中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

著者 : 國分功一郎
  • 医学書院 (2017年3月27日発売)
4.11
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  • レビュー :39
  • Amazon.co.jp ・本 (330ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784260031578

作品紹介・あらすじ

【本書「あとがき」より】 中動態の存在を知ったのは、たしか大学生の頃であったと思う。本文にも少し書いたけれども、能動態と受動態しか知らなかった私にとって、中動態の存在は衝撃であった。衝撃と同時に、「これは自分が考えたいことととても深いところでつながっている」という感覚を得たことも記憶している。 だが、それは当時の自分にはとうてい手に負えないテーマであった。単なる一文法事項をいったいどのように論ずればよいというのか。その後、大学院に進んでスピノザ哲学を専門的に勉強するようになってからも事態は変わらなかった。 ただ、論文を書きながらスピノザのことを想っていると、いつも中動態について自分の抱いていたイメージが彼の哲学と重なってくるのだった。中動態についてもう少し確かなことが分かればスピノザ哲学はもっと明快になるのに……そういうもどかしさがずっとあった。 スピノザだけではなかった。数多くの哲学、数多くの問題が、何度も私に中動態との縁故のことを告げてきた。その縁故が隠されているために、何かが見えなくなっている。しかし中動態そのものの消息を明らかにできなければ、見えなくなっているのが何なのかも分からない。 私は誰も気にかけなくなった過去の事件にこだわる刑事のような気持ちで中動態のことを想い続けていた。 (中略) 熊谷さん、上岡さん、ダルクのメンバーの方々のお話をうかがっていると、今度は自分のなかで次なる課題が心にせり出してくるのを感じた。自分がずっとこだわり続けてきたにもかかわらず手をつけられずにいたあの事件、中動態があるときに失踪したあの事件の調査に、自分は今こそ乗り出さねばならないという気持ちが高まってきたのである。 その理由は自分でもうまく説明できないのだが、おそらく私はそこで依存症の話を詳しくうかがいながら、抽象的な哲学の言葉では知っていた「近代的主体」の諸問題がまさしく生きられている様を目撃したような気がしたのだと思う。「責任」や「意志」を持ち出しても、いや、それらを持ち出すからこそどうにもできなくなっている悩みや苦しさがそこにはあった。 次第に私は義の心を抱きはじめていた。関心を持っているからではない。おもしろそうだからではない。私は中動態を論じなければならない。──そのような気持ちが私を捉えた。 (以下略)

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)の感想・レビュー・書評

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  • この本は、ハイデッガーやアレントはもとより、デリダにラカン、フーコーにドゥルーズ、と有名どころを次々と繰り出しては、能動と受動という二つの対立以前に在った「中動態」という態の存在をあぶりだすことを目的として書かれている。聞きなれない名前だが、「中動態」の存在は早くから知られていたし、研究も存在していたという。著者自身、ずっと前から気になっていたのだが、アルコール依存症患者に係わる知人と話したりするうちに、書かねばという気にさせられたのが執筆の契機だという。

    アルコール依存症患者は、意志が弱いから再発するのだ。もっと強い意志を持たねば、と普通は考えるが、実はそれがまちがいのもとだ、とその人は言う。発想が逆転している。そもそも、人が行動を起こすときに意志が先に立ったりはしない。意志は後から現れるのだ、と。では、何故そう思ってしまうかというと、われわれは、この世界を能動と受動という二つの態に分けてとらえてしまうからだ。無理やり飲まされて(受動)いないなら、自分で飲んだ(能動)ということになる。

    銃で脅迫されて、ポケットから財布を取り出す行為は能動か受動か?ハンナ・アレントによるとアリストテレスの哲学なら能動になるのだという。なんでそうなるの?と欽ちゃんみたいな声が出そうになるが、「私が暴力によって脅されてはいるものの、物理的には強制されずに行った行為」だから。確かに、財布を出すことを選択せず、ボコボコにされることを能動的に選択できる余地が残されてはいるものの、納得のゆかない説明だと感じる。

