居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)

著者 :
  • 医学書院
4.38
  • (129)
  • (79)
  • (22)
  • (7)
  • (1)
本棚登録 : 1488
レビュー : 132
  • Amazon.co.jp ・本 (368ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784260038850

作品紹介・あらすじ

京大出の心理学ハカセは悪戦苦闘の職探しの末、ようやく沖縄の精神科デイケア施設に職を得た。「セラピーをするんだ!」と勇躍飛び込んだそこは、あらゆる価値が反転するふしぎの国だった――。ケアとセラピーの価値について究極まで考え抜かれた本書は、同時に、人生の一時期を共に生きたメンバーさんやスタッフたちとの熱き友情物語でもあります。一言でいえば、涙あり笑いあり出血(!)ありの、大感動スペクタクル学術書!

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 「臨床心理学」の研究でセラピーを習得して、博士号をとった筆者が、精神科のデイケア施設で過ごした経験をもとに、物語化した作品。
    ケアとセラピーの違いを軸に、リアルな現実に向き合う。

    筆者の、お話し仕立ての学術書。という意図だけど、堅苦しくなく、さらさら読めるように書いてある。

    セラピーとケアの違い、
     ケアは傷つけないこと
     セラピーとは傷つきに向き合うこと
    書いてしまうと当たり前に見えるけど、
    この物語を読むと、2つの違いが大きい事がよく分かる。

    主人公がデイケア施設に就職し、ケアの中で一番つらいことは、
    「ただ、いる、だけ」
    ということ。意味がないと思えてしまう事。
    でも、デイケアに通っている方々にとっては、おとなしくいるだけでも大変なことである。
    何もしなくても「いる」ことができるようにするのが大事なのだ。

    最後の方に記載してある
    アジールとアサイラムの話。
    隠れ場所(アジール)でああったデイケア施設のはずが、アサイラムとしてのいる人を画一的に扱い、生産性、経済性を求める地になっているということ。
    これがこの本の鮮やかな結論であり、今後も解決されない構造なのだろう。

    この結論がとってつけたように感じるのは、小説として提示されている、デイケアに通う方々と、それをサポートする方々のふれあいの物語と、この結論との間に繋がりが若干感じられないからだろう。

    この本の物語は、リアルなデイケアの日常と、なぜか擦り減って人が辞めていく現象までを記載している。
    このリアルな日常と、疲弊していくミステリアスさ、いることの大変さは物語を魅力的にしている。

    が、結論に至るブラックな部分の表現が、「この地獄を生きるのだ」などを引き合いにださなければ説明ができないところに、力技を感じる。

    この本の話を読んでいる限り、デイケア施設自体に悪いところがない。でも、誰もかれもやめていく。ここの理由はとくに現実もないのだろうが、お話しとして、何か理由が付くことを望んでいる。
    「この地獄を生きるのだ」の経済性重視の施設などは分かりやすい。
    でも、そういう、勧善懲悪的な話にしてしまうと、ケアとセラピーの微妙な位置関係などが全く表現できないことになってしまう。
    なので、こんな形、ふわっとした話を記載しているのだと思う。

    ただ、物語のカタルシスとしては、最終的に肩透かしをされたような、なんだかぽかーんとしてしまうような読後感なのだ。

    小説というよりも学術的な、社会学的な課題を見つけるという意味では、色々重要な要素が点在している本だと思うし、筆者も言っているように、最適な形で描いた学術書なのだろう。

    この表現ができる発想のやわらかさが筆者の強みだと思う。

  • 非常におもしろかった。今のところ今年一番。「京大ハカセ」である著者が、臨床心理士として就職した沖縄のデイケア施設での経験を書いているのだが、まずその顛末に青春小説的おもしろさがある。この方、赴任時点ですでに妻子があったそうで、そのあたりも含めて書かれていたなら(この本ではほとんど触れられない)、すごくいい「小説」になったんじゃなかろうか。

    だがしかし、そういう側面よりもっと心に響いたのは、副題にもあるケアとセラピーについての考え方だ。著者はこの本を「学術書」として書いたと言っているが、まったく、ここでされている問題提起は非常に鋭く深い。いくつかの点で、漠然と考えていたことに光が差し込んでくるような気持ちになった。

    -依存労働-

    これはフェミニズム哲学者キテイの言葉だそうだが、目から鱗がパラパラ落ちた。「依存労働」とは、誰かに世話してもらわないとうまく生きていけない人をケアする仕事のこと。「弱さを抱えた人の依存を引き受ける仕事」とも言える。障碍者や高齢者、赤ん坊などの、生活の細々とした場面を支える多岐にわたる仕事は、なくてはならないものなのに、自立した個人を前提とする社会では、専門家の仕事とは見なされず、社会的評価が低い。

