居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)

著者 :
  • 医学書院
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感想 : 260
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  • Amazon.co.jp ・本 (347ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784260038850

作品紹介・あらすじ

京大出の心理学ハカセは悪戦苦闘の職探しの末、ようやく沖縄の精神科デイケア施設に職を得た。「セラピーをするんだ!」と勇躍飛び込んだそこは、あらゆる価値が反転するふしぎの国だった――。ケアとセラピーの価値について究極まで考え抜かれた本書は、同時に、人生の一時期を共に生きたメンバーさんやスタッフたちとの熱き友情物語でもあります。一言でいえば、涙あり笑いあり出血(!)ありの、大感動スペクタクル学術書!

感想・レビュー・書評

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  • 「臨床心理学」の研究でセラピーを習得して、博士号をとった筆者が、精神科のデイケア施設で過ごした経験をもとに、物語化した作品。
    ケアとセラピーの違いを軸に、リアルな現実に向き合う。

    筆者の、お話し仕立ての学術書。という意図だけど、堅苦しくなく、さらさら読めるように書いてある。

    セラピーとケアの違い、
     ケアは傷つけないこと
     セラピーとは傷つきに向き合うこと
    書いてしまうと当たり前に見えるけど、
    この物語を読むと、2つの違いが大きい事がよく分かる。

    主人公がデイケア施設に就職し、ケアの中で一番つらいことは、
    「ただ、いる、だけ」
    ということ。意味がないと思えてしまう事。
    でも、デイケアに通っている方々にとっては、おとなしくいるだけでも大変なことである。
    何もしなくても「いる」ことができるようにするのが大事なのだ。

    最後の方に記載してある
    アジールとアサイラムの話。
    隠れ場所(アジール)でああったデイケア施設のはずが、アサイラムとしてのいる人を画一的に扱い、生産性、経済性を求める地になっているということ。
    これがこの本の鮮やかな結論であり、今後も解決されない構造なのだろう。

    この結論がとってつけたように感じるのは、小説として提示されている、デイケアに通う方々と、それをサポートする方々のふれあいの物語と、この結論との間に繋がりが若干感じられないからだろう。

    この本の物語は、リアルなデイケアの日常と、なぜか擦り減って人が辞めていく現象までを記載している。
    このリアルな日常と、疲弊していくミステリアスさ、いることの大変さは物語を魅力的にしている。

    が、結論に至るブラックな部分の表現が、「この地獄を生きるのだ」などを引き合いにださなければ説明ができないところに、力技を感じる。

    この本の話を読んでいる限り、デイケア施設自体に悪いところがない。でも、誰もかれもやめていく。ここの理由はとくに現実もないのだろうが、お話しとして、何か理由が付くことを望んでいる。
    「この地獄を生きるのだ」の経済性重視の施設などは分かりやすい。
    でも、そういう、勧善懲悪的な話にしてしまうと、ケアとセラピーの微妙な位置関係などが全く表現できないことになってしまう。
    なので、こんな形、ふわっとした話を記載しているのだと思う。

    ただ、物語のカタルシスとしては、最終的に肩透かしをされたような、なんだかぽかーんとしてしまうような読後感なのだ。

    小説というよりも学術的な、社会学的な課題を見つけるという意味では、色々重要な要素が点在している本だと思うし、筆者も言っているように、最適な形で描いた学術書なのだろう。

    この表現ができる発想のやわらかさが筆者の強みだと思う。

  • 非常におもしろかった。今のところ今年一番。「京大ハカセ」である著者が、臨床心理士として就職した沖縄のデイケア施設での経験を書いているのだが、まずその顛末に青春小説的おもしろさがある。この方、赴任時点ですでに妻子があったそうで、そのあたりも含めて書かれていたなら(この本ではほとんど触れられない)、すごくいい「小説」になったんじゃなかろうか。

    だがしかし、そういう側面よりもっと心に響いたのは、副題にもあるケアとセラピーについての考え方だ。著者はこの本を「学術書」として書いたと言っているが、まったく、ここでされている問題提起は非常に鋭く深い。いくつかの点で、漠然と考えていたことに光が差し込んでくるような気持ちになった。

