- Amazon.co.jp ・本 (218ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309205861
作品紹介・あらすじ
東欧の元諜報部員、国連平和維持軍の被曝した兵士、ハンガリー動乱で対峙した二人の将軍、古びた建物を駆け抜ける不思議な風の歌…。ベルリンの壁崩壊以後、黄昏ゆくヨーロッパをさすらう記憶の物語。
感想・レビュー・書評
-
驚いた。1週間ほど前に休みがとれたときこの『老いは時をいそぐ』を読み終わったところだった。なんとなくすぐには感想が書けず、少しゆっくり考えたり読んでから書こうと思っていて、どんな作家なのだろう?とWeb検索しているところで訃報に接した。今月25日に亡くなられたとのこと。
堀江さんの帯の文章と雰囲気、気分的になんとなく外国文学を1冊、と思っていたところで手に取った。今回初めて読むタブッキ。
タイトルからしてそうだが、時間というものについていろいろと感じさせるところの多い小説である。何となくなのだけれど、時をめぐるものを書く人というのは、どこか豊かな知性と優美な雰囲気、そして時代を生き抜く剛健な印象をなぜか個人的に与えられてきている。的外れかもしれないが、私が思い浮かぶのは吉田健一、金井美恵子のような作家。プルーストなんかも病弱というイメージもあるけれど、一つの作品に対して思いを傾け続けることができる、という点で、私にはどこか力強いイメージがある。
時間をめぐるある種のすぐれた書物というのは、ある程度の長い時間に対する変化への、人生を賭けての観察のようなところから生まれるような気がする。つまり、ある程度生き延びること、もしくは自分は明日も生きているという感覚が前提になっていると思う。もちろんこれはそういうものもある、ということで、「明日死ぬかもしれない」という思いの中で書かれるものにも、それはそれで魅力あるものがある。ただ、生き延びた上で、時間について振り返る時、そしてそこに、豊かなものを見る眼とそれを文章に落とす力が作家に備わっている時に、すぐれた考察が一つ落とされるのではないか、とこの本を巡ってなんとなく考えていたのだった。
収録の「将軍たちの再会」のようなものを読むと、長い時間によって醸成される輝くような一瞬のことについて考える。そんな時が私にも訪れることがあるだろうか?と。
ただ、訃報に接したことで、またこの本への印象も少し変わった。この本が出された時の自身の年齢等を鑑みながらタブッキが何を感じていたのか? そして、そこから最期の時の間に、どんな時間があったのだろうか? そんな所に思いを致す。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
タブッキを手にしたのは、須賀敦子さんが『インド夜想曲』の訳者だったからですが、『逆さまゲーム』や『島とクジラと女をめぐる断片』など、ユニークなタイトルからも夢と現実のシームレスな混淆の世界がぽんと目の前に放り出されたような、居場所の定まらない夢のような心持になる。最終章で主人公は幻想的な修道院に辿りつく。そしてストーリーは『インド夜想曲』のように、物語構想と現実が渾然となったところで、虚空に吸い込まれていくように終わる。これはつまり9つの物語すべての終点でもある。そして自己という存在の。
-
『歳月はひとを巻き込んでは、かつて実際に起きたことまで幻にみせるものだ。そんなことを考えながらベラ・バルトークの音楽を聴き、ニューヨークの空に沈む太陽の下、健康維持のためと称してセントラル・パークまで義務みたいにして散歩する』ー『将軍たちの再会』
タブッキの突き放したような生に対する達観の奥には、連ねられる言葉と裏腹に、ひどく凡人染みた未練のようなものがある。それが不条理な世界に対するタブッキ独特の身の振り方なのだと思う。それこそが自分がタブッキに惹かれる大きな要素なのだけれども。
タブッキが取り上げる世の中の不条理は、往々にして主義主張に付随する不自由さに由来しているような気がする。そういう状況の中でタブッキが取り上げるのは常に自分の意思とは関係なく不条理に絡め捕られてしまう人々だ。おかしなことに、自分の意思とは関係がない、ということは、世の中の流れにただ流されているだけ、ということを意味しない。ディレッタントの旗を振る人であったり、祖国を守る立場に立つ人であったり、と、むしろ自分の主義主張をはっきりと持つ人であると他人の目には映るであろう人である。しかし、その他人からはそう見えるであろう役割に居心地の悪さを覚えこそすれ、昂揚感など微塵にも感じない、という人物ばかりが登場するように思えるのである。
