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Amazon.co.jp ・本 (208ページ) / ISBN・EAN: 9784272431090
作品紹介・あらすじ
アイヒマンを形容した〈悪の凡庸さ〉。アーレント自身は歯車のように命令に従っただけという理解を否定していたにもかかわらず、多くの人が誤解し続けている。この概念の妥当性や意義をめぐり、アーレント研究者とドイツ史研究者が真摯に論じ合う。
[目次]
序 いま〈悪の凡庸さ〉の何が問題なのか
第?部 〈悪の凡庸さ〉をどう見るか
1 〈悪の凡庸さ〉は無効になったのか――エルサレム<以前>のアイヒマンを検証する
2 〈机上の犯罪者〉という神話――ホロコースト研究におけるアイヒマンの位置づけをめぐって
3 怪物と幽霊の落差――あるいはバクテリアが引き起こす悪について
4 〈悪の凡庸さ〉をめぐる誤解を解く
第?部 〈悪の凡庸さ〉という難問に向き合う――思想研究者と歴史研究者の対話
1 〈悪の凡庸さ〉/アーレントの理解をめぐって
2 アイヒマンの主体性をどう見るか
3 社会に蔓延する〈悪の凡庸さ〉の誤用とどう向き合うか
みんなの感想まとめ
「悪の凡庸さ」という概念を巡る考察は、アーレントの意図やアイヒマンの人物像を再評価する重要な試みです。本書では、思想研究者と歴史研究者が異なる視点からこのテーマにアプローチし、アーレントの言葉がどのよ...
感想・レビュー・書評
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「悪の凡庸さ」というと一般に、平凡な人物が盲目的に上からの指示にしたがい、結果として恐ろしい悪に加担することを指す。官僚などが職務に忠実に物事にあたったがゆえに、戦争犯罪といった、醜怪な悪事の一端を担うことになるわけだ。
元はといえば、ナチス親衛隊員でユダヤ人大量移送に関与したアドルフ・アイヒマンを評して、哲学者ハンナ・アーレントが述べた言葉から来ている(『イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』)。終戦後、南米に逃亡していたアイヒマンは、イスラエル当局に捉えられ、1963年、エルサレムで裁判を受ける。ユダヤ系ドイツ人であるアーレントが裁判の傍聴記として書いたのが前出書である。その中で、アーレントは「悪の凡庸さ(陳腐さ)(Banality of Evil)」という言葉を使っている。
この言葉はかなりのインパクトを持って世間に受け入れられ、スタンレー・ミルグラムの服従試験(いわゆるアイヒマンテスト)やスタンフォード監獄実験といった、「普通の人」が権力を握ったがゆえに悪に傾いていくことを示唆する心理実験なども展開されていく。
だが、実際、アイヒマンとはどういう人物だったのか。そしてアーレントが「悪の凡庸さ」という言葉で表そうとした概念はどういうものだったのか。
それらと、世間一般に抱かれているこの言葉のイメージに、かなりの乖離があるのではないかというのが本書の主眼である。
そもそもアイヒマンは上の命令に唯々諾々としたがうだけの「小役人」であったのか。そのあたりにスポットライトを当てたのが、ベッティーナ・シュタングネトの『エルサレム〈以前〉のアイヒマン』である。南米での逃亡・潜伏時代のアイヒマンは、饒舌で、ナチス時代を後悔するわけでもなく、むしろ自分の現在の境遇に不満すら抱いていた。「命令で」「仕方なく」やったというには主体的でありすぎたアイヒマンの姿が浮かぶ。
実際、専門家の間では、人口に膾炙した「“凡庸”なアイヒマン像」は、実態に即していないというのは既に認められたことであったという。にもかかわらず、世間一般の認識との大きな差はどうして正されぬままなのか。
「悪の凡庸さ」に関する論点を、歴史学者とアーレント研究者(思想研究者)がさまざまな視点から解き、対談も行ったのが本書である。
アーレント研究者の主張からすると、アーレントがいった「凡庸さ」というのは、「よくある(common)こと」を指しているのではなく、またアイヒマンが結果をまったく想像せずに業務を行っていたとアーレントが考えていたわけでもない。彼は相当理知的で、結果についても十分理解をしていた。けれども自分の枠組みの外側から、それを考え直すことをしなかった。ある種、紋切り型の言葉、紋切り型の行動にしたがい、惨事の中でかなり大きな役割を果たしたことを「凡庸」と呼んでいる。
