- Amazon.co.jp ・本 (196ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309029580
感想・レビュー・書評
-
近代日本文学揺籃の時期は、同時にさまざまな「感染症」が日本を襲った時期であった。感染症の歴史を学術的に書いた本は多く出たが、「史料としての感染症文学」という立場で研究した本は、おそらくこれが嚆矢だろう。感染症の実態が、公的な統計や記録からしか見えないとしたら、それは片手落ちである。人の営みの中でどのように感染症が描かれたかを知って初めてその「真の実態」がわかるだろう。文学はその最良のテキストのはずだ。
近代において出てきた(正体の分かった)感染症は「コレラ」「結核」「腸チフス」「疱瘡」「ペスト」「赤痢」「百日咳」「スペイン風邪」「梅毒」などがある。
「スペイン風邪」文学として志賀直哉の「流行感冒」があることは、私は一度取り上げたことがある。今回、小説ではなくエッセイとして与謝野晶子「感冒の床から」「死の恐怖」があったことを初めて知った。明治の世の中に向けて、母親の立場から筆先鋭く書いている。曰く「日本人に共通した目前主義や便宜主義の性癖の致すところだと思います」。盗人を見てから縄をなうというのは、正に現代のコロナ禍においてもあらゆる政治家がその性癖をあらわにしているだろう。東京と横浜だけでも一日に400人の死者を出していた時に「人事を尽くせ」と晶子は糾弾する。これは「社会連帯の責任」なのだと。忘れてはいけない。これは明治憲法下の大正時代のエッセイなのである。
正岡子規の結核は有名であるが、ずっとあれだけ人との接触が多い中で結核の伝染は無かったのか疑問に思っていた。子規は病気を理解して、食事を一緒に取らない、弟子が来てもソーシャルデスダンスをとって接する、栄養あるものをたらふく食って抵抗力をつけるなどの対策をしていたことが分かった。子規の周りでは、結核の伝染は起きなかったらしい。
一級の医者である森鴎外と娘の百日咳との戦いと経緯は、かなり詳しく、親としての心労とそれでも起きる判断間違いなどを分析して読み応えがあった。
総じて面白い視点の文学論だった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
そんならば生命【いのち】が欲しくないのかと、/医者に言はれて、/だまりし心!
石川啄木
新刊の「感染症文学論序説」を、迷わず手にした。文学が時代と切り結ぶ存在であることを、「感染症文学」という新カテゴリーで確認しようという試論である。これまで、貴重な「ハンセン病文学全集」全10巻(皓星社)はあったが、感染症から近代文学そのものをとらえ直す機会は確かに多くなかった。
その視点で読み直すと、啄木の「悲しき玩具」は、肺結核との闘病歌集でもあった。家庭内感染で一家で発熱、だが、医者にみてもらう経済的余裕がない。「生命」あればこそとはいえ、悩める「心」が伝わってくる。
本書には明治期から昭和中期の、コレラ、腸チフス、赤痢、ペストなどを扱った文学が紹介されている。中でも、関連倒産や風評といった今日的な話題が読みどころだろう。
たとえば、雑誌「女人芸術」を主宰した作家の長谷川時雨。東京日本橋での少女時代を回想した「旧聞日本橋」に、明治期に流行したコレラの話題があった。近所で、老いた女性が息子とそば屋を営んでいたが、女性がコレラで亡くなるとすぐに閉店。いわゆるコレラ関連倒産が詳述されていたのだ。
また、コレラの流行に便乗した商法もあったという。「ぼた餅を食べればコレラに感染しない」という噂が広まり、ぼた餅屋が大繁盛したのだとか。感染の恐怖に向き合う人間の心は、明治からさほど変化していないことに気付かされ、思わず襟を正したくなる。
(2021年7月4日掲載) -
この一年いろんな出版社が、ポーの『赤死病の仮面』をはじめとして、菊池寛『マスク』、谷崎潤一郎『途上』、志賀直哉『流行感冒』などなど、その時代に流行した疫病をテーマとした文学作品を編纂したアンソロジーを出版していて、「感染症文学」のような切り口でのジャンルが一つ確立したかんじではありますが、本書はそういった作品達について「文学論(序説)」として評論したものになります。
疱瘡、コレラ、チフス、結核、梅毒、スペイン風邪と、文学の中に描かれた感染症を「史料として」読み解く試みは刺激的で面白かった。 -
テーマが気になって読み始めた。
読みづらく感じてしまい、途中から流し読みになってしまった…。もう少ししてから読んだ方がいいのかも。、 -
小泉八雲「心」(コレラ)、森鴎外「金毘羅」(百日咳)、石川啄木「一握の砂」(結核)、与謝野晶子「感冒の床から」(スペイン風邪)・・・など、文学を感染症の描写から見つめたもの。いかに人類が感染症と戦ってきたかが伝わってくる。ロックダウンのような街の様子や、子どもが感染症にかかって大変慌てる様子、感染症に敏感な人とそうでない人がいることも昔から変わらないのだと感じる、感染症の生の声のようなものを文学から知ることができた。
-
序文から「感染症は文学にならない」という、誰かの言葉に対する憤りを感じた。
-
【琉球大学附属図書館OPACリンク】
https://opac.lib.u-ryukyu.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BC07406996