- 河出書房新社 (2023年4月19日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (256ページ) / ISBN・EAN: 9784309031019
みんなの感想まとめ
癌との闘病を通じて、異国カナダでの生活や医療制度の違いを描くこの作品は、重いテーマながらも軽やかに読み進められます。著者は自身の経験を通じて、心の弱さや自立の大切さを語り、他者とのつながりや支えの重要...
感想・レビュー・書評
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ノンフィクション小説はあまり読まない方ではあるが西加奈子さんであればと思い、拝読。
扱う内容は癌の闘病ものであるものの、重くはない。もちろん、肉体的にも精神的にも限界なときもあったろうが、西さんがそれを取捨選択しながら、西さんらしい表現に仕上げたのだろう。
カナダはとても素敵な国で、魅力的に感じたのだが、読んでいると不思議と日本なりの良さも感じることがあった。国民性の違いなだけで、日本人も真面目で、照れ屋で、情深い素敵な民族だと思う。医療も問題は山積みだが、スムーズに受けられる安心感もある。
正直ノンフィクションの小説に評価をつけるのはしっくりこないが、これまでの作品と相対評価として、★3とした。 ★3.5詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
周りにがんの経験者や海外に住んだ人などがいなかったため、新しい視点を与えてくれるエピソードが多く、メモの量が大変なことに…。
例を挙げるなら、カナダの医療制度やバンクーバーの多様性の実態、西洋医学と東洋医学の話や、店と自分の責任の違い、薬物に対する意識、乳首って必要?という話など。
ただ、カナダと東京の違いで挙げておられる「狭さ」に関しては、東京に限らなければ国内でもカナダに近いところはあるかも?と思う。
がんになるのなんて誰だって突然のことだし、人ごとじゃないんだよなぁ、なるときはなる、という心づもりはしておくべきかも。と、改めて感じた。 -
西加奈子さんのカナダ、バンクーバーでの乳がん闘病記。
西さんは当時44歳。自分で右の胸にしこりをみつけて乳がんを発見します。
西さんには夫と子どものSと、猫のエキもいます。
まず始めたのは抗ガン剤治療。
頭は坊主頭で、体毛もすべてが抜けたそうです。
62ページより
日本では全部一人でできたことがバンクーバーでは歯が立たなかった。どれだけ努力しても語学には限界があり、それだけで可能性がうんと狭まった。
ああ、自分は一人では何も出来ないなあ。弱いなあ。日々そう思った。
そしてそれは、恥ずかしいことでも忌むべきことでもないのだった。ただの事実だった。
私は弱い。
私は、弱い。
日々そうやって自覚することで、自分の輪郭がシンプルになった。心細かったが、同時に清々しかった。
そして、西さんは治療中に、夫と子ども共にコロナ陽性になります。
西さんは言います。
「勇敢とは思わない。やらな仕方ない」
そして、胸の全摘手術。
185ページより
邪魔すんならGet out of my way
生きてるだけですごいでしょ
もうtoksik なのはいらないわ
つまんないプライドなんてGo away
作りましょう brand new bible
型にはまっては息苦しい
ーZoom guls 「生きているだけで状態異常」
西さんは「やらな仕方ない」と言って、どんどん治療を続けていきます。異国の地バンクーバで子どもと猫まで抱えて、コロナにも罹患してしまったのにすごく物事の考え方がポジティブに私には思えました。
私にはとても真似できない。そう思いました。
西さんにあって私にないものがたくさんありすぎる、と思いました。
西さんはまず、自立しています。
そして頼れる友だちも多く、お金も持っています。
私にはないものばかりです。
でも、この西さんが書くことでご自分を励ましたという手記を拝読しました。
ないものは仕方ないけど、あるもので、私もできることはやって今の自分の体の不調を乗り越え自分のやりたいことをできる体になりたいと強く思いました。 -
図書館本
生きてることだけで素晴らしいということ
読み終わって1番最初の気持ちはそれでした。
私は子供が生まれる前と後で、
生きていたいと思う気持ちの強さがかなり変化しました。
私の父は20年以上前に初期の段階でガンが見つかり
