本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
Amazon.co.jp ・本 (192ページ) / ISBN・EAN: 9784264024361
感想・レビュー・書評
-
雨宮処凛さんの著書「この国の不寛容の果てに」から、向谷地生良さんとべてるの家を知り、読んだ。読んで、何故雨宮さんが向谷地さんのことを生きづらさ界のラスボスと称していたのか理解した。彼のバイタリティーに敬服する。彼はソーシャルワーカーであり、常識でいくと個人情報は明かさないのが普通なのだが、オープンにしていて、1日に何十件もの着信があったり、住所もオープンにしているものだから、家の中に人が入ってきたり。なかなかできることではないと思った。しかし、公私混同を掲げる彼は、支援者と支援される側の垣根を越えてべてるの家を作り、事業を展開している。そこには、精神病という言葉からイメージしていた鬱屈とした暗さ閉塞感からは程遠い、ユーモアと茶目っ気たっぷりな、生きている実感だった。私は泣いた。まるで、北の果てで、私が寄り添ってもらったような気になったのだ。障害者や、精神病と健常者との違いは何か?それを個性として、受け入れ、笑うこと。私達はそれぞれ当事者研究をするべきなのだ。そして、一人一人が自分自身を助ければいいのだ。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「べてる」との出会いの、1冊。
-
2012/11/28
-
-
日本にこういう場所があるのは、実生活はファンタジーじゃないと思うけど、ムーミン谷があるみたいでとってもよいです。ユーモアのセンスがイケてます。
-
「肉体的、精神的そして社会的に成長し、成功を成し遂げた『にもかかわらず』、いのちとして私たちは降りてしまっているのである。そして、きょう一日、私たちは「死んだ」のである。それは右上がりの人生を否定し、降りる人生を選択するというようなわれわれ自身の選択と決断を超えた現実としてある。」
<br><br>
当事者と触れ合いたいと思った。
精神障害は特別な才能でも欠陥でもない。
同じく生きてるだけ。
こういう本を読むと私は「当事者」に憧れ「異」や「才能」に惹かれてしまうけれど、魅力は「異」にあるのではなく、生き方なのだと思う。 -
現代思想の木村敏特集を読んで。いちおう大学時代、哲学ゼミに所属していた(ハズ)なのに。最初から難解で理解できずパラパラ。めくっていると、やさしい、生きた、木村敏さんとのエピソードを力強く語る人が現れた。そのまごころと、感動に共鳴して思わず涙。
向谷地さんを知る。
べてるの家から吹く、風をおもう。風に、吹かれる。おなじ風に吹かれていることを思う。
安心して絶望できること、なんて、なんて救いがあるのだろう、とおもう。向谷地さんのお子さんたちのエピソードが大好きで、そうしたら、べてるの家に住むのです。安心して絶望して、生きるのです、という、なんというか思い描いていた理想のような、桃源郷のような場所、最後の希望だったとしても、問題を抱えているのだとしても、そういう場所を作ろうと、守ろうと、日々奮闘しているひとたちがいるということが、なんで救いなんだろうかと。
風に吹かれて生きている。弱々しくも、考えながら生きている。それは救いであり、試練であり、生きるということなのだと、生の、なまなましい生き様、その生きる、死ぬまで生きる、息をする場所。 -
統合失調症の方の幻聴の様子がよく分かります。
それに対する向谷路先生の対応方法が面白いです。 -
「べてるの家」は、ざっくりまとめて言うと、北海道の浦河町にある、統合失調症当事者の自助団体である。
統合失調症の当事者と支援者にできることが、双極性障害の当事者と支援者にもできないはずはないと思う。
今の一つの夢は、双極性障害版の「べてるの家」を作ってみたいということである。
本書の中の最後のエピソード「冬のどなた」の中で、高齢者介護に関する示唆に富む文が書かれているのでメモ代わりに引用する。
そして、老いて身体が弱り、人の力に依存することが避けられない現実となった時、人はちぐはぐであっても、人間としての誇りを振り絞るようにしてそれに立ち向かおうとする。そこで起きる周囲との軋轢と、自分では了解しきれない暗闇にも似た混乱のなかで、当事者は出口を必死に探している。その当事者の思いを「もし、それが自分だったら」という現実感をもって想像を巡らすことの大切さ、そして、「すること以上に、何をしないかの見極め」の大切さを語った。 -
読み終わった後、暖かい気持ちになった。社会福祉を学んでる自分は向谷地pswの凄さと当事者の肯定的な諦めに感涙した。「リストカッターにしておくのはもったいない。良いシェフになれるよ」「それは順調な苦労だよ」