    -依存労働-

    これはフェミニズム哲学者キテイの言葉だそうだが、目から鱗がパラパラ落ちた。「依存労働」とは、誰かに世話してもらわないとうまく生きていけない人をケアする仕事のこと。「弱さを抱えた人の依存を引き受ける仕事」とも言える。障碍者や高齢者、赤ん坊などの、生活の細々とした場面を支える多岐にわたる仕事は、なくてはならないものなのに、自立した個人を前提とする社会では、専門家の仕事とは見なされず、社会的評価が低い。

    考えてみれば、誰しもある程度は誰かに依存して生きている。依存労働は見えにくい。仕事が成功しているときほど意識されず、感謝されない。家事を引き受けている立場の人には、ここら辺は身にしみるのではないか。

    「子どもがいちいち母親のしていることに感謝しているとするなら、それは何か悪いことが起こっている。依存がうまくいっていないということだ。依存労働は当たり前のものを、さも当たり前のように提供することで、自分が依存していることに気がつかせない」

    -ケアとセラピー-

    著者はデイケア施設ただ一人の臨床心理士であり、同僚は(事務職員以外は)看護師である。本来、心理士は「セラピー」を担い、看護師は「ケア」を担う。どう違うのか。簡単に言うと、ケアとは「傷つけない」「依存を引き受け日常を支える」ことを大事にし、セラピーは「傷つきに向き合う」「非日常の葛藤から成長する」ことを目指す、と言えるようだ。

    ただ、ことはさほど単純に切り分けられるものではなくて、人が人に関わるとき、それは常に両方あると書かれていて、これにも深く納得した。デイケアにもカウンセリングにも、医療や学校現場にも両方ある。さらに言えば、家庭にも友人関係にもある。子育てなんか典型的だ。

    「依存を引き受けるか、自立を促すか、そういう問いはぼくらの人間関係に満ちあふれています」「依存か自立か。ニーズを満たすか、ニーズを変更するか。人とつきあうって、そういう葛藤を生きて、その都度その都度、判断することだと思うわけです」「臨床の極意とは『ケースバイケース』をちゃんと生きること」とある。本当に、生きていく上で直面する大小さまざまな問題に、マニュアルなんてないのだ。

    -エビデンスと効率性の光 会計監査のための透明な光-

    著者の働いていた施設では、先輩看護師たち(意欲も能力も高い)が次々やめていく。著者もある時点でそこを去ることにする。具体的な事情は明らかにされないが、こうした事態は別にここに限ったことではないというのは周知の事実だろう。「ケアする人がケアされない」という、なんともつらい実態(私は学校に勤めていたので、このことは本当に痛切に感じる)。

    なにがこうした事態の真犯人なのか。結論を言えば、それは「会計の声」であり、それを受け入れている私たちみんなの価値観だ。
    「限りある財源なのだから、効率よく使用されるべきだ。成果のあるものに予算は投入されるべきだ」「そういう公明正大で確信に満ちた会計の声に、僕らは反論することは難しい」

    そもそも、ケアなどの依存労働が金銭換算されることがおかしい。「市場」は値段のつくはずのないものに値段をつける。「依存」を原理とする営みは、「自立」した個人の集合体である「市場」の外側にあるはずだ。このことを筆者は「サッカー場の外で一日絵を描いていた人が、お前は一点も点を取らなかったと言われるようなものだ」と言っている。本当にそうだ。

    苦しいのは、そうした「すべてを市場の論理で評価する」考え方を、私たち自身がいつの間にか内面化していることだ。これは日々の「消費者」としての行動にとどまらず、ありとあらゆる場面で「コストに見合うものか」値踏みすることが習慣化している。
    「どんな場所にも透明な会計監査の光がさしこんで、薄暗いアジール(隠れ家)はアサイラム(収容所)に変わる」と書かれているとおり、隅々まで効率性の光で照らされた社会は息苦しい。

    また、ずっとモヤモヤと考えてきた「家事労働」について、そうか!と思うところがあった。主に女性が、評価されることなく当たり前のように家事を担わされてきたことを理不尽だと思うものの、「家事労働に賃金を」という主張にはどうも違和感があった。そう、それは「値段のつくはずのないもの」であり、洗濯したから○○円、料理したから○○円などと、細切れに切り分けることに無理がある。そればかりか、一つ一つの「パフォーマンス」を検討したりすることで、その行為を決定的に損なってしまうのではないか。(本書で、利用者を囲い込み、質の低いケアしか提供しないことで利益を上げる「ブラックデイケア」について書かれていたが、これも「値段のつくはずのないものに値段をつけた」結果だろう。)

