死の自己決定権のゆくえ: 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植

著者 :
  • 大月書店
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レビュー : 7
  • Amazon.co.jp ・本 (229ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784272360697

作品紹介・あらすじ

無駄な延命を拒否する尊厳死とその制度化の問題点を考え、安楽死・自殺幇助・医師による一方的な治療の停止などの合法化によって、死の自己決定権がはく奪され、「いのちの選別」がすすめられている世界各国の驚くべき事実を告発。

感想・レビュー・書評

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  • 2015年6月新着

  • 490

  • どんどん怖くなっていく世界の、どんどん軽くなっていく命の話。
    「医療」の話だけど、医療現場の人たちが勝手にしている話じゃなくて、「社会」の価値観が医療にそうさせている。
    これを読んでいる間と読み終わってからしばらくの間、ずっと頭の中でみゆき姐さんが「おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな」って歌ってた。

    「無益な治療」ってのは、この薬は効かないからやめましょうとか、この処置は苦しいだけだからやめましょう、って話のはずだった。
    それがなぜか、この人に生きてる意味があんの?死んだほうがいいんじゃないの?ていうか無駄なこの人を生かす意味があるの?という話にシフトしてしまう。
    そんなこと口に出しちゃいけないはずだったのに、一度タガがゆるんでしまえば崩れるのはあっという間だ。

    著者は、「こんな治療は受けたくない」→「だからさっさと死のう」という論理の飛躍に疑問を呈す。
    「だからまともな治療を受けさせろ」になるべきなのに、今の世界は「苦痛の生」と「安楽な死」の二択しかないように見える。

    他人の命なら、死んだほうがましだって簡単に言える。
    あんなんで生きていても仕方ないだろうとか、無駄だから死ねとか。
    そういう風に気軽に言える人たちには、自分や自分の大切な人がその「無駄」になる日のことが想像できていない。

    「もし私だったら」を考える人にも、考えるための情報が不足している。
    身近に接したことのない障害者を想像して、きっと辛いだろうきっと恐ろしいだろうきっと苦痛だろうと「思う」。
    思っただけのイメージをもとに、あんな風になるくらいなら死んだほうがいいと「考える」。

    死んでいい命はたいていよく知らない「あいつら」の命で、「おれたち」の命じゃない。
    他人からみれば自分が「あいつら」だってことに気づかずに、自分の首を絞めていく現在の流れは恐ろしい。

  • 「コントロール幻想」が浸透しつつある医療は、大きな問題に直面している。医療者必読。

  • 第3章での筆者と医者たちのディスコミュニケーションが読みどころだと思う。筆者から見たらこうなっていた、ということで、実際の医療関係者たちにはまた別の言い分があるのだとは思うが、とにかくそういうふうに体験されたのだろう。特殊な事情があったり、かなり負担が大きい立場で医療関係者とコミュニケーションしなきゃならない人々も多いのだろうし、そこらへん考慮してもっと納得のいく医療は可能なはずだわよね。

  •  医療現場にいて生命倫理や死生観というものは、現場に突きつけられる「待ったなし」であるが、医学教育においてはほとんどその点には触れられない。もちろん法整備されない領域なので「教育」に向かず、個人個人の倫理観に任されているのが実情なわけだ。
     本書では、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、スイス、アメリカの一部の州で既に法制化が進んでいる「安楽死」「自殺幇助」の現況をまず示し、実際に論争を起こした「問題ケース」を呈示する。

     現在日本でも議論が行われている「尊厳死法」は、現場の医師の免責という意味が強いと筆者も述べているが、「できる限りの治療を全て行う」ことをデフォルトとして、「治療の差し控え」「現在行われている治療の中止」(以上、平穏死または消極的安楽死)、「薬剤などの授与による自殺幇助」「致死薬の投与などによる安楽死」(積極的安楽死)までグラデーションがある。
     最もラディカルなスイスでは、各国からの「自殺ツーリズム」が存在することはまず衝撃である。また、オランダの王子が事故で脳損傷を負った時に、自国では重症脳損傷専門の病院がないため、イギリスに搬送されたという事実は、安楽死が進んだ国の皮肉な現実である。
     そしてこの問題をさらに複雑にしているのが、臓器提供の問題である。ここに資本主義的価値観に染まりきってしまった私達は「命の価値の軽重」という問題を突きつけられる。

     生命倫理の世界でよく持ち出される「パーソン論」。人の人格が認められるためには、生物学上のヒトであるだけでは不十分で、自己意識や理性など一定の知的能力を有している必要がある、という考え方だそうだ。なるほど、出生前診断による「産み分け」論争もこの立場に立てば実に分かりやすい。生まれつきの障がいを持った子は「パーソン」に値しない。だから堕胎するのは問題ではない、という考え方だ。

     ここから先の考え方は、自分の受けた教育や医療者であれば、自分が日常関わる医療環境に大きく左右されるので、あくまで個人的な感情論になるのをご容赦願いたい。
     筆者児玉真美さんは、重症心身障害者の親である。私も何度となく見てきたが、一部の医療者の中に無意識的に根付いている「隠れパーソン論」信者と現場で何度となく戦い、娘さんを守ってきたことは本書の中でも描かれている。筆者も書いているように、療育に関わる医者と急性期病院の医者(いわゆる命を救う、患者を治すことを生業とする)の間のディスコミュニケーションに私も何度となく悩んできた。原因の1つは医師同士の対話の場は、通常患者者紹介の場であり(つまり仕事をお願いする)、忙しい急性期病院の医師の仕事を1つ増やす、ということである。「普段から酒でも飲んで仲良くする」ことができるといいのだが、現実にはみんな忙しいのだ。
     筆者が書いているように、人の命の価値は、その人自身の知的活動と社会還元にあるだけでなく、人との関係性の中に見出されるものである。特に先天的な障がいのある方を愛情を持って育てているご家族を見るにつけ、その子の命は「家族のみんなにとって」大きな価値を持っていると実感する。もちろん障がい児が生まれたことによって家族が離散するなど不幸な転帰となる家族が一定数存在することは否定しない。しかしそれでも「障がい者家族=不幸」「障がい者=無価値」とするステレオタイプの考え方は、無関心と思考停止から来る想像力不足としか言いようがない。国家レベルで経済的に余裕がなくなってきている現実が、このような考え方を「空虚な理想論」と切り捨ててしまわないような世の中であることを望む。

     大野更紗さんなども書いているように、誰もが障がい者になる可能性はある。弱者=敗者となるような競争社会は幸せな社会ではなく、ひっそりとこの世界から退場して行く人間の無念を思う。 

  • 2階書架 : W050/KOD : 3410158702

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著者プロフィール

1956年生まれ、翻訳・著述業。長女に重症心身障害がある(現在25歳)。主な著書 『アシュリー事件 メディカル・コントロールと新・優生思想の時代』(生活書院)、『海のいる風景 重症心身障害のある子どもの親であるということ』(生活書院)。

「2013年 『死の自己決定権のゆくえ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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