずっと読みたかった本。

    『私たち社会学者は、仕事として他人の語りを分析しなければならない。しかし、それは暴力と無縁ではいられない』

    私は社会学というのを、よく分かっていなかったし、読んだ後も、実はよく分からない。
    ただ、残ったのは、私の知らなかった世界を見せてくれたことと、世界は不透明なものだということ。
    そして、不透明であることは、悪いことばかりではないということ。

    上記の岸先生の文章の中の、『暴力と無縁ではいられない』とは、例えば、『良いものと悪いものを分ける規範』において、「好きな異性と結ばれる事が幸せだと思っている」ことは、単身者や同性愛者にとって、呪いとなるということ。

    これをもう少し、簡潔に書きますと、

    「マイノリティ(少数派)」⇔「マジョリティ(多数派)」

    「在日外国人」⇔「日本人」

    「在日外国人という経験」⇔「そもそも民族というものについて、何も経験せず、それについて考えることもない」

    いわゆる、マジョリティを「普通の人」とした場合、
    「それについて何も経験せず、何も考えなくてよい人びと」が、普通の人びとということに、なるわけです。

    ただ、これが良いか悪いかということではなく、「そういうことになるということ」であり、これが、社会学のひとつの形なのかもしれないと思うと、確かに暴力と無縁ではいられないというのも、少しだけ分かる気がしました。


    更に、個に迫った表現をすると、

    「国家をはじめとした、さまざまな防壁によって守られ、『個人』として生きることが可能になっている私たちの心は、壁の外の他者に対するいわれのない恐怖によって支配されている」

    これに対する、岸先生の提言として

    『異なる存在とともに生きることの、そのままの価値を素朴に肯定することが、どうしても必要な状況なのである』

    と同時に

    『「他者であること」に対して、そこを土足で荒らすことなく、一歩手前でふみとどまり、立ちすくむ感受性も、どうしても必要なのだ』

    ということで、これについては、
    『どちらが大切ということではない。私たちには、どちらも欠けている』に、なるほどと。

    しかし、これらはよくよく見ると、とてつもないジレンマにもなり得ることを教えてくれて、私とは違う、その人はその人なんだということを実感し、更にもっと知りたいと思うが、時には踏み込んではいけないと言われる。

    ジレンマといえば、上記の、好きな異性と結ばれることにおいても、「おめでとう」、「よかったね」と言われることは、当たり前に幸せなことなのだけれど、その反面、他の人々を傷つけてしまうこともある。

    しかし、そんなことを言っていたら、何もできないし、どこかで聞いたことのある、「何かを得るというのは、何かを失うということ」であったり、「人は生きているだけで、無意識に誰かを傷つけている」ということなのかもしれないし・・・しかし、岸先生はそれについて、「だから私は、ほんとうにどうしていいかわからない」と、仰っており、こうしたことを言う人に、私は信頼を寄せてしまう。当然、一度もお会いしたことは、ないのだけれど。


    『私たちは神ではない。私たちが手にしていると思っている正しさとは、あくまでも、自分の立場からみた正しさである。これが他者にも通用すると思うのは間違っている』

    本書に収録されている語りのなかに、夫婦喧嘩をすると、いつも家の中の物を破壊する妻のエピソードがあり、ある時、夫の二千冊の蔵書をすべて庭に積み上げ、灯油をかけて、燃やした後、彼女は息子の手をとって自分の車に乗り込み、そのまま行き先も言わずに出ていったそうで、その時、夫はほとんど勘で居場所を推測し、重度の閉所恐怖症をワンカップの焼酎とエロ本で堪えることにして、新幹線に乗り込み、福岡の駅でばったり会ったときに、ふたりで号泣して仲直りしたそうです。

    そうですというか、ものすごい壮絶なエピソードだと思ったのですが、要するに、どんなにひどい状況にあると思うような人でも、こちらの手にしている正しさを振りかざすのは、果たして正しいことなのか、ということです。

    『私たちは絶対に神になれないのだとしたら、神のような暴力をふるうこともまたできないのではないだろうか。』

    『もちろん私たちは、神ではない人間として、ひどい暴力をふるうことができる』

    この感想を書いている内に、これらに対して、私的な感情を交えることに意味は無いような気もしてきまして、なぜかというと、論理的に辿ってきた上での結論であることを痛感したからであり、上記についても、考えさせられたというよりは、その結果があるという、ただそれだけのこと。