    はたしてそう簡単に割り切れるものかどうか。そこで、著者は前々から気になっていた「中動態」をこの際極めてみようと、ギリシア語まで学びなおして、語源からたどり直す。このあたりは、大事なところなので、読み飛ばすわけにはいかないが、正直あまり面白くは感じられない。ただ、古くは、能動態に対立するのは受動態ではなく、中動態であったということが分かってくる。それが、いつの間にか消滅し、その後を襲ったのが受動態、とまあ簡単にいえばそうなる。

    そこで、そのちがいだが、能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるが、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になるのだという。例えば「曲げる」は、主体から発して体の外で完遂する過程を表す。問題は、「生きる」も「在る」も、それと同じカテゴリーに入っていることだ。つまり、当時は「生きる」ことも、主語から出発して主語の外で完遂する過程と考えられていた。生きることに主体の関与は必要なかったのだ。

    ここで、カツアゲの例に戻る。「私が暴力によって脅されてはいるものの、物理的には強制されずに行った行為」の中に、もう一つ概念が必要だったことがわかる。それが同意だ。私の行為には自発性は存在しないが同意は存在する。アリストテレスの場合、強制がなければ自発的ととられているが、強制ではないが自発的でもなく、自発的ではないが同意はしている。そうした事態は日常的に多くみられる。自分はカツが食べたいが仲間が蕎麦にしようというから仕方なく蕎麦屋に行くというパターンだ。強制か自発か、つまり能動か受動か、ではなく能動と中動の対立する事態を枠組みとして設定すれば、事態が分かりよくなる。

    著者はこの後スピノザを持ち出し、かなりその哲学について詳述している。かなり煩雑になるので結論から言うと、能動と受動を行為の方向と考えずに、スピノザは質の差だと考えた、というものだ。行為の方向から考えると困っている人にお金を渡すのも、カツアゲも同じ行為である。しかし、質は異なる。自己の本性の必然性に基づいて行為する物は自由であるとスピノザは言っている。同じように見える行為の中に、自己の認識の差を見ているのだ。

    最後の唐突に登場するのが、ハーマン・メルヴィル。『白鯨』の作者である。そのメルヴィルの遺作『ビリー・バッド』という小説に登場する、三人の人物を「善」と「悪」と「徳」の寓意として読み取り、どの生き方も完全ではないとする。彼らは強制はされていないが誰も自由ではない。彼らの生き方を問うことで、われわれが置かれている世界は、完全な自由などないが、完全に強制されているわけでもない。つまりは中動態の世界なのだ。では、どう生きるか?中動態の世界を知ることで、より自由に近づいていこうと呼びかけて終わっている。

    ハイデッガーやアレント、スピノザについて、少しではあるが学ぶことができたのは収穫である。ありもしない自由意志に縛られていることは、以前から朧気ながら気づいていたので、それを文法上の問題として改めて考えられたのはよかった。しかし、最後まで読んできて、えっ、これで終わり?と思ったのも確かだ。何か、肝心なところで手を離されたようで落ち着かない。もう少し展望の見える位置まで引っ張って行ってほしい気がする。それこそ、個人一人一人の問題だ、と著者は言うだろうけれど。

  • 「戚」という漢字は戈(ほこづくり)を部首とし、「いたむ」、「うれえる」と訓じる(「尗」は音符)。この文字は自らのいでたちから、暴力によって発生した喪失を哀悼するという能動的な動詞であることを示している。しかし「戚(いた)む」時、私は狂う。私たちは自分の意志に反して、いつも自分のものではないもの(他者)との関係性(絆)に巻き込まれてあるので、私が他者を失うと、自分が誰かわからなくなるほどに揺さぶられる。私は単にあなたの死を悼むだけでは済まず、物語(アイデンティティ)を混乱させ、発話能力を毀損される。その時私はダメージにさらされ、傷を被る受動的な座となる。その過程は否応なしであって、自らの意志によって抜け出せるはずもない。つまり私が「戚む」(能動)とき、その結果は常に私という座において回帰する(受動)。私は行為の過程の内部に存在しつづけ、また、追悼の行為が「戚んだ」という完了時制を取ることで発生させた憂鬱で暗い状態に長く置かれ続ける。しかし、私たちは自らの弱さゆえに永遠に哀しみの状態に留まることはできず、私たちはやがて再構築へと受け渡されていく。好むと好まざるとにかかわらず、別様の絆へと取り込まれ(受動)、関わって(能動)いく。

