- Amazon.co.jp ・本 (269ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309020051
作品紹介・あらすじ
人は、人のどこに恋をするんだろう?消えた恋人・麦を忘れられない朝子。ある日、麦に顔がそっくりな人が現れて、彼女は恋に落ちるが…朝子22歳から31歳までの"10年の恋"を描く各紙誌絶賛の話題作。
感想・レビュー・書評
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風景の描写が詳細に書かれていて、容易に想像することができる文体が本作品の魅力の一つだと思う。
恋愛小説ではあるが、純文学的な雰囲気が濃く、序盤は大きな出来事もなく、淡々とその時起きた出来事が綴られているので退屈だと感じる部分もあった。
最後の30ページの展開には読んでいて気持ちが追いつかない部分もあった。最後のストーリーまでの出来事は、最後の部分でクライマックスを迎えるための前菜のようだと感じた。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ロングタームの ある意味素直なちょっと切なくなる一途な恋愛小説ですね。テンポは割合にアップテンポでサラリとした仕上がりの恋愛小説になっています♪ この作家さんの本は前にも読んだと思うけど こんな感じだったかなぁ?と思いつつ読了。
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読みづらい…。風景や周囲の出来事の描写が多く、感情の起伏が感じられず、淡々と同じような調子で進んでいく。途中で読むのを断念。
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柴崎の現時点での最新刊にして到達点といえる傑作だが、「しかしこれはいったいどうなってるんだろう?」とも思う。
柴崎は以前から写真のモチーフなど「見る」ことに偏執する作家で、近年は夢や幽霊のモチーフがせりだしてきていた。近作『ドリーマーズ』は、デヴィッド・リンチや黒沢清のような作品で、デビュー作はジャームッシュ(保坂和志の文庫版解説)と言われていたように映画的であるのは変わらないとしても、見ることの無気味さが主題化してきていた。
今作も高速度カメラのように雲の動きを捉える視覚的な語りから始まるのだけど、夢や幽霊をモチーフにしていた時代の稀薄な主体から、それを踏まえつつ、再びまた恋愛や認識する主体のテーマに折り返してきたところがポイントだろう。
そのことでさらに深く鋭さを増した小説を書くことに成功していると思うし、そのこと自体は少し安堵しているのだけど、「どうなってるんだろう?」と思うのは、「見ること」に偏執する語り手の女性の他者認識がどうなっているのかということがまずは一つある。これは語り手がテレビで見た際にしていたという荒俣宏の双子についての発言がヒントになっているけれど、読んだ人も腑に落ちて理解できた人は少ないと思う。もしかしたらかなり怖いことを書いている気もするのだが。
これと重なっていることでもう一つの疑問は、語り手の女性の主体としてのありようなのだけど、これもなかなか理解されないだろうと思う。しかも語りは省略が多く、自分に都合が悪いことのみならず、自分に都合がいいことも語り手の美意識や自意識から省略してたりするから、注意深く読む必要がある。
語り手の女性の22才から31才までの時間が語られるのだけど、かつて松浦理英子が『親指P』を刊行したとき、小倉千加子に「松浦理英子は年を取らない」と批判した。小倉はネオテニーを引っ張り出して、松浦は反論したのだけど、今振り返ると小倉は先見の明があったと思う。今は現代日本において成熟は不可能であり、ネオテニー/未成熟であることは前提になっているけれど、松浦小倉論争は90年代前半に行われたものなので。
『寝ても覚めても』の主人公も十年の間に成熟しているのかどうかと言うと、成熟していないとも言えるし、最初から成熟しているとも言える。
そのことを認めつつ、では恋愛にかかわる「あれ」をどう捉えるかはやはりよくわからない。底がなくおそろしいと感じるけれど、たしかに真実を突いているとも思うし、ここではたしかに「わたしたち」のことが語られているのだとも思う。そういう意味でも衝撃を受ける小説だ。 -
子供の頃、天井の木目をじっと眺めていると、それがだんだんまったく別なものに見えてくる瞬間があって、一時期、僕はその天井を凝視し続ける遊びに熱中していた。
日頃見慣れた天井が「天井」ではなくなっていって、ものそれ自体として迫ってきて、そこだけが浮かび上がってくるような感覚。
それが、面白く、また時々とても恐ろしかった。