    考えてみれば、誰しもある程度は誰かに依存して生きている。依存労働は見えにくい。仕事が成功しているときほど意識されず、感謝されない。家事を引き受けている立場の人には、ここら辺は身にしみるのではないか。

    「子どもがいちいち母親のしていることに感謝しているとするなら、それは何か悪いことが起こっている。依存がうまくいっていないということだ。依存労働は当たり前のものを、さも当たり前のように提供することで、自分が依存していることに気がつかせない」

    -ケアとセラピー-

    著者はデイケア施設ただ一人の臨床心理士であり、同僚は(事務職員以外は)看護師である。本来、心理士は「セラピー」を担い、看護師は「ケア」を担う。どう違うのか。簡単に言うと、ケアとは「傷つけない」「依存を引き受け日常を支える」ことを大事にし、セラピーは「傷つきに向き合う」「非日常の葛藤から成長する」ことを目指す、と言えるようだ。

    ただ、ことはさほど単純に切り分けられるものではなくて、人が人に関わるとき、それは常に両方あると書かれていて、これにも深く納得した。デイケアにもカウンセリングにも、医療や学校現場にも両方ある。さらに言えば、家庭にも友人関係にもある。子育てなんか典型的だ。

    「依存を引き受けるか、自立を促すか、そういう問いはぼくらの人間関係に満ちあふれています」「依存か自立か。ニーズを満たすか、ニーズを変更するか。人とつきあうって、そういう葛藤を生きて、その都度その都度、判断することだと思うわけです」「臨床の極意とは『ケースバイケース』をちゃんと生きること」とある。本当に、生きていく上で直面する大小さまざまな問題に、マニュアルなんてないのだ。

    -エビデンスと効率性の光 会計監査のための透明な光-

    著者の働いていた施設では、先輩看護師たち(意欲も能力も高い)が次々やめていく。著者もある時点でそこを去ることにする。具体的な事情は明らかにされないが、こうした事態は別にここに限ったことではないというのは周知の事実だろう。「ケアする人がケアされない」という、なんともつらい実態(私は学校に勤めていたので、このことは本当に痛切に感じる)。

    なにがこうした事態の真犯人なのか。結論を言えば、それは「会計の声」であり、それを受け入れている私たちみんなの価値観だ。
    「限りある財源なのだから、効率よく使用されるべきだ。成果のあるものに予算は投入されるべきだ」「そういう公明正大で確信に満ちた会計の声に、僕らは反論することは難しい」

    そもそも、ケアなどの依存労働が金銭換算されることがおかしい。「市場」は値段のつくはずのないものに値段をつける。「依存」を原理とする営みは、「自立」した個人の集合体である「市場」の外側にあるはずだ。このことを筆者は「サッカー場の外で一日絵を描いていた人が、お前は一点も点を取らなかったと言われるようなものだ」と言っている。本当にそうだ。

    苦しいのは、そうした「すべてを市場の論理で評価する」考え方を、私たち自身がいつの間にか内面化していることだ。これは日々の「消費者」としての行動にとどまらず、ありとあらゆる場面で「コストに見合うものか」値踏みすることが習慣化している。
    「どんな場所にも透明な会計監査の光がさしこんで、薄暗いアジール(隠れ家)はアサイラム(収容所)に変わる」と書かれているとおり、隅々まで効率性の光で照らされた社会は息苦しい。

    また、ずっとモヤモヤと考えてきた「家事労働」について、そうか!と思うところがあった。主に女性が、評価されることなく当たり前のように家事を担わされてきたことを理不尽だと思うものの、「家事労働に賃金を」という主張にはどうも違和感があった。そう、それは「値段のつくはずのないもの」であり、洗濯したから○○円、料理したから○○円などと、細切れに切り分けることに無理がある。そればかりか、一つ一つの「パフォーマンス」を検討したりすることで、その行為を決定的に損なってしまうのではないか。(本書で、利用者を囲い込み、質の低いケアしか提供しないことで利益を上げる「ブラックデイケア」について書かれていたが、これも「値段のつくはずのないものに値段をつけた」結果だろう。)

    「週刊読書人」で著者が高野秀行さんと対談していて、これも面白かった。高野さんの読み方に、なるほどそういう視点でも読めるのかと感心した。読んだ人がそれぞれにいろいろなことを考えるきっかけになる本だと思う。

