屍者の帝国

  • 河出書房新社
3.52
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  • Amazon.co.jp ・本 (459ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309021263

作品紹介・あらすじ

早逝の天才・伊藤計劃の未完の絶筆が、盟友・円城塔に引き継がれて遂に完成!
フランケンシュタインの技術が全世界に拡散した19世紀末、英国政府機関の密命を受け、秘密諜報員ワトソンの冒険が、いま始まる。

感想・レビュー・書評

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  • 伊藤計劃の遺したプロローグに、円城塔がその後を続けた作品。
    それを意識してしまうと、企画ものとして読むのか、一つの作品として読むのか、どうしても雑念が湧いてしまう。
    章が進むにつれ明らかに円城塔化してゆく文体、「ハーモニー」(第一章)、「虐殺器官」(第二章)、「メタルギアソリッド」(第三章)との意識的と思える類似性。フィクションからの人物の借用は果たしてどちらの意図なのか? などなど、考え始めるときりがない。
    ところが、第三章、事件の真相が明らかになり始めると、そんなことは全く気にならなくなる。なんという到達地点、なんという虚無。これは完全に伊藤計劃のものだ。「虐殺器官」「ハーモニー」のその先を見せてくれたと思う。
    不完全さは数々あるけれど、これを出版にこぎつけたこの企画と、円城塔氏にはホントにお礼を言いたい。

  • 作家にとって死とは何か、ということを考えてみると、それは作品が忘れ去られてしまうことだろう。作者がすでに死んだ身であったとしても、作品が読まれ続ける限りは、その作品の内に作家は存在する。

    というよりも、作家とはつまり作品が読まれた後で事後的に存在すると感知されうる存在であるに過ぎないのかもしれない。少なくともテクスト論的にはそうでありうる。生身の作者はすでにこの世には存在していないのかもしれないが、その作品のテーマや文体に作家は生き続けている。新しく作家の作品を読む読者は、作家が100年前に死んでいようが、1000年前に死んでいようが、その作品の内に作家を見出す。その意味では、作者は紙に印字された言葉や画面に映された言葉の中に生き続けているとも言えるし、あるいは死に続けているともいえる。

    以上のようなテーマを内包しているという意味で、『屍者の帝国』は伝奇SFを装った円城塔作品であるといえるし、それはまた伊藤計劃の作品であるとも言えるだろう。

    正直なところ、最後の100ページくらいまで、私はこの作品を単なる王道展開の伝奇SFだと思って読んでいた。そして、円城塔が、伊藤計劃のあの世界観を再現しきれていないことを残念に思っていた。伊藤計劃の遺稿をベースに書き継ぐからには、そこには伊藤計劃がたとえば『虐殺器官』で描き出したような「肉」の描写が必要だが、円城塔の文体にはそれが欠けているのだ。

    伊藤計劃に独特の「肉」の描写。それは『虐殺器官』の冒頭の文に代表されうる。
    「まるでアリスのように、轍のなかに広がる不思議の国へ入っていこうとしているようにも見えたけれど、その後頭部はぱっくりと紅く花ひらいて、頭蓋の中身を空に曝している。」

    伊藤計劃の小説にとって、死体の描写は極めて重要だ。『虐殺器官』しかり、『ハーモニー』しかり、「The Indefference Engine」しかり。死体を詩的に描き出すところから、伊藤計劃の小説では戦争や生命といった主題が立ち上がってくるのであり、したがって今作においても、まさに「屍者」が主題の一つとなっているがゆえに、そこには「肉」の描写があって然るべきだった。しかし、円城塔が描き出した『屍者の帝国』には、そうした「肉」の描写はほとんど見当たらない。

    もちろん今作は冒険活劇でもあるので、多くのアクション・シーンがあり、屍者も生者もバタバタ殺されるのだが、そこには「肉」の描写が欠落している。したがって、半分ほど読んだ段階で、「これは伊藤計劃の作品ではない」として作品を放り出してしまう人がいたとしても、何ら不思議ではないし、むしろ当然だろうと思う。実際、私としても最後の100ページに至るまではそのような感想でいたのだから。

    では、最後の100ページを読んでどう評価は変わったのか。それは、結局のところ作家は作家でしかなく、円城塔は円城塔であるし、伊藤計劃は伊藤計劃であるということの気づきであった。確かにそこには「肉」の描写はないかもしれない。しかし、循環する言葉がある。円城塔の文体がある。その文体は「肉」の描写が提供するリアリティを補うものではないのかもしれないが、それとは別の論理的ショックを与えてくれる。小説が書かれることには目標があるのだとして、その目標がたとえば主題の提出ということなのだとしたら、主題を「肉」の描写によって提出するか、それとも論理的ショック療法によって提出するかは手段の違いにすぎない。と、そんな話ではある。

