- Amazon.co.jp ・本 (255ページ)
- / ISBN・EAN: 9784260010047
感想・レビュー・書評
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医学書は初めて読んだが、驚くほど面白かった。脳性麻痺によって健常者と同じような動きをイメージはするものの、そこから対人と対モノとの対話によって身体的協応構造が作られていく。私には到底考えつかない。自分の体への深い洞察、そして遊びに溢れていた一冊だったと思う。
健常者と同じように動けるようになるという運動はリハビリをする側からするとかなりきつい経験なんだな、ということが、この本から学べたことだ。そのことが実感を伴って心にすっと入ってきたのは、この筆者の表現力があってこそだと思う。
職業柄、脳性麻痺を患う人と関わることが多少あるので、彼らがその時にどんなことを感じて我々と接しているのかというのが少し分かった気がした。それだけでも、この本の価値というのは私にとってとても大きいものだと思う。とても面白かった。
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【要約】
普段、我々は意識せずとも体をある程度自由に操ることができる。また、扱いなれたモノや慣れた相手だと、いちいち意識せずともスムーズなやり取りができる。これを本書では「協応構造」と呼んでいる。
小児まひの体をもつ著者が、健常者と比較をしつつ身体内での協応構造や、身体外の協応構造について考察した著。
【面白かったところ①】
本書の最後の方で、普段自由に操っている電動車いすが壊れて修理に出したことや、自分の体を酷使した結果体調を崩したといった話が語られている。
「親しき中にも礼儀あり」ということわざがある。「親しんだ相手」(他人だけでなく自分の体やモノを含む)とは特別意識せずともスムーズなやり取りができる。しかしそこには本書でいうところの「隙間」があり、やり取りをしているうちにその「隙間」は開いていってしまう。
自分自信は妻と良好な関係を築いていると自覚しているが、齟齬が生じることは頻繁にあり、そういったときには話し合いが欠かせない。また、最近体の不調を感じることも増え、自分の肉体というものもあって当然のものではないと実感した。
礼儀を尽くして関係のメンテナンスをすることは定期的に必要だなと自分の経験にも照らして納得した。
【面白かったところ②】
衰えはある意味で「敗北」だが、それは同時に「許し」でもあり、「つながりの回復」でもあると本書に記されている。
仕事柄高齢の方と接していると、衰えを嘆く訴えは毎回のように聞こえてくる。しかし一方で、周りの人とのつながりに感謝するような言葉も聞こえてくることもある。
衰えは誰もが避けられず、痛みや喪失感を伴うが、それによって改めて、外界とのつながりを見つめなおすことを自分でも意識していきたい。
【まとめ】
親しき中にも礼儀あり。他人だけでなく、自分の体やモノに対しても。 -
私たちが身体を動かすということは、外の空間や他者との間でコミュニケーションをとる方法の一つである。この本は、我々が幼少期に身につけ、いまや無意識に行っている様々な身体の動かし方が、決して我々の身体と外の世界をつなげるための唯一の方法ではないということを教えてくれる。
筆者は脳性まひにより、自らの脳の中にある運動のイメージを体の筋肉に伝えることが難しい。そのため、頭のなかの動きのイメージと実際の動きや外界からのフィードバックとの間にずれが生じ、それが脳の焦りを通じて身体の筋肉をこわばらせるという悪循環に繋がってしまう。このような状態は、一般的には「運動機能障害」と捉えられ、リハビリを通じてこれらの動作を「健常者」と同じようにスムーズに行うことができるよう訓練を繰り返すことになる。
しかし筆者は、一人暮らしの生活の中でトイレを自力で使えるようになることで「トイレとつながる」経験や、電動車いすを使うことで新しい視点や体の動きを手に入れる感覚を紹介することで、「健常者」と同じやり方以外にも外の世界と我々の身体をつなげることができることを教えてくれる。
もちろん、トイレには手すりをつける必要があるしその使い方(座り方)はトイレという道具がもともと意図していたやり方ではない。そのため一般的に「トイレが使える」という状態と筆者が言う「トイレとつながる」という状態は、まったく同じではない。しかし、筆者とトイレの関わり合い方は、「トイレが使える」と我々が言うときに無意識の中で前提にしていること自体に対して問いを投げかけてくる。