    「週刊読書人」で著者が高野秀行さんと対談していて、これも面白かった。高野さんの読み方に、なるほどそういう視点でも読めるのかと感心した。読んだ人がそれぞれにいろいろなことを考えるきっかけになる本だと思う。

  • 骨太な内容で好奇心をうずうずさせながら読む。
    デイケアについての話だけど、そこに書かれているのは、人と人との関わり合いについての丁寧な考察。
    実は、ケアもセラピーも、特別なものではなく、私たちが誰かと関わる時は、必ず、自然にやっていることなのだと知った。
    助けたり、助けられたり、依存したり、依存されたり、強くなったり、強くさせたり。だからこそ、資本主義の社会と酷く相性が悪いのも、すごく良くわかる。空気のように存在している、目に見えない、結果がわかりづらい、そういったものの価値は、低く見積もられがちである。介護士や福祉関連職、保育士などの賃金は、ずっと安いままだ。(東畑さんのような心理士も然り)
    目に見えないものの力を信じれる社会の方が、きっと豊かなのにな。

  • 博士号を取得して卒業を控えた著者は、志す臨床心理士という職業が「高学歴ワーキングプアを地で行く仕事」である実態を知り愕然とします。そのような状況のなか、著者はインターネットによる不毛な求職検索を繰り返すなかで、他の求人とくらべれば異例の好待遇である、沖縄の精神科クリニックによる臨床心理士募集の求人案内をみつけます。沖縄という遠隔の勤務地に迷いながらも就職を決断して現地に移り住み、職場へと飛び込んだ初日、エプロン姿で立ち回るキレイなハゲ頭の"業務部統括部長"、タカエスさんが彼に言い渡した指示は、「とりあえず座っといてくれ」でした。

    本書は、精神疾患を抱える人びとの社会復帰を支援するための、精神科デイケアにおいて勤務した経験をもとに、自虐も多分にまじえるトボケたトーンで個性豊かなメンバーさんたちとスタッフとの日々をコミカルに描きます。そして、就職前は「ケアよりもセラピーのほうが上だ」という意識をもっていた著者が、「心理士の仕事の多くはセラピーではなく、ケア」である臨床心理士の実情を知るとともに、ケアの世界に深く入り込んでいく過程を、"お仕事小説"にも近しい手法で読者に提示しています。

    このような親しみやすい側面をもちながらも、その実例をもって精神科の治療において「ケア」と「セラピー」がどのような役割をもつかを定義し、学術書としての本来の役目をも同時に果たすというユニークな構成を採用しています。そして終盤には、ケアの世界において宿命ともいうべき、ある種の性質までを綴り、読者の目を引くであろう特徴的な書名、『居るのはつらいよ』に接続し、その真意を丁寧に開示するに至ります。

    このように本書は、「ケア」を主眼とした精神疾患の治療をめぐる世界について、実体験をもとに情緒豊かに示すことで、「ケア」と「セラピー」の概念と、そこにある現実を噛んで含むように伝えてくれます。前述のとおり、その独特のスタイルと構成のユニークさもさるところながら、終盤でその姿をあらわにするテーマ性もあいまって、専門書でありながらも複雑な読後感を抱かされました。

    書籍としての性質上、広く知られる機会が限られているのではないかと思われますが、精神的な治療に限らず「ケア」に関心をもつ多くの方々に向けられており、「ケア」と「セラピー」を本書内で例示される「主婦業」と「外働き」へと置き換えられるように、広大な射程をもつ著作となっています。

  • 東畑さんの語り口はいつもポップで、テンポよく兄さんの話を聞いているみたいに読む。その、東畑さんの沖縄のデイケアでのお話。

    「居る」ことに慣れるためのデイケアで、なにかしようとして、苦しくなってしまったりすることがあるという。「居る」ことだけするって、どういうことなんだろう。

    デイケアでは「ただ、いる、だけ。」をする。
    ただ、居て、いい場所。ってなんだろう?