  • 博士号を取得して卒業を控えた著者は、志す臨床心理士という職業が「高学歴ワーキングプアを地で行く仕事」である実態を知り愕然とします。そのような状況のなか、著者はインターネットによる不毛な求職検索を繰り返すなかで、他の求人とくらべれば異例の好待遇である、沖縄の精神科クリニックによる臨床心理士募集の求人案内をみつけます。沖縄という遠隔の勤務地に迷いながらも就職を決断して現地に移り住み、職場へと飛び込んだ初日、エプロン姿で立ち回るキレイなハゲ頭の"業務部統括部長"、タカエスさんが彼に言い渡した指示は、「とりあえず座っといてくれ」でした。

    本書は、精神疾患を抱える人びとの社会復帰を支援するための、精神科デイケアにおいて勤務した経験をもとに、自虐も多分にまじえるトボケたトーンで個性豊かなメンバーさんたちとスタッフとの日々をコミカルに描きます。そして、就職前は「ケアよりもセラピーのほうが上だ」という意識をもっていた著者が、「心理士の仕事の多くはセラピーではなく、ケア」である臨床心理士の実情を知るとともに、ケアの世界に深く入り込んでいく過程を、"お仕事小説"にも近しい手法で読者に提示しています。

    このような親しみやすい側面をもちながらも、その実例をもって精神科の治療において「ケア」と「セラピー」がどのような役割をもつかを定義し、学術書としての本来の役目をも同時に果たすというユニークな構成を採用しています。そして終盤には、ケアの世界において宿命ともいうべき、ある種の性質までを綴り、読者の目を引くであろう特徴的な書名、『居るのはつらいよ』に接続し、その真意を丁寧に開示するに至ります。

    このように本書は、「ケア」を主眼とした精神疾患の治療をめぐる世界について、実体験をもとに情緒豊かに示すことで、「ケア」と「セラピー」の概念と、そこにある現実を噛んで含むように伝えてくれます。前述のとおり、その独特のスタイルと構成のユニークさもさるところながら、終盤でその姿をあらわにするテーマ性もあいまって、専門書でありながらも複雑な読後感を抱かされました。

    書籍としての性質上、広く知られる機会が限られているのではないかと思われますが、精神的な治療に限らず「ケア」に関心をもつ多くの方々に向けられており、「ケア」と「セラピー」を本書内で例示される「主婦業」と「外働き」へと置き換えられるように、広大な射程をもつ著作となっています。

  • 職場の同僚に借りた一冊。
    きっとこの本、好きですよ!と言われ読んで、その通り。
    精神科デイケア、まさにこんな感じ。
    ただ居ること。その大切さ。
    そうか、退屈さえ感じないんだと、気づきあり。
    ケアとセラピーの違いは、少し異論あれど、なるほど!と。

  • 読みやすくて面白い本でした。ドラマを見ていたつもりだったのに実はドキュメンタリーだった、って感じ。形は物語に似ているけど論文っぽい。
    疑問に答えてくれるというよりは考えるきっかけをくれる本。
    授業で扱われそうだなぁ。

    しかし、あの人たちヤクザ関係者ってどういうこと?!どこまでがフィクションなのか…登場人物がキャラクター化されててほんわかしてたけど、かなりブラックなんかな…現実は厳しい…

  • 読みたかった本。とても面白い。物語的な語り口が軽妙でわかりやすく、ぐいぐいいけるのだが、内容は考え抜かれて緻密。
    「いる」ということの難しさや効果、心当たりがあるけれどなかなか言葉にできないものをかなり踏み込んで言葉にしてくれている本。
    ケアするひとの傷つきやその逆(ケアされるひとによる癒し)、ブラックデイケアなどについても扱っていて、ああそういう話聞きたかった大事だよねと思うものが網羅されている。

  • 「居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書」読了。

    エッセイ風に書かれた「学術書」。最終章に入るまでは、大学を卒業して、セラピーの専門家として沖縄のクリニックに就職した著者・東畑さんの経験を元にした「エッセイ」で、とても読みやすいし、そこからいろいろな「ケアとセラピーについての専門的な話」を得られる。

    そして、最終章。
    ここで、一気に「ケア」と「セラピー」についての、現状の問題点が暴かれる。

    読み応えのある本でした。


    この本は、精神科クリニックにおいての「ケア」と「セラピー」の話だったけれど、精神科に限らず、現在の社会の福祉領域全般や、一般の人間関係にも通じる話だったと思います。私にとっては「ケア」と「セラピー」が別のものなのだという認識すらありませんでしたから!