柴崎友香の「寝ても覚めても」の語り手も、おそらくそれに取り付かれている。
意味から切り離されたものごとの異様さに。
「上を見るとアーケードの半透明の屋根を、黒い四つの点が移動していた。猫の足だった。あれ、とわたしが指差したときには、もういなくなっていた。頭上を猫が横切ったことを知っているのは、大勢の中でわたしだけだった。もうすぐ日が暮れるから、そうしたらまたあの猫が歩いても誰にも見えないと思った」
物語の中に突然挿入されるこんな断片が恐ろしく感じられるのは、普通は気づかずに見逃してしまうようないわば「背景」に過ぎないものを、そのコンテクストを無視して切り出してしまうことで、それがまるで「世界」という大きな意味の体系から、遠く離れてしまったような感じがするからだ。
例えば内田百閒はそれを「夢」というフォーマットで形象化したが、柴崎友香はあくまで「現実」として、繰り返し、執拗に描く。
例えば、友人たちとテレビを見ているこんな場面。
「まったく同じ格好の双子が、声を合わせて叫んだ。声も、同じだった。右下から、解説役の荒俣宏が、砂色のサファリな格好で登場した。そして、言った。
「ところできみたち、二人なの、一人なの、どっち?」
わたしは驚愕した。このような重要な問いをテレビで投げかけるなんて。やはり荒俣宏は恐ろしい人だ。テレビからこのような言葉が、全国のお茶の間に響き渡ろうとは。
わたしは狼狽して、テーブルを囲むみんなの顔を確かめた」
「わたし」はふたりのよく似た男性に恋をしているのだから、当然双子のモチーフに敏感に反応するのは当たり前なのだが、このくだりはそれでも異様だ。
まるで、彼女の考えが電波でテレビから漏れだしていて、それを代弁した荒俣宏に恐怖を感じ、周りに自分の考えが知られていないかおびえている、かのようだ。
幻聴に捕われた精神病患者のような。
だから、ほとんど唖然とする結末も、あらかじめ予期されていたものだ。
彼女は、この物語のある段階から、目の前で起きていることや自分が考えてることを「自分」という主体に統合するのをやめてしまっているのだと思う。
目の前を通り過ぎていくものごとにただそのつど反応するのだが、肝心な彼女の物語は完全に崩壊してしまっている。
しかし、これほど恐ろしいことがあるだろうか。
(そういえば、彼女はこの小説の中で頻繁に街を見下ろしたり、ビルを見上げたりするのだが、そんな俯瞰や仰視の光景がほとんど臨死体験のように読めて仕方ないのだが、気のせいだろうか?限りなく死に近づいていく視点!!)
それは一般に「狂気」と呼ばれる類いのものかもしれない。
だが、この物語を読んだ読者は、それが自分とは関係のないことだとすますことはもうできないだろう。
それは寝ても覚めても、どこにでも偏在していて、いつ目を覚ますかわからない存在の要件のひとつだから。
ひょっとしたら、もうすでに手遅れなのかもしれない。
もちろん、わたしや、あなたも。 -
どこか掴みどころのない麦に恋をした朝子。
彼の失踪後数年がたち、大阪から上京した朝子の前に現れたのは、忘れられない男に良く似た亮平だった。
東出くん、唐田えりかさん出演の話題作の原作。
ストーリーはとても好みでしたが、読みにくかった。
2人の男性の間で揺れ動く朝子をみていて、はがゆい気持ちを持ちながらも、小説のテーマとしては最高だなと感じてました。
朝子がどちらにころんでも不幸になりそうで、読み終わりはすっきりしません。
でも、それがこのストーリーの醍醐味のようで、ありかなと思いました。
映画も見てみたい気がします。
怖いもの見たさかも。 -
過去形に過去形を重ねていく文章。過去形の持つある種の陰鬱さが通奏低音のようにずっと響いていて、それとは逆にセリフの部分は底抜けに明るい。その差異がこの作品の特徴であり、その差異がこの作品に現実感を持たせ、朝子の輪郭を浮き上がらせている。
初めて読む作家だったので、多少身構えて読み始め、冒頭は、気合いの入った文章だな、と思った。その気合いがどこまで続くのか、と思っていたけれど、彼女はちゃんと文章の書ける人だった。
完成度の高い作品だと思う。ただ、個人的に恋愛小説がたいして好きではないせいか、読後感が良かったとか良くなかったとかの感想はない。麦のことが好き好き好き、という朝子が、月日を重ねて、亮介に出会って、徐々に気持ちに変化があらわれて。最終的な朝子の決断も、良かったのかどうか分からない。女の人ってよく分からないな、というのが正直な感想だ。良い結末だった、とも思わないし、それは無いんじゃないかな朝子、とも思わない。ニュートラルに、ふーんそうなんだ、で終わった感じ。
でも、まともな文章を書く人の作品は安心して読める、ということだけは言いたい。 -
増補された米(まい)の登場編も読んで思うのは,やはり百閒の「冥途」あたりをキーにしてという感じかな.多くの読者が困惑している模様が面白い.