    あるいはバトンの引き継ぎといってもいいのかもしれない。伊藤計劃によるプロローグから始まったリレーのバトンは、何者かの手によって受け継がれ、最後の100ページで円城塔によって引き継がれた、と。そして、結局のところ「誰が」書いたのかは重要ではなく、「何が」書かれたのかだけが重要なのだ、と。このようにして二人の作者による『屍者の帝国』は完成をみたのだろう。

    「わたしは、フライデーのノートに書き記された文字列と何ら変わることのない存在だ。その中にこの私は存在しないが、それは確固としたわたしなるものが元々存在していないからだ。わたしはフライデーの書き記してきたノートと、将来的なその読み手の間に存在することになる。」(『屍者の帝国』p.432)

  • 「今回の本はEnjoeTohという小説製造機械にProject Itohというプログラムをインストールしたら生成されましたって言われても普通に信じるなぁ」と想いながら読み始めた。読了してもその感想は変わらなかった。
    本当にそんな内容だった。文句なし。
    両氏の作品がそれぞれに好きなだけに、期待と不安が入り混じっていたけれど、高いレベルでそれぞれの良さが融合していた作品だった。冒頭だけを手掛かりに、この作品を書き上げた円城氏の技量に唸るばかり。
    多彩な登場人物に喜び(そして自分の知識不足に「あれもこれも読んでおけばよかった」と思い)、人間という存在について、意識について、言葉について考える。
    読めて良かった。

  • 「屍者の帝国」読了。冒険小説の形をとっているが、まごうことなき円城塔の作品。で、私は円城作品がやっぱり苦手だw 脳と意識の話で、虐殺器官、ハーモニーとつながる。その点のアイディアは面白い。のだけれど、その見せ方がやっぱりエンタメではないのだよなぁ。

    正確に言えば、エンタメ的な見せ方もしている。アクションシーンもあるし。でも、申し訳ないが盛り上がらないのだよなぁ。仕方がないことではあるが。

    また、アイディアをエピソードに落とし込んでいく伊藤さんのスタイルに対して、円城さんはより深く深く掘り下げて、抽象的にしていく。エンタメ読者としては、やっぱり前者が好きなのだよ。や、病床のワトソンの夢の中の描写や、いろいろ物質化したわけのわからん状況の描写はさすがだと思うけれども。

    でも、私が物語に求めるものとは違うのだよなぁ。正直、伊藤計劃の遺稿であるプロローグ部分はすんごくワクワクするのよ。脳が複数のモジュールで出来上がっているという「虐殺器官」のアイディアの延長線上に、ネクロウェアのインストールという発想があるんだろうなぁ、とか。

    その発想がどんなエピソードに落とし込まれることになったのか…。やっぱり私はそれが見たかった。叶わぬことであるの分かっているけれど…。個人的には、「屍者の帝国」はあくまで円城さんの作品として読むべき作品だと思います。

    意識についての考察も、きっかけは伊藤計劃さんでも、結論(?)部分はやはり円城さんだと思う。その結論めいた部分についてはとても面白かったです。

    結論としては、凄いんだろうことは分かるけれど、私には向かない作品だ、ということでw ただ、こうして伊藤計劃さんの遺稿が、戦友とでも言うべき作家であった円城塔さんによって完結を迎えた、ということは素晴らしいことだと思います。

    • Masaさん
      自分は本作非常に面白く読みましたが、評者のご意見にもうなずけるところ多々ありました。
      自分は本作非常に面白く読みましたが、評者のご意見にもうなずけるところ多々ありました。
      2012/12/15
  • 伊藤計劃を悼む人はもちろん、"芥川賞作家"円城塔を愛する人も、多くいると思われる毛嫌いする人も、もうなんでもいいから是非に多くに読んで欲しい。
    DarkKnightが、KickAssが、虐殺器官とハーモニーがそうだったように、飲み屋でなんとかどうにかしてこの本の話をしたくなる、そんな本。

    ことさら作家の物語を作品に読み込むのは、読書のスタイルとして正しくないとは思いつつ、しかし円城塔ほど確立された芸風をもつ作家が、3年(たぶん)をかけて伊藤計劃を悼んで、成りきって、語ったという物語性には抗えない。

    イチSF読みとしては、このプロローグの続きは冲方丁あたりに引き継いで欲しかったのだけど、読み終えてみると確かにこの読後感は伊藤計劃のモノであり、円城塔のソレであるなぁと納得せざるを得ない。

