- Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309208275
感想・レビュー・書評
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<森には、もう誰もいない。P3>
エストニアの作者による、失われる少数民族の寓話的長編小説。
かつてエストニアの人々は森に暮らし、蛇の言葉を話していた。
蛇の言葉は動物たちと気持ちを通わせ、彼らを操ることもできる。
だがもう蛇の言葉を理解する動物もほぼいない。
ファンタジーというか風刺的と言うか寓話的なのだが、森の人々はエストニア人、森から村に出ていった人達が憧れるのはローマの教皇や司祭たちなど、現実と即してもいる。
森に住む人々は、洞窟や洞穴や木の小屋に住み、毛皮を着て、川の水を飲み、火を通した肉を食べる。ウサギやシカに蛇の言葉をかければ彼らは自分から首を差し出すので、肉はいくらでも手に入る。女たちは年に一度みんなであつまり木のてっぺんに登り月の光を浴びながら裸で自分自身を鞭打つ儀式を行う。自己研鑽のための満足感を得る。
かつて鉄で身体を覆い船に乗って攻めてくる侵略者たちがいたが、森には巨大で空を飛ぶ大蛇サラマンドルいて敵を一掃していた。
だがサラマンドルはもうどこかで眠りについている。どこにいるのかもわからない。目覚めさせる方法もない。
他に森で蛇の言葉を理解するものは、好色なクマたち、より原始的な暮らしを送る猿人たち、そしてもちろん蛇たち。
だが人々は森の暮らしを嫌がり、村に出て、パンと小麦のおかゆ(オートミール?)を食べてワインを飲み、教会の洗礼を受け、去勢された修道士たちや鉄の鎧兜をまとう騎士に憧れる。村の人々には明快な序列がある。自分たち農夫は教会に、ローマの司祭に、騎士たちに従わなければいけない。序列というのは文明の証なのだから。
「どうしてエストニア人たちは文明化に1番乗り遅れなければならないのか?我々も他の民族と同じ権利を持っても良いのではないか」
ここで皮肉なのは、森にいる人々も、先祖からの森の暮らしの本質を忘れてしまっているということ。
本来は、蛇の言葉で動物たちと意思を通わせたり、必要なものだけを手に入れて、序列もなく暮らしていればそれで良かった。
しかし森の人々が少なくなると、一部の人達は古来の正しい生活に拘るあまりに、見せかけだけの精霊の存在を作り上げ、本来は不要な生贄の儀式を行い、普通の木や泉を神聖視して無理やり意味をもたせることで、森の暮らしを引き継いでいると思い込むようになる。
それは村の人々と同じだ。村人たちは森の生活を恥に思い、森にある蛇の言葉を話す人々や動物の姿が見えなくなり、その代わりに有りもしない精霊や人狼を信じ込んでいる。
語り手のレ−メットは、森で生まれた最後の子供であり、家族の中でも最後の男、妻にとっては最初で最後の男、蛇の言葉を話す最後の人間、そして誰もいなくなった森で最後の人間となる。
人々はもう森の生活の本質を理解しなくなっている。友人も村に移住し、家族は次々に殺され、動物たちも蛇の言葉を理解しなくなってゆく。
もはや森からも、人間からも、そして自分からも腐敗臭しかしてこなくなる。
森の人々、村の人々は、互いに殺し合っているうちに自分の家族が殺され、自分も殺される。
<恐れなければならないのは、森の精霊ではなく、その存在を信じる者たちだ。あんたの神にしても同じこと。修道士たちが森の精霊に別の名前をつけたに過ぎない。例えば、修道士がぼくに洗礼名をつけたとしても、なにかが変わるわけじゃない。どんな名前であれ、ぼくはぼくで有り続けるのと同じように、森の精霊にしても同じ、どんな名で呼ぶにせよ代わりはしない。ぼくはその遊びには乗りたくないP275>
失われる少数民族を書いているが、決して理想化していない。
ファンタジーでありながら、残酷で過酷で冷酷な現実描写、そして息苦しく悪臭が漂うような描写が続く。
すでに失われたものへの郷愁と、いままさに失われつつあるものの腐ってゆく匂い。
少数派も、文明もどちらも美化はせず皮肉に、しかし哀愁と生きようとする目線は力強く感じる物語だった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
日頃から戦隊モノを視ていて奇想天外には慣れていたはずだが、かなりぶっとんだ内容だった。作者はエストニアだそうだが全く国籍関係ない。日本で例えると、ムラの風習と野蛮と決めつけ、迫害する町の人間と戦うという図式。主人公は身内や仲間を惨殺された少年なんだが、なんだか世界観もぶっとびすぎてるし、どうもこの少年に正義を感じられなくて、うーん。とにかく登場人物のキャラが濃くて(性格でなくて生態)郷愁みたいなのが漂っていて始終ざわざわしながら読みました。作者のメッセージは「人間でいる限り幸せを感じることはない」ってこと?