『ふと気づけば両手に弾力を失った風船がのっている、誰かが盗んだのだ、いやそうではない、風船はちゃんとある。中に入っていた空気が抜けただけ。そういうことだったのか、時間は空気だったのであり、気がつかないほどのちいさな穴から空気が抜けるのをそのままにしてきたということ?』-「『円』
そうして時間が過ぎ去っていく。むしろ「時間だけが」と言った方がよいかも知れない。本人は周りの変化に対応することを拒絶しているつもりですらないのに、気が付けばいつも時間だけが過ぎ去っており、変化を拒絶したかのように佇む自分がこの現在に存在している。あの時代でも、仮にそう呼んで懐かしむことのできる時が本人にあったとして、決して居心地の良さを感じることはなかったけれど、今、この瞬間に自分自身を見出している時代には輪をかけたような違和感を覚える。すべて物語がそんな風に進んでいく。
『ひとつ学んだのは、物語ってやつはきまってわたしたちより身の丈が勝っていて、わたしたちの身にふりかかったときには、気づかないまま主人公気取りでいる』-『将軍たちの再会』
確かにそうなのだ、と思う。物語は、勝手に原因と結果を結び付け、本人の断りなしに本人の行動を定義する。そしてそれに対して責任を取れと迫る。もちろん、そんなことはできやしない。しかし、それでも「本人の意思」と周囲が誤解して看做している、その「原因」の種のようなものが、どの主人公の中にも、自分は見出せるような気がするのだ。それを自分は、全体主義に対する嫌悪感であるとみる。
『我々の国では、暴力といえば灰色、モノクロームでもなく、灰色でした』-『フェスティバル』
全体主義に駆られた社会の中に溢れる「白か黒か」的な脅迫は、その発端となる精神が如何に正義心に満ちたものであろうとも白の(あるいは灰色の?)選択のみを迫る時点でファッショと同じことである。ここに一筋縄ではいかないタブッキ独特の反骨精神の根源があるように、自分は思う。そのことが最も際立って表れているのが「将軍たちの再会」という短篇だ。
ニューヨークのセントラル・パークで耳にするバルトークが(あるいはそれはドミトリ・ショスタコビッチであってもよい、とハンガリー人ではない自分は思うが)、過去を語らない主人公の頑固に閉ざされた精神を一瞬だけ解放する。しかしその解放された気持ちを義務のような日常に押し込んで再び蓋をするシニカル。そこには何も肯定したくない、肯定すれば再び物語に絡め捕られてしまう自分が居るということを自覚する精神活動が存在する。それがよしんば美しく響く物語であろうとも、そこに自分の身を置きたくはない。そんな気持ちが透けて見えてくる。だから、タブッキを読むということは勇気をもらうということと同じなのである。 f -
短編集。須賀敦子さんのエッセイで知った。登場人物たちの語りによって徐々に状況が明かされていき、はっきりとわかった瞬間の、目の前が開けたような気持ち。開放されたような、心細いような、不思議な余韻の残るお話ばかりだった。
-
文学
-
図書館
-
タブッキを通勤電車で読む幸せよ
示唆に富んでいる、以外の良い言い回しを知りたい訳だが、これは腰を落ち着けて音楽なしで読むべきだなと。遡って色々読みたい。書評も読みたいね。ピアチェーレ! -
過酷な歴史を生き抜いてきた人たちの記憶を巡る物語。
時に難解で、時に捕らえどころがなく、時に皮肉のようなおかしみを漂わせ、我々は主人公たちの不確かな内面へ導かれる。 -
渋谷区で借りてもらった。
千葉の図書館は本がなさすぎる(T_T)
タブッキの最後の著書になるのかな?
前作がダマセーノ・モンティロだとすると、ほんとにずいぶん間があいた。
短編集だけど、はじめの一編から、なんか意外!と思った。
訳者がいつもと違うせいかな?
だいぶ現代っぽい匂いがした。
ダマセーノのときも少しそう思ったかも。
全体に、いつもの幻想的な感じよりは少し殺伐としてるというか、現実味があるというか…あの乾いた感触はタブッキだなぁと思うんだけど。
タイトルさながらに、時代とか過去とか人生とか、そんなものがテーマに組まれているのかも?
風に恋して とかフェスティヴァル とかちょっと意外な側面。
いきちがい で終わったのがなんだか良いと思う。
すっきりさっぱり解決しない物語が好きだから、タブッキの深いような掘り下げてないようなふわふわした感じはすごく好きだ。
水面だけたゆたう感じ。