言葉の持つ力のすごさに感動し続けた。精神障害者は私たちが日常的に感じる苦労でさえ、幸せと感じるかもしれない。そう考えると自分の苦労は幸せの象徴であると思う。
【今の自分は欠点だらけだ。しかしそれを変えることは大変難しい。じゃあ諦めて今の自分を受け入れる。今の自分も最底辺ってほど悪くないしなぁ。そう思うと気が楽になる。諦めて何が悪い。これから自分にできることから始めよう。そうすると不思議と悩んでる自分もかわいくてしょうがなくなる、好きになる。もうこれ以上落ちることがないなら笑って過ごそう。】そう思える本でした。 -
読後感を一言でいえば、「ほっとした」。そういう本は他に多くない。「言葉は人となった」という聖書の言葉の受肉。
神は小さきものを選ばれる、というのはキリスト教信仰の核心。それは単なる感傷的な慰め(現実逃避)ではなく、「リアル」なもの。このリアリティに気づき、生き始めることが「回心」であるとするならば、べてるの家こそ、「真の回心者」たちによるキリスト教共同体なのかもしれない。 -
誰もが他でもなく、自分だけの人生を生きている。
大きな生きづらさを抱えていても。
そして、それはどんなに近い関係だろうと、自分だけのもので決して侵されてはいけない権利のようなもの。
しかし、ともすると医療はその権利を「治療」という大義のもとに奪ってしまう恐さ。更に、支援する立場の人ですら支配的になってしまっていることはないだろうか。
誰かに関わる、誰かを支援する、誰かを支える、そういうことを生業をしている人はその権利を侵してしまってはいないだろうか、奪ってしまうことにはつながらないだろうか、常に問いただし考え続けていく必要があるのだろうと胸にささった。そのうえでその人のもつ強さをいかに引き出すのか。
人が生きようとする力の強さ、存在としての底知れない力強さを感じた。
本書のように生きづらさを抱える人たちだけでなく、
色んな人を大らかに受け止められる社会の受け皿が求められている。それは、社会的なシステムだけでなく、一人一人が成熟したものの見方が必要だと思う。
2006年 いのちのことば社 -
-
もりどん→hanaさん
-
「べてるの家」の向谷地さんの著書。
弱さを隠さない。病気を克服しようとしない。
そういう意味で、非常識。でも、すごく強い思想。 -
向谷地さんが、精神に病気を抱える人と共に一歩一歩んできたことが様々なエピソードを盛り込みながら書かれた一冊。
治療の難しさと、治療をする中での感動や気付きについて考えさせられる。
実践的で、現実的でありながら、ハートフルでユーモアにあふれている。 -
とかくこの世は生きにくい。
病は治らなければ、今の社会から隔離されてしまう。
すでに町に住む人達に、ほっておける余裕はない。
当事者が、自らの症状を分析し、対処法を当事者同志で検討、実験、報告、再検討を繰り返す試みが、既に二十年近く行われているとは。
社会への参画も、町のルールに順応しようというより、
町へ提案をする形で、寄り添おうとしているようだ。
精神科医療は、機能の欠損が原因でない場合、
アレルギー的な身体反応が大きいのか?
だとすれば、迷信的な恐怖に囚われず、一緒に生きていくことは、可能ではないか。
この本は、漠然とした恐怖から、抜け出すきっかけになりそうだ。
実は、病んでいるのは、町で平然と暮らす事ができる既に反応できないほど致命傷を負っている自身なのではないか、という不安に対しても、そう、病んでいたのだ、と、がっかりできた。
一人ではどうにもならないとなれば、助けが必要なのだ。
声をだし、状況を共有し、試行錯誤を繰り返しながら、対処していけば良いのだ。
べてるの家へ見学にいく機会を作ろうと思う。 -
2006年刊行。べてるの家に関する本を読み始める場合に、最初の一冊として読みやすい。
-
とてもとても向谷地さんのような実践はできないんだけど、「めざすところはやっぱりここだよなぁ」という気持ちになれます。「安心」と「当事者主体」を徹底的に大切にしようとしている姿勢に惹かれます。一般読者も想定しているので、「べてるの家」の全体像をつかみやすいと思います。
-
病気との付き合い方を研究と言う形で考え出し
諦めという姿勢で付き合っていく。
そういう付き合い方ができたら楽なんだろうなと思った。 -
すべてを受け入れる心の広さと、自分を知る事で自分自身を助けてあげる事の大事さと、理解してくれる仲間の大切さが、人が生きていく中でどれだけ必要なものなのかを教えられた1冊です。
-
図書館所蔵【369.28MU】
-
べてる関係は初めて
著者プロフィール
向谷地生良の作品
本棚登録 :
感想 :
