断片的なものの社会学

著者 :
  • 朝日出版社
4.16
  • (196)
  • (162)
  • (85)
  • (12)
  • (5)
本棚登録 : 2308
レビュー : 203
  • Amazon.co.jp ・本 (244ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784255008516

作品紹介・あらすじ

路上のギター弾き、夜の仕事、元ヤクザ……
人の語りを聞くということは、ある人生のなかに入っていくということ。
社会学者が実際に出会った「解釈できない出来事」をめぐるエッセイ。

◆「この本は何も教えてはくれない。
  ただ深く豊かに惑うだけだ。
  そしてずっと、黙ってそばにいてくれる。
  小石や犬のように。
  私はこの本を必要としている。」

一生に一度はこういう本を書いてみたいと感じるような書でした。
ランダムに何度でも読み返す本となりそうです。
――星野智幸さん

どんな人でもいろいろな「語り」をその内側に持っていて、
その平凡さや普通さ、その「何事もなさ」に触れるだけで、
胸をかきむしられるような気持ちになる。梅田の繁華街で
すれちがう厖大な数の人びとが、それぞれに「何事もない、普通の」
物語を生きている。
 * * *
小石も、ブログも、犬の死も、すぐに私の解釈や理解をすり抜けてしまう。
それらはただそこにある。[…]社会学者としては失格かもしれないが、
いつかそうした「分析できないもの」ばかりを集めた本を書きたいと思っていた。(本文より)

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 学生時代にこの本の著者である岸先生の講義を受けていた。金曜日の三講時という時間帯の講義だったのだが、この時間の講義というものは昼食後ということと、これが終われば休みだ、という開放感からか、油断するとついウトウトしてしまいがちな時間帯だ。しかしこの講義は、比較的集中して臨めたと思う。

    映画『パッチギ!』を取り上げたりゲストスピーカーを招いたりと、板書以外の授業形式が何度かあったのもそうだが、なにより岸先生の話術が巧みだったからだろう。教室が笑いで満たされることはしょっちゅうだった。

     この講義以外で岸先生と直接関わる機会はなかったのだが、その話ぶりや人脈の広さから、なんとなくだが明るくて気さくな人、というイメージを持っていた。そして今回、岸先生の著作の書評を担当することになった。

    この本はイントロダクションに始まり、約15ページのエッセイや著者が行ったインタビューが17題、そしてあとがきへと続く構成となっている。タイトルでは社会学という言葉が使われているが学術的な要素は薄い。それもそのはずで、この本は社会学者である著者が分析できなかったこと、解釈できなかったことが書かれているのだ。

    著者は研究のため、多くの人々の語りを記録し、その語りを社会学の枠組み内に収まるよう解釈・分析してきたがその一方で、その理論や解釈に外れるところに印象的なものがあるという。そしてそうしたものは日常生活にもあるとする。

    そうした理解できないことがらは、聞き取り現場のなかだけでなく、日常生活にも数えきれないほど転がっている。社会学者としては失格かもしれないが、いつかそうした「分析できないもの」ばかりを集めた本を書きたいと思っていた。
    本書p7

    そして著者が分析できなかった人々の語りや、様々な出来事、社会問題について書かれていく。

     著者が分析できなかったもの、それが「断片的なもの」である。では断片的なものとは具体的に何を指すのか、詳しく見ていこう。

     著者が焦点を当てようとするのは、一人ひとりの人間をカタチ作っているものである。それは骨だとか筋肉だといった外見上のものではない。著者はそれを「語り」や「物語」という言葉で説明する。

     聞き取り調査で著者はたくさんの人と出会ってきたが、その多くが一度のインタビューのわずか数時間のつながりである。こうした断片的な出会いで語られた、断片的な人生の記録を著者はこれまで聞き取ってきた。こうした聞き取りをしていく中で、普段は人々の目から隠された(普通の生活では誰も気に留めない)人生の物語が姿を現すという。

     また一方で、著者は聞き取り調査以外の断片的な語りにも美しさを見出す。例えばネット上のブログ記事だ。誰を意識して書いているわけでもない、月に一度更新されるかどうかのブログ、それは存在こそしているものの、誰の目にも触れない語りだ。どうしてそうした意味のない語りを美しく感じるのか。
     
