- Amazon.co.jp ・本 (324ページ)
- / ISBN・EAN: 9784255011356
作品紹介・あらすじ
「アーティスト」が消失した次は、「個」が消える番だ。
復興、オリンピック、芸術祭、都市再開発、表現の自由――
“ブラックボックス化”した大正の前衛アートを手がかりに、
開かれた社会(パブリック)と「個」を探る画期的な公共/芸術論!
津田大介、青木淳、福住廉の三氏も対話に参加。
ウェブ版「美術手帖」での好評連載を全面改訂し、新たな論として更新。
「あいちトリエンナーレ2019」の“公開”検閲・展示中止を受けた対談も急遽追加。
大きなアートフェアや芸術祭に率先して「配置」されるアーティスト、
民営化されて「マジョリティ」しか入れなくなった公園や広場、
「滅私奉公」して作品を社会から閉ざしていく市民のタイムライン……
「みんな」「一般」の名のもとに、トップダウン/ボトムアップ双方から
個人が侵食されていくとき、新しい公共圏と自由をどうつくっていくか?
「個と公」の問題を、アーティストとアートの存在意義をテコにして実践的に考える。
目次:
はじめに 卯城竜太
1. いまアーティスト論を語るということ
2. 「マジョリティ」園の出現
3. 「にんげんレストラン」は生きていてた
4. 公化する個、個化する公
5. 日本現代アートの始祖・望月桂と黒耀会 +福住廉
6. 横井弘三が夢見た理想郷の建設
7. 大正の前衛が開いた個のポテンシャル
8. 「表現の自由」が問われた芸術祭 +津田大介
9. 新しい公共をつくる方法論とは +青木淳
10. アーティストたちよ、表層を揺さぶれ
おわりに 松田修
卯城による「日本の前衛」DIY年表
「近年、『個と公』のバランスが大きく変わるなかで、僕らには、アーティストというつくり手として、言いたいことがたくさんあった。対談内にウザいくらい出てくる『個』『アーティスト』『大正』といったいくつかのキーワードのうち、とくに『公』の使い方は、論として開始当時はガバガバだ。いまから見るとツッコミどころ満載だが、なぜ僕らがそれほどまでに幅広くいろんな集団や容れ物を『公』と呼びたかったのか。それがいったい何を示唆しているのか、だんだんとわかるようになってきたのは、僕らが自らを『私』ではなく、『個』として捉えることにこだわりを持っていると気づいてからだった」(卯城竜太「はじめに」より)
感想・レビュー・書評
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《卯城 つまり、「公の時代」って言って公の運営側の責任を野党っぽく追求してもなにかどこか的外れな気がするのは、むしろ個のほうから柔軟に思想を変えたり捨てたりできてしまって、積極的に自分の態度を「公化」するからじゃん。(⋯)やがて全体主義に至る「公の時代」に、当局の公は弾圧の必要を感じたくらいにアートや前衛を恐れたって話も腑に落ちる。そんな一見無害でカスで社会性に欠ける前衛の、いったい何を恐れたのか。その実態こそ、「個」(人主義)という恐るるに足らない小さな力、けれど巨大な公にとってはもっとも自分と相容れない、厄介な可能性だったということでしょ》(p.170-171)
《卯城 美術史ってのはホント、永遠に未完成なものなんだな、とつくづく思うよ。なのに新人作家までもが「美術は文脈」とか言ってその気になって、いまの目先にある「とりあえず」の美術史のストーリーに合わせて作品をつくったりするでしょ。「公」のための「個」になりきっちゃうのと同じ。乗っかるのはいいけど、同時に疑えよって思う》(p.108)
《津田 (いまの学生)はLGBTQ+も同性婚も選択的夫婦別姓もOKだけど、モリカケ問題や統計改ざんも公文書隠蔽もOKなんです。厳しい言い方をすれば、自分の身に直接火の粉が降りかかってこない問題については何でもOK。でもそれって「多様性」か?っていう》(p.197)
《卯城 政治に民主主義がなさすぎな状況なのに、社会には民主主義がありすぎでしょ。公権力は放置したまま社会の一部が過激化して炎上し合ってるなんて。そんな「民主主義暴力団の仁義なき戦い」みたいなボトムでの抗争(笑)》(p.279)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
大正時代の黒耀会や望月桂の発見の話も取り入れつつ、アートは、自由、ポリティカル、マイノリティとの共感、という要素をラディカルに投影するべき、という作家二人の対談。
また、対話や調停、融和より、闘争を全面にした作品表現の正統性も語る。
バブル崩壊前まであった「個」の作家性や作品にシンパシーを感じていて、反対に現在の作家や作品がすべからく「公」を意識する、あるいは従うという空気を批判する。