今も元気ですが、ガンが見つかった時より
ガンがまた再発するのではないかという恐怖と
戦うことの方が大変だったと
しばらくしてから聞きました
全然気づいていなかったことに、申し訳なく思ったのを思い出しました。
自分が体験しないとわからないこと
たくさんあると思います。
だからこそ西加奈子さんが
このように真っ直ぐに事実を伝えてくれて
体験したことがない人も
体験することになってしまった人にも
体験して克服した人にも
すごく良い情報になると思いました
困ってる人をサポートする方法も
日本との違いを感じました
たくさんの人で、サポートし合えば
誰かだけの負担はなくて、継続できるのにな
自分の体のボスは自分
これは全ての人に言えること
私も自分の体に責任を持とうと思います
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例のキャンプである。
夜に行われたキャンプファイヤー。
燃え上がる炎と、どんどん燃えていく土台の木を、ひとり見つめていた。
まるで、死ぬ時に人間が焼かれて、骨だけが残っていく様子に似ていた。
わたしはその時に思ったのだ。
自分が死ぬ時に、誰かに骨を、拾い上げてほしい、と。
強烈に、そう思った。
全てが燃えてなくなった時、将来の自分や、自分が今考えていることなんかも、全部なくなっちゃったような気がして、それはそれで寂しいような、ちょっとすっきりしたような、不思議な気持ちになった。
遺伝子として、わたしはがんのサラブレッドだ。
だから、本作品で描かれている西さんの闘病記は、他人事とは思えなかった。
特に乳がんは、知り合いも患ったりして、かなり身近ながんだという認識だ。
朝井リョウさんが深夜のラジオでこの作品を勧めてて、この作品をテーマにしたコーナーなんかもやっていて、さすが作家さんのラジオだな、なんて思ってた。
がんの宣告や治療の場面はもとより、特に興味深かったのが、カナダの医療と日本の医療との違いである。
日本の医療制度は整っているとして有名であるし、とても丁寧にケアをしてくれる印象がある。一方でカナダでは、手術しても日帰りだったり、ドレーン(体内にたまった血液等を体外に排出する医療行為)のケアを自分でしないといけなかったり、そもそも医療へのアクセスがとにかく悪い。日本と比較すると、ありえないほど”サービスが悪い”。
また、「あれ?それ説明受けてないの?今日からその治療だよ?」みたいなことがカナダでは普通にあるみたいで、そうなるに至った問題もどこかにあるはずなのだけれど、それを医者や看護師に訴えても、彼らは謝らないそうだ。(「それは大変やったなぁ」と、話は聞いてくれる。)
P93「会社や組織を代表して自分が謝る、という観念が、こちらの人にはないのだと思う。何故なら彼らには、彼らの給料に見合った仕事がある。自分達の仕事を全うしている限り、彼らに責任はないのだ。」
つまり、日本で行われているような”サービス”が存在しないので、患者と医療者は常にフェアなのだ。確かに、日本人のその”サービスを提供しなければいけない感じ”が、日々我々を消耗させ、給料以上に働かされているように感じる。(カナダ人は早々に仕事を切り上げてお酒を飲む。)
ただ、医療という点においては、「病気の不安」というものが根っこにあるわけだから、日本の医療の対応は我々を安心させ、それが精神的ケアにもつながっているんだろうなと思う。この国の医療を享受できていることに、改めて感謝したいなと思った。
さらに、我々はまるで、狭い場所に詰め込まれて、せかせかと動き回っている。
空間を麻痺させる程の大きさの広告、男はかっこよくあらねばならない、女はキレイであらねばならないを押し付けてくるそれらのいきぐるしさ!電車の中でも、常に広告を見せられているだけでいきぐるしいのに、加えて我々はスマホで情報を得まくる。生活にも脳みそにも、空間にも、全く余裕のない、我が国。
この作品は、単なる異国でのがんの闘病記ではない。
一人の日本人が、制度や文化を超えて、病気と向き合うことで得られた、かけがえのない体験記である。 -
テレビで紹介されていたのを見ました
エッセイやノンフィクションは
あんまり得意ではないのですが、
がんと闘う話と聞いて手に取りました
西さんの作品は
そんなにたくさん読んでいるわけではないのですが
でも西さんらしい
ぶわーっと溢れ出てくる感じの作品でした。
伝えたいことがたくさんあって
あれもこれもわーっと詰め込んだ!
