学童集団疎開史: 子どもたちの戦闘配置

著者 :
  • 大月書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784272520541

作品紹介・あらすじ

からだにしみついているような疎開の体験。なぜ、あのとき子どもたちに強制されたのか。初めて全体像を描く記念碑的労作。

感想・レビュー・書評

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  •  『戦争論』なんて本が売れる今日、平和教育はいったいどうなっているのかな。原爆の落ちた日や空襲のあった日にそこそこの平和教育をアリバイ程度にしたところでその中身はもしかして形骸化しているんじゃないかな。今までやってきた平和教育って四〇年以上同じやり方を踏襲してきたんじゃないかな、って誰かが言ってたけど、そうかもしれなって気がする。そうかどうかはそれぞれ考えることとして、あたしたちみたいなもう完璧に戦争を知らない(ベトナム戦争までも)世代が教壇に立っているんだから、語り継ぐ戦争体験なんていうのももう無理があるんだよね。
     それにとおりいっぺんのアジア侵略と原爆と空襲の三題噺ではきっと戦争というものが子どもたち自身の問題にならないような気がする。だから旧ユーゴスラビアの内戦もルワンダの虐殺も実感がともなわないんだな。戦争ってのは自分自身の問題になった上ではじめてアジア侵略の歴史的犯罪性も原爆や空襲の示す意味もわかってくるのだと思う。
     この本は『学童集団疎開』というこれまで疎開世代という人たちが胸の中にしまってきた問題を歴史的な問題として掘り起こしたものなんだ。緻密な史料の分析をしているのにものすごく読みやすくてついつい読み進んでしまう。
     この本の示していることは疎開が単なる緊急避難ではなくてもともと戦略としてあったこと、それはなんと「学童ノ戦闘配置」という位置づけであったことが明らかにされる。そして子どもたちは食糧不足と伝染病や性病などによって疎開の中で健康を冒され、教育の名のもとに暴力や虐待を受けていったのである。まさに子どもたちは戦争をしていのだという事実が次々と展開されていくのだ。
     そうやって伝染病が蔓延し、食料は慢性的に不足し、引率教師が過労でぶっ倒れているときになんと政府は学童集団疎開に尽力したからという理由で奥野誠亮事務官をはじめとする高級官僚にバンバン特別手当を出していたんだって。そう、奥野誠亮って従軍慰安婦を「商行為だった」と言ったあの奥野誠亮元法相ですよ。子どもの飢えと引き替えにボーナスをもらってたくらいだからああいうことを言うのもあたりまえか。


    ★★★★  子どもは戦争の巻き沿いをくったんじゃなくって、戦争に行かされたんだ。史実を知らんと何もでけんよ。



    posted by ウィンズ at 14:52| 福岡 | Comment(0) | 教育史及び教育学 | |
    『人間形成の基礎と展開』 新谷恭明・土戸敏彦編  コレール社
     コレール社という出版社が教職専門叢書全10巻(田原迫龍麿・仙波克也企画・監修)を刊行したが、その第1巻がこれ。教職課程の教育原理で使うテキストとして編集されたものなんだけど、これがめっぽうおもしろい。「はじめに」には学級崩壊やらおとなにはわからなくなった青少年文化にふれ、関心が河上センセとそう変わらないところにあるんだけど「教師が悪いとか、親がだらしないとか、はたまたマスコミの悪影響だとかいう犯人探しをしてもらちはあかない」と問題に取り組む姿勢が河上センセとは違うんだな。
     全部で12章、12人の執筆者が書いている。教育原理といえば役に立たない学者先生の屁理屈ばかりだと思いきや、現職教員も何人か名を連ねているし、編者が九大の人なのでけっこう福岡ネタも入っている(識字学級だとか、一人一人を大切にする福岡の教師の実践だとか)。また、最後を締める「教師の役割とは」という章は教育学者ではなく心理学者が書いているのもおもしろい。たしか編者は心理学嫌いだったと思ったんだけど……。
     その12章に「教育」という文字が章のタイトルにまったく入っていないのも特徴的だ。教育原理にありがちな「教育とは何か?」というところから始めるのではなく「人間とは何か?」から書きはじめているのが象徴的で、「子どもと大人」、「女と男」、「家庭」、「学校幻想」、「学校化」、「消費社会」、「コンピューター」、「異文化」といった今までの教育原理はなかった刺激的なテーマが並んでいる。人権問題の章がないじゃないか、という声もあるだろうけど編者曰く「人間観は多様であるとは言っても人間形成について考えるときに1つだけ共通認識をしておかなくてはならないことがある。それは1人ひとりの人間はそれぞれに絶対的な価値がある、ということである。」としてこのことからすべての議論をはじめなければならない。だから特に人権に関する章は設けなかったということだ。全部が人権にかかわることなんだって。
     もっともそれぞれ章ごとに重なる問題もある。そうした執筆者ごとに違っている見解を統一せずにそれぞれ関連する章を指示して執筆者どうし、それに読者を含めて仮想論争するようにしかけられている。採用試験に通るためのテキストではなく、子どもと出会う人間が問題意識を鍛え、論争のスキルをブラッシュアップしていけるような参加型テキストなのだ。「教科書を教える」から「教科書で教える」へ、そして「教科書で学ぶ」というのをまず教員養成の段階で実践しようということなのだろう。これから教員になる人ばかりでなく(なりにくくなってるしぃ~)、いま教員がよむのもいいだろう。

    ★★★★えっ?あの某先生も書いているんだって!