    生きているだけで、子を産まないだけで、生産性が無いと言われてしまうこの日本で、居ていいんだよと受け入れてくれるところって、作らないと、なかなかないんだろうな。

    職場に毎日行くことも、ケアである。ってラジオ講座で東畑さんは言ってた。だけど、その職場でも生産性、改善、効率化についてひりひりとするぐらい肌に擦り付けられて、耳打ちされる。

    そんな中で「いる、だけ」ってなんだろう。居場所ってなんだろう。

    この物語をぐんぐん読んで、登場人物に笑い、一緒につらくなって、沖縄暑いよねと思ったり、39円コーラ飲みたいと思った。

    ケアとセラピーのこと。わかったようで、わかってない。という思いでいることには、変わりがない。うっすら受け取った気がするけど、すいっと手からこぼれた感覚がある。

    明確な答えなんか多分ないのかもしれない。ふんわりと居場所のこと、居るところがある大切さのことを考えた。でも、そこからどうしたらいいのか、見失った。

    居場所作り、みたいなことかな?そんな言葉がアンテナにひっかかることが多くなった。私にできることなんだろう、と考えることが多くなった。

    「ねえ、ここに集まろうか」

    って集まったりする時に「いる、だけ」でいいや。なんかするほどでもないしな。ただおしゃべりしようよって、集まったり。そんなことの心地よさを感じることが「ただ、いる、だけ」の心地よさなのかな。

    手からこぼれていっただけじゃなくて、少しは残ってるのかな。

  • 読みやすくて面白い本でした。ドラマを見ていたつもりだったのに実はドキュメンタリーだった、って感じ。形は物語に似ているけど論文っぽい。
    疑問に答えてくれるというよりは考えるきっかけをくれる本。
    授業で扱われそうだなぁ。

    しかし、あの人たちヤクザ関係者ってどういうこと?!どこまでがフィクションなのか…登場人物がキャラクター化されててほんわかしてたけど、かなりブラックなんかな…現実は厳しい…

  • ここ最近ずっと、自分の無能感に死にたくなっていたけど、第5章の「暇と退屈未満のデイケア」を読んでいて、自分が最近退屈できていないことに気づいた。

    仕事をしていて何か空白の時間があると、悪い方向の思考が傾れ込んできて、手が止まってしまう。自分の妄想だ、とわかっていても、止められないまま、その間仕事ができなくなる。
    そうして、何もできずにいる自分にさらに自己嫌悪し、上司から無能と思われているのではという妄想でまた手が止まるという悪循環を繰り返していた、という事実を外からの視点で眺められた。

    第5章には、そういう脅威から身を守るための自我境界というものがあり、それがきちんと機能していれば、脅かされずにすむ、と書かれていた。
    私は、過去に安心して生きられていた自分と、今の、他者の目線に恐怖して毎日が苦しい自分とは、何が違うのかがわからず、なんとなく、何も知らなかった頃は幸せだったからなのか、と考えていた。
    知らない頃に戻ることはできないので、自分が幸せに生きられるような気持ちに戻ることもまた、できないように感じていたが、私が今知った気になっていることは、他者や、社会からの評価であり、それは自分とは別のものの中にあり、推しはかることなどできない、その評価の憶測を自分自身で作り上げて苦しんでいただけだ、ということになんとか気づけた。
    精神的な危機に陥った人は、自己と他者の境界が曖昧になり、自分の内部の考えを他者に投影してしまう、と頭ではわかっていたが、自分自身の経験に当てはめられていなかった。
    また、そういう自分は、もはや回復不能だと思っていたけど、円環的な繰り返しの生活の中で、時間によって変わっていくこともある、と書かれていて、希望が持てた。

    また、この本を通底して出てくる、ケアがお金に換算されると、その機能がうまく働かなくなるという点について、自分はずっと違和感と、息苦しさをもっていたことにも気づいた。
    私はとにかく大バカなので、子供の頃から、お金にならない、掃除や洗濯や料理といった家事労働が嫌いで、全くやってこなかった。意味がないと思っていた。
    父も同じくで、母よりも家にいるにも関わらず、家事労働をしない人だった。
    その結果(他にも色々と原因はあるが)、母が病気になってしまったのだと思う。
    そうなった上にさらに年月を経て、ようやく自分が家事をするようになって、家事労働の意味がわかった。
    私は今まで、生活を蔑ろにし続けてきたのだと思う。
    家事をして初めて、私は今生活をしている、と思えた。
    仕事をしている時には実感できない、生きているという実感が、家事をしている時にはありありと感じられる。
    家事は別の意味や、価値には換算できない。
    それ自体が生きることと同義だからだと思う。