っていう感じ。伝わるでしょうか?
カナダで生活している中、
それもコロナ禍で、
がんの告知を受け闘病生活に入る。
自分では想像もできません。
日本との考え方の違いや
制度の違いなど初めて知ることも多かったです
こういう本を読むと
あー日本はそういうところあるよなーとか
だからやなんだよなーとか
外国はいいなーとか
いろいろ考えてしまいます。
でも、いる場所の問題はもちろんあるけど
一番は自分の気持ちですよね
自分は日本で生きている
日本で、前向きに、
自分らしく生きるしかない。
人と比べるんじゃなくて
自分が幸せを感じられる瞬間を大事にしようと
そういう気持ちにもさせてもらいました
そして
西さんはたくさんの周りの人たちに
助けられながら癌と戦っていましたが
異国で、これだけたくさんの人たちと
絆を結べる西さんが凄いなと感じました-
2023/07/11
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ginza7さん
コメントありがとうございます(^^)
語彙力がなくて
こんな表現になってしまいました(ーー;)
伝わってよかったです!ginza7さん
コメントありがとうございます(^^)
語彙力がなくて
こんな表現になってしまいました(ーー;)
伝わってよかったです!2023/07/12
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くもは雲ではなく蜘蛛。
弘法大師の使いだから、みだりに殺してはいけない。
そして、自宅での蜘蛛との出会いが、西さんの運命を変えた。
カナダ・バンクーバーで、しかもコロナ禍で、乳がんの罹患が判明した西さん。検査からがんの宣告を経て、抗がん剤治療、手術、放射線治療を行い、新しい日常を得るまでのエッセイ。
悲しみが、怒りが、苦しみが、不安が淡々と抑制されたトーンで綴られていて、だからこそ胸を打つ。
読み終わってしばらく涙が止まらなかった。
がんを治療している人にとっては、きっと力強いエールとなる、そんな一冊だと思う。
♪生きているだけで状態異常/Zoomgals(2020) -
西加奈子さんの本は、いつも力強くてエネルギーが溢れているといった感じがある。
今作は、彼女の闘病日記なのだが真正面から伝わってくるものがあり、やはり強いなぁと感じた。
カナダで、癌になったが帰国せずに知人や友人に頼って治療してきた。
日本とは違う病院での仕組み。
戸惑いながらも諦めずに声をだし、ひとつずつ乗り切る逞しさに圧倒された。
日本人には情があり、カナダ人には愛がある。と感じたとか。
愛はいつも良き心、美しい精神からきてるのに対して、情は必ずしもそうではない…という件に納得するものがあった。
怖さは、いつまでもついてくるのかもしれないが、彼女には書くことでもう一人の自分が誰より味方しているはずなのだ。
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「蜘蛛が弘法大師の使いだと信じていた。」
蜘蛛が伝えたありがたい(くない?)癌のお告げ
結果大団円だと私は感じました
大病にかかると5体満足のありがたみがひしひしと感じる
当たり前だった事柄がそうでなくなる時は、誰もが不安であることは何か安心を覚えた
海外の治療のカルチャーショックの話も興味深いが、「自分の身体は一番自分が知っている」看護師のセリフに一番共感
体は資本とよく言うが、歳を重ねるほど守る人も出来てきて、自分だけの体ではないことを痛感
酒・タバコはほどほどに控え、自重しようと感じました…
今後病に伏したとき勇気を出すため再読しようと思う -
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正直、『くもをさがす』を読もうかどうか、かなり悩みました。
それは私が、サバイバーの家族だからです。
今は経過観察中ですが三ヶ月毎の検査結果は恐怖と緊張で毎回寿命が縮む思いに苦しめられ、未だに告知された時のシーンがフラッシュバックしてしまいます。心のなかで、「大丈夫、大丈夫」と祈りながらも、気付いたら悪い想像もしてしまい心身ともに削られるような思いです。