    posted by ウィンズ at 14:50| 福岡 | Comment(0) | 教育史及び教育学 | |
    『学校経営の改革戦略』中留武昭 玉川大学出版部―日米の比較経営文化論― 7000円
     授業改革はルアン先生や宮沢賢治先生に聞いたらいいけど、学校改革はどうしたらいいのだろう。そんな悩みにぴったりの本がこれ。本書のキーワードは学校文化の経営である。本書では「学校文化の醸成とは積極的で、健康的な認識枠から、意味ある行動様式を生み出すことであり、消極的な認識枠を積極的な枠組みに変えながら、新しい行動様式を生み出すことにある」と言う。少し注釈をつければ、「積極的で、健康的な認識枠」というのは学校経営の目指す学校文化であり、「消極的な認識枠」とは著者によれば「不信感、人権感覚の欠如、上下服従関係」などを指す。つまり、人権感覚の欠落した文化から人権感覚に満ち溢れた学校文化へと書き換えることが大切だということなのだ。著者はこれを「学校文化の経営」と定義している(184頁)。
     そうそう、「人権教育のための国連10年」で「人権文化」がどうのこうのと言われていたけど、その人権文化を学校改革の柱にしていくにはこのようなきちんとした戦略に立った学校経営の構想が必要なのだ。著者は日本の学校経営学の第一人者なのだから、その最先端の理論を活用させて頂かない手はない。本書ではそうした学校文化経営のためのいろいろな事例と理論を日米の比較の中でどんどん紹介している。たとえばアメリカで試みられているSBM(school-based management自律性の高い)学校の取り組みなんかは校区事業として絶対にやってみたいシステムだ(第四章)。さらにカリキュラム経営(第七、八章)、校内研修(第九章)、学級経営(第十章)、養護教諭やスクールカウンセラーのこと(第十四章)、学校経営のリーダーシップ(第十六、十七章)、家庭・地域との連携(第二十章)など内容も実に盛りだくさんである。
     学校経営というと校長の仕事だ、と突き放してしまうことはない。第十八章では日米の学校管理職養成について言及し、アメリカでは管理職養成に大学院教育が活用されていることを示した上で、日本ではたとえば「九州大学大学院人間環境学研究科では、夜間の『学校改善コース』を設置して、幅広い学問の基礎をもった学校指導者(必ずしも管理職ではない)をめざしたカリキュラムを編成し、平成八年度から原職者を受け入れている」というように管理職に限らない新しいリーダーシップの養成も著者自身の実践を踏まえて提起している。学校改革をめざそうという人はその立場の如何にかかわらず目を通してみてはどうだろうか。問題は少々値段が高いということかな。高くて買うのに躊躇したなら大学院に入ってみようか。お~っと、そのほうが高いってか。


    学校経営は管理職に任せて置けない。 ★★★★





    posted by ウィンズ at 14:49| 福岡 | Comment(0) | 教育史及び教育学 | |
    竹中暉雄『エーデルヴァイス海賊団―ナチズム下の反抗少年グループ』勁草書房 2,800円
      少年向けの冒険小説に出てくるみたいな名前だろう。しかもこの海賊団のメンバーは十四歳から十八歳の少年少女たちだったと聞けばますます冒険小説的なロマンを感じて妙にわくわくするではないか。しかし、これは虚構ではなく、おそらくは教育関係者ならば知っておいたほうがいい「史実」なのである。
     このエーデルヴァイス海賊団はナチ支配下のドイツでナチが組織したあのナチ青少年団、ヒットラー・ユーゲント(HJ)を震えあがらせ、泣く子も黙るといわれたゲシュタポ(秘密国家警察)を散々てこずらせた少年たちであったというからいったいどんな連中だったか興味がわくではないか。
     まずは彼らのファッション。色つきの旅行シャツ、革の半ズボン、白い折り返しソックス、ネッカチーフ、そして目印になるエーデルヴァイスの徽章を襟につけていたとされる。そのシャツもスコッチ風タータンチェックなんかが好まれたという。髪は長髪であった。ちょっとおしゃれでかなり目立つファッションであることはまちがいない。そんな格好で彼らはギターを携えてワンダーフォーゲル旅行(その頃は禁止されていた)を敢行し、集まっては独特の歌を歌っていた。そしてヒットラー・ユーゲントの指導者やパトロール隊を見つけては襲撃しボコボコにたたきのめしていたのである。何故に彼らはHJと敵対したかというと、彼らの余暇の時間にまで干渉してくるHJの存在が許せなかったという実にわかりやすい理由に基づいている。
     ゲシュタポが彼らを捕まえようとしてもなかなか難しかった。彼らは特定の指導者を持つ組織ではないからだ。ただ同じようなファッションをしている少年少女というだけにすぎなかったからである。その目印のエーデルヴァイスの徽章は旅先の土産物店で誰もが手に入れられるものであったから取り締まりのしようがなかったというのだ。そして仲間のことはぜったいにチクらない。何とも痛快な連中ではないか。
     重要なことは彼らは政治的にナチにしたのではない。ヤナ奴だからナチにしたのである。その意味で彼らは社会的には「不良少年」でしかかないのかもしれない。しかし、それは適当な理屈をつけてナチに協力していった(日本で言えば軍部に協力していった)おとなたちややがてはそうなっていったおりこうさんたちよりははるかに人間らしかったのではないだろうか。
     で、ヤナ教師やウルセエ親やワケノワカランおとなにしている君!ひょっとしたら君らのはすごく正しいのかもしれないな。

    ◎もできないヤツにやができるかってんだ。悪ガキってのは実は時代を救うヒーローなんだな。
        ★★★★




    posted by ウィンズ at 14:47| 福岡 | Comment(0) | 日記 | |
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北海道大学教育学部教授


「1991年 『師範学校制度史研究』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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