筆者はこのように自らの身体の働きと外の世界を擦り合わせながら動きを作り上げていく過程を「身体外協応構造」と呼んでいる。「チューニング」と呼んでもよいし、機械学習の世界で「教師なし学習」と呼ばれる、未分化のデータの集まりの中から手探りで分節化を立ち上げる過程とも類似するやり方である。
このことは、「運動機能障害」に対する「リハビリ」に携わっている方たちにとっても重要な視点であるが、我々自身も子供のころと今の身体は異なっていること、また老化という現象も含めて考えたときに、我々の身体はつねに変化しており、そのため外の世界との新しいつながり方を常に模索しながら生きているということでもあると思う。
そのような身体同士がお互いに相互作用をするのが社会であるとするならば、我々自身が空間のあり方や他者との関わり方の中で過剰な決めつけや標準化をすることなく、柔らかさとすきまを持った態度で臨んでいかなければならないということも考えさせられた。
筆者もそのことを、自身と他者との関わり合いの形として
A:互いの動きを「ほどきつつ拾いあう関係」
B:運動目標をめぐって「まなざし/まなざされる関係」
C:私の体が発する信号を拾わずに介入される「加害/被害関係」
という3つのパターンに整理することで説明をしている。
一方的に外部から身体の動きを矯正する(C)のでもなく、また外生的に定められた運動目標に対して自らの身体にのみまなざしを向けながらリハビリしていく(B)のでもない方法として、自らと他者の間で相互作用をしながら未分化の状態から新たな動き方、関わり合い方を探り出していく方法(A)もあるのではないかというのが、筆者の伝えたいことだと思う。
このAのやり方は、相互作用の当事者のうちどちらか片方だけが自由な動きを模索することで出来上がるものではなく、お互いが当初持っていた身体イメージや動作目標を脇において相手と関わり合うということが求められる。
また筆者によれば、そのような相互作用によって互いの身体イメージを取り込むためには、「互いに交わり合うことにある種の悦びを感じて身体が開かれていく」という心性を持つことが必要であるという。筆者が本書の中で「官能」を一つの軸に据えており、「痛いのは困る、気持ちいいのがいい」という体の声を羅針盤にすると述べているのも、そのことを伝えたいがためであろう。
さまざまな身体や環境と関わり合いながら生きていくうえで、つい自己の身体を基準にしたり自己の感覚が他者と共通しているといった誤解をもとに考えがちであるが、この本を読んだことで、相互作用を通じて互いを開きつつ、新しい「動き」や「つながり方」を見つけていくことの大切さに気付かされた。 -
この本を読んでいるあなたと一緒に転倒したい。ケアを生業にしている人は必読だろうか。
優れた精神科医だったミルトン・エリクソンがポリオで小児麻痺だった事から、人の仕種や動きのシグナルに敏感だった。この著者もムーン・ウォークを妹にさせるために、動作をどのように表現すれば良いのか詳細に分析しているシーンがあり興味深かった。
自己観察が主体の本なので、そちらに強く興味を持てず読み飛ばしてしまいました。 -
筆者が医者であり脳性まひの当事者である。したがって、自分のリハビリの体験、リハビリキャンプの体験、自分の生活まで理論も含めて非常に丁寧に記載しているので、知らなかったことが多い。
リハビリを中心に書いてあるので、障害を持っている学生にとっては役立つ。しかし、自分の大学生活がどうであったかについてはあまり書いていないので、障害を持った学生の大学での生活について直接役立つかどうかはわからない。 -
電子ブックへのリンク:https://kinoden.kinokuniya.co.jp/hokudai/bookdetail/p/KP00043275
※学外から利用する場合、リンク先にて「学認でサインイン」 -
本屋で目についたので購入して読んだ。
リハビリについて手伝う側の目線の本が多いと感じる中、脳性麻痺の患者自身が書いた本は新しかった。ただ、本当に私情で申し訳ないが医療用語が全然頭の中で噛み砕けなくて大変だったのでこの評価…ページ数の割に読み終わるのにかなり時間がかかった汗
特定の人と言うよりも世間に広く知られて欲しい作品だった。施設での行動改善とかに繋がると思う。 -
2011年11月18日
私は、著者のように脳性まひではないが、
同じ身体障害者として、感覚や経験から、ものすごくよく分かった。
読んでいて、子どもの頃から今まで体験した、忘れかけていたこと、潜在的に隠れていた何かが掘り出されるような不思議な感覚があった。
ただ一つ、「敗北の官能」はよく分からなかったが。
この本に書いてある感覚は、健常者を含めた大多数の人は分からない・理解できないような気がする。