- Amazon.co.jp ・本 (156ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309021225
作品紹介・あらすじ
あの過去を確かめるため、私は夫と旅に出た――裕福だった過去に執着する母と弟。彼らから逃れたはずの奈津子だが、突然、夫が不治の病になる。だがそれは完き幸運だった……
感想・レビュー・書評
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と、言っても、私が読んだのは文藝春秋の全文掲載なので、読んだのは表題作のみ。
以前、鹿島田さんの作品を読んだ時、正直、印象は薄く、私の中で、彼女は女性作家のその他大勢に分類されてしまっていた。
私はこういう、不条理で理不尽で、でもそれこそが現実で、主人公がそれにどう向き合っていくのか、っていうお話はすごく好きで。
こんなにも深く突き刺さってくる作品を描く人だと思っていませんでした。
受賞インタビューでも、最後にすごく印象的なことを話されていたので、少しだけ略しながら引用。
「人間がすごく不幸なのは、国家や社会規模の"公的な不幸"を抱えながら一人一人に固有の"私的な不幸"を抱えているところです。その公的な不幸と私的な不幸の比重というのは同じだと意識することが、うまく生きるコツかなと私は思います。たとえばいま、東北の震災がニュースで取り上げられたかと思うと、いじめで自殺する子どものニュースが報じられます。この二つの不幸は同じ比重だと考えるべきだと私は思うんです。不幸の大きさは、公的であろうと私的であろうと変わりません。
私的な不幸を、『たいしたことないから』とか『もっと大変な人がいるから』などと言って忘れたことにして乗り越えようとするのは違います。『自分の悩みは結構深刻な問題だぞ』と自覚するのは意外と大切なことで、私的なことだから人に相談したりSOSを発するのは恥ずかしいとは思わないほうがいい。大人でも子どもでも一緒です。
私自身、デビュー後、つらい時期がありました。その時は憂鬱そのものを直視した本を読み、自分の精神状態の大変さを自覚することで、少し救われました」
私も普段から大切にしていること。でもそれを、こんな風に、文字にして表現する人には、なかなか出会えない。
私が求めていた作品、作家さんが、まさにここに。さかのぼって、他の作品も読みたいです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
少し前にTVで鹿島田さんの生活が流れていた。
ご主人は脳に障害のある方で、
その傍らで優しく穏やかにいらした鹿島田さんの姿が印象的だった。
そういった環境の中書かれたという事で読んでみたくなった。
実際内容的にも似たような夫婦が登場しているし。
こっちが心配してるほど、当事者は辛くないのかな。
何も考えないって1番幸せな事なのかな。
「99の接吻」は以前読んだ鹿島田さんの内容と登場人物的に似てた(笑)
彼女には姉妹がいるのかな~
本の内容より、鹿島田さん自身に興味が沸いた。 -
『冥土めぐり』
第147回芥川賞受賞作。
強欲で陰湿な母親と弟に、金をたかられ食い物にされる主人公とその夫。母親と弟が本当に嫌な人物で読んでいて気分が悪くなった。実家に対しての主人公の主体性の無さが目立ち、読んでいてもどかしかった。そういう気持ちが沸き起こるのだから、著者の狙いは成功してるのかもしれない。脳の病気を患い杖をつき、車椅子生活の夫。主人公は無職の夫を支え、かいがいしく世話をする。タイトルの冥土めぐりとはどういう意味なのか最後まで言及されなかったが、主人公たちが訪れる母の過去の思い出のホテルを、死者が訪れる冥土になぞらえているのかもしれない。
『99の接吻』
冥土めぐりよりも面白かった。3人の姉を愛する末っ子の菜菜子が主人公。少女趣味的ではあるが、無垢な愛が描かれている。 -
芥川賞受賞作
過去と肉親とうまく距離をとることができない主人公奈津子。
体が不自由になっても、それにとらわれず淡々と日々を過ごしていく夫太一。
優雅な暮らしの過去に、心を住まわせているような、奈津子の母と弟。
奈津子と太一が、1泊2日の旅行に出かけその間の奈津子の心情を、鹿島田は体温の低そうな文章でつづっていく。
暑さを感じさせない静かな深いところにある奈津子の感情。
不思議な静かさのある作品だった。
こういうのが芥川賞なんだね -
冥土めぐり
メメント・モリ。太一の心情を表すとすれば、これが一番よく当てはまると思える。ある日を境に。歩くことが困難であっても、他人の手助けを自然体で受け入れることができる。生きることに対しても、あるがままなのだろうと感じた。
旧 高級ホテルへの旅行をきっかけに、奈津子は変わる。母より語られた爺(母の父)の栄華物語も、バブル時代の弟の放蕩も、自分へのセクハラ謝罪で得た金の母による横取りも、過ぎしのこと思い出として、その記憶が封印される。
それは、冥土めぐりの旅が終わったことなのだ。
99の接吻
4人姉妹と母。引っ越して来た男S(=エス)とは、姉たちの自我ではないのか。男と付き合うことで自分を表している。葉子は、女であること、しぐさにこだわる、男に合わせる・媚びる。芽衣子は、下町の女として(下町ではない)男に想いを寄せる。(行為の)性の表現はおおらかでいいなぁ。
みせかけの下町、という表現が印象に残った。物語の街の描写と同じように、住人の生活や人情も変化していくのだろう。谷根千・下北沢・吉祥寺、街は変化している。
2つの物語を比べてみると、2つの性が対になって見える。陰と陽、ハレ(Sはまれびと)とケ(奈緒子は家に従う?)。 -
不謹慎かもしれないけれど、太一のイメージがどうしても山下清に重なってしまう。
自分の境遇をそのまま受け入れ多くを望まない姿勢やらその体躯の描写を読めば読むほど、芦屋雁之助演じる山下清が浮かんできてしまう。
あー、芥川賞なんだからもっとまじめに読まねばと思いつついつの間にか読み終えてしまった。
こんなこと考えるの私だけかしら・・・。 -
芥川受賞作「冥途めぐり」と「99の接吻」の2作が収録されていました。
2作ともはなかなか面白い観点から書かれた小説ですね。
「冥途めぐりも」「99の接吻も」生まれ育った家族の影響力を心理的に現実と対比させた物語でした。
どちらも主人公の一人称で描かれた心の歪みと身近な家族への協調と不響和音が上手く描かれ複雑な心理が自然なタッチで表現されています。
境遇に生きて行くための惰性的積極性の中に自分だけの不可侵性が「いかにもと」、女性のの心理を読ませてくれるものでした。
女性の「性(さが)」を記す作品といえるでしょう。
読後感=もやもや・・・されど家族・・されど愛するべき・・何か・・
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最近、純文学を受け付けなくなってしまった…。心が、耕されることを全く望んでなくて、他人の過剰な表現意欲についていけなくなってしまっている。もっとサービスしてほしい。俺を楽しませてくれ!と仕事の反動で感じるようになってしまった。こちらから本や作者に寄り添うような読み方が、いつの間にか出来なくなってしまった。これはこれで、受け入れないとな。心が荒んでいるのか、それとも満たされているのか。いずれにせよ、純文学は食傷気味です。多分、本の評価も、純粋な評価とはほど遠い、日記のような評価になっています。参考にしないこと。
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主人公の視点で読んでいるうち、濁った重たい水のような、「家」という呪縛の中で、もがいても抜け出せず、もがくことさえ諦めてしまったような感覚に陥る。最後には、そこから浮かび上がるためのささやかな希望の光を感じられるので救いはあるのだが、読後感は…。共感はないものの、巧みな心情描写によって胸に主人公の感情がジワジワと入り込んでくる感じが良かった。