神殿か獄舎か (SD選書 247)

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  • 鹿島出版会
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  • Amazon.co.jp ・本 (273ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784306052475

感想・レビュー・書評

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  • (01)
    第1章と第2章は,大正期とその前後の期間の建築を広くレビューし,大正を特色づけ他から分離している表現を記述しているが,第3章の獄舎と神殿との対比と類比の記述には,大杉栄やサン・テグジュペリを引いた文学的な飛躍があり,その飛躍なしには,神殿性を発露しているモダニズムへの批判には至らなかっただろうと思う.
    大正期に雌伏していた佐野利器らの耐震の建築と都市,昭和に移入されたル・コルビュジエのいきすぎた古典主義,戦中戦後の丹下健三(*02)らのコアで宙吊りされた建築などを批判し,著者により発見された後藤慶二の監獄を手がかりに,紀元前の神殿と監獄との間にみられる密通から,応仁期の平安京に営まれた「都市」性,震災後のバラック装飾社などの活動に光をあて,建築と都市の裏面でもある監獄の極意を表(*03)にもってきて(背転させて)論じている.

    (02)
    終盤では,建築家の職能や職分も批判の対象としている.そこにある神官のような鼻もちならない態度を諌め,権力と資本から不自由であることに自覚的なアーキテクト像を描き出している.
    ものづくりには,幾分かの楽天性が必要であるが,そのものたちが公共性に差し出されてあることの危うさについては,本書でも指摘されているように,面白がるサーベイや批判的な史学によって,たびたび告発していく必要があるのかもしれない.

    (03)
    広場の問題にも要所で言及さ2れている.それは丹下の「お祭り広場」など現代日本の広場の否定と,ひとの終着点であり人間の出発点になりうる監獄内施設としての広場の肯定であった.緑地も含め,都市のオープンスペースを21世紀の今,もう一度,裏読みしてみる必要はあるのかもしれない.
    桂離宮についても,その離宮の獄舎としての意味についても触れているが,本書の示唆するところは重要と考える.

  • 明治~大正~昭和
    時代の流れと建築の変遷、建築家の関係性を知ることができる。
    近代建築=政治的な建築(権威の象徴=帝冠"様式")
    という漠然とした考えがいかに浅はかな知識であったかを教えられた。
    「神殿か獄舎か」の章にはいると、前章までの歴史的背景、思想を踏まえた中での著者の主張がつづく。その迫力はすさまじく、当時の建築界(昭和)を震撼させた意味が理解できる。
    最終的には、神殿建築家への批判、国家(権力)のなかの建築と対するものへの賛美(オスなるものとメスなるものの対比による)で終わる。
    昭和から大正を見る視線が平成から遠くて見えない真実を教えてくれ、かつ、昭和から平成時代の建築を考えさせる。
    今尚オスとメスとの関係性は歴然とし、長谷川氏の指摘する獄舎としての建築は失われているように思う。村野藤吾亡き今、無機質な建築の時代に、この本は読み返されるときなのだと思う。

  • 専門的すぎて挫折…
    いつかまた戻ってきたい。

  • 読む前から理解っていたことだけれど、長谷川尭が抽出した大正建築は僕ととても親和性が高い。論に沿えばマス化した分離派ではなく、一つ年長の後藤慶二に、ということになる。抜群に面白い。ちょっと、これはなかなか要約できそうもないな。オス的で明るく、神殿を目指す明治・昭和に挟まれた、メス的で暗い大正建築。そこは、個人の表現が体制の意向よりも優先された、若者の初期衝動の時代である。いずれ読み直して、まとめます。

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