    ロマンチックなもの、ノスタルジックなものを徹底的に追い詰めていくと、もっともロマンチックでないもの、もっともノスタルジックでないものに行き当たる。徹底的に無価値なものが、ある悲劇によって徹底的に価値あるものに変容することがロマンなら、もっともロマンチックなのは、そうした悲劇さえ起こらないことである。
    本書P32より

     たとえば私たちは、災害など不幸な事件があり死者が出た時、その死者の生前の様子を知る人の話や、使用していた私物、幸せそうに写る写真を報道などで見て悼ましいと思う。それは死者の二度と帰ってこない日常を悼んでいるということでもある。

     しかし、もしその災害が起こらなければどうだっただろう。死者の日常は平凡な物語として報道されることもなく、誰も知ることはない。筆者はそうした悲劇の起こっていない日常の語りが、美しいとしているのだ。

     そしてそうした語りはどんな人にもあるという。それは普段人々の目には見えない、気にされることのない隠された物語だ。そしてどんな人々でも内側に、つまり自己に軽い、重い、単純、複雑、そうした様々な物語があり、それを組み合わせて自己を作っているという。

     自己の中の物語、というとすこし分かりにくいかもしれないが、それは簡単に言いかえると人々の中にある規範や道徳、感性を作ったものというふうに見ることも可能だろう。そうしたものは、人の行動や考え方に現れる。著者は飲み会を例に挙げ「ある行為や場面が、楽しい飲み会なのか、悪質なセクハラなのかを私たちは常に定義している」のだとしている。


     こうした自己の中の物語は時に暴力的になると著者は語る。著書の中では子どもができない夫婦に対し「お子さんが早く生まれるといいですね」と悪気なく子どもを幸せのシンボルとして使ってしまうこと、また幸せな結婚式のイメージがセクシャルマイノリティに対しての暴力になりうることに触れられる。
    こうした幸せのイメージは、そこに含まれない人を悪意はないながらも、不幸せに定義しうるからだ。

    しかし、自己の物語はそうした幸せのイメージからもできており、それが暴力になりうると知っていながら幸せを追い求めてしまう。そこで著者はどうしていいかわからなくなる、と語る。

     また自己の中の物語は容易に他者を敵としてしまう。例えばヘイトスピーチなどがあるだろう。ヘイトスピーチを行う人たちの自己の物語が、在日コリアンの人たちを敵としてしまうのである。

    それを避けるための答えとして筆者は、他者と出会うことの喜びを分かち合うことを必要とする一方で他者に対し、そこに土足で踏み込むことなく一歩前で立ちすくむ感受性が必要だとも説く。しかし私たちにはそのどちらも欠けているとする。

    また別のエッセイでは著者は性労働についての議論に関し「当人が望んでその仕事をしていた場合そこに介入することは居場所を奪うことになりうるのではないか」という。そうなると、私たちが手にしている正しさとは何なのか、と問いかける。

    しかし、その問いかけに明確に答えてくれる人はいない。私たちは自分がただ正しいと思うことを社会に向けて発し続けるしかないのである。それが後に、間違っているということになるかもしれない。それでもどこか欠けている正義を発しながら私たちは生き続けなければいけないとする。

    「分析できないことばかりを集めた」本だけあって、後半のいずれの問いに対しても明確な答えを見つけることは難しい。

    著者自身、何かしらの結論を下そうとしつつも、結局その結論は「自分が正しいと思っているどこか欠けている正義」から生まれた結論のため、読者に向かって大声で「これが私の思う結論です」というふうに書けないのかもしれないとも思える。

    しかし、そのためか著者の文章は繊細で終始優しく心に染み入ってくるようにも思える。正直講義で受けた著者の印象とは違って全体的にナイーブだ。しかしそれはきっと迷い悩んだ上で書かれた文章だからだろう。

    分析できないものに対し、無理やり答えを押し付けようとするのではなく真摯に考えた末で「たぶん自分はこう思う」というトーンで書かれたからこそ、この本は抽象的な話を含みながらも読者を置いてけぼりにすることなく、一緒に迷いながら歩んで行ってくれるように思えるのだ。


     学問の世界は主観性をなるべく排除しないといけないとされる。4回生のゼミのとき、ゼミの先生から卒業論文の書き方についてのレジュメをもらった。そこには、「私は」という主語、「思う」「感じた」という術語をなるべく使わないように、ということが書かれていた。研究はあくまで自分が「思った」ことを書くのではなく、客観的に見ても正しいことを書かないといけないからだ。