日々、無力感を感じながらも家族としてもっと何か出きることがないか、参考になることはないかという思いで本書を読みました。西さんの日記をベースに描かれているのでしょうがないのかなと思いながらも、私的にはもう少し家族の視点も欲しかった。
カナダと日本の文化や医療の実態の違いにはカルチャーショックを受けた。ファミリードクターがいないと受診するだけでもかなり門戸が高いうえに、コロナ禍も重なり、不安と戸惑いがひしひしと伝わってきた。また、西さんの人望の大きさもあると思うけど、周りの自然な優しさには心温まるものがあり西さん自体もかなり心の支えになったのではないのだろうか。
病気の分かったきっかけはタイトルにもある「蜘蛛」。
まさに虫の知らせで、亡き祖母が「早く病院に行きなさい」と教えてくれているようでした。
この不思議な符号がこれから始まる過酷な現実に、どこか物語のような「一筋の光」に感じました。
山本文緒さんの『無人島のふたり』もそうなんだけど、病気を受け入れユーモラスに描いているところが人としての強さと作家としての矜持のようなものを感じた。
特に本書ではカナダの医師や看護師の言葉が関西弁で描かれていて、それは実際に西さんが本当に関西弁で聞こえたというエピソードを元に、つっこみどころが満載なのも面白い。でも、そのユーモアの裏には本書ではあえて描かなかった、たくさんの辛い思いがあったのだろう。
あとがきに西さんの夫、Sへの感謝の気持ちが綴られている。「家族の祈りがどんなに救いになったか」
家族は祈ることしかできない、だからこの言葉に救われた思いがする。
西さんと本書には勇気を貰いました。大きな病気を経験して一皮も二皮も剥けた西さんの次作品を楽しみにしてます。-
2026/02/17
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ありがとうございます。
あぢまんさんの『エビボクサー』の感想も最高でした。良い意味で泣けました。ありがとうございます。
あぢまんさんの『エビボクサー』の感想も最高でした。良い意味で泣けました。2026/02/18
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ノンフィクションエッセイということで、現実の辛さ厳しさを痛感させられるリアルな内容であった。
差し込みの参考文献の言葉など、著者は様々なものに救いを求めて、自分自身を鼓舞していたのであろうというのがひしひしと伝わってくる。
私は私。選択決断も私。周りに頼る。愛と情。最後まで生にしがみつく図太さ。この著書からの学びは多い。-
カナダと日本の社会と人々の違いが描かれていますね。どちらが良いと決めつける事はできないでしょうけれど少なくとも著者にとってはカナダでの暮らし...カナダと日本の社会と人々の違いが描かれていますね。どちらが良いと決めつける事はできないでしょうけれど少なくとも著者にとってはカナダでの暮らしの方が行きやすかったようですね。
人間らしい生き方って何なんだろうと考えさせられました。2023/05/10 -
字を間違えました。「行きやすかった」ではなく「生きやすかった」でした。
失礼しました。字を間違えました。「行きやすかった」ではなく「生きやすかった」でした。
失礼しました。2023/05/11
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普段、作家のエッセイは読みませんが
発売当初から話題になってたので
読んでみました。
異国の地での闘病生活、
想像以上の大変さが伝わってきます。
【自分のがんは医者任せにしない。
自分の身は自分で守る!】
病気になると医者任せにしている
自分には耳が痛いです。
カナダの適当さ、おおらかさ。
日本のまじめさ、窮屈さ。
色々と考えさせる内容でした。
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以前、王様のブランチなど様々なTV番組で取り上げられ、読んでみたいとは思っていたが、ようやく読む機会を得て読了。
