「異水」の作者永山則夫がこの守口に来たのは1966年の1月である。16歳の彼は義兄の家を抜け出して、ヒッチハイクで人阪までやってきたのだ。
知り合いもない大阪であったが、偶然知り合った人の世話で、守口の米屋で働くことになる。
作品中でこう書いている。「ビルを見た。一階の上の方に金属文字が見える。「南野来穀店」とある。Nは、主人の姓名を看板の文字で初めて知った。五階建てビルのこ階までは自宅に使い、四、五階がアパートであった。建って間もない新しいビルである。
店から駅が見えた。反対側を見ると、駅前商店街が見える。店を中軸に通りは力ーブになっていた。右隣りは空地でトタン板の塀が立ち並んでいる。右隣りは日本料理の店だ。前にはパーマ屋と菓干店が見えた。』
僕は小説に書いてある米穀店はどこかと探したが、この変貌ぶりでは本に書いてある描写からは捜しようがない。
さて、作者の永山則夫は、「連続射殺魔108号事件」の犯人として有名である。
第一の犯行は1968年10月、東京・芝のプリンスホテルのガードマンが一発の弾丸を打ち込まれて死亡。その三日後京都・八坂神社で一人殺害。第三の犯行は北海道のタクシー運転手を殺害。11月に人って名古屋のタクシー運転手を殺害、四つの犯行に共通しているのは、22口径の弾丸で至近距離から頭だけを撃っている事。一体、何のための殺人かわからない事。犯行が広域であることなどから、世間を不安におちいらせた。犯人の永山が掴まったのは、1969年4月であった、
「異水」は、主人公のNが大阪に来てから米穀店を辞めるまでを描いた自伝的要素の濃い作品である。
永山は1949年、八人兄弟の七番目の子として生まれた。父はリンゴの剪定職人たったが、博打と酒で身をもちくずし、蒸発しやがて行き倒れて死ぬ。
出生地は、北海道網走市呼人番外地。健さんの映画で有名になった刊務所がある番地だけに、永山は出生地を隠そうとしていた。
しかし、就職するために戸籍謄本が必要になる。『手紙と一緒に、「戸籍謄本」が入っていた。一枚の青い写し紙であった。「北海道網走呼人」まではごく自然の感情で読めた。その直後に、「番外地」とあった。Nの頭の中が空白になった、「北海道網走市呼人番外地生」この地名がNの出生地であった。愕然とした。ーーーー俺は、刑務所で生まれたのか!
Nは、これでは大将に出せないと思った。番地に数字を付けて欲しかった。』 結果的にこの件で、米屋を辞めざるをえなくなるのだが……。
連続射殺魔として、逃げ回っていたとき、「せめて20歳まで生きたい」と国語辞書に書いた彼も40歳になり、死刑者として拘置所にいる。 (続く)
父は蒸発、七人の子育てた母……俺は貧乏が憎い!貧乏が原因だ!
人が忙しげに行き交う「守口市駅」三和銀行前。自転車が重なり置かれた歩道橋のたもとに、郵便ポストが潅木に隠れるようにしてあった。
作者・永山則夫が、青森の母や名古屋の妹、栃木の兄にと手紙を投函したポストだ。
母親への手紙は、戸籍謄本の「北海道網走市呼人番外地」に番地を付けてくれるよう、役所に頼むように執拗に書いたものだった。
事件をもとに『裸の19歳』らの映画も
歴史に。もしという仮定をもちこむのは意味のないことかもしれないが、高倉健の網走番外地がヒットしていなければ、永山も番外地にこだわることもなかっただろう。だとすれば、米屋の店員として、この大阪に落ち着いていたかもしれない。
映画といえば、この事件をもとにして、新藤兼人監督の「裸の19歳」、足立正生監督の「略称連続射殺魔」が製作され、それぞれ話題を呼んだ。
新藤監督の映画「裸の19歳」は、彼のおいたちをかなり正確に描いていた。
父が蒸発し、残された七人の子どもを、母は細腕ひとつで育てた。魚の行商のため何日も家を空けるときもあった。家に置き去りにされた子どもたちは、死の一歩手前まで追い込まれたこともあった。
そうしなければ、食べていけなかったぎりぎりの選択を母はしたのだろうが、置き去りにされた方は、恨みが残った。
永山はこう書いている。
「中学}年の冬に、一緒に暮らした記憶のない親父が野垂れ死にした。丁度母は駅の助役と浮気していた。寺での葬式で、次兄の忠雄が「網走に置いて行かれたこと覚えているか」とNに訊いた。Nは知らないので頭を横に振った。その頃から、母たちが子どもたちに相当ひどいことをしたらしいと考えるようになった。だが、Nには鮮明ではなかった。それ以後、Nは母を前にも増して嫌いになり、反抗する生活を送ったものだった」
社会派監督の新藤監督は、彼の犯行が生活環境の劣悪によるものだと描いているように見えた。
東京地裁の公判で、今までずっと無言だった永山が、突然裁判長に向かって叫ぶ。
「東拘(東京拘置所)で勉強してからわかった。俺のような男がここにいるのは、貧乏のため、何もかも貧乏だから起きたのだ。俺はそれが憎い。僧いからやったんだ!」
彼の□から初めて殺人の動機が語られたのだ。何人もの人を殺害したのに理由はなかった。ただ、金が必要だからやったのだ。「貧乏のため、何もかも貧乏だから起きたのだ」と永山は東陶のなかで勉強して思った。
永山の入会拒否した日本ペンクラブ
彼は拘置所内で猛烈に読書していたのだ。その成果が彼の発言となり、裁判長や検事への怒りに転嫁していったのだ。
彼の勉強の成果は、「無知の涙」として出版された。殺害の原因が貧乏だという主張は、多くの人の共感を呼び、支援の輪が広がった。
「異水』を出版して、永山は日本ペンクラブに入会を希望する。が、ペンクラブは殺人者という理由で入会を拒否する。思想の自由、表現の自由が文学者にとって最も大事なはずなのに拒否とはおかしい、と私は思う。この件は永山が入会を辞退して収まったが、ペンクラブの思想性を疑いたくなるごたごただった。
永山は中学を卒業してからの出来事を私小説として書きつづけていた。 生きていたら、東京での生活、そして殺害にいたる経過が、小説で読めるはずだった。彼の死刑が執行されなければの話しだが…。