    今後、生きていく中で、ケアとセラピーについて、頭の片隅に置きつつ、いろいろなことを見ていきたいと思わせてくれました。

    とても気になる話題だったので、東畑さんの別の著書も読もうと思ってます。

  • 居るのはつらいよ。
    ただ、いる、だけ。
    でも、なぜそれがこんなにも辛いのだろうか。

    「ただ、いる、だけ」を守るために語られる物語にとても心打たれました。長くなりますが、引用をしながらまとめさせていただきます。

    つらさ その1

    京都大学大学院心理学で博士号を取得し、沖縄の【精神科デイケア】に就職した筆者トンちゃん。

    「俺は一流のカウンセラーになって、臨床心理学を極めるのだ!」

    意気揚々と専門を活かしセラピーに従事するはずが、求められるのはただ座っていること、送迎、調理、片付け、遊びの相手など素人仕事ばかり。つまりそれはケアの仕事。

    居るのはつらいよ。
    トンちゃんは幾度となくぼやく。
    流刑の罪のような時間は長く感じる。

    そんななか「ただ居ること」に耐えられず、不用意にケアに通う女性に「セラピーもどき」をし、結果的に女性は精神状態を悪化させる。

    大きな勘違いと失敗。
    トンちゃんは「セラピー」は「ケア」より格上の仕事だと考えていた。

    【自分がしている素人仕事の社会的評価が頭にちらついてしまって、専門家の国から遠く離れたと
    ろへと流罪にあっている気がしてしまうのだ。】

    決してそうではなく、セラピーとケアそれぞれが異なる役割をもつ必要な仕事なのだと気づく。
    精神科デイケアには社会的な居場所が見出せない脆弱な人たちが「ただ居る」ことをするための場所である、そこに本質があると気づく。

    トンちゃんは「ただ居る」ことの意味に気づけた時、ケアの仕事に向き合っていけるようになる。

    つらさ その2
    ケアの仕事の中で多くのスタッフは辛くなってやめて(トンちゃんの職場は給与が高いため)また新しく入ってくる。

    「人、辞めすぎじゃない?」
    居るのはつらいよ。

    心のケアとは脆弱な人と一緒にいて、傷つけないことだとトンちゃんは考える。けれど、ケアする側はケアをしながら傷ついてしまうことがある。ケアする仕事に従事する人間(依存労働者)は、依存されることに伴う様々な難しさを飲み込まないといけない。
    だから、依存労働者にもケアをする人が必要なのだ。
    それはどんなケアに関する仕事でも同じ。

    つらさ その3
    「居るのがつらいよ」‥ただ、いる、だけ。
    その根底の辛さとは何か、大きな正体をトンちゃんは突き止める。そもそもそれはトンちゃんの中にも潜んでいた。トンちゃんは「セラピー」は「ケア」より格上の仕事だと考えていた。

    「ケア」は社会保障の財源のなかで成り立っている現実がある。

    ケアはセラピーと違い、大きな変化や回復を与えるものではない。
    デイケアはただ居ることが難しい人の「ただ、いる、こと」をサポートするコミュニティ的役割が大きい。デイケアのプラグラム「遊び」も治療的側面を持つが、それは一般には伝わりにくい。

    【デイケアでは「変わらない」ことにも高い価値が置かれる。多くのマンパワーと多くの時間が費やされ、そして健康保険から多くのお金が支払われて、つまり多大なエネルギーが注ぎ込まれて、「変わらない」ことを目指す。
    デイケアでは「一日」を過ごせるようになるために、「一日」を過ごすのだ。そこでは、手段その
    ものが目的化する。メンバーさんはケアの中に留まるために、ケアを受ける。そのとき、治療は通過するものではなく、「住まう」ものになる。
    もちろん、「社会復帰」を遂げるメンバーさんもいて、そういう場合は何か「治療」らしきことを
    している実感があるのだけど、ほとんどのメンバーさんはデイケアに「いられる」ようになるためにデイケアに「いる」。そういうリアリティがたしかにある。
    この一見不毛に見えるトートロジーに、僕は揺さぶられる。
    それでいいのか? 僕らは成長を目指すべきではないか、治癒に向かうべきではないか? そういう声が聞こえてくる。
    だけど、それでも、デイケアにいると、成長しないこと、治らないこと、変わらないことの価値を
    感じてしまう。】

    社会保障の観点から効率が悪い支出と見なされる。長期にわたる居場所型デイケアの利用の社会保障が見直され、削られていく。

    現代社会において、経済性がどの場面でも幅を利かせてくる。市場のロジックは、セラピーに好意的で、ケアの分は圧倒的に悪い。「ただ、いる、だけ」の社会的価値は語りづらい。