言うなれば「行き過ぎた人権思想」や「自由の氾濫」という最近の社会の言葉へ、反対(または追及)している立場。
とはいえ、二人とも現代美術史の知識は大変豊富である。二人のラディカルな芸術活動の過程で、独りよがりに陥らないように理論武装してきたのだろう。生き抜く過程で結果的に鍛えあげられできた「美術理論の筋肉」といったところか(但し松田の書いた「あとがき」には書籍化に際し、専門書や編集者、専門家に相談して「大幅な加筆修正」をしたと告白している)。
後半は批判だけではなく、その「公の時代」にどんな作品が成立可能かを戦略的に少し考察する部分もあるが、有効なアイディアを出すのは難しいようである。
現在が自由、そして民主主義、個の権利が先鋭化した状況と捉え、#metoo、シールズが勃興すると同時にQアノン、在特会などが生まれると分析。その中で、自由や民主主義に希望を持っていた過去に行われた読売アンパンのようなものを現代に持ってきても効果は無いとか、実際に行われた「東京インディペンデント展2019」が面白く無かったと説明している。一方、公海上に無国籍の住所を作る構想「シーステディング」には可能性を見いだしている。
その中で「有効なアイディア」として少しだけ提案されたのが「ダークアンデパンダン展」。観客を「キュレーション」して、半ばクローズドで展示されるシステム。これが運用できれば、一般公開出来ない作品(卯城はチンポムの作品にそれが存在していて、「マスターピース」であると言っている)が公開出来るとしている。
全体として、日本社会の構造的・風潮的欠陥を指摘する部分が多い(海外の表面的事例を普遍化して取り上げる所謂「海外デワノカミ」的指摘)が、実際には本書の命題についてのトラブルは国の内外問わず起こっていると思われ、いささか過度に国内批判的な論調になっていると感じられる(とはいえ日本国内の閉鎖的な風潮にウンザリするのには同調できる)。これは彼ら二人の実践の場(日本国内中心の作家活動)が影響しているのであろうから、仕方がないかもしれないが。
また、「中卒」とか「鑑別所上がり」とか、自らの学歴や悪い生い立ちのようなものを殊更に強調する場面が度々ある(特に松田)。この露悪的姿勢がルサンチマンとして何か「反骨の原動力」になっていると説明したいのだと思われるが、これが「逆説的な選民意識」に陥っているふしがある。執拗なこれらの主張は、立場の違う他者からの共感を取りこぼす要因になっているのではないかと感じられる。
現在のキュレーションの強い展覧会←逆→アンデパンダン展124
今の上野の野球場にあった東京市自治開館で1926年、日本初?のアンデパンダン展「大理想展」が開催された126
ボイスの「全ての人は芸術家」は「社会彫刻」と言う130
「滅私奉公人」=ネット空間で炎上・祭りを行って無思慮に全体主義的な世論を作り出す人々(ネトウヨ)。松田155
ナチスの退廃芸術はマックスノルダウに「近代芸術は脳の病気」と言われた。戦後これを総括して始まったのがドクメンタ。しかし日本にはドクメンタに当たるものは無い178
「平和の少女像」と白川昌生「群馬県朝鮮人強制連行追悼碑」の写真が掲載189
マジョリティの文脈とかバックグラウンドを理解したうえで、ユニークな作品を作るのが「公の時代」のアートのひとつの戦略。典型的な例は小泉明郞の『空気』(皇室の家族肖像の人物が全て消されている絵)。この作品は天皇を扱う作品だったが炎上しなかった。作品の佇まいもミニマムで上品で最高だった。ダヴィンチコードならぬメイローコードと言いたい229
インテレクチャル・ダークウェブ(IDW)性別や人種などポリコレでアンタッチャブルになった科学的研究分野を、学会などを介さず地下で議論・研究するダークウェブ281
田河水泡はマヴォのメンバーで「のらくろ」は日本初のキャラクタービジネス316 -
☆信州大学附属図書館の所蔵はこちらです☆
http://www-lib.shinshu-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BB29154765 -
かなり面白かった。今の自主規制やらの公の雰囲気とそれを感じ取るアーティストたちの対談。
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アートって「なんかよくわかんないもの」を「わかんないまま」見られるところが好きだと思っていたけど、本当はすぐに「わかった」気になってさっさと片づけていただけかもしれない。
もっと「わかんない」って何日もうんうん悩んで、自分の言葉で「なんで好きなのか」「嫌いなのか」を語れるようになろう。