当事者研究の研究 (シリーズ ケアをひらく)

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  • Amazon.co.jp ・本 (310ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784260017732

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  • 【第5章 痛みから始める当事者研究】
    あらゆる記憶は傷跡である。

    何とかなると思えること、それが回復への第一歩
    レジリエンス、SOCをいかに高めるか。

  • 面白かった。おそらく個人的な興味としては、当事者研究と人間の生成プロセスの関連にあるのだと思う、個人が個人として居られるようになる環境と、また個人が個人として成る為の1技法としてのそれに関心がある。

    以下引用



    精神障害者とは言葉を語ることを封じられた人々である。語るに値しないと思い封印してきた自らの歩みを私の生きていきた歴史として語るとき、人のつながりとして知ったとき、意味が帯びる

    自分を見つめるとか、反省するのではなく、研究する

    彼は自分を見つめすぎてしまうことで、爆発する。自分自身おつらさを一旦外に出し研究対象として見つめる外在化

    当事者は治療の空間に囲い込まれる

    単に自分を語るのではなく、研究として進めることにより、それは個人的な行為ではなく社会的に共同行為となる

    自分のことは自分で決めない、自分のことは自分が一番解りにくい

    当事者とは、自らの苦労を取り戻し人とのつながりが回復することにより、自分を再発見していく人

    問題と人との切り離し、自己病名をつける、苦労のパターン、プロセス、構造の解明、自分の助け方や守り方の具体的な方法を考え、場面を作って練習する、結果の検証

    ★責任の意識化とは、自分が変えることのできない運命に対していかなる態度をとるかということ

    ★自分ではどうすることもできない状況の中に置かれることがある。彼の避けられない運命とそれが彼に課する苦悩とを自らに引き受けるかというやり方の中に、どんな状況にあってもなお、生命の最後の1分まで、生命を有意義に形作る豊かな可能性が開かれている

    他者への迷惑行為でさえも、当事者自らを助ける助け方として捉える。迷惑行為がそのままでいいわけではない。しかし助け方と捉えることで、当事者が問題と向き合う力をそこに見出し、その力を別の仕方で発揮できるように共に考える

    ★人々がこんなにたくさんあるはずの身体感覚を容易に絞り込み、一つにまとめあげていることの方が不思議に思われる、人々のお腹が空いたへのまとめあげは、確かにスピードは早いが、実はとても大雑把で、うっかりしていることの裏返しではないだろうか→これ、すごくよくわかる。何かをしたいとか、何をしようとかの判断も、ここに関連するかな。意志により行動指令を捏造して、なんとかかんとかみんな動きすぎなんじゃないかと。

    それらを共有しない人に対して語りだす営みでもある。

    当事者研究はマニュアルを持たない

    ★研究とは、事象や実践に対して、そこに没入することなく、観察的、認識的な態度をとることである、この態度には、事象に対して能動的に働きかけ、その結果を観察することによって認識を得るということも含まれる

    当事者研究の成果として得られた知の中には専門知二とっても重要な意味を持つものがある

    客観的な理論知が実践の現場でしばしばいかに無力であるかということ。実験室で得られるような知識は、それが心理学的なものであれ、医学的なものであれ、教育や介護実践の現場で具体的な支持を与えてくれるようななることはない

    現象学は、当事者が経験しているそのままの世界を、科学的に分析する前に、純粋に記述しようとする試みである。それは抽象的で三人称的な視点からは見逃されてしまうような、だが当人にとっては重大な意義を持つ経験の具体的相貌を記述し、私たちと世界との意味に満ちた交流を再発見する