     しかし、現実問題としてこの本で取り上げる問題は、どれが正しいと考えるかは難しい。結婚観はジェンダーの問題に触れざるを得ないし、性労働はそれに加え、労働の自由という観点からも考えないといけない。いずれも一概に答えを見出すのが難しい問題だ。そして、そうした問題を学問の枠に当てはめようとすると、個人の感情はどうしても捨てざるを得なくなる。断片的な物語は学問の世界では必要とされないのだ。

    だからこそこの本は学術書としてでなく、エッセイに近いかたちで書かれたのではないだろうか。著者は社会学者として語りを分析することは時に暴力的になる、と書いている。たった数時間の聞き取り調査でその人や、その人が所属している集団を一般化し全体化してしまうのは誤解を招きえないからだ。

    今私たちに必要なのは、こうした複雑な問題に対し単純に白黒をつけて済まそうとするのではなく、ひたすら思考することなのだろう。この本は惑いながらも、惑うことの正しさを肯定してくれているのだ。

    大学の同人誌に書いた書評のデータが出てきたので、こっちにも転載。

    改めて思い返しても、透明感のあふれる優しい文章だった。「断片的な物語」の概念って、自分の好きな『アイの物語』というSF小説にも通じるものがあって、大学時代にこの2冊を読む機会があったからこそ、自分をカタチづくっているものが、なんとなく掴めた気がします。

  • 若干ねちっこい。けどメランコリックな感じが好き。
    社会学者が聞き取り調査をし、結果とか過程とか関係なく意味もなく、ただそこにあった存在していた断片的な物語の数々をまとめたエッセイ。怖さはないし全然違うんだけど「遠野物語」のような空気を感じた。記憶のような、写真のような…。

    「あとがき」が一番心に響いた。「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない」、「土偶と植木鉢」、「笑いと自由」、「普通であることへの意志」が特によかった。本の雰囲気がふわっとあたたかいような気がした。


    堅苦しいようなエッセイで、これはエッセイではなくて一種の語りのような気がしたし、著者の自意識の欠片みたいなものを感じて読みにくいなぁ…とか思いつつも読了。心にしみる内容もあり読み終えて時間が経ってから、自分は内容がある物語よりもあまり意味がなさそうで「だから何?」と思える欠片のような話が好きなんだと改めて気がついた。

    読むか読まないかは別として、この人の(岸さんの)小説(『ビニール傘』)ってどうなんだろう…と、とても気になった。。。他…作品中でも紹介されていたし巻末にも掲載されていた末井昭さんのエッセイ『自殺』も気になる。

  • かなり面白い。
    時間的な余裕で湯船にお湯をはれる日しか読書は出来ないけど、ないよりはマシだ。まとめて時間を取れないので、こういう断片的なものはとても良いなー。
    色んな人が居る、だけどその全ての話を聞いたり、声に耳を傾けたり、考えたり悩んだりは出来ないけど、こうやって知る事が出来る。色んな人の断片的な会話、地下鉄でヘッドホンをはずしてただ流れてくる会話に意識があるような、そういう本。
    そうなのだ、障害者の対義語として健常者があるのではない。そこには健康を当たり前とし障害について考えた事のない人々、というのがあるだけなのだ。
    1ヶ月くらいかかってよーやく読了。
    凄く楽しく面白い本だった。
    世界の本。社会?それは人の話。面白かったー。
    何度も読み返したくなる。突き刺さるような現実が、こんなにも優しいなんて。素敵な事を知った。

  • いや、マジで一気に読める。

    かけがえのないもの、私が言語に落とし込めない微妙な感情、状況、観察がスーッと頭の中に入ってくる感じ。

    社会学に明るくない人(私もなんですが)にも、読み物としておすすめできるんじゃなかろうか。

  • 小説は他人の会話を第三者として聞いてて、ビジネス書は著者が読者に語りかけてる、と何かの本で読んで妙に納得した

    そうするとエッセイとは『著者のひとり語り』なんだと思う

    このひとのひとり語りは、そっと自分に寄り添ってくれる心地よさがある

  • 社会学と銘打っているが別にアカデミックな感じではなく、感性が豊かで多様な視点を持った社会学者だからこその、なんとも読み手の心にじんわりと何かを感じさせる味わい深い一冊。
    様々な境遇の人が語る人生。
    それは聞く人にとっては驚きの人生でも、その人にとっては普通の人生だ。
    それは社会学者を持ってしても、解釈し分析できない。