    この物語の全てを踏まえて、あぁ、死んじゃぁダメだと思う。続編はもちろん、この作家の次回作がないことはもうどうしようもない。あぁ。あぁ。

  • 2012 9/8読了。頼んで買ってきてもらった。
    伊藤計劃の遺稿(プロローグ)といくつか残したというアイディアをもとに円城塔が書き上げた、待望の小説。
    開く前の期待感、そして何度読んでもワクワク感が異常に高まるプロローグ。微かな不安を覚えながら第1部を読み始めた時の安心感。
    結末に至るまで、期待通りの本だった。

    まずは既に公開されていた伊藤計劃のプロローグが、本当、何度読んでもワクワクする。
    動物磁気説が正しかったとされていて、フランケンシュタインの怪物で実現された死者復活が、意思のない死体を労働力として駆動させる技術として一般化された19世紀の世界。
    ロンドン大学医学部に通う若き日のワトソンは、同大を訪れたヴァン・ヘルシング教授と彼に連れられて行った先で出会った"M"に依頼され、アフガニスタン方面でスパイとして活動することになる・・・。

    この時点で、

     ・現実の史実では否定された学説(動物磁気説や骨相学)がこの世界では採用されている(場合がある)
     ・他のフィクション作品(フランケンシュタインの怪物、シャーロック・ホームズ、ドラキュラ、007)内での史実がこの世界でも取り入れられている場合がある

    ということがわかり、ていうかフランケンシュタイン化技術が普及している世界でワトソンが大英帝国のスパイマスターとしてアフガン潜入とかなにそれ超面白そう、っていう雰囲気がとんでもない。


    この面白さの雰囲気を、円城塔は畳んでいく方向じゃなく、まずはどんどん広げていく。
    『カラマーゾフの兄弟』や『風と共に去りぬ』からもキャラクターを取り入れる。
    チャールズ・バベッジの解析機関が普及し、大規模計算が行われ、それらのネットワーク化も既に行われていることにする。
    過去にすべての言語を包摂する大語族があったはずだとか、聖書に従えばいずれ死者はよみがえる⇒死者を実際によみがえらせることこそその証になるとか、原初の1人であるアダムを屍者化するとか。ぱっと聞けばトンデモとしか思えない説にしたがって行動する人々が現れる。
    さらにもともと、伊藤計劃が世界中をわたる話にしたかった、それも日本にも赴く話にしたいと言っていた、ということを受けて、インド、アフガン、日本、アメリカ、そして再びイギリスへと至るグローバルな話にも仕立てる。
    シャーロック・ホームズ、ヴァン・ヘルシング、カラマーゾフの兄弟、明治維新、米南北戦争と風と共に去りぬ、が、同時期の出来事であることは、世界史上でなんとなく知識としてわかっていても、物語の中でそれをこんなふうにつなげて提示される経験はあまりなく、やはり期待がどんどん高まることに。
    明治天皇とグラント元大統領の会談中に屍者の軍団が攻めてきてさらにレット・バトラーが狙撃を!・・・って。・・・って!!
    (きっとまだ元ネタわかっていないキャラや設定もありそうなのでそれはこれから探したい)

    こういう言い方はなんだが、「熱い」要素を伊藤計劃はプロローグにもともといっぱい詰め込んでいて、その詰め込み方の方針にしたがって円城塔もめいっぱい詰め込み続けた感がある。
    そりゃワクワクするに決まっているだろっていう。

    もともと「言葉」に執着する2人だけあって伊藤計劃と円城塔の相性もいいのか、もちろん完全な円城文体なんだけどそれほどの違和感なく読み進めることもできた。
    バーナビー大尉が適度にギャグ要員にもなってくれて、肩肘はってばかりにならず読めるのも嬉しい(というかバーナビーに対するワトソンの態度がギャグになっているんだが)。

    これだけ色々突っ込んだ話で、なんでこの人物の名前が出てこない・・・と気になっていた人物についてもあっと驚く形で名前が出てきて納得できたし、屍者化とは結局なんなのか、その解釈の提示も幾度か変わり、最後に出された説は円城塔ならそういうよねっていう感じにもなっている。

    ラストバトル、エピローグに至るまで、伊藤計劃×円城塔にかける期待を裏切らない満足度だった。
    欲を言えば期待を超える何かがあるんじゃないかと思ってた、っていうところだけれど(それは期待と何が違うのか)・・・それについては自分が後半、急いで読みすぎた可能性もあるので、あるいは気づいていない要素がありそうな気もするので、引き続き考えたい。

  • いや、凄まじい。円城塔だからここまで連れてこれたんだ、もう前に進む事のない伊藤計劃と、もうその先を見る事のできない読者を。
    この作品が二人の到達点ではないのは確かだけど、それでも二人が目指していた場所が遠くに見えるところまで連れてきてくれた。
    しかしこの本に関して何を言おうとしても、全てあらかじめ物語に内包されている仕組みには舌を巻くとしか言いようがないな。