滞在先のカナダで、乳がん発覚から治療を終えるまでを赤裸々に描いたノンフィクション作品。2人に1人は癌になると言われる時代に、著者がどのように癌を受け入れ、向き合い、恐れ、乗り越えていったのか。そして闘病記にとどまらず、カナダと日本との医療制度や国民性、考え方の違いなどを交えながら、軽快な文章が読みやすくしてくれていた。作中のカナダ人が皆、関西弁なところも笑える。
カナダの店員は謝らない。何故ならそれは「店」の不備であって、自分の不備ではないからだ。という話は、理屈では分かるけど日本ではやっぱりあり得ないな〜
あと、日本人は人から「どう見えるか」という考えに重きを置いている、というか乗っ取られているという話にとても共感した。きっと自分は根っからの日本人なんだと思う。
著者の「私は、私だ。私は女性で、そして最高だ」と言い切れる、心から思えることは、とても素敵なことだと思うし、自分もそうなりたいと思った。
他にもたくさん心に響くフレーズがあり、またいつか読み返したい。 -
また、西條奈加さんと間違えた。
西加奈子さんの、乳がんの闘病の様子。
コロナ禍の最中に、しかも、カナダで発症した。
当たり前と過ごしている、日本の、完璧な医療制度と比べ、カナダの医療は、戸惑うことが多かっただろう。
私も、同じ、ガンサバイバーである。
13年前の6月にシコリを見つけ、抗がん剤、手術、放射線治療、分子標的治療。
その頃、同じ病気の女性から
「情報交換の為、親睦を深める為」と、グループに誘われたが、どうしても、同病の人たちとつるむ事ができず、断った。
今も、この作品を手にしたことを後悔している。 -
西加奈子さんのご家族や友達がとても素晴らしい方たちだというのがこの本から伝わってきました。
私も私に関わってくださる全ての人に感謝を忘れずに1日を過ごしていきたいと思いました。
普段日本人であることを意識しないため、この本を読んであらためてたくさんの国があって国の数だけ文化もあるのだと気づかされました。 -
西加奈子さん初のエッセイてす。(エッセイという、ふんわりした言葉が会わない壮絶な内容です。)
人生の指針となる言葉がたくさん散りばめられていました。
あまりにも多いので、いくつかに絞り込もうと思いますが、皆さんだったら、どれを選ばれるのでしょうか? -
【メモ】
今でも、自分がこの街にいることが信じられない時がある。
今までいろんな国に旅行に行って、その度に「この街に住むとしたら」、そう想像してきた。その想像は無責任で、だからこそ楽しく、尽きることがなかった。今、その想像が現実のものになっている。私はバンクーバーにいて、バンクーバーで暮らしている。それが限られた期間のものだったとしても、やはり実際に住むことがもたらすものは大きかった。
こちらに引っ越してしばらくしてから、自分がある種のストレスを感じていないことに気がついた。街が静かなのだ。それは、音がない、ということだけではなく、脅しのような広告や、ポルノ紛いの絵や写真を見ないことに端を発する静けさだった。
東京にいたときは、それを別段おかしいと感じた記憶はなかった。聴覚に訴えかけるものであれ、視覚に訴えかけるものであれ、街にざわめきはつきものだ。そしてそのざわめきが程よい刺激になるのだと。でも、バンクーバーに来て、街の静けさに触れ、改めてそれがストレスになっていたことに気づいた。
私は東京が好きだ。大好きだ。今も恋しくて、帰りたくて堪らない。でも、私は街中で性的なものに出会いたくなかった。私は街中で子供に性的なものに出会ってほしくなかった。それが明らかなポルノではなかったとしても、性的な何かをにおわせるものには、簡単に出会えた。そして欲望の対象はいつも若い(どころか幼い場合もある)女性たちだった。
自分の身体を取り戻す、ということを、よく考えるようになった。
私は今まで、あらゆるものに影響を受け、それを内面化し、結果自分が本当はどういう自分であるのか、何を愛して、何を嫌悪するのかを、少しずつ手放していったように思う。やはり「老けたくなかった」し、「毛を処理していないとみっともない」と、どこかで思っていた。それらすべてを手放すことが正しいわけではないし、実際に私はすべてを手放せていない。でも、流行りの服を放棄し、ムダ毛の処理を、そしてファンデーションを塗るのをやめた私はその分、何かを取り戻しつつあるように思う。少なくとも今の私には、バンクーバーのこの静けさが必要だった。
「カナコさん、日本と同じような感覚でいたらダメ。こっちでは、とにかく自分でどんどん聞いて、どんどん意見を言わないと。」