    自発的なものである限りは、世界と自己を表現していない身体運動はない、

    通常の仕方で教育しても学習に問題がある場合は問題の原因は子供の側にあるとされそうした子供は異常、特殊とみなされる

    障害の克服とは、多くの人の平均であるような正常に適合することを意味しているのである。正常とは、教育する側にとって一律に効率よく扱える表yずん

    自分で衣服を着るのに二時間もかかるようでは、実際に外出するのは難しい、他人の助けを借りて衣服を着て、外に行けばいい

    自立とは、自分の価値観に準じて生きられるということ

    価値判断とは、何々の方が良いという自分の好みを定めることであり、自分お価値判断の価値判断に殉ずること。その判断から生じる帰結を自分に引き受けること。よって、自立とは、他者から価値判断や選考を押し付けられる他律に対立するものであり、他者や共同体から一方的に自分の生活を律せられるような隷属状態に対立するもの

    自立とは、その人が尊厳すべき独立した人格であることのいい

    当事者の潜在能力を育み、行為の選択肢を増やし、豊かな経験の機会が得られるような支援を行うこと

    教育と福祉の目的は同一である。当人のケイパビリティの開発であり、本人の自由を増大させること、そのためには当事者が価値を表明し、周囲がそれを理解する必要がある、自己表現力の開発こそが、教育と福祉の最初の課題

    ★★自分自身で自分の問題に取り組み自発的生活の質の向上を目指すこと、当事者研究のこの形は治療ではなく、学習に近い。

    医療や教育は、当事者を成長させることなどできない。当事者が自らの発達する過程を側面から支援し、促進するものでしかありえない

    ★医療や教育の本質は、生命の内在する力を引き出し、支援するという意味でのファシリテーションであるべきである


    自ら仮説を立て、それが正しいかどうかを自分自身で検証し、仮説が誤っていたら、試行錯誤を繰り返す。その課題探求をしていく経験のプロセスこそ、学習

    ★当事者による学びにおける教育者の役割は、生活の質を向上させようとする当事者の試みを尊重しながら、それが可能になるような当事者のケイパビリティて:潜在能力を共同で開発していくこと

    ★教育者は、学習目標を定めてそこへの道を教授するインストラクターではなく、当人が生活の質を高めるための選択肢を示唆するコーチであるべき

    ★強制させる訓練を嫌がり、無理に身体を動かされる苦痛を表現する。しかし、これは訓練だからといって、苦しいリハビリが続行される→専門学校の指導を思い出すなぁ

    ★腕をブラブラさせる練習の文脈と、鉛筆でものを書く日常生活の文脈は全く異なり、運動訓練は後者の実生活の活動につながっていない


    繊細な感身体的な交流により、当人の意識的な運動制御は促進されていく、脳性麻痺の子どもにとって自分の身体やその動きに気づくことが、動作改善の重要な契機

    動作改善の需要な契機。何かに気づくは、それを対象化すること、ここでいう対象化とは、身体のある部分や課程を身体全体から際立たせること、

    支援すべきは、子供の始発的な動作であり、動機付けのある動作である。本人がやりたがらない動作を無理やらせたところで、自発運動の図式である身体図式はハッ立ちしない

    教育やリハビリの場で、当事者の自発性を尊重しなければならないが、それは生命の根源的な自発性の発露に乗っ取らなければならない

    優れた実践者は、子供を個別の人間として扱い、単純に障害種別にカテゴライズして対処しない。個々の子供が自発的な学びをするのに、何が最適な方法かを考える。

    生命が規範を自ら再設定していく過程に他ならず、外からの規範の強制はその生命の内的必然性に反する、究極的には、発達のための知は、自助を支援する知でしかありえない

    気づいたことや感じていることを、それは考えすぎたと受け流され、身の回りがホワホワしてくる

    ★自身の体験を表現する言葉が欠けているがために、まるで無意味なものとして、多数派の社会で浮遊してしまう
    →逆に、こういうのを記述したり、表出するのが文学だし、それを捉えるセンスが、芸術や詩には必要。

    所属するコミュニティの言語、社会制度などは、構成的体制。自分について語るには、この構成的体制が必要。体験に相当する言葉や物語をコミュニケティの構成的体制が与えてくれることが大切