    このように「戚む」という動詞は、能動/受動という態の区分に干渉し、反転すらさせるという意味において極めて中動的だ。そしてそれは共同体のあり方でもある。血縁という一義的な条件を無視したとき、親「戚」になるのに能動も受動もない。私たちが絆の中に関わり、取り込まれていくのは、ただ「そうだからそうなのだ」。子どもみたいな言い方だが、そもそも共同体の原初的な基礎について言葉が語れることはあまりない。確かなことは、それは意志の問題ではないということ。意志が介在していなくとも主体にとって素晴らしいことはいくらでもあるのだ。

  • 人間の思考を考古学すること。
    かつて使用されていた道具を発掘し、生き易くすること。

    同時期にフーコーの入門書を読んだ、「中動態の世界」はその議論に並行しているようにも思えた。

    ミシェル・フーコー、仏哲学者である。
    フーコーは「知の考古学」で、今の認識は今の時代の枠組みによって「あるものが見えるようになるという事、そしてみえるものを語るという事がいかに困難であるかを明らかにしていた」(74頁『フーコー入門』中山元 ちくま新書)と評している。引用元の本では、相対的な「真理」の再考と絶対的なものに陥らないフーコーの力強さを筆者は評価していた。

    一方で、意思と責任の考古学
    とサブタイトルでついているのは、かつて存在した「中動態」という言語をめぐる話が意思や責任についての話と関連しているからだ。
    本書ではそれを「言語は思考の可能性の条件である」(本書111頁)という。
    ある思考形態はその適切な表現である言語を持たなくても様々な表現で歴史上現れてきた、例えばハイデッガーである。筆者は彼が中動態に似た議論を、能動と受動の言葉によって何とかしようとした結果、非常に難解になってしまったとしている。
    これは第七章にくわしい。
    フーコーの指摘する「困難」と結びつくところがある。

    本書は、自分たちを「自由」に近づける道具としてかつて存在した「中動態」という言語表現を探究していく。誰が主体で責任をもっているかを絶えず問われる今の言語の外側にあるものとして考察していく。
    かつてとは、紀元前、考古学的な古さである。

    最初の出発点は、例えば「歩く」というような行為が能動的なものであるのか、それとも受動的なものであるのか?という問いから始まる。
    それは言語の態にまつわる歴史を紐解く事になり、中動態と呼ばれる態の存在にたどり着く。
    この中動態とは何か。筆者は古代ギリシャ、世界最古の文法書トラクスの「テクネー」を我々がどのように読んできたかを問う。
    それに対してフランスの言語学者、エミールバンヴェニストの中動態に関する研究を取り上げながら、中動態の定義を確認する。

    日本語でも類似の研究(筆者は驚くべき論文としている)はあった。
    それはバンヴェニストより30年以上前、昭和初期の日本の英文学者、細江逸記の論文である。彼の研究は中動態を日本語でいえば「ゆ」に見られ、それは「自然の勢い」を表現していたとする。何よりも、そのような先見的な研究を「今では貴重な議論である」(181頁)としている。

    では、中動態の定義とは何か。
    それは主体が過程の内部にあるということ。
    一方で能動態は過程の外部に向かうというものだ。
    また、中動態と能動態の対立は受動態との対立よりも古く、受動態は中動態の一種の派生として現れるという事だった。
    さらに進む。
    その中動vs能動という歴史上存在していた対立構造を確認し、その対立構造を見ているだけでは我々の「ある眼差し」の欠落に気づかない。
    ある眼差しとは、「意思」が存在するという見方である。
    古代ギリシアに「意思」という概念がなかった。
    それをハンナアーレントの著作を紐解き、「意思」についての考察を深める。
    その先にハイデッガーに触れ、一つの結論に達する。
    それが「意思は過去をなかった事にする」という結論だ。
    そういう道具として「意思」が現代の能動vs受動の世界では形成されている。
    ここまで来て、私はようやく、つねに意思とその結果に対する責任を問われ続ける関係性の拡大再生産が今の社会における息苦しさを生み出しているのではないかと思う。
    人間は過去にとらわれる、それは無かったことにはできない。それを自覚しないと強制か自発の二択に陥ってしまう。