    個人的には漫画「火の鳥」や「コブラ」などから引用した「時間の流れ」についての考察は、心に大きく響いている。
    楽しい時は時間の流れを忘れ、あっという間に時間が経過しているが、逆に痛みや苦しみに喘いでいる時は、時間が流れていることが苦痛に感じる。
    時間の流れを意識することが何故苦しいのか。
    牢獄の中にいる時間、病院のベッドの上にいる時間、労働をしている時間、全ての人に等しく流れる時間から、人は何かの感覚を感じ続けている。
    誰にも知られない孤独の時間があることを、人はみんな知っているのだ。
    共有はできないけれども。

  • 自分にとって正しいこと、普通なこと、当たり前なこと。。それは相手にとってどうなんだろうね。と押し付けがましくもなくいろんな人の視点を想像して問いかけてくれているような感じがした。正義の反対は悪ではなく、また違う正義であるということを意識して話せる人はきっと寛容な人だろうなーという考えが頭の中に浮かんだ。自分が辛い時、相手を否定することで自分を肯定するのではなく、肯定も否定もせず一旦ただの情報として受け入れて自分なりの解釈のもと表明していきたい

  • たとえば日曜の昼下がり、新宿や渋谷の街を行きかう途方もない数の人混みを前にして、こんなにたくさんの人たちが世の中にはいて、自分がいまこうして息を吸って吐いているのと同じように、この人たちのそれぞれにも、普通の、平凡な、にもかかわらずひと言では要約できない人生があるという、それこそ平凡であたりまえの事実に、なぜだか胸が苦しくなってしまった。

    なんて経験のある人は、この本を読んでもきっと同じように、なぜだか泣きそうになってしまうかもしれない。いまこのこぢんまりとした本棚にある中で、ともすると、いちばん多くの人にひっそり手にとってほしい本。

  • は~~最近素晴らしい本にたくさん出会えてほんと最高
    この本の良さを言語化するのはとてもむずかしいのですが、生きている人間ひとりひとりにストーリーがあってそれらは当事者しか知らなくて誰からも観測されたり認知されてはいないんだけど、たしかにそれは存在してるよっていうことですかね
    良さをうまく説明できない部分がこの本の良さでもある この本というか、この世界のですね

  • 社会学者である著者が様々な人から話を聞き取った話や、自分の中で考えたことのかけら、それをまとめたエッセイ。
    たとえて言うなら著者が拾い集めた道ばたの石を、様々な角度から見せられている。宝石のようにきらきらと目を楽しませるものでも、派手な模様に目をひかれるものでもない、本当にただの石だ。

    しかも著者はそれを尊んでいるわけではない。「素朴」「あるがまま」という言葉がまとってしまった一種の胡散臭さからは遠い態度だ。目の前にある石を何かに結びつけることはなく、ただそこにあることの不思議を受け取っている。

    著者の様々な視点から生み出される文章を読むと、文中で登場するあらゆる考え方や人が纏う属性のどちらかに寄り立場を明確にしようとしてしまう自分に気付かされる。クリアではない入り組んだものの連続の中で、そういうものをそのまま描く。

    語り口は淡々としているが無味乾燥でも透明でもない。表紙の何ということもないシャッターの降ろされた店の外壁と同じように、外気にまみれた白練の壁と同じトーン。どこにも身を置ける場所はなくても、どこかあたたかくありふれた安堵を感じられる。この本には自分に引き寄せる共感とは違った共存の形があるような気がする

全203件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

社会学者、立命館大学大学院教授。1967年生まれ。社会学者。専門は沖縄、生活史、社会調査方法論。著書に『同化と他者化――戦後沖縄の本土就職者たち』(ナカニシヤ出版)、『街の人生』(勁草書房)、『断片的なものの社会学』(朝日出版社)、『はじめての沖縄』(新曜社よりみちパン!セ)、『マンゴーと手榴弾――生活史の理論』(勁草書房)など。近年は小説の執筆にも取り組んでおり、「ビニール傘」が芥川賞・三島賞候補、「図書室」が三島賞候補となった。

「2020年 『ブルデュー『ディスタンクシオン』 2020年12月』 で使われていた紹介文から引用しています。」

岸政彦の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
スティーブン・ピ...
J・モーティマー...
本屋図鑑編集部
ミシェル ウエル...
西 加奈子
彩瀬 まる
有効な右矢印 無効な右矢印

断片的なものの社会学を本棚に登録しているひと

ツイートする
×