    ただ、それだけのことなのに、それが、とても心に残り、とても痛い。


    また、岸先生が本当に好きなものは、「分析できないもの」、「ただそこにあるもの」、「日晒しになって忘れ去られているもの」で、それらの『かけがえのなさと無意味さ』は、解釈や分析をすり抜けてしまうそうで、岸先生の自己分析のひとつに、

    『何も特別な価値のない自分というものと、ずっと付き合って生きていかなければならない』

    という表現があり、そこには、かけがえのない自分というよりは、くだらない自分をこれまでの人生で、散々思い知らされたという実感を持たれているのですが、だからこそ、『そのかけがえのなさと無意味さ』に、いつまでも震えるほどに感動したのだろうなと、岸先生の少年時代の、小石や犬の死に際を見てやれなかったエピソードには、感じ入るものがありました。

    でも、岸先生、くだらないものには価値がないと、誰が決められたのですか?
    少なくとも、神で無いことは確かだと思いますよ(結局、感情的になってしまった)。

  • 読書が好きでよく読んでいると、人生のうちに、あ、この本を胸の深いところで感じるために、わたしは生きてきたのだな、と思う本との出会いがある。
    そういう本は、これまで孤独に生きてきた自分を救い、これからまた続いていく人生の、心強い伴走者となる。まさしくこの本も、そうなってくれる予感がする。

    他者との距離感の測り方、どうしたらいいかわからないものに対する姿勢、窮屈な、自分という存在でしか わかれない 私たちが、それでもなお、社会と対峙するという大仕事をするために、どういう心持ちでいたらいいかが、丁寧に書かれている気がした。
    取るに足らないものと、取るに足るものをどこまでもフラットに、同列に扱う目線が、とても心地よくて、好きだった。

  • 個人の生活史の聴き取りを研究手法とする社会学者の著者が集めた、研究の俎上に乗らないようなエピソードの断片たち、また、著者自身の答えの出ない思いをつづったもの。

    著者は、聴き取り調査で得られた「断片的な出会いの断片的な語りそのもの、全体化も一般化もできないような人生の破片」や、個人のSNSやブログなどにアップされている、確かに存在するけれど特に意味を持たない言葉や出来事の断片たちに強く惹かれるのだという。
    「社会学」という学問においては、それらから何らかの意味を引き出さないといけない。しかしそれらを無意味なままで提示するために著者は本書を書いたのだろう。

    社会には白黒つけられないような問題がたくさんある。著者はそのようなものについて、迷い、悩みながら答えを考えていく。
    社会の中では自分と異なる立場の者とも相対していかなければならない。しかしその存在とどう向き合っていけばよいのか。
    著者は、「異なる存在とともに生きることの、そのままの価値を素朴に肯定することが、どうしても必要」であると同時に、「『他者であること』に対して、そこを土足で荒らすことなく、一歩手前でふみとどまり、立ちすくむ感受性」も必要なのだ、と言う。
    マジョリティはマイノリティの気持ちを本当の意味で理解することはできない。知っているつもりでずかずかと入り込んでいっても相手は心を閉ざすだけである。かといって、理解できないから知ろうとしないのではなく、知り得ないことを理解しながら知る努力をすることが大事なのだ、ということだと思う。

    『本人がよければそれでよい』『本人の意思を尊重する』という論理は、一見他者を理解し受け入れているように感じる。しかし著者によるとそれは「その当人を食いものにする時に使われる」場合があるという。それは、他人について考えることを放棄し、何かあっても自分は責任をとらない、と宣言しているようなものなのかもしれない。

    私は一時期、差別をなくすためには、その差異を知らない方がいいのではないか、と思っていたことがある。変に差異を知ってしまうと色眼鏡で見てしまう。それなら、差異自体を知らなければ、偏見なく受け入れることができるのではないか、と。
    けれどそれは現実を見ずに考えることを放棄しているだけなのだな、と本書を読んで改めて思った。世の中は正解のないことだらけだが、そこから逃げてはいけないのだと思う。