    ケアをする仕事をしていた時期もそのことで葛藤していた。
    当たり前に生きることを、お金に換算するのは変だし、当たり前に生きる生活の一つ一つの何気ない動作に意味を見出して、それを進歩させようとするのは、おかしい。
    この本でも語られているように、生活は円環であって、直線ではない。
    それなのに、資本主義のもとに動く経済では、昨日よりも大きな成果、毎日成長し続けることが求められ続ける。
    その原理の中では、どんな些細なことにも意味づけが求められる。本来、市場の中だけのはずの考え方が、だんだんと日常を侵蝕してきて、日々の暮らしが、些細な出来事全部が、意味あり・意味無しのジャッジをされ続けて、君は何ができるのか常に問いかけられ続けているような焦燥感が付きまとう。
    そのせいで、私は毎日自分が何も進歩もない日常を送っていることに、必要のない罪悪感を抱えていたのだ。

    実際私は、毎日虚空に向けて謝り続けていた。
    両親にも、国にも、世界にも、生まれてきてすみません、と心の中で謝罪していた。
    本当に生きているだけで申し訳ないような気持ちになっていた。
    何も生み出さず、なんの役にも立たず、ただ生きることが、ただ居ることが、悪のように感じるなんて、本当はおかしいことだと、伝えてくれるこの本は、とても優しい。
    この本が正しいと信じて、死なないで生きていきたい。
    自分が生きていてもいい、と今だけでも思わせてくれたことが本当にありがたかった。

    • workmaさん
      デビ丸さん
      はじめまして。

      ブクログでこの本のことを知り、また、
      デビ丸さんのレビューを読んで、ますます本書が読みたくなりました。
      デビ丸さん
      はじめまして。

      ブクログでこの本のことを知り、また、
      デビ丸さんのレビューを読んで、ますます本書が読みたくなりました。
      2023/11/26
    • デビ丸さん
      はじめまして!ありがとうございます!
      とても面白い本なので、ぜひ読んでみて欲しいです!!
      たくさんの人がこの本を読むことで、少しずつでも世の...
      はじめまして!ありがとうございます!
      とても面白い本なので、ぜひ読んでみて欲しいです!!
      たくさんの人がこの本を読むことで、少しずつでも世の中の生きづらさが薄まっていくんじゃないかな、と願ったり思ったりしています!
      2023/11/26
  • 臨床心理学で博士号を取った著者が、家族を養える給料がもらえて、なおかつ現場でカウンセリングがしたい!という条件で辿り着いた場所。それは沖縄の精神科デイケア施設だった!しかし、そこで待ち受けていたのは「居るのはつらいよ」という現実。直面した現場環境において、ケアとセラピーの本質へと深く潜っていく。

    著者の実体験や臨床経験、調査した内容を踏まえながら構成されるエッセイ風な学術書。ユーモアあふれる筆致でとても読みやすい。患者さんのプライバシーもあって事例はフィクション化されて語られるが、かなり自然。まるで現場にいるような臨場感が味わえた。そこで取り上げられるテーマは紛れもないノンフィクション。カウンセラーとして赴任したはずの著者がケアの現実に立ちすくむ姿。そこからケアの重要性を理解していく過程が丁寧でとてもよかった。

    ぼくは伯父の介護の中でケアに触れている。ぼく自身も不安障害の治療の中で、訪看さんからのケアを受けていて、カウンセラーさんのセラピーを受けたこともあった。その中で感じていた言葉にならないもやもやが言語化されていてスッキリした。本文で特に取り上げたいところを引用します。

    p.54,55
    「いる」が難しくなったとき、僕らは居場所を求める。居場所って「居場所がない」ときに初めて気がつかれるものだ。
    p.57
    僕らは誰かにずっぽり頼っているとき、依存しているときには、「本当の自己」でいられて、それができなくなると「偽りの自己」をつくり出す。だから「いる」がつらくなると、「する」を始める。
    p.140
    不登校になった子どもは何もないところに自分への攻撃を見出してしまうし、僕たちだって会社を休んでしまった次の日は、みんなの視線が痛い。本当はそこには何もないのに、充満する「何か」を感じてしまうということがある。空虚はときに充満に変わってしまう。
    すると、退屈なんかしていられない。悪しきものが充満する空間では、一瞬一瞬が切実な時間になる。なんとかなんとか、しのいでいかないといけない危険な時間になる。僕にとっての凪タイムは、彼らにとって「何か」が吹き荒れている時間だったのだ。

