大衆の侮蔑 現代社会における文化闘争についての試論

  • 御茶の水書房 (2001年9月1日発売)
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  • 本 ・本 (160ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784275018670

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  • 「主体的に」とか「主体性を持って」とか、はよく使われるセリフで、ふだん何気なく聞いているときには、比較的よい状態を示す言葉として我々は「主体」という言葉を意識しているのではないだろうか。ところが、これが曲者で、たとえば英語のsubject(名詞:主体=臣下/形容詞:~に服従する、従属する)、フランス語のsujetの語源であるラテン語subjectumは下に(sub)投げ出されてあること(jectum)を意味する。

    スローターダイクは、ホッブスの、人間を動かしているのは崇高な精神などでなく恐怖を避けたいという自己保存の原理であるという認識が、貴族も平民もない人間の「同一化」を導き出し、スピノザが、大衆(平民)の想像力の中に理性の代替物を認めたことが今日に至る大衆の持つ政治的意味を発見したのだと指摘する。

    近代以前にあっては、大衆と呼ばれる存在は語義通りただただ従属する実体であった。その大衆が主(あるじ)たる者の形而上学的特権であった意志、知識、魂を持つようになったとき、確かに僕(しもべ)は新たな主の地位を得た。しかし、優れた資質によって得たのでなく、物質的な同質性を基盤に得た地位であるから、上下の「差異」を消去しようという指向性を持つようになる。ニーチェの言う高貴なものを憎悪するルサンチマンの心理が大衆社会には必然的に生じるのである。

    上下の垂直的な「差異」を厭う心理は、必然的に水平的な自他の差異にも及ぶ。ハイデッガーは「他者による目立たない支配の下に生きている」「ヒト=das Man」としての私について言及している。「ヒト」として生きる私は本来的な自己に対して平民的な他者が優位に立っているために、「存在の貴族」として生きることはできなくなっている。大衆とは自分より高いものを侮蔑しつつ本来的な自己によって侮蔑されながら生きる両義的な存在であるといえるだろう。

    かつてのような群衆化した大衆ではなく、マスメディアの発達により、「素粒子」化した存在と化しているだけで現代社会がスローターダイクの言う大衆化社会であるのは、だれにせよ認めざるを得まい。「侮蔑=非関心」が社会に蔓延していることが、現代の政治や文化の状況を決定していると言ってもよい。ではどうすればよいというのだろうか。自己自身の内なる大衆に反抗し、価値ある芸術に対する「賞賛」を実践せよというのが著者の結論である。

    98年に出た『シニカル理性批判』を読んで以来、この著者の皮肉屋気質に好感を抱いていた。ニーチェやハイデッガーを引っぱり出すのも、反時代的な逆説的表現だと思って読んでいたのだ。そのスローターダイクともあろう人が出した結論のあまりのナイーブさに意表をつかれた。言ってることは分からないでもないが、このような説教をする知識階層に向けた大衆の「侮蔑」について語ってきたはずではなかったのか、と最後に一言訊ねたくなった。

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