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2007年にエストニアで出版され、ベストセラーになった小説。2段組み355頁は、見た目の重み以上に多くを訴えかけてくる物語であった。
タイトルどおり、蛇の言葉を話した男の話。「森」に住むその男(最初は少年)を中心に、クマと結婚する姉、かつてクマと不倫(!)していた母、蛇や人間の友人たち、おじさん、毒牙をもつじいちゃん、そして、文明や宗教に心奪われつつある「村」の人々の本性をえぐっていく。
そして、「森」に住む人々のなかにも、古い古い伝統にとらわれすぎた悪人や、「村」に住む人々のなかにも、森の人間に興味をもつ娘がいて、善と悪、愚かさや賢さでは決して区別できないさまざまな人々の生き方が描かれる。
彼らそれぞれが自らの生を精一杯生きているのだが、そこには、悲しいかな、争いが絶えることはない。
フランス語版訳者による解説で印象的だったのは
「どれほど自分たちが伝統的だと思い込んでいても、私たちはいつでも誰かよりも新しい人間」「どんな伝統も、ある日生み出されたもの」という言葉。
遠い国で書かれた、いつの時代背景のものともわからぬ壮大なファンタジーは、今、この現実社会を生きる私たちに、355頁、2段分は、じっくり考えさせてくれる。考えなくてはいけない。
でも次は、もっと軽い本を読みたい…(バランス)。 -
文学ラジオ空飛び猫たち第60、61回紹介本。 エストニア発のダークファンタジー。 蛇の言葉を話すことができる森の民の話。かつて外敵から森を守った伝説のサラマンドルを目にすることを夢見た少年の成長物語であり、一方で孤独と幻滅を描いた作品でもあります。原始的かつダークな世界観は「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」にも通じると思いました。 ラジオはこちらから→https://anchor.fm/lajv6cf1ikg/episodes/60-e19hin4
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とても面白かった。レーメットの言葉は端折られる部分が少なくて、読みながら窒息するかと思った。
主人公が悪態ついてる本は一気に読みやすい。
あの帯の寒気がする文言に最初は怯んだけど、読んで良かった。早く帯が変わる事を祈ってます。 -
本の雑誌・新刊めったくたガイドから。いつも通読はするし、『これ、面白そう!』って思う本も結構あるんだけど、実際に間髪入れず手に取ったのは初めてかも。それだけ気を惹かれたってこと。そして、本作は大正解でした。引き出しが少なくて、例えが難しいんだけど、自分的にはアイアマンガーを思い浮かべました。世間と距離を置いて、独特の生活を続ける人々。だからといって一枚板という訳ではない、超個性体な面々。文明との衝突が避けられず、争いへと繋がっていってしまう運命。そしてそれらが全て、自分にとっては通底する魅力と感じられたわけです。多少なり、グロテスクだったりはするけど、本作については、それも含めて大いに楽しませてもらいました。
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図書館の新しい本のコーナーの棚にこの本は残っていた、まだ誰も借りていない様に。
バルト海3国の内の一国、エストニアで発行されベストセラーになった本であるとの説明。その見知らぬ国でベストセラー、これに興味を惹かれ借りて読む。
興味に繋がりそうもないページが淡々と続き根気が萎えそうな真ん中ぐらい、森の精霊の生贄にされそうなヒーエを主人公のレーメットが救出したあたりから面白くなって来た。
主人公が会得した蛇の言葉で蛇や他の動物、昆虫と繋がり、伝説の蛇サラマンドルの崇拝、キリスト教、騎士、修道士、村の生活を否定し、敵対する者を蛇の言葉を駆使して襲い、結局自分1人だけとなり眠りにつくストーリー。
エストニアでベストセラーとなった理由が理解出来た様な出来ない様な感覚で読了。
外務省情報によるとエストニア人の国民の半数以上が無宗教である由、ヨーロッパ諸国ではどの国も国民の大多数がキリスト教信者の国と思っていたが、そうでもない国があるのだという事を知り、それでこの本がキリスト教を否定している様に書かれているのだろうと勝手に解釈した。