アルタッドに捧ぐ

著者 :
  • 河出書房新社
3.05
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本棚登録 : 197
感想 : 51
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  • Amazon.co.jp ・本 (144ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309023373

感想・レビュー・書評

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  • 小説の主人公である少年が作者の知らないうちに死に、現実の世界には少年から託されたトカゲのアルタッドとサボテンが出現する。架空のものだったはずのそれらを、現実世界で育てていく作者(小説家志望の大学院浪人生)の話。

    設定こそ奇妙でシュールだが、テーマは「書くこと」とそれによって与えられる「命と死」である。物語からこぼれ落ちてしまったトカゲとサボテンの飼育を通して、作者は書くことの根源、意義を真っ向から見据えて、ラスト数ページで明らかにしている。
    トカゲとの生活はリアルで、微笑ましい。爬虫類は得意でない私ですら、愛着が涌くほどだ。小説が完成したとき、アルタッドは現実の世界から消えてしまうのだろうな。
    元恋人との距離感も絶妙だ。
    頭でっかちで堅苦しくなりがちなテーマを、じつにうまくアレンジしている。

    文藝賞を受賞したデビュー作で、大学院在学中に執筆したそうだ。新鮮さに今後どんな魅力が加わるか、楽しみな作家だ。

  • この小説に歓喜や恍惚が存在していないことを非常に残念に思う。カーヴァーの「大聖堂」のようなものを書けというのは非常に酷なことではあるのだが、それを期待させるような小説だった。
    とはいえ、体験的にではなく、技巧的に書こうとしていたように読めるので、「詩的」から離れたところで恍惚を描こうとする試みだったのかもしれない。もしくは、「詩的」に憧れつつも棄却せざるを得ないなにかがあったのかもしれないが、そこまで読めなかった。

    アルタッドの存在が、あるいはフィクションを書く/読むことが私たち(本間)の生活に必要なのは、フィクションが私たちを形づくっているからだ(というのも私たちは言語世界に生きているから)。
    だからなぜ書くのかという問いには、生きているからだ、と答えるほかなく、それを真っ向からこの小説は描いているのである。

  • [2014.12.11]

  • 献本企画にていただきました。
    突拍子のない始まりから続くリアルの物語。正直あらすじを読んだ時からこれはどういう意味だろうと思っていたのだけれど、本当にそのままの意味だった。作中で死ぬはずのなかった人物が死ぬという不可思議な事態に陥るのは面白い。現実にはありえない非現実性が逆に魅力に思えた。
    固有名詞に少し引っ掛かりは覚えたが、文章は読みやすい。アルタッドに対する思いが溢れていて、思わずトカゲ飼いたくなった。
    しかして現実にはありえない現象である。不意の出来事で筆は止まり、書くことは頓挫した。その代わりにアルタッドの世話を焼くがそれでは前に進まない。やる気がうすく、現実を直視したくなくて逃げる言い訳を探している。
    「書くこと」それ自体は少しでもしたことがある人なら完結させることの大変さがわかるかと思う。言い訳を探して書かないことなんざ、日常茶飯事。気分が乗らない、夢見が悪い。箪笥の角で小指をぶつけた。さまざまな言い訳ができる。けれど書き上げることができたなら、そこには奇妙な高揚感がうまれるだろう。主人公は書くことではなく描くことで、その気持ちを思い出したように思う。
    迷子たちを再び物語のなかに帰してやる、という表現がなんともその気分の高まりを表しているようにも思える。

  • 昨日に続きブクログの献本企画でいただいた、文藝賞受賞作品の未校正サンプル版。

    こちらの方が私好みでした。

    ものすごく真面目な人なんだと思う。書くことに対して。
    「書くこと」という業を、私は持ち合わせていないけれど強く感じることができた。
    それが青いということなのかもしれないが、もっと肩の力を抜いたらという評もあったようだが、私は不快ではなかったし、逆に好ましく読んだ。
    物語の構成よりも、美しい文章を紡ぐために推敲を重ねたのだろうとも想像できる。