    断定するのではなく、揺らぎながらより良い方向に進んでいこうともがく著者の言葉が、混沌とした社会に少しだけ光を照らしてくれるような気がして、勇気をもらえる一冊。

  • 学生時代にこの本の著者である岸先生の講義を受けていた。金曜日の三講時という時間帯の講義だったのだが、この時間の講義というものは昼食後ということと、これが終われば休みだ、という開放感からか、油断するとついウトウトしてしまいがちな時間帯だ。しかしこの講義は、比較的集中して臨めたと思う。

    映画『パッチギ!』を取り上げたりゲストスピーカーを招いたりと、板書以外の授業形式が何度かあったのもそうだが、なにより岸先生の話術が巧みだったからだろう。教室が笑いで満たされることはしょっちゅうだった。

     この講義以外で岸先生と直接関わる機会はなかったのだが、その話ぶりや人脈の広さから、なんとなくだが明るくて気さくな人、というイメージを持っていた。そして今回、岸先生の著作の書評を担当することになった。

    この本はイントロダクションに始まり、約15ページのエッセイや著者が行ったインタビューが17題、そしてあとがきへと続く構成となっている。タイトルでは社会学という言葉が使われているが学術的な要素は薄い。それもそのはずで、この本は社会学者である著者が分析できなかったこと、解釈できなかったことが書かれているのだ。

    著者は研究のため、多くの人々の語りを記録し、その語りを社会学の枠組み内に収まるよう解釈・分析してきたがその一方で、その理論や解釈に外れるところに印象的なものがあるという。そしてそうしたものは日常生活にもあるとする。

    そうした理解できないことがらは、聞き取り現場のなかだけでなく、日常生活にも数えきれないほど転がっている。社会学者としては失格かもしれないが、いつかそうした「分析できないもの」ばかりを集めた本を書きたいと思っていた。
    本書p7

    そして著者が分析できなかった人々の語りや、様々な出来事、社会問題について書かれていく。

     著者が分析できなかったもの、それが「断片的なもの」である。では断片的なものとは具体的に何を指すのか、詳しく見ていこう。

     著者が焦点を当てようとするのは、一人ひとりの人間をカタチ作っているものである。それは骨だとか筋肉だといった外見上のものではない。著者はそれを「語り」や「物語」という言葉で説明する。

     聞き取り調査で著者はたくさんの人と出会ってきたが、その多くが一度のインタビューのわずか数時間のつながりである。こうした断片的な出会いで語られた、断片的な人生の記録を著者はこれまで聞き取ってきた。こうした聞き取りをしていく中で、普段は人々の目から隠された(普通の生活では誰も気に留めない)人生の物語が姿を現すという。

     また一方で、著者は聞き取り調査以外の断片的な語りにも美しさを見出す。例えばネット上のブログ記事だ。誰を意識して書いているわけでもない、月に一度更新されるかどうかのブログ、それは存在こそしているものの、誰の目にも触れない語りだ。どうしてそうした意味のない語りを美しく感じるのか。
     
    ロマンチックなもの、ノスタルジックなものを徹底的に追い詰めていくと、もっともロマンチックでないもの、もっともノスタルジックでないものに行き当たる。徹底的に無価値なものが、ある悲劇によって徹底的に価値あるものに変容することがロマンなら、もっともロマンチックなのは、そうした悲劇さえ起こらないことである。
    本書P32より

     たとえば私たちは、災害など不幸な事件があり死者が出た時、その死者の生前の様子を知る人の話や、使用していた私物、幸せそうに写る写真を報道などで見て悼ましいと思う。それは死者の二度と帰ってこない日常を悼んでいるということでもある。

     しかし、もしその災害が起こらなければどうだっただろう。死者の日常は平凡な物語として報道されることもなく、誰も知ることはない。筆者はそうした悲劇の起こっていない日常の語りが、美しいとしているのだ。

     そしてそうした語りはどんな人にもあるという。それは普段人々の目には見えない、気にされることのない隠された物語だ。そしてどんな人々でも内側に、つまり自己に軽い、重い、単純、複雑、そうした様々な物語があり、それを組み合わせて自己を作っているという。

     自己の中の物語、というとすこし分かりにくいかもしれないが、それは簡単に言いかえると人々の中にある規範や道徳、感性を作ったものというふうに見ることも可能だろう。そうしたものは、人の行動や考え方に現れる。著者は飲み会を例に挙げ「ある行為や場面が、楽しい飲み会なのか、悪質なセクハラなのかを私たちは常に定義している」のだとしている。