まあ文体の読みにくさ,日記みたいな平板さ,あたりがお口にあわないみなさんも多いようだけれど,それをどう考えるか.
きょうのできごとの解説ではジャームッシュの淡白みたいなとこと対比しているが,それは妥当かどうか.写真や撮影の技術との連関というのは確かに感じるが.
この作品の中にスーラの有名な作品も出てくるが,あの点描と,この短文の連打との関連は感じた.光や音にしても自分にはインパクトやインプレッションがあって,この読後感で風景を見聞きすると柴崎的に世界がみえる中毒にもなりうるような.
写真以外にも,モニタ,それも特にブラウン管をたぶん含むであろうテレビへの固執というのも,スーラの点描と並べても面白い.おそらく霊魂とその組成,記憶にも関わる問題であったり.
アパレル,ドリンク,食べ物,カビや樹や鳥など,色が織りなす様々な形,それらの集合体としての部屋や建物や都市といった景の配置の仕方も面白く,それをどう読ませ響かせるか,というあたりには自由詩というか,放哉あたりの皮肉も感じたりとか.
かたちという「でき」があるとすると,かたちをもう一度「とき」の方へフィードするような「ごと(こと)」があるのかと思うが,テレビからのニュースや,街に出来する「忘れえぬ人々」(by独歩),すれ違う都市民が発する言葉による占いのような感覚も盛られて.
水というかモイスチャー感だけど,大阪や東京の雨や雪や雲も含めた湿度の表現に成功している文学は少ないと思うが,この作品はひとつの到達を示している,とも.
この20年ぐらいの「楽しい」という言葉は,世代によっては違和感があるひともいるだろう.この作品で発せられる「楽しい」にはそのへんも含められていて,著者やこの主人公にとって,普通に考えるとこの時代は楽しくなかったはずであるが
いちおう恋愛小説なのかもだが,作中の「好き」や「愛」についての感覚も「楽しい」とともにウォッチしておく必要を感じる.酒というかアルコールで(うち)溶けた場面も著者の特徴かと思うが,それはもちろん,睡眠と覚醒とその中間あたりにある時間とのつながりで.
さきのカメラ越し,モニター越しという視線とその軌跡の記録という観点には,窓越しも連なるだろう.建築における窓の象徴という点でも興味深く,不気味であり,人物や人体の一部を肖像化,静物化する効果をうまいこと利用している.
それは病的といってよいのか発達障害といってよいのか,自分もいまのところ留保したいが,こうした風景や人物の描写にみられる注意の散漫が現代の認知の問題も示しているようにも.離人症的なとこ,分裂やパラノイアなど.
人間関係って何?という点でも面白い.レビューを読んでると,登場人物が多いとか,関係がよくわからない,みたいな評もぱらぱらと見受けられるが,主人公とその恋人以外はわざと薄く,あいまいな人間関係,人物造形で書いてる,というあたりに面白さを感じることが.
人間はキャラ化できるのか,というのが,本書の主題のひとつでもあるが,この読み取りにくい人間関係が逆に照射しているのが,このごろのキャラが立ちすぎる,悪く言えば,紋切,ステロタイプな物語で,それにあまり慣れすぎていると,この作品にはついていけないかも -
22歳の春、運命的に麦と出会い恋に落ち、その後パンを買いに行くと言って出掛けてからそのまま消えてしまった麦を忘れられないでいる朝子。
数年後、麦に顔がそっくりな亮平が現れて恋に落ちる。亮平と過ごす幸せな日々の中、テレビで偶然俳優になった麦を見かけたことで、ざわつく朝子 。
平凡で普通のOLの22歳から31歳までの10年の恋を淡々と描いたように見せながら、ラスト30ページの世界はそれまでの小説の世界観とは全く異質なもの。
亮平を捨て麦のもとに走り鹿児島に向かう新幹線の中で、10年前の麦の写真を見て驚愕する朝子。
『違う。似ていない。この人、亮平じゃない。』
寝ても覚めても麦一色で、麦に振り回されてきた10年の「世界がキラキラになる呪い!」が一瞬にしてとけた瞬間。
言葉では説明できないその不条理を朝子の10年を通して見せてくれる。 -
やっと読み終わった~。読みづらくて何度も途中でやめようと思った事か。内面描写が少ないし、突然場面が切りかわったり話しが飛んだり。私の読解力が足りないせいなのか?クソーッと頑張って読破。
物語としては、突然消えた恋人を忘れられずにいる朝子の10年間を追ったお話。最後はえー、そっち!?と思ってしまった。最期がなかなか良いので頑張って最後まで読むことをお勧めします。