    でも読んでいる時にそれほど重苦しく感じないのは、トカゲのアルタッドがキュートであることだったり、薄いユーモアで縁取られた会話の妙だったり。
    特に、大学生時代に付き合っていたという亜希。今はどういう関係性になっているのかわからないが、彼女との会話のやり取りが好きだ。
    近すぎず遠すぎない距離感が絶妙だと思った。
    実際にはその位置を保つことは、なかなかに難しいとは思うけれども。

    イグアナと暮らしてみたいという野望を持っている私には、アルタッドと一緒の生活風景も興味深く読めた。詳細な観察記録。
    ものに捕まるときにギュッと力が入る指の様子も、目に浮かぶよう。

    トカゲとの生活を書いた小説といえば、読んで30年以上たっていてもやっぱり森下一仁の「コスモス・ホテル」を瞬時に思い浮かべてしまうが、喜怒哀楽がなく、今を生きるために生きているトカゲを見ていると、人は内省的になるものなのだろうか。
    過去も未来もなく、現在しか持たないトカゲには、音楽を楽しむことができない。音の強弱を感じるだけだ。というような文があった。
    確かに音楽は、時間の流れを感じることができないと、単発のただの音になってしまうわけで、音楽と時間の関係について、あとでぐずぐずと考えようと思う。


    文藝賞受賞作2作品とも、モラトリアムな生活をしている若者が主人公で、あまり生活感がなかったところが共通点。
    高級マンションで暮らすこと、庭付きの一戸建てにひとりで暮らすこと。毎日の些細なことをきちんとしていかないと快適な生活は維持できないし、それは結構時間とお金を必要とすることなんだ、と主婦の私は思うのだが。
    そこら辺のリアリティが、ないのよね。

  • 第51回文藝賞受賞作 刊行前サンプル版レビュー。

    理屈をこねるような文体なのだが、言葉選びは適確のようで、物語の終結点までの流れは淀みなく体に浸み透った。本質的にとまでは言わないまでも、作者の言わんとする恍惚や高揚が生に対して持つ意味、あるいは死に向かい合う緊密な距離のようなものを享受できた。そんな気がする。

    本間は人間の本性をある程度バランスよく備えた人格を持っていて、だからこそ生きているということが死んでいくことと同義であることも心から理解している。

    モイパラシアの生を受け継ぐかのような始まりだったが、本間の生を彼のものに戻し、彼の死をあるべき位置にまで遠ざける契機を与えたのが、亜紀であることは意外だった。

    「点描の恍惚の夜」を迎えるまで、アルタッドとの関わりはアロポポルと同じくモイパラシアの残像としてのそれだった。

    しかし本間自身の学生時代…彼には大切だった時間の共有者であると同時に、彼と現実社会を軋ませることなく繋いでいる唯一の存在である亜紀が、まるで触媒のような働きで、本間の生と死を本間の中に取り戻したように感じる。

    そう言えば、妄想の産物であり、実体など存在しないはずのアルタッドに亜紀は触れ、餌をやり、絵に描く。

    亜紀もまた、本間の一部。そんな陳腐な言い方しか浮かばないが。


    ものを書くひとりの人間が、ものを書くという行為それ自体に倦み、取り憑かれ、現実の中に非現実を生み出す狂気。彼の言う積極的諦念はアルタッドとの穏やかな暮らしの中で醸成され、生が死の対極ではないことをも悟らせてくれたのだと思う。

    心地よく、本当に心地よく読み終えた。清々しい。だからこそ、一部の文学愛好者には物足りないかもしれない。私には丁度良い。

著者プロフィール

金子 薫(かねこ・かおる)
1990年、神奈川県生まれ。慶應義塾大学文学部仏文学専攻卒業、同大学院文学研究科仏文学専攻修了。2014年『アルタッドに捧ぐ』で第51回文藝賞を受賞しデビュー。2018年、わたくし、つまりnobody賞受賞。同年、『双子は驢馬に跨がって』で第40回野間文芸新人賞受賞。著書に『鳥打ちも夜更けには』がある。

「2019年 『壺中に天あり獣あり』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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