     こうした自己の中の物語は時に暴力的になると著者は語る。著書の中では子どもができない夫婦に対し「お子さんが早く生まれるといいですね」と悪気なく子どもを幸せのシンボルとして使ってしまうこと、また幸せな結婚式のイメージがセクシャルマイノリティに対しての暴力になりうることに触れられる。
    こうした幸せのイメージは、そこに含まれない人を悪意はないながらも、不幸せに定義しうるからだ。

    しかし、自己の物語はそうした幸せのイメージからもできており、それが暴力になりうると知っていながら幸せを追い求めてしまう。そこで著者はどうしていいかわからなくなる、と語る。

     また自己の中の物語は容易に他者を敵としてしまう。例えばヘイトスピーチなどがあるだろう。ヘイトスピーチを行う人たちの自己の物語が、在日コリアンの人たちを敵としてしまうのである。

    それを避けるための答えとして筆者は、他者と出会うことの喜びを分かち合うことを必要とする一方で他者に対し、そこに土足で踏み込むことなく一歩前で立ちすくむ感受性が必要だとも説く。しかし私たちにはそのどちらも欠けているとする。

    また別のエッセイでは著者は性労働についての議論に関し「当人が望んでその仕事をしていた場合そこに介入することは居場所を奪うことになりうるのではないか」という。そうなると、私たちが手にしている正しさとは何なのか、と問いかける。

    しかし、その問いかけに明確に答えてくれる人はいない。私たちは自分がただ正しいと思うことを社会に向けて発し続けるしかないのである。それが後に、間違っているということになるかもしれない。それでもどこか欠けている正義を発しながら私たちは生き続けなければいけないとする。

    「分析できないことばかりを集めた」本だけあって、後半のいずれの問いに対しても明確な答えを見つけることは難しい。

    著者自身、何かしらの結論を下そうとしつつも、結局その結論は「自分が正しいと思っているどこか欠けている正義」から生まれた結論のため、読者に向かって大声で「これが私の思う結論です」というふうに書けないのかもしれないとも思える。

    しかし、そのためか著者の文章は繊細で終始優しく心に染み入ってくるようにも思える。正直講義で受けた著者の印象とは違って全体的にナイーブだ。しかしそれはきっと迷い悩んだ上で書かれた文章だからだろう。

    分析できないものに対し、無理やり答えを押し付けようとするのではなく真摯に考えた末で「たぶん自分はこう思う」というトーンで書かれたからこそ、この本は抽象的な話を含みながらも読者を置いてけぼりにすることなく、一緒に迷いながら歩んで行ってくれるように思えるのだ。


     学問の世界は主観性をなるべく排除しないといけないとされる。4回生のゼミのとき、ゼミの先生から卒業論文の書き方についてのレジュメをもらった。そこには、「私は」という主語、「思う」「感じた」という術語をなるべく使わないように、ということが書かれていた。研究はあくまで自分が「思った」ことを書くのではなく、客観的に見ても正しいことを書かないといけないからだ。

     しかし、現実問題としてこの本で取り上げる問題は、どれが正しいと考えるかは難しい。結婚観はジェンダーの問題に触れざるを得ないし、性労働はそれに加え、労働の自由という観点からも考えないといけない。いずれも一概に答えを見出すのが難しい問題だ。そして、そうした問題を学問の枠に当てはめようとすると、個人の感情はどうしても捨てざるを得なくなる。断片的な物語は学問の世界では必要とされないのだ。

    だからこそこの本は学術書としてでなく、エッセイに近いかたちで書かれたのではないだろうか。著者は社会学者として語りを分析することは時に暴力的になる、と書いている。たった数時間の聞き取り調査でその人や、その人が所属している集団を一般化し全体化してしまうのは誤解を招きえないからだ。

    今私たちに必要なのは、こうした複雑な問題に対し単純に白黒をつけて済まそうとするのではなく、ひたすら思考することなのだろう。この本は惑いながらも、惑うことの正しさを肯定してくれているのだ。

    大学の同人誌に書いた書評のデータが出てきたので、こっちにも転載。

    改めて思い返しても、透明感のあふれる優しい文章だった。「断片的な物語」の概念って、自分の好きな『アイの物語』というSF小説にも通じるものがあって、大学時代にこの2冊を読む機会があったからこそ、自分をカタチづくっているものが、なんとなく掴めた気がします。