  • 円城塔の中にいる伊藤計劃。伊藤計劃をインストールした円城塔。

    表現の仕方はさておき、円城塔のSF作家としての底しれぬ力量を感じさせる傑作で、年代設定的にも、「虐殺器官」と「ハーモニー」を巻き戻したような、意識のない屍者に纏わる物語です。「その先」を書こうとして、結果的にいい意味で原点に戻っているように思えました。

    伊藤計劃が残したプロローグからの移行部分である第一部は風呂敷を広げていくところでちと展開スピードに不満も感じましたが、第二部以降はまさに一級のエンターテインメントであり、あんな人やこんな人が最後までいろいろ出てきて、さらに世代的にエヴァンゲリオンを彷彿とされるギミックが散りばめられた、ザ・サイエンスフィクションと言える作品です。

    エピローグを読みながら、この話が終わってしまうことが残念でならなかったですが、そのエピローグで、伊藤計劃の残した「呪い」を開放したことに、円城塔の想いを読み取りました。そして、物語はプロローグ前の引用に繋がります。小学校に読んだ記憶って意外と保持されているものですね。

    複数の言葉に支配された、物質化した情報のひとつとして、そう思います。

    The second phase, or a curse, of the Project Itoh comes to settle happily.
    But, the Project will continue, and never end.

  •  伊藤計劃の絶筆、『屍者の帝国』は長編のプロローグのみであるが、頗る魅力的な設定が示されている。19世紀後半のロンドン、優秀な医学生の「わたし」ジョン・ワトソンは、指導教官セワード教授と、特別講義にやってきたヴァン・ヘルシング教授に軍の仕事に就くことを誘われる。そこで会った特務機関のMは諮問探偵を弟に持つという。まずはシャーロック・ホームズとストーカー『ドラキュラ』の登場人物が出てくるわけである。
     そしてこの時代、フランケンシュタイン博士の開拓した方法により、死者を蘇らせ、ロボットのように使役するテクノロジーが一般化している。それが「屍者」だ。すなわちある種のスチーム・パンク、もっと言うならネクロ・パンクが、この小説なのだ。
     ワトソンの任務は中央アジアにおけるイギリスとロシアの覇権争い「グレート・ゲーム」に諜報員として参加することだ。彼の向かう先はアフガニスタン。

     この未完の長編を盟友・円城塔が補筆というか、書き継ぐことになったのだが、伊藤の構想を聞いていたのか、あるいは伊藤の残したマテリアルから新たに構想したのかといった解題はついていない。
     屍者は霊素を注入することで蘇るのだが、円城の書き継いだところでは、屍者技術とはITのアナロジーとなっている。霊素は屍者を駆動するソフトウェアであり、ネクロウエアと呼ばれる。ワトソンはさまざまな知識を頭にかき込まれた屍者フライデイを伴って出かけるが、フライデイはいわばポータブル・コンピュータであり、この本自体はフライデイが記録したものなのである。さらには多数の屍者をモールス信号のキーパンチャーとして使った大規模コンピュータに大陸間をつなぐネットワークまで登場するのである。
     アフガニスタンでは新型のネクロウェアをかき込まれた屍者たちを連れ立って屍者の王国を作っている男のもとを目指す。その男の名はアレクセイ・カラマーゾフ。同道するのはクラソートキン。何ともまあ大変なメタフィクションになっている。

     『カラマーゾフの兄弟』後日譚は第1部で終わり、舞台はさらに日本へ、そしてアメリカへと移っていく。
     そこで問題となってくるのは、自分の意志を持たない屍者と、最初の屍者なのに自分の意志を持っていたフランケンシュタインの怪物との対比であり、話は意識とは何かといった哲学的問題を巻き込んで進んでいく。

     伊藤計劃は死者である。しかし屍者となって、円城塔を名乗り、この小説を書いている。などと言ってみたいが、クールな伊藤計劃の文章と円城塔の饒舌はいささか異なっているという印象も確かである。これが伊藤計劃の計画した物語だったのかというと疑問も感ずるのだが、伊藤の蒔いた種を見事な1冊に育ててくれた円城塔に拍手を送りたい。

  • 面白かったけど、ついて行けなかった汗

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著者プロフィール

1974年東京都生れ。武蔵野美術大学卒。2007年、『虐殺器官』でデビュー。『ハーモニー』発表直後の09年、34歳の若さで死去。没後、同作で日本SF大賞、フィリップ・K・ディック記念賞特別賞を受賞。

「2014年 『屍者の帝国』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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