    うつ病と不安障害になった時、ぼくは「いる」ことが難しくなった。頭に開いた穴から不安が入り込み、起きている間中のすべてが不安だった。うつ病の時は動かない体と心に死を覚悟し、不安障害ではほくろ一つでガンだと大騒ぎ。仕事どころか遊びに行くことすら難しい現状。仕事もできない生産性のない自分。居場所がなくて孤立したと感じたぼくは「する」を始めた。

    それが読んだ本の感想をここに書くことだった。いろんな人に興味を持ってもらえたら、自分にも多少は価値があるんじゃないかと思ったからだ。結果的にはやりたいことが見つかったが、「する」で代用できない「いる」ことの意味は、この本を読んでやっと気づけた気がする。自立だけじゃなく、依存の価値を認めること。見えないところでケアされているからこそ自立は回るのだ。焦って何かを「する」よりも、まずは「いる」ことから始めようと思えた。

    また、デイケアと市場や経営がはらんだ矛盾についても勉強になった。ただ「いる」ことに対する重要性の見えにくさ。こうした見えにくい価値にお金をかける価値観が生まれてほしいなと切に願う。それは不合理と思われるかもしれないけど、いずれ自分も受けるかもしれない社会的サービスなのだから。

  •  「ケアをひらく」のシリーズに興味があり、本書も副題にあるケアとセラピーという語に惹かれて手に取った。

     プロローグから、「何、これ」という感じ。タバコを吸う2人の、会話なのか何なのか分からないやり取り。

     続く章で、「臨床心理学」を学び大学院を修了したものの、希望するセラピーの実践ができてそれなりの給与がもらえる就職口が見つからず、焦りまくっていた著者が、沖縄の精神科クリニックに採用された経緯が明らかにされる。
     ところが、ところが、が以下の章。

     著者の勤め先は精神科デイケア。そしてデイケアとは、精神科疾患を有するものの社会生活機能の回復を目的として個々の患者に応じたプログラムに従ってグループごとに治療するものとされる。
     社会に「いる」のが難しい人たちと一緒に「いる」こと、それが著者の仕事になる。
     もちろんセラピーの業務もあるのだが、ほとんどはデイケアに来る人たちと一緒に居ること。そうした日々を過ごしながら、患者や同僚いろいろな人たちと関係を持ち、会話し、カウンセリングをする中で、治療とは何なのか、"セラピー"と"ケア"はどのような関係にあるのかなどについて考えていく。

     最終章の「アジールとアサイラム」で著者の考察は、市場原理の滲出によるデイケアの変質の恐れにまで行き着く。「ただ、いる、だけ」の価値とそれを支えるケアの価値を擁護し、居場所を守っていくことができるのか。答えはまだない。

     プライバシーを守るために変改されているようだが、メンバーの個性が一人ひとり良く描かれているし、デイケアの様子もディテール描写のおかげで、イメージが湧きやすい。後半になると、施設から去っていく患者、看護師、そして著者自身と、大変寂しくなるが、著者のユーモラスな文章が湿っぽさを減らしてくれる。

     一歩間違うとスベリになりかねないが、これだけの学術的内容を面白く読ませる著者の文才に感嘆!

     

     

     

  • これは本当にためになった。
    依存労働とかケアとセラピーの違いとか。
    ケアをする人にも、ケアをする人こそケアしてくれる人が必要だとか。
    専門的な内容も挿まれつつも、物語になっているのでとても読みやすいです。
    どうしてこんなに、一人で頭の中でぐるぐる自分を責めているのかとか、はたから見ると「なんでだろう」と思うことも、「自我境界」という言葉で表してくれたり。
    2つの幕間口上や、本終盤の「ケアを困難にさせる真犯人」についてもいろいろ納得させられる。
    身近な人がメンタル落ち込んでいて、それを突然側でケアしなくてはならなくなった人、ずっとケアをして疲れている人にも読んでほしい本です。

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著者プロフィール

1983年東京生まれ。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)・臨床心理士。専門は、臨床心理学・精神分析・医療人類学。白金高輪カウンセリングルーム主宰。著書に『野の医者は笑う―心の治療とは何か?』(誠信書房)『居るのはつらいよ―ケアとセラピーについての覚書』(医学書院)『心はどこへ消えた?』(文藝春秋 2021)『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』(新潮社)など。『居るのはつらいよ』で第19回(2019年)大佛次郎論壇賞受賞、紀伊國屋じんぶん大賞2020受賞。

「2022年 『聞く技術 聞いてもらう技術』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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