    【会計の声はセラピーに味方する。セラピーは変化を引き起こし、何かを手に入れようとする
    プロジェクトだからだ。たとえば、復職する。学校に登校しはじめる。そういうことによって、生産性が上がる。税収が増える。会計の声からすると、セラピーは何かを手に入れるための投資と捉えられる。
    これに対して、会計の声はケアに冷たい。ケアは維持し、保護し、消費する。「いる」はその後、生産に結びつくならば価値を測定しやすいかもしれないけれど、「ただ、いる、だけ」は生産に結びついていかない。だから、それは投資というよりも、経費として位置付けられやすい。】

    「ただ、いる、だけ」に市場価値を求めてはいけない。でも、現実は残酷だ。人はもはや市場抜きには生きていけない。

    また一方、ブラックデイケアと呼ばれる施設がある。経済的収益のために患者を取り込み、必要以上に「居ること」を強制するという問題も起きている。デイケアが居場所としてのアジール(避難所)ではなく、管理されるアサイラム(収容所)に変えられる。

    【「ただ、いる、だけ」のコスパを追求しているうちに、コスパのための「ただ、いる、だけ」が出来上がってしまう。
    ケアの根底にある「いる」が市場のロジックによって頽落する。
    ニヒリズムが生じる。
    こいつこそが真犯人だったのだ。
    僕らは今、そういう世界を生きている。そのことを、僕はこのデイケアで知った。そして、そうい
    う光を遮りながら、それでも「いる」を支えようとしてあがいていた人たちと共に働き、そして敗北した。ニヒリズムは外側から僕らに襲いかかり、内側から僕らを食い破った。
    だから、居るのはつらいよ。】

    これらのお話は、精神科デイケアに勤め辞めるまで四年間のなかでエッセイ調で語られます。最後に東畑さんはその「語り」の意味を語っておられます。

    【ケアする人がケアすることを続けるために、ニヒリズムに抗して「ただ、いる、だけ」を守るために、それは語られ続けないといけない。そうやって語られた言葉が、ケアを擁護する。それは彼らの居場所を支えるし、まわりまわって僕らの居場所を守る。
    居場所はつらいよ。市場の透明な光が満ちあふれるこの世界で、アジールは次々とアサイラムに
    なっていく。居るのはつらいよ。
    だけど、それでも、僕らは居場所を必要とする。「いる」が支えられないと、生きていけないから
    だ。だから、アジールはいつも新しく生まれてくる。たとえそれがすぐにアサイラムになってしまうとしても、それは必ず生まれてくる。
    そういうものを少しでも生き延びさせるために、このケアの風景を描く。】

    以上、長くなりましたがまとめさせていただきました。いや、まとまってなくてすみません。

    お読みくださり、ありがとうございました。

















  • いゃあ 面白かった

    沖縄の 
    とある精神科デイケア施設での
    その場所で
    いろいろな人たちがいて
    いろいろな時に何も起きていない
    「ただ、いる、だけ」
    を 描写する

    ただ、そのだけのことが
    どれほど 難しいこと か
    そこに いたものでしか
    わからない ムード が
    見事に 伝わってくる

    そして
    「いま、を生きていく」
    を 考えさせてもらえる
    いろんなヒントが
    ぎっしり 詰まっている

    しかも
    この一冊は
    心理療法士から見た
    デイケアの現場に関する
    ガクジュツショ(学術書)である
    ことが また素晴らしい

    このような「学術書」が
    もっと 世に出てきて欲しいものだ

  • 自分のこれまでを沢山思い出しながら、そして、これからについても考えながら読める、貴重な学術書でした。

    ケアの重要性と、その素人っぽさ、ケアする人がケアされないと成り立たないもの
    自分が漠然と抱えていたものを言語化してもらえたような気がしました。
    お母さんがするようなケア、それが仕事になる。逆に言えば、そのケアが欠落していて、必要としているけれど、お金を払ったり、施設に入所したりすることでやっとケアを受けられる状態になる人が一定数いるということか。
    そこで専門家ができるケアが、お母さんのするケアとどう違うのか。対象が違えば、発揮される専門性も違ってくるだろうけど、掃除だったり、料理だったり、定義してしまえばやっていることは同じ。

    そして、専門家がやっているからと言って、そのケアに値段をつけることは難しい。費用対効果の証明はできない。
    私も考え続けていかなければいけないと思う問題提起を頂いたような気がしました。

全132件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

十文字学園女子大学人間生活学部講師、博士(教育学)、臨床心理士、白金高輪カウンセリングリーム

「2018年 『心理療法家の人類学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

東畑開人の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
佐藤 雅彦
ケイン 樹里安
エラ・フランシス...
ヨシタケシンス...
夏目漱石
植本一子
有効な右矢印 無効な右矢印

居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)を本棚に登録しているひと

ツイートする
×