  •  すごくいい本に出会った。一回読んだだけでは到底消化できなくて、メモったり感想を書いたりしながらもう一周した。図書館で借りた本だったけれど全然返したくなくて、Amazonで新品を買った。

     様々な地域、年齢層、職業の人びとへ、一対一でインタビューを行い、丁寧に言語化していく。聞くのはその人の「生活史」だから、これといった大きな出来事があるわけではない。なんでもない日常の「断片」なのだけれど、読んでいるこちらは、きっと一生会うことはない見ず知らずの他人の生活を覗き見しているような気分になって、好奇心を掻き立てられる。その話もっと聞きたい、と思う。読みながら、いろんな思考が頭の中を駆け巡るけれど、どんどん新しい人物の新しいエピソードが流れ込んでくるので収拾がつかない。だから何回でも読める。

     インタビューをそのまま書き起こした章もあれば、筆者がエッセイ的に語る章もある。ほとんど全てのエピソードに共通して言えることは、明確なオチがないことだと思う。何か明確に伝えたい結論や主張を目掛けて話が展開されていくのではなく、単なる事実として、ひとつの筆者の実体験として、淡々と語られる。淡々と、とめどなく、それでいて読者の知的好奇心を著しくくすぐるだけのエネルギーを持って。筆者はこのとめどなさについて、「イントロダクション」でこんなふうに述べている。


    社会学者として、語りを分析することは、とても大切な仕事だ。しかし、本書では、私がどうしても分析も解釈もできないことをできるだけ集めて、それを言葉にしていきたいと思う。テーマも不統一で、順番もバラバラで、文体やスタイルも凸凹だが、この世界の至る所に転がっている無意味な断片について、あるいは、そうした断片が集まってこの世界が出来上がっていることについて、そしてさらにそうした世界で他の誰かとつながることについて、思いつくままに書いていこう。(p.7-8)


     読みながら、こんなに頭をフル回転させた本は久しぶりだと思う。自分の体験に照らし合わせてみたり、教訓のように心に留めておきたくてノートに書き出してみたり、とにかく終始アクティブな態度でこの本と対峙できたことが楽しかった。そうそう、本当に楽しい本だった。ただ読むだけじゃなくて、自分で何か書きたい、何かしゃべりたいというエネルギーが沸き起こってくるのを感じた。

     一冊を通して最も印象に残った箇所について、深掘りしてみたいと思う。


     ある人が良いと思っていることが、また別のある人びとにとっては暴力として働いてしまうのはなぜかというと、それが語られるとき、徹底的に個人的な、「<私は>これが良いと思う」という語り方ではなく、「それは良いものだ。なぜなら、それは<一般的に>良いとされているからだ」という語り方になっているからだ。(中略)
     したがって、まず私たちがすべきことは、良いものについてのすべての語りを、「私は」という主語から始めるということになる。(p.111)


     このことについては、私は日頃からめちゃくちゃ心がけているのだ。人と会うとき、最低限これだけは失敗したくないと思っている。

     気を付けようと思うきっかけになったのは数年前、子どもが幼稚園に通っていた頃だ。当時、夫と穏やかに会話をする、といういとも簡単なことがどうもうまくいかなくなっていた。例えば、同じニュースを見ていて夫がふと口にする感想に、ひとつも共感できなくなった。できなくなったというより、実はそれまでもできていなかったのだけれど、なんとなく流したり納得したふりをしたりすることはできていたのに、あるときからそれすらも完全に不可能になってしまった。なぜだ。

     果たして、私が歳を取ったからか。結婚したばかりの頃は二十歳そこそこで、世間知らずだったし、人生における確固たる信念もなかった。だからか、夫が私と違う意見を言ったとき、「それも言えてるかも〜!」と軽快な態度を取ることができた。しかし最近はそうもいかない。この十年で、譲れないと思うことが圧倒的に増えた。正しいか間違っているかは知らないけれど、自分なりに生きていく上での方針のようなものもだいぶ定まってきたと思う。よく言えば芯ができ、悪く言えば頑固になった。おそらく加齢以外にもホルモンバランスだとか生理周期だとか単純に機嫌の問題とかいろいろ要因はあるだろうが、とにかく当時の私は、夫のみならず、それまで親しかった家族や友人たちとも穏やかに会話することが難しくなっていた。自分と違う、ということに対する寛容さを失っていたように思う。