    第9章では、ハーマン・メルヴィル『ビリーバッド』の話がでてくる。それは様々なものにとらわれる人間の姿を描いている。
    思うようには行動できない。
    それを筆者はマルクスの引用で表明している、二重の引用となるが…
    「人間は自分自身の歴史をつくる。だか思うままにではない〜持ち越されてきた環境のもとでつくるのである」(本書285頁)
    ※本書内では人間を言語に置き換えて使っているところもある。

    そうしたもどかしさに耐えられない、なぜならその状態を表現する道具が無いからだ。
    「中動態」はその道具だ、もどかしさの中からすこしでも自由に近づく道具だと思う。

    最後に、「道具」とここまで表現してきたのは、個人的な解釈の仕方であり筆者の本意ではないかもしれない。
    しかし「道具」はアダムスミス的に言えば、マルクスの歴史観で見てもだが、分業体制の中で、人間の生産関係の中で生み出される。
    人間一人では作り出せないものだ。
    私は人間相互の関係性の中で生み出され、関係性を再生産するものとして「道具」を認識してきたスミスやマルクスの視点が今も必要だと思うのであえてそう表現した。

  • 30ページほど読んでもう読まなくていいと判断した。
    哲学の本のくせに、最初から結論が出ていると思ったからだ。でないとしても、8〜9割は結論が出ているような書き方で、まるでミステリ小説のように、核心をそらすような書かれ方がしてある。それがいやらしいと思った。
    実際読み始めればそれなりの知識を得られるとも思ったのだけれど、本を閉じることにした。というのも、目次がすごく誘惑的でキャッチーだったからだ。マルティン・ハイデガー、ハンナ・アーレント(この組み合わせ!)、もちろんスピノザに、ドゥルーズ、なんやかんや。
    「意志」を疑うのに、こんなに錚々たる顔ぶれが必要か。哲学的に意志を批判しようとしているのに、最初に脳科学に言及していることも気に食わなかった。けっきょく、この著者が、哲学を信じていないのだと思った。
    もっと自分で考えろ。

  • 言語の中にある意思と責任の所在、という観点は非常に面白い。

    「する、される」の能動/受動だけで人間の行動は評価し得ない、かつては主語がその行為/過程の中か外かが注目されていた、それが能動/中動態だと。

    ただ、言語学的な、能動/中動態の議論は興味深かったけど、そこから発展した意思と自由についての部分が正直、消化不良だな…。

  • 思ったほど刺激的な内容ではなかった。平田オリザが「演劇入門」で「私たちは、主体的に喋っていると同時に、環境によって喋らされている」と述べてから20年。同じアイディアを文法の側から辿ってもらっても新しい地平は見えなかった。残念。

  • まだ読んでいる最中ですが、すっごくすっごく面白い。ギリシャ語ではよくでてくる、能動態でも受動態でもない、中動態(メイチェンのギリシャ語原典入門だと中態)。その例文の訳は「私は私自身のために解く」などとなっていて、いまいち意味がよくわからないなあと思っていたけど、その謎がちょっと解けるかも・・!?

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  • 受動態、能動態、そして中動態。
    自分の意思をともなう行動の境界
    C3347

  • かなり読み応えのあった一冊。言語学的な考察を深めながら、失われた「中動態」の世界を再発見する。能動、受動の二項対立で語られる私たちの行為だが、本来人間の生をそのような二種類の分類で切り分けることはできないだろうと主張する。完全ないみでの自由意思を否定し、再帰的に自らの世界を規定し続ける人間のあり方に目を向ける。

    こんな感じで説明すると、結局中動態の概念はわかっても、それが何なんだというところに落ち込んでしまう。仲正昌樹が「不自由論」で言っていた、自己決定なんて無理でしょっていう諦念との区別がつかない。改めてこれを語る國分の熱意が見えにくい。アイヒマンではないのか。

    ただ巻末の言葉でこれを書くに至った動機と出会いが書かれていて、動機の部分はやはり結局わからなかったが、その使命に取りつかれギリシャ語を学び、スピノザを学び直す知的情熱には胸打たれるものがあった。


    17.2.22

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