- 本 ・本 (332ページ)
- / ISBN・EAN: 9784305707833
作品紹介・あらすじ
紫式部の超絶技法を知る。
紫上は本当に二条院で生を終えたのか。日本語による物語の本質を押さえた丁寧な検証から、六条院という死に場所を、第三部の書き手は読み誤っていることを明らかにし、つまりは光源氏死後の続編が紫式部作でないことを実証する。
五言律詩という漢詩の論理や、5―7―5―7―7の和歌の数理を駆使して、当時の宮廷社会の問題を批判し、主題をテキストのなかに埋め込んだ、紫式部の斬新な手法を発掘していく。
【 この本が扱う文芸評論も、社会科学の一分野ですから、実証性を基に議論を進めなければなりませんが、誤解されている日本語の本質が絡んでいますので、かなり難しく回りくどい手続きを踏まなければなりません。……次のような手順で議論を進めます。
一 『源氏物語』のいわゆる第三部、第四十二巻「匂兵部卿」以下「夢浮橋」までの十三巻は、第一部と第二部の作者紫式部が書いたものではないことを、テクスト内部から証明すること。
二 第三部を切り離すことによって、今までの「幻」巻までの四十一巻(本書では四十巻)の切り口―第一部と第二部―が、間違った区切り方であったことを明らかにし、新たに見えてくる五言律詩の論理が、『源氏物語』に構造化されていることを踏まえて、その主題―作者がこの物語で訴えたかったこと、〈夫源氏の不実に対する妻紫上の絶望と次世代へ託す夢〉―を論証すること。
三 主題が説得力をもつために、作者紫式部が企んだ文学的な方法とその芸術性を解明すること。】……はじめにより
【推薦文】
過去に拘泥してきた読みの方法を一蹴
伊井春樹(阪急文化財団理事・館長、大阪大学名誉教授)
『源氏物語』が書かれてすでに千年余、数知れない人々が物語の世界にアプローチし、さまざまな読みを通して内容の理解に務め、感動を覚えもしてきた。成立した当初の流布状況は明らかではないとはいえ、光源氏や紫上の生き方に共感するとか反発する者とていたはずである。それに当初から現在の五十四帖であったのかどうか、本文を含めて作品としての難点をかかえながら、長い伝統のもとに読みのスタイルが形成され、魅了された読者たちはその仕組みに囲い込まれてもきたのが実情であろう。
このたびの熊倉千之氏の著作は、時間を超えて作者が物語に込めたメッセージを読み解こうとする、斬新な分析と視点を持つ。アメリカで長く大学教育に携わってきただけに、西洋文学の理論を根底にし、古代日本語の特性を示し、中国漢詩の構造からの発想も援用しながら、とかく曖昧なままの解釈で納得し、過去に拘泥してきた読みの方法を一蹴する。ありきたりと思われた文脈から、読み一つの違いによって、新たな世界が展開し、それが巻々の成立から主人公の姿、紫上が残そうとした思い、さらには作品の構造論にまで及んでくる。このように、独自の立場から新しい読みを提唱する。自説を諄々(じゅんじゅん)と説く姿には、ひたむきに作品に向かう研究者のありようを見る思いが…
感想・レビュー・書評
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この方の構造分析は、いつも分析としては面白い。けれども、自分の都合のよい方向にもっていきたいと思うあまりにか、解釈が恣意的になっているきらいも時々あると感じます。
今回は源氏物語だけど、この方あまり平安時代の歴史的文化的背景にお詳しくないなと、専門家ではない私にもわかりますので……あまり積極的な評価はできないです。
☆まあこれは解釈ですが、私自身は紫式部は光源氏(ひいてはその当時の社会システム)が「若紫あるいはその他の女性たちを不幸にしている」と指摘するために書いたと考えています。この点は筆者(熊倉氏)と同意見です。
しかし、あまりにも現代の基準で光源氏およびその行動を断罪しても、それもまた意味はないような気がします。平安時代はそれはひんしゅくは買っていたかもしれないが「罪」ではなかったはずなので。
☆宇治十帖が紫式部の作品ではないことについて。
この件に関しても、国文学界隈ではいろいろ議論があることは聞いております。瀬戸内寂聴氏は出家のときの断髪の儀式にリアリティがあるから、宇治十帖は紫式部の直筆であろうと言われてた気がします。
詳しい議論は専門家にお任せしたいと思います。が、私個人としては宇治十帖あまり面白くない。できれば熊倉氏のおっしゃるとおり、次世代の展開はもっと前向きならよかったなと思います。が、それも現代人の考え方を平安時代の人にあてはめようとしてる、意味のないことかもしれません。
☆「六条院を女性たちの未来の砦として」紫の上が願っている
という話なんですけれど。
散文的な話をすれば、光源氏が亡くなったら、六条院の所有者は当時の財産分与の考え方からすれば、「匂宮」に移ると考えられます。
(小説のことですから、夕霧でも薫の君でもいいんですけど。)どちらにしてもいま六条院にいる光源氏関係者は、出家するかどこかの女房として出仕するなどしてちりぢりばらばらになり、あとは匂宮関係者の女性たちがそこに住まうようになるのではないでしょうか。
よほど誰かが遺言を残したり、領地を寄付したりなどしなければ、収入のない女性たちが六条院を自分たちだけの砦として占拠することは難しいのではないでしょうか。
☆今「一条摂政御集」を読んでいるのですが。「蜻蛉日記」でもいいんですが。
伊尹にしても兼家にしても、光源氏を地でいくプレイボーイなのです。伊尹なんかは女性を一人も残さない勢いで京都の街をたわぶれあるきます。
しかし伊尹さんがあまり人の恨みをかわなかったというのは、彼が女性たちを自分の屋敷に引き取らなかったからではないかと思うのです(早世したからかもしれませんが)。
兼家は道綱母さんを自宅ちかくに引き取りますが、時姫の従者たちとのいさかいが起こって、道綱母さんは転居を余儀なくされます。まあ現実ってこんなもので、なまじ一つの屋敷に女性をたくさんかこうと、憎しみの「るつぼ」になるだけなんじゃないかな、と思わなくもありません。
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