     今年で56歳になる夫が生まれ育った家庭では、女性にテレビのチャンネル権がなかったらしい。家事育児は当然母親の仕事で、父親は家にいても子どもとは遊ばない。現に私たちの息子がまだ幼かった頃、「男がベビーカーを押すなんてみっともない」というおったまげ発言をして全宇宙を震撼させた。出産してから、夫がどんどん理解できなくなっていく。意見はぶつかるし、ぶつけても「俺は変わらない」と言い切るし、かと言って私も変わりたくない。私にだって生きたい生き方があるんだ。歳下だけど、いろいろ自信ないけど、私ばっかりが変わるなんて不公平だ。でも息子にとってはたった一人の父親だし、このままただただ悪化の一途を辿って、最終的に家族が崩壊する展開は避けた方がいいと思った。さぁどうする。

     悩んだ末、夫が育った環境を少しでも理解しようとドラマ「家なき子」を観ることにした。エンタメではない、これはれっきとした社会勉強だ。体罰、差別用語、いじめ、男尊女卑、家父長制。全部が全部行きすぎていて笑った。でも夫が10代だった1980-90年代の日本が、誇張されているとはいえなんとなくどんなだったかを見て、これはもうしゃーないわ、と思った。理解しようとすることはできても、根本的なすり合わせはできない。お互いに不可能だ。不可能だし、そもそもすり合わせって必要?夫婦だからと言って、価値観を揃えて、常に同じ方向を見ていなきゃいけない?

     ずっと当然と思っていた考え方や社会のあり方が時代とともに少しずつ変わっていき、いつの間にか全く違うものになっていた、という事態は想像に容易い。今の日本は、たしかに世界からはまだまだ遅れを取っているかもしれないけれど、少なくとも「家なき子」の時代からは格段に進化している。女も働くし、男も育児するし、同性愛を無条件に拒絶する人は減ったし、結婚と出産はセットじゃなくていい。私が高校のとき仲が良かった女友達は、タイで性転換手術をして男になって数年前に結婚した。ぽんぽん転職しても、在学中に起業しても、YouTubeで数時間ゲーム実況して投げ銭で18万円稼いだっていい。「キチガイ」「ガイジン」は誰でも知っている差別用語になったし、ハラスメントは今や全35種類もある。そんなこと、20年前の日本で誰が想像できただろう。私だったらその全てに完璧に順応できていたのだろうか。無理だ。今だって全然できていない。東洋女性を指す「オリエンタル」という言葉が人種差別にあたるとして2016年にアメリカで使用禁止になったこと、LGBTにいつの間にかQが加わりそれが今ではPになっているらしいこと、現に知らなかったじゃないか。

     「順応」という言葉の聞こえはいいけれど、それはつまりこれまでの価値観を捨てるということ。そんなことできるだろうか。いや、できるできないじゃなくて、もしも安易に「今日から新しい私☆」みたいなこと言っている大人がいたら、そいつの方がよっぽどやばくないか。

     そういうわけで、私は無意識に「家族なのだから同じ方向を見ねば」と自分に強いていたらしいこと、そしてどう頑張っても意見がすり合わないことに苛立っていたらしいことに気付き、全部さっさと放棄することにした。自分はこう思う、に対して、いや俺はこう思う、と言われたとき、論破する必要も、服従する必要も、なんなら無理に妥協案を見出す必要もないと思うことにした。そうしてみると、なるほどそういう考え方もあるのか、とハッとする余裕が生まれた。それを自分の意見として取り込むかどうかは、また別の問題。

     今、他人と「穏やかに」会話するということは、必ずしも相手の考えに寄り添うことを意味しないのだと思う。どんなに親しくても、自分と全く同じ意見の人間はいない。だから、自分とは違う意見を聞いたとき、それもそうねと自分の意見の輪郭を変容させることは(柔軟性という点でときに重要になるとはいえ)、穏やかな会話を成立させる必要条件にはならない。必要条件になることは、持論と一般論の境界を常に明確にしておくよう心がける姿勢だ。自分の意見があたかも世界の大多数が支持する多数派の意見であるかのように振りかざすことは、暴力になる。だから意見を言うときは、必ず主語を「私は」にしなくてはならない。意見の相違は、すり合わせるべき障害ではなく、新しい発見と気付きをもたらす香辛料のようなものだと今では思っている。



