- 本 ・本 (296ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309208992
感想・レビュー・書評
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“ときには一人の人間の死が、別の人間を釈放する許可証になることがある。私は完全に解放されたわけではないかもしれないけれど、じゅうぶんに解放された。”
かつての友への手向けの言葉としては、なんと哀しいのだろう。
ただの子供時代の友というだけではない。
私と彼女 ーアニエスとファビエンヌという名の二人の少女ー は、アニエスの言葉を借りれば、一心同体のひとつのオレンジ。
“南を向いているオレンジの半分がもう片方の半分に、日差しがポカポカすると口にする必要はないだろう”
ファビエンヌに言わせれば、昼と夜。
“昼と夜でもない時間なんてある?あんたとあたしが一緒にいれば、時間を全部占拠できる。あたしらの間にすべてがあるの”
対照的なな言い回しとはいえど、確かに完璧な組み合わせだった二人が離れていったのはなぜか?
切ったオレンジをくっつけても、一つには戻れない。
本書は、アニエスの成長物語のように読める。
華々しく文壇に登場したものの“偽りの神童”であったアニエスが、甘やかな少女期を超えて自我と自らの言葉を獲得し、本当に一冊の本を書き上げたのだから。
しかし、その読みはあまりににも表層的すぎるだろう。
アニエスが書き留めたかったこと- 取りも直さずイーユン・リーが書きたかったことでもあるわけだが -、それはファビエンヌが、何に復讐しようとし、敗れ去ったかだ。
ファビエンヌが挑んだ、勝ち目がなかった孤独な戦いの記録なのだ。
ファビエンヌは幼くして母と姉を亡くしてから、家事と農場の動物の世話に追われて学校に行くことをやめている。サン=レミは、女ならば家族の世話をして、成長したら結婚して労働力となる子供を産むことしか期待されないような、貧しく閉鎖的な田舎の農村だ。
誰からも価値を認められない彼女の強烈な個性は、アニエスというすべてを受け止めてくれる器以外には向かう先がない。
ファビエンヌの“ゲーム”は、退屈な現実を超越する手段だ。彼女こそがルールであり、現実が自分を無視するのなら、自分にふさわしい“現実”を作り出す。死さえも、彼女を捕らえることはできない。
ファビエンヌが、自身が女であること、男女の愛をどう思っていたかはわからない。でも、本を書くというゲームに深く関わることになった郵便配達夫のドゥーヴォーや、アニエスに与えた空想のボーイフレンドへの突き放すかのような仕打ちをみると、遠からず訪れる性的な成熟を前にした自らの女性性への怒りが感じられるのだ。
ファビエンヌは何と戦い、敗れたのか。
超えたと思っても上書きしてくる“現実”、抜け出せない世間、女性として求められる生き方。
いや彼女を本当に打ち負かしたのは、大人になってゆくこと、成長してしまうこと、そのものだろう。
蛹から羽化するように、硬い種子が割れるように子供時代に別れを告げる人もいる。
一方で、内から発する光が薄れてゆくように、湧き出していた泉が涸れてゆくように子供時代を終える人がいる。
残酷なまでに互いの未来が見えたとき、アニエスとファビエンヌは、離れてゆくしかなかった。
“互いを殺したいと望みながらできず、互いを救いたいと望みながらもできなかった”、あの日を境として。
もう一度、この言葉を引用したい。
“ときには一人の人間の死が、別の人間を釈放する許可証になることがある。私は完全に解放されたわけではないかもしれないけれど、じゅうぶんに解放された。”
この言葉を誤解してはいけない。ファビエンヌの影響からの解放を意味するのではない。
死は、ファビエンヌと私の真実について沈黙する生き方を破り本書を書き始めるための、許可証となったのだ。
私たちが何ものだったかを、どう生きたかを今度こそ伝えるために。
“生きることはじゃんけんみたいだとよく思う。運命が希望を打ち負かし、希望が無知を打ち負かし、無知が運命を打ち負かす。”
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著者、イーユン・リーは北京生まれ。北京大学で生物学を専攻し、アメリカに留学して大学院で研究を続けていたが、進路を変更して創作の道に入ったという、なかなか変わった経歴。
創作は中国語ではなく英語で行っている。
中国を舞台にした作品が多いが、本作はフランスに住む少女たちを主人公とする。
訳者のあとがきによれば、著者はこう語っている。
人々は“中国について書けないか”と言います。ええ、中国について書けますけれども、中国だけが私のテーマではありません。私は友情についても書けますし、フランスの少女の友情について書くこともできるのです
作家たるもの、それはそうだろう。
主人公はアニエス。愚かではないが、才気煥発というわけではない。ある意味、普通の女の子である。
彼女の友達のファビエンヌは感性豊かで感情の起伏も激しい。