彼女はある意味、この言葉がもたらすインパクトも予想していた。キャッチ-なフレーズが衆目を集めるだろうと考えてはいただろう。
とはいえ、初出となった『エルサレムのアイヒマン』は雑誌連載が元となっており、その言葉の概念についての説明が十分だったとは言えない。むしろ、やや不用意であったと言ってもよいだろう。
そこから誤解が生じ、十分に訂正されることもなく、現在に至っていると言えそうだ。
さほど長い本ではないが、経緯に対する歴史学者の苛立ちや、歴史学者と思想学者のスタンスの違い、あるいは専門家の常識と世間一般に流布する誤った説との乖離など、読みどころはいろいろある。すべてにクリアな結論が出るわけではないが、考える種や気づきも多い。
個人的にはホロコースト関連の話にはずっと関心があり、断続的ではあるが、関連本や映像作品にも触れてきた。その延長線で数年前、アーレントを扱った映画(『ハンナ・アーレント』)、アイヒマンを扱った映画(『スペシャリスト』)やその他の映画・ドキュメンタリーなども見てきた。そうした中で、記録に残るアイヒマンを「知らずに悪事に加担した平凡な小役人」と捉えるのは、徐々に違和感が大きくなった。
この点に整理がついたのは収穫だった(ここまでが長かった・・・)。
この後もホロコーストを追うかどうかは昨今の中東情勢を見ると少々考えるところはある。いずれにしろ、少し別の面から考えていくことになりそうな気もする。 -
アーレントがアイヒマンの裁判を見て感じ取った「凡庸さ」について.
僕は当初から,いわゆる「歯車理論」にはどうにも納得がいっていなかった.
アイヒマンは命令に従っただけの無思考な部品ではない.
そのことを,アーレント自身が誰よりも理解していたはずだと読み取っていたからだ.
そもそもこの「凡庸さ」との正体が知りたくて,田野大輔先生の『ファシズムの教室』に行き着き,改めてアーレントを読み直したのだった.
だから今回の読書は「思考の整理」的要素が強かった.
しかし・・・だ.読み始めてすぐに歴史家と哲学者のあいだで,ここまで解釈が食い違うのか,と.いきなり,読む前より思考がとっ散らかってしまうという事態に笑.
このまま本の中で殴り合いが始まるんじゃないかと,ドキドキ(ワクワク?)してしまった笑
ただ読み進めるうちに,
「これ,結局は同じ地点を見ているんじゃないのか.言葉の使い方と立場が違うだけで」とも感じてしまった.
にもかかわらず,「共通認識はあるが溝は埋まりませんでした」という結論に至るのを見て,「え?そう?」
と思ってしまったあたり,僕はやはり哲学的な人間ではないのだろうね,歴史も苦手だったし.
なんか,空間上に引いた2本の直線みたいだと思った.見様によって,交わっているようにも平行線のようにも見えてしまう2本の直線・・・曲線だったらいいのに笑
でも一生懸命曲線にしようという努力は見えた.
それでも,この読書で一つだけ確信を持てたことがある.
アーレントが感じ取った「凡庸さ」とは,無知でも,平凡さでも,思考停止でもない,「恐ろしく軽薄な態度」だった.
人類史上最悪級の犯罪の中枢にいた人物が,その犯罪を,事務手続きの延長として処理し,出世と自己正当化のための材料として虐殺行為に加担どころか,主導した.善悪ではなく,正義でもなく,ただ「うまく回している」という感覚だけが前面に出てくる.この軽さに対する戦慄が,「悪の凡庸さ」という言葉に凝縮されたのだと思う.
そしてこの軽薄さは,過去の遺物ではない.今の政治と社会の空気の中で,むしろ増殖している.
右派の排外主義について語るとき,支持層の学歴や知能分布の偏りが指摘されることは多い.実際,統計的にも,右派支持層が相対的に低学歴・低知能側に厚く分布する傾向がある,という研究は存在する.それ自体は否定しようのない事実だろう.
だが,そこで話を終わらせてしまうと,本質を取り逃がす.
なぜなら,「知能が低いから排外主義に傾く」という説明は,現象の一部をなぞっているに過ぎず,それ自体が,能力による仕分けという同じ地平に立ってしまうからだ.