それは、初めてユキエに会った時から、言われていたことだった。
「自分のがんのことは、自分で調べて、医者任せにしないこと。少しでも治療に対して疑問があったら、遠慮なんていらないから、どんどん聞くの。」
「自分の身は、自分で守るの。」
抗がん剤治療で何が一番辛かった?と、よく人に聞かれた。気持ち悪さ、口内炎、便秘、色々副作用はあったのだが、何かひとつの症状を特別に挙げることは、私には難しかった。ただ、治療中、私の場合は4ヶ月間、一日も絶好調の日がなかったことが辛かった。
見つめた先にあったものは、大抵、私の内にある恐れだった。それは本当に頻繁に、頻繁に現れた。例えば何かに腹が立った日、その感情をずっと見つめ、解体し続けると、最後に現れるのは恐れなのだった。怒りや苛立ちなど、一見、恐れから遠いような感情に見えたとしても、それは必ずと言っていいほど、恐れから端を発していた。
恐れには形がなかった。実体のない塊として私に取り憑き、時には恐れそのものも、何かに怯えていた。私は恐れを哀れに思うようになった。長らく私の体に寄生し、私の感情の発端となってきた恐れは、私自身が作ったものだった。私は恐れの母であり、父であり、友だった。私は恐れを抱きしめた。私が作り、長らく私を苦しめてきたこの恐れを、私は今こそ自分の、このたった一人の自分のものとして、抱きしめなければならなかった。
私たちはどのような状態であっても、自分自身の身体で生きている。何かを切除したり、何かを足したりしても、その体が自分のものである限り、それは間違いなく本物なのだ。本物の私たちの身体を、誰かのジャッジに委ねるべきではない。これからも本物の自分の人生を生きてゆくために、私は自分の、自分だけが望む声に耳を澄ますことにした。そしてその声は、自分にはもう、乳房も乳首も必要ないと言っていた。
「1977年5月7日生まれのニシカナコです。」
自分が生まれた日と、自分の名前を繰り返し伝えていると、自分の存在が解体されていくような気がした。あれ?私って1977年5月7日生まれなんやっけ?私の名前って、ニシカナコなんや!強烈な眠気を誘う投与中は、時々、自分が幾百にも分裂してゆく、奇妙な夢を見た。
私は、どこにいるのだろう。
遡れば、それは、告知された時の「まさか私が」という感覚に繋がっているのかもしれなかった。ステージ2Bのトリプルネガティブ乳がんを患っているのが「自分」だと、私は心のどこかで、どうしても認めることが出来ていなかったのではないだろうか。治療を受け入れながら、私はずっと、「こんなことが自分に起こるはずがない」と、きっと思って来たのだ。恐怖からくる離人かもしれない。生きたい、と強く願い、死ぬことに心から怯えている「ニシカナコ」を、私はやはり、一定の距離から眺めていた。
「アジアにアジア人はいない。」
そう言っていた。その言葉は、そのまま日本人にも当てはまるのではないか。日本に、「日本人」はいない。少なくとも私は、自分が日本人であることを、こちらに来て初めて意識することになった。いや、初めてではない。思い出したのだ。
幼い頃は、その感覚を持つことが出来ていた。エジプトにいたとき、言語化出来ないまでも、自分はこの国の人間ではない、他者である、という感覚を持っていた。日本に帰国してからも、しばらく私は他者であり続けた。日本の学校に馴染めず、皆と同じものを食べることが出来ず、給食時間が憂鬱だった。でも、私はいつの間にか慣れ、馴染み、あっという間にマジョリティの仲間になっていった。自分の他者性を捨てることで皆と近づき、集団に溶け込むことは息をすることを楽にした。それは同時に、他人の他者性を忘れ、マイノリティの存在をなきものにすることを受け入れることだった。私は「当然」を手に入れ、「普通」の中で穏やかに暮らしていたが、その陰で、「そこ」にいようとあがき、そしてそれが叶わず、あるいは許されず、苦しんでいる人たちがいることに、長らく、本当に長らく思いを馳せなかった。
東京が特別なことは分かっている。でも、こうも何かを提供され続けると、頭が混乱した。とにかく刺激に対して、休む暇がないのだった。そしてそれらが、狭さから来ていると、私は徐々に思うようになった。