    困難を抱えない身体の持ち主は、多数派の社会をそのまま構成的体制にできるが、障害や困難の当事者は、どうではない、聞き流されて、体験に相当する言葉がない、

    ★→うちがやれるのってこれかもなあ。個人が日常生活の中で追いやっているフェルトセンスを、ちゃんとその身体に起きた出来事として、その人の体として、共有し、そこを認め、勝ち付けるということ。それをしているのかもしれないし、多くの人は、そこを押し流しつつ、ないものとして社会の中で生きているのだろうと思った

    多数派の社会の言説の中には見当たらない体験を表現する言葉をストックしていくこと

    ★★個人の日常的実践に意味や解釈、見通しを与えてくれる構成的体制を、仲間とともに立ち上げ共有する作業
    →そんなことあったけ?と流されてしまうものを、うちは掬い対し、そこにこそ、その人の自発性の回路がある

    当事者が取り組む当事者研究では、一緒に構成的体制を共有し解釈を与えるので、お互いが当事者

    自分の体験を承認してくれるコミュニティであっても、身体を同一化する圧力が存在するとすれば、自分自身の足かせになる

    ★当事者研究の読み手は、書き手の身体を類似の身体として読むもう一人の私として見いだすポイントを、自分で探らなくてはならない。当事者研究を読むとは、体験の当事者/非当事者を固く区別するカテゴリー的理解に揺さぶりをかける
    →当事者と同じ感覚、世界体験を共有できる部分を探るというイメージかな、それを聞くことで、自分の中にその世界をあるものとして認知し、そこに場所を与えるという一つの認知の書き換えのイメージ

    みんな彼の生い立ちが、とか性格がとか、言い出して、やる気のない川崎くんみたいになってくる

    生まれ育ちに問題を還元する風潮に批判的

    外に出してはいけない、あってはいけないとされることで、個人の中で処理すべき問題とされた時、一見責任を取っているようで、実は全く取れていない

    いつも問題行動をした時にバツをたくさん付けられてきた。でも、それを課題を持った川崎さんというように、外在化する


    彼らが一番愕然としているし、傷ついている。

    ★これがあなたが自分で決定して臨んで実行していることはない、不思議だね、なんでこんなことが起きるんだろうって研究が始まる

    自分とは異なる身体の特徴を持っている人々ばかりに囲まれた社会の中に住み、これが普通のあり方だと教え込まれている環境の中にいると、そのようなフツーの社会では不都合が生じる身体があるということに思い至らない
    →あるのに、ないものにされている、そういう身体への支援をしたい

    構成的体制とはモノの世界に秩序を与え、その共有を可能にするあらゆるデザインや、個々人の知覚運動パターンに秩序を与え、その共有を可能にする決まりごと(言語、制度、規範など)
    →多数派の構成的体制を享受できない少数派が生きている。少数派は、多数派のものとは異なる、自分たちの近く、運動体験にあった新たな構成的体制を立ち上げる必要に迫られる


    当事者の生活パタンを語る言葉は、自分の体験は本当なのか、思い込みなのではないかと苦悩してきた私の長年の体験を適切に表す言葉として、入ってきた。

    医師という多数派による既存の構成的体制における権威ある他者によって自分の感じている周囲との差異が思い込みではなく、確かにあると承認されることでやっと、同化的圧力を押し付けてくる他者に抗うことが可能になった

    診断名を得た帰り、なぜ私はこうなってしまうのかとその場その場でストップしてきたままだった時間感覚のズレが、時間軸に沿って、一直線上に並びはじまた。自分の過去と現在が生まれた瞬間、記憶は過去から現在の自分へ向かって流れ出し、今を生きる自分にたどり着いたところで一人の私に統合された


