- Amazon.co.jp ・本 (430ページ)
- / ISBN・EAN: 9784256180723
感想・レビュー・書評
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渋沢栄一が発起した「徳川慶喜公伝」(大正7年刊)執筆のために依頼した歴史学者等が編纂する上での疑問点を慶喜本人に聞き取りした本。聞き取りは明治40年7月から大正2年9月まで計25回。それを「昔夢会」となずけた。編纂側からは栄一や依頼した学者、慶喜側からは慶喜や子の慶久、旧臣などが出席している。
途中からは速記を許されたとあり、会話形式でその場の雰囲気が生生しく載っている。慶喜の言葉がけっこうフレンドリーで「教科書の太字の人」ではなく、会話の場もさることながら、大政奉還や鳥羽伏見の戦いの場にタイムマシンで行っているような感じがする。
栄一は序文で慶喜公伝執筆の意図を述べている。
昭武に随行してフランスに行っている間に明治になってしまった栄一。「政権返上がいかなる御趣意であろうかとの疑いを持っているところへなぜ鳥羽伏見という無謀の事をしたのか。なぜ大阪から俄かに軍艦で御帰東なされたのか。その後の恭順・謹慎は何故であろうか」などの疑問をずっと持っていた。
明治を20年も過ぎてようやく慶喜の事情を察することができるようになった。「政権返上が容易ならぬ事であったと思うと同時に、鳥羽伏見の戦いの出兵も本意ではなく、外交の困難な時期、内乱をしては皇国を顧みない事になる、ここに至っては弁解するだけかえって物議を増し、なおさら事が紛糾するだけなので、恭順謹慎をもって一貫するほかない、薩長から無理としかけた事ではあるが、天子を戴いておる以上は、その無理を通させるのが臣子の分である」
「逆賊と誣いられ、怯懦(臆病)と嘲られても、じっと恩堪なされて、終生これが弁解をもなされぬというは、実に偉大なる御人格ではあるまいかと、尊敬の念慮」が増すのだった。
当初は慶喜公の汚名を晴らすために伝記を編纂したい、との思いで、明治27年に旧知の福地桜痴に執筆を依頼したがあまり進まないまま明治39年に亡くなってしまった。さらに明治35年には慶喜が公爵の爵位をさずかり「慶喜家」としての独立も認められた。そういう情勢になったので、中正な視野を持つ歴史の専門家に、きっちり考証した歴史を書いてもらうようにした、とある。
この「東洋文庫」では大久保利謙(1900(明治33)-1995(平成7))の解説がありこれが分かりやすい。歴史学者で大久保利通の孫なのだ。薩摩の子孫が慶喜の解説をしている、栄一がこれをみたらびっくりするのでは。
1966.10.10初版第1刷 1979.10.1初版第14刷 図書館詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
徳川慶喜へのインタビュー。
話をはぐらかしたり、とぼけたりしてますが、
この人が幕府の延命に乗り気でなかったのは確か。