狭い台所で涙ぐましい努力をしていた私と同じように、各店も、企業も、この狭い場所で何とかスペースを確保するために、努力を必要とされる。スペースは、社会的な居場所にも変換される。社会的な居場所がないと、金を稼ぐことが出来ないし、もっと極端なことを言うと、生きてゆくことすら困難になる。他の店と同じではいけない。他の企業と同じことをしていてはいけない。少しでもスペースが空いていたら何かに利用するべきだし、顧客に精神的な余白があるのなら、それを逃す手はない。
日本の人口はおよそ1億2500万人だ。そのうち東京には約1400万人が暮らしている。一方、日本のおよそ27倍の国土面積を持つカナダの人口は約3700万人。前述したように、労働時間は最小限に抑え、自分達のプライベートの時間を持つことは当然の権利であると考えている。彼らには余白がある。涙ぐましい努力をせずとも台所はたいてい十分に広く、一食や二食無駄にしたところで、自分で美味しいと思うものを料理する時間はたっぷりある。「豊かさ」の概念が、日本とは異なっているのではないか。
日本の物理的な狭さは、カナダ人の思うところの「豊かさ」を、私たちから奪う要因にもなっている。自分のスペース、居場所を確保するために、日々努力を続ける企業や店のおかげで、私たちは低価格で素晴らしいサービスが受けられ、美味しい食事にありつける。だが、一方で、それを提供するために、人は多大な、そしておそらく過剰な努力を強いられる。ほとんどの人は誰かに何かを提供する職業についていて、そして中でも多くの人が自分の物理的な、そして時間的なスペースを削ってまで他者に尽くさなければならなくなるからだ。そしてそんな人たちが自分達の仕事を離れた時、やはり自分のスペースを守るために、どうするだろうか。
バンクーバーに数年いた私が感じたのは、日本人には情があり、カナダ人には愛がある、ということだった。感覚的に感じたので、その違いを説明することはなかなか難しいのだが、カナダ人は、「愛を持って人に接する」という強い意志と共に行動しているように感じる。信仰のあるなしにかかわらず、愛を持って人と接することは、そして、愛のある人間として生きることは、彼らの尊厳の問題なのではないか。
愛がいつも良き心、美しい精神からきているのに対して、情は必ずしも良き心や美しい精神からきているとは限らない。だから情は、それによって状況をさらに悪化させたり、時に人間を醜く見せたりもする。情に流されて悪事に手を染めたり、絶対に許すべきではない人を許してしまったりする。絶対に分かり合えない、顔を見たくないと思っている誰かの悲しげな背中を見た時にホロリとしてしまうのは情なのではないか。明らかな悪縁だと分かっていても断ち切れず、また手を伸ばしてしまうのは、情なのではないか。
日本人の手は、情でしっとりと濡れている。そしてその湿度は、時に素晴らしい芸術へと昇華される。決して雄大とは言えない国土で、日本人は深みのある美、そしてその背後にあるものを見つけることに、非常に長けている。
私は、いわく言い難い複雑な感情を覚えていた。もう終わった、もう何も心配することはない。その幸せは、表現するのも困難なほどなのに、同時に、身体を訪れてくる寂しさは、抗いようがないほど強かった。
この気持ちは何なのだろう。
どうして私は、こんなに幸福なのに、同時にこんなに寂しいのだろう。
本当にこれで終わりなのか?
今後まだ、恐ろしいことが自分を待っているのではないか?
どこかでそう考えている。そしてその思考は、最高潮に幸せな瞬間に浮かびやすい。この幸運が信じられない、だからこそ、それを失うのが怖い。
この気持ちは何なのだろう、そう思っていた。でも、何のことはない。それはありきたりの感情だった。私たちは、100パーセントの気持ちで幸福を感じながら、同時に、100パーセントの気持ちでそれを失うことを恐れる生き物なのだ。「幸せすぎて、怖い」と、人類で初めて言った人は、誰なのだろう。
真実はシンプルだ。私は、日常を完全に取り戻したのだ。絶対に手放したくない、そう恐怖に駆られるほどの、素晴らしい日常を。そしてその日常は、以前と同じではあり得ない。私は未知の恐怖を孕んだ、「新しい日常」を送ることになるのだ。
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