    ★コミュニケーションのすれ違いは、あくまでも両者の間で起きているズレであり、社会性の障害という定義では、社会の方にある問題を問い直すことができなくなる、社会のあらゆる場面で、うまくやれない人が、その原因をことごとく個人に押し付けられる
    →これは本当にそうだ。仕事をする人とは、この解像度というか、そういうのを共有できないときつい。あるのに、ないことになっていることを、あると言い張ったところで、それをおかしいと言われるところではできない、そういう視点もあるのかと、変容をしつつできないと厳しい

    他者に通じる形で自分を表す言葉が増えていくことで、私の中では、自分が確かにいるという感覚や、自分は自分にとって大事だと思える存在という感覚が育っていった

    忘れたてはならないのは、当事者研究によって生まれた私の言葉や動きをちゃんと受け止めてくれる他者の存在

    言葉による感染、共に取り組む研究、動きによる感染、拾い合い

    ★当事者研究によって生み出された言葉を一人で叫んでも、それを受け止める他者がいなければ、私の言葉や動きは宙を切るだけとなり、この世にいないままになってしまう。私の感覚や無理のない動きが確かにあるという前提で応じてくれる他者がいるとき初めて私の等身大の言葉や、動きと周囲の人や物との相互作用が成立し、少数派オリジナルの構成的体制が更新される→これは個展のときの感覚に近いなぁ。

    当事者研究後は、自分の軸が生まれ、他者と適度な距離を保てるようになった

    ★★アスペルガーかどうかにかかわらず、ゼロからたった一人で自分を立ち上げられる人などいない、周囲の人間関係、尊敬する偉人、書物からの知識、思想への共感など、自分の身体外部の様々な表現に感染することによって、自分の軸は生まれ、育っていくはずである。裏を返せば、自分の抱えている身体や環境と似た他者からの表現の感染がないと、誰もが、自分の軸を生み出せないのではないだろうか
    →よくわかる。これは創造のプロセスそれ自体だと思える。アーカイブとか、マイノリティ作家というのは、こういう理由で、排除、隠蔽、廃棄されてはならないのだと思う。彼らと類似の困難を抱えるだろう人がそのあとにもたくさんいるから。それを教訓としてどう生きたかという部分が確かに形として残っていることが、誰かの構成的体制の構築に役立つ。何より、自分はこうしたプロセスで、構成的体制の構築ををまさにやっているなぁと思うし、また、こうした誰かの構成的体制の構築の支援を、自分の仕事はしたいのだと思う。作品、何にせよ。

    障害者から発せられた言葉は、無視されたり、歪んで解釈され、何をするにも人の顔を伺わなくてはならない

    当事者ニーズを踏まえた支援を、と言われるが、ニーズは、いつも当事者にとって自明なわけではない。ニーズが表明されるには、その状態や行為を選択すると、自己身体や世界にどのような帰結がおとづれかについて、ある程度の予測が成り立つ必要がある
    →自分の仕事は、こういう風に回したい。自分が自分になるための機会として、一つ一つの仕事を、お互いが支援する形で、仕事をしたい。そのためには自分自身の自分へのニーズ、自助を、軸をはっきりさせないととおもう。それが明確ではないと、関わる他者の基準も曖昧になってしまう

    本人の心身にズケズケ介入してくる、矯正すべきものとしてみなしてくる

    双方の怯えと、それによる憑依、双方が必要で、怯えのない自信満々の自称介護のプロほど危険

     

  • 摂南大学図書館OPACへ⇒
    https://opac2.lib.setsunan.ac.jp/webopac/BB99502497

  • 当事者研究の研究。当事者研究の概要や当事者研究の意義、当事者研究の重要性がわかりやすくまとめられた良書です。何事も自分の価値観や常識だけで傲慢に決めつけるのではなく、他人や当事者の価値観や常識、意見を謙虚に聞く姿勢が大切。

  • 当事者研究のメリットを主張した論集をあつめただけで、当事者研究そのものの研究、ではないように思う

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著者プロフィール

東京大学先端科学技術研究センター特任講師

「2023年 『当事者研究の誕生』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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