実際,トランプ現象を見れば明らかなように,排外主義は「無知な大衆」だけの専売特許ではない.彼を支持したのは,いわゆる低学歴層に限られず,十分な教育を受け,経済的にも恵まれた人々を含んでいた.そこにあったのは知的欠如ではない.複雑で不確実な現実を前にして,「考え続けること」そのものを放棄してしまう耐性の欠如,軽さだった.
僕には,右派の差別は,単なる他者攻撃というより,「優秀さが振るう暴力」から身を守るための歪んだ自己防衛として立ち上がってきたように見える.競争に晒され,評価され,切り捨てられる恐怖のなかで,能力とは別の線――国籍,血縁,文化といった境界を引くことで,自分の居場所を確保しようとする.醜悪で,暴力的で,決して肯定できるものではない.それでもそこには,恐怖という,はっきりした動機が存在している.
問題は,左だ.
能力と知性と財力を手にした側が,それを疑わなくなったとき,能力主義は正しさの顔をした暴力に変わる.
実力にも運にも恵まれた「持てる側」の人間が振るう,力加減のない無慈悲な暴力.
自己責任,合理性,効率という言葉によって,人は容赦なく仕分けられていく.
さらに厄介なのは,この左翼的能力主義が,右派によって「横取り再生産」されていることだ.
もともとの差別的土壌に,「できない方が悪い」「ついて来れないのが問題だ」という論理が上書きされる.その結果,差別,排外主義,短絡思考が,怒りや狂気を必要とせず,「現実的判断」として流通するようになる.
一周回って,ウルトラ右翼が醸成される.
初期にはナチと共産党が共同戦線を張っていたり,この二つを行き来する活動家がいたことからもウルトラ右翼と左翼は対極に位置するものではなく,一歩間違えばどちらへも倒れる可能性のある,かなり親和性の高い思想であることが窺える.
この構造を見ていると,1920年代末,ナチが政権を奪取する直前のドイツが重なって見える.
同じ道を必ず辿るなどとは言わない.
背景はまったく違う.
第一次世界大戦で敗戦したドイツと,共産党はじめ左派はすでに壊滅的だし,80年も戦争をしていない今の日本では,条件が違いすぎる.
だからこそ,怖い.
戦争という非常事態を経ずに,同じ精神構造が,日常の中で再生産されていることが.
当時のドイツも,まだ民主主義だった.
選挙があり,議会があり,多くの人は「この程度なら大丈夫だ」と思っていた.
決定的だったのは,熱狂ではない.
強い言葉への慣れ,雑な判断の積み重ね,
「仕方がない」という免罪符の連打だった.
今の日本でも,同じ軽さが蔓延している.
軍事は「分かりやすく」
強い言葉は「頼もしい」
生活より安全保障が優先されても,誰も声を上げない.
死なないための暴力装置としての軍隊は,今の世界情勢では必要だと僕も思う.
だがそれは,使うためのものではない.ましてや,国民が飢え,生活が壊れている中で,「爆弾切れにならないように」などという理由で増税を正当化するのは,完全に順序を誤っている.
それにもかかわらず,
「わかりやすい」
「ハキハキしている」
「スピード感がある」
「この国を守ってくれている」
と持ち上げる声が溢れる.
……正直に言って,バカじゃないのかと思う.
いや,疑う余地がないほど,言葉が軽く,判断が粗く,想像力が欠落している.
毎日毎日,SNSに溢れる無数のアイヒマンたち.
軽薄で,出世欲ばかりが強く,自分が何を扱っているのか分かっていない政治家.
そして,それを支持し,判断を外注し,「現実的だ」とうなずく無数の人々・・・戦慄以外の何者でもないよ.
悪は,狂気や悪意から始まらない.
「軽さ」から始まる.
だからこそ,「悪の凡庸さ」は,過去を断罪するための概念ではなく,
いまもなお,蔓延り続ける「人の悪」なのだ. -
元ネタ無視で乱用されがちな「悪の凡庸さ」という言葉(概念)をめぐる考察本です。
・アーレントは何故この言葉を選んだのか?
・そもそもアーレントはアイヒマンの人物像を適切に捉えられていたのか?
・歴史上の特殊な大罪を普遍化できるのか?