     もう一つ、この本が好きになった理由は、言語化された文章の美しさだ。私は昔から物事を言語化する能力が高くないので、思ったこと、考えたことを的確に文章にすることができない。言いたいことはあるのだけれど、どう文章にしていいかわからない。いつまで経っても言葉にできないまま頭の中に残り続ける物事を、この本は私の代わりにすっきりと言葉にしてくれた。

     私は大学で哲学を専攻していたのだけれど、卒論を書いていた時期に同じゼミの男子生徒から、君はそもそもなんで哲学を専攻したのと聞かれた。自力ではなかなか言葉にできない物事を言葉にしたいから、と私は答えた。彼はポカンとしていた。凄まじく疲れていたのだと思う。

     なぜ哲学を専攻することにしたか。最初は高校の倫理の授業だった。生きている中で、頭に浮かんでくるのにうまく言葉にできない思考が、倫理の教科書の中できれいに言語化されているのを読んで感動した。人はなぜ死ぬのか。なぜ他人を殺してはいけないのか。「万物の根源」とは。哲学と宗教の違いは。哲学と哲学史の違いは。倫理の教科書には、私が八億回生まれ変わっても自力では導き出せないような素晴らしい理論の数々が紹介されていたけれど、私を最も圧倒したのは、そのあまりの答えのなさだった。高校二年生まで数学と化学が一番好きで、ただひとつの答えを目指して一心不乱に数式を構築していく単純明快な世界に満足していた私は、明確な答えを持たない学問があることに呆然とした。考えるというその行為そのものが求められる学問。完全に満足のいく結論を得ることは永久にできなさそうな学問。なんだかよくわからない熱が全身を駆け巡って、さっさと文転して教養学部に入った。

     大学一年生の必修科目だった一般教養の授業で、各国の哲学者の論文をたくさん読んだ。全員言っていることが違うのに、そのどれもが微塵も論理的に破綻していないように見えて、倫理の教科書よりもずっとずっと感動した。正しさと真実は必ずしも一致しないこと。意見の相違があっても常に正誤で判断できるとは限らないこと。無心で計算しているときとはまったく違う種類の高揚感だった。

     文学も、人類学も、心理学も魅力的だったけれど、やっぱり哲学の授業が一番楽しかった。それでも卒業間近に一度だけ、専攻を決めたときの信念が危うくブレそうになったことがあった。

     卒論を書くため、図書館に籠って黙々と論文を読み、関係代名詞だらけの長い文章を細かく区切り、未知の単語を調べ、辞書に出てくる複数の訳語の中から最適なものを選び、和訳し、そして出来上がった自分の訳文を読み返してあまりの意味不明さにブチギレて喫煙所に逃げる、という作業を延々と繰り返していた時期に、単位の関係で仕方なく履修した社会学の授業がそれだ。教授が提示したテーマについて見ず知らずの隣の生徒と会話し、互いに意見を述べ、相手の人格ではなく意見単体を否定する術を身につけようと試み、ときにフィールドワークと称して学外に出てまた見ず知らずの人と会話する。その一度きりしか履修しなかった社会学の授業が妙に楽しかった。一人で黙々と突き詰めるのも、人と関わるのも、どちらも楽しいなと思った。あのときさっと身を翻して専攻を変えていたら、と思うけれど、今も昔も私は頑固すぎて、みすみすチャンスを逃してしまう。

     十年以上前のあの日から(こういうことを書くと年齢がバレちゃう!と怯む年齢を私はいつの間にか通り越している)、私はずっと同じ地点にいるような気がする。抽象的なものを言語化する能力は今も壊滅的なままだし、論理的に破綻していなければ、まったく正反対の二つの意見の両方につい首肯してしまう。まあそれもそうね、あなたの言いたいこともわかるわ。そう言いながら自分がどっちの立場を取るかくらいは最低限はっきりさせておくべきだと思うけれど、ほとんどの場合、なかなかそれも叶わない。