…などの論点があって、いずれも研究者でも容易に答えが出せていません。
やはり『エルサレムのアイヒマン』を読んで、自分なりの答えを見つけるしかないのでしょうね。
読みやすいのに決して内容は薄くなく、めちゃくちゃ面白かったです。
思想研究と歴史研究でもそれぞれアプローチと考察が違っていて、噛み合わないところも含めて、それも意義のある邂逅だと感じられました。
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思想研究と歴史研究で見解が異なるのは興味深い。アーレント擁護とナチス批判の対立が原因だろうが。尚、大月書店だからか安倍批判に絡めているのが余計かな。
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「悪の凡庸さ」
人口膾炙された意味合いはアーレントが意図したことを正確に理解しているものなのか、そしてアイヒマンに該当する言葉なのかを問い直すという内容
おもしろかったです
アイヒマンは平凡な小役人ではなく、ナチス組織内で昇進欲の強い、能動的に働くタイプの人だったらしい
それゆえ積極的にホロコーストに加担していたという
歴史研究家と思想研究家が、同じ文献や事実関係を対象にしているのに、注視ポイントやこだわるポイントが違うために解釈が違ってくることに驚いたしおもしろかった
内容は難しいけれど読みやすくて良い本でした
私は「悪の凡庸さ」は思考停止ではいけないという自分への戒めの言葉として大好きです -
東2法経図・6F開架:234.074A/Ta89a//K
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面白いし読みやすい。
エルサレムのアイヒマンが難しすぎた自分にとっては良い解説本になった。
後半の対話もバチバチな感じで緊張感があった。主体性と忖度についての議論は特に良い。
何冊か深掘りしたい人へのおすすめが紹介されてたから、読んでみよう。 -
面白かった!
難しそうかな?という予想に反して、夢中になって読了。アイヒマンの行為主体性の話は、組織で働く1人の人間として考えさせられます…。
論文から対談という構成も、難しいところをフォローしてもらえる感じで良かったです。 -
ちょっと間違った読み方かもですが、問いに対して違う専門知がコンテキスト擦り合わせつつ議論深めていく様に興奮しました。面白かった。
凡庸さに対する認識や見解は概ね一致を見つつ、どう評価するかは捉える抽象度や会話の文脈で異なるのかなあと思いつつ、そうなる可能性への視点は常に持ちたいと思いました。 -
「官僚的な組織の中で上からの命令に従っただけの小役人」としてアイヒマンを/悪の凡庸さを捉えることが誤りであること。そこは合意できるが「凡庸さ」の理解は各々で異なる。
他者の立場に立って考えられないこと。彼1人ではない多数の人や国家の集積を意識してのwording。イデオロギーに基づいた意欲的な仕事ぶりで昇進を目指すその姿。責任転嫁が上からも下からも起きる中、責任の所在がなくなってゆくこと。
忖度によって選択した行動に主体性を見るか。など、現代的な問もたくさん投げかけられている。 -
40年近くにわたって個人的に考えていたこと、もやもやしていたことが新しく前に進めた本だった。
前に進んだからといって何か解決したわけではなく、また別の課題がクローズアップされたのだが。
それでもとてもわたしにとって意味のある本となった。 -
2025年4月12日、グラビティの読書の星で紹介してる男性がいた。→ブクログに書いてある説明を読んでさっぱりどういう本だか分からなかったけど、とにかくレビューが良くて、面白いという声が多いので難しそうだけど、読書のレベルアップしたら読みたい。
「田野大輔・小野寺拓也『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』
ホロコーストという人類史における異様な到達点を、〈悪の凡庸さ〉として理解した気になっていないか。浅薄さとは程遠い画期的な「悪」をドイツ史学者は指摘し、哲学が応答する。20世紀は「悪」への考察ぬきにしては理解できないことを教えてくれる。
カンボジアからルワンダ、ユーゴからウクライナに〈悪の凡庸さ〉を濫用することによって引き出されるのは、冷笑的態度にすぎないのではないか。いたるところに悪を見出すのであれば、どうやって本当の悪、すなわち〈比類なき悪〉を見抜くことができよう。」 -
同じテーマ、しかも限られたテーマについて、歴史研究者と思想研究者では考え方、視点の捉え方が違うという事が分かった。同意できる部分と、一線を引く部分、そこを巡る攻防がスリリングだった。
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著者プロフィール
香月恵里の作品
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