     文章にしようとしても全然つかめずにすり抜けていってしまう、でも頭の中にはずっと残っていて、いつかスッキリ言葉にしてもらえるのを待っている思考たち。三十代半ばになってもなお、相変わらずうまいこと表現できない現状にもどかしさを感じる。そんな中で、この本はかなりの量の「スッキリ」を私にもたらしてくれた。そうそうそういうこと、それが言いたかったのよ。だからこの本が好き。何回でも読みたい。岸氏の他の本もいろいろ検索して、次は「街の人生」「マンゴーと手榴弾」を狙っている。 どんな人物が書いたのか気になってネット上のインタビュー記事をいくつか読み、Twitterをフォローして、画像検索もした。なまらイケメンだった。

  • かなり面白い。
    時間的な余裕で湯船にお湯をはれる日しか読書は出来ないけど、ないよりはマシだ。まとめて時間を取れないので、こういう断片的なものはとても良いなー。
    色んな人が居る、だけどその全ての話を聞いたり、声に耳を傾けたり、考えたり悩んだりは出来ないけど、こうやって知る事が出来る。色んな人の断片的な会話、地下鉄でヘッドホンをはずしてただ流れてくる会話に意識があるような、そういう本。
    そうなのだ、障害者の対義語として健常者があるのではない。そこには健康を当たり前とし障害について考えた事のない人々、というのがあるだけなのだ。
    1ヶ月くらいかかってよーやく読了。
    凄く楽しく面白い本だった。
    世界の本。社会?それは人の話。面白かったー。
    何度も読み返したくなる。突き刺さるような現実が、こんなにも優しいなんて。素敵な事を知った。

  • 最近立ち寄った本屋さんで目に留まった、てか呼び止められた一冊。
    白を基調とした表紙にぼぉっと浮き上がって見えるタイトル。
    断片的?何のことか気になるんやけど。

    著者(生活史専門の社会学者)の語り口調がとても詩的。
    それだけで学術書じゃないことがよく分かる。
    他者へのインタビューでほぼ構成されているがそれに対して感傷的にならず、ただ淡々と第三者目線で話を進める。
    静かに引き込まれたが断片的なストーリーが掻き集められているせいか、心に残るものがあまりない。

    著者曰く
    インタビューで他者の人生や心に入り込む感覚は、暗い海へゆっくりと身を投じるようなものらしい。
    そう言われると私も段々自分が深海に引き込まれていく感じがした。そして著者の綿密な聞き取り調査にも大いに感服した。
    以下、一番心に残った部分だけ引用しておく。

    「私たちは孤独である。脳の中では、私たちは特に孤独だ。どんなに愛し合っている恋人でも、どんなに仲の良い友人でも、脳の中までは遊びにきてくれない」

  • 断片的な物語を集めた本であった。著者は自分はマジョリティと考えていても、断片的な存在の苦しさや社会における厳しさを把握している。それを乗り越えるのは難しいと理解しながらも、昔拾った石が存在しているように、その物語をあつめる一つの社会学が存在していることを知られて良かったとおもえた。

  • 誰かの人生や言葉。関わろうとしなければ一生無縁の断片的なものごと。私が当たり前だと思って見過ごして来たことを、岸政彦さんは立ち止まって、じっと見つめているんだな。それを共有させてもらったと感じた本。

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著者プロフィール

岸政彦(きし・まさひこ)
1967年生まれ。社会学者・作家。京都大学大学院文学研究科教授。主な著作に『同化と他者化』(ナカニシヤ出版、2013年)、『街の人生』(勁草書房、2014年)、『断片的なものの社会学』(朝日出版社、2015年、紀伊國屋じんぶん大賞2016)、『質的社会調査の方法』(石岡丈昇・丸山里美と共著、有斐閣、2016年)、『ビニール傘』(新潮社、2017年)、『マンゴーと手榴弾』(勁草書房、2018年)、『図書室』(新潮社、2019年)、『地元を生きる』(打越正行・上原健太郎・上間陽子と共著、ナカニシヤ出版、2020年)、『大阪』(柴崎友香と共著、河出書房新社、2021年)、『リリアン』(新潮社、2021年、第38回織田作之助賞)、『東京の生活史』(編著、筑摩書房、2021年、紀伊國屋じんぶん大賞2022、第76回毎日出版文化賞)、『生活史論集』(編著、ナカニシヤ出版、2022年)、『沖縄の生活史』(石原昌家と監修、沖縄タイムス社編、みすず書房、2023年)、『にがにが日記』(新潮社、2023)など。

「2023年 『大阪の生活史』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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