2人はフランスの片田舎に住む。性格の違う2人だが、結びつきは強く、お互いの間にしか通じない絆がある。2人には独自のルールの「遊び」があって、その延長線で「小説」を書くことにする。アイディアを出すのはもっぱらファビエンヌ。アニエスはそれを言葉にする役だ。2人は村の大人の助けも借り、「作品」を作り上げる。
それだけなら「遊び」で終わりだった。
だがそのちょっと風変わりな「作品」が都会の大人たちの興味を引く。
村の純真な少女がどこか暗さのある先鋭的な作品を書くとは。
大人たちは少女を都会に連れ出し、教育を施そうとする。原石を磨け、というわけだ。
だが、彼らは誤解していた。この作品を作っているのが1人の少女だと。
ファビエンヌは自身が都会に行くことを拒否し、アニエスに1人で行けという。それもまた、彼らの「遊び」の延長だったのだ。
そうして2人の人生の歯車は少しずつ食い違い、2人の友情も形を変えていく。
「神童」と(勝手に)言われた少女は、イギリスのフィニッシング・スクールに入れられる。そこで型にはめようとする教育を受けるのだが、アニエスにそれは合うはずもない。
村に残ったファビエンヌとは文通を続けるのだが、それすらも学校の先生のお眼鏡にはかなわない。
イギリスとフランスに隔てられた2人の間の物理的な距離。しかしそれ以上に、心の距離は開いていくのだ。
そして時は流れ。
ファビエンヌはもういない。お産の際に死んでしまった。
アニエスは流れ流れて今はアメリカにいる。そして家でガチョウを飼っている。
ガチョウはばかだと人は言う。でもガチョウが見る夢を人は誰も知らない。
アニエスは自身をガチョウになぞらえる。
彼女は真の作家になるだろうか。ガチョウの見る夢を描き切ることはできるだろうか。 -
主人公アニエスとその親友ファビエンヌのふたりの少女の子供時代の友情についての物語。彼女たちの感受性の鋭さといい自意識の強さといいい、大人たちを翻弄するところと言い、どことなくフランソワーズ・サガンの小説に登場する少女を彷彿とさせる。
読者それぞれに着目点があると思うが、私は
ふたりの少女のうち、ファビエンヌが若くして先に世を去らねばならなかったのは必然だったのだと思う。才気煥発だけど、ストライクゾーンの狭かった彼女。この世に生きる生物にとって、案外このストライクゾーンの幅は重要で、自ら狭めてしまう生物にとりこの世は生きにくいものだと、2匹飼っていた猫のうち賢いがストライクゾーンの狭かった若いほうが先に旅立ってしまったことからも思う。
作者の息子さんを若くして失っている自らの体験からも、この成り行きは必然だったのではないか。また、少女たちの母国フランスや英国での生きづらさは、作者の母国である中国や留学先である米国での違和感や体験に基づいているように感じる。とすると、この作品は自伝的要素のある作品だと言えると思う。 -
大人に可愛いげのない子どもと思われていた人に強烈におすすめしたい。
『悪童日記』シリーズとか、『夜が明けるまで』とか可愛げのない思春期の少年少女を主人公にした小説が好きな人なら、あるいはシャーリー・ジャクソンとかフラナリー・オコナーとかミュリエル・スパークとかのような人間性をクールに(皮肉に)描き出す作家が好きな人なら絶対好きだと思う。(よく考えたら女性作家ばっかり)
イーユン・リーは『千年の祈り』から3作までは欠かさず読んでいて、「中国のチェーホフ」と言われるのも納得だなあと思っていたのだが、久しく読んでいなかった。
今回読んでチェーホフとは違うかもなと感じた。じゃあ誰かと訊かれれば、イーユン・リーでしかない。ということは彼女は彼女の世界を確立したのだと思う。
これは、誰からも必要とされず理解もされなかった少女たちの思いを描いた名作である。あたたかくはないが、作品の底には彼女たちへの深い共感と思いやりが感じられる。
フランスの田舎で戦中の混乱期に生まれ、戦後の貧しい時期に育った少女アニエスとファビエンヌ。どこの家も貧しいが、ファビエンヌは周りよりさらに貧しく悲惨な生活を送っている。母は死に、父は飲んだくれて子どもはどうでもよく、姉はアメリカ黒人兵の子どもを産んだ後死んだ。だれも同情しない。むしろあんな家とは関わりたくないと思っている。頭と勘のいいファビエンヌが、手のつけられない嫌われ者になるのは仕方なかったと思う。
彼女には物語る才能があったが、自分は大人や世間に相手にされないことがよくわかっていたので、アニエスを作者に仕立てて作家デビューさせる。それは二人の「ゲーム」でもあった。村のやもめ男で孤独なインテリのムッシュ・ドゥヴォーを利用することも計算の上である。
アニエスの家庭はファビエンヌよりはましだったが、兄がドイツの強制労働収容所から戻って以来、体と心を壊していることに両親の心が支配されていて、彼女へはほとんど関心が向かない。
そんな中でファビエンヌがどれほど彼女にとって大きな、かけがえのない存在であったかは想像に難くない。
10代でデビューした作家が生涯作家として暮らし、高い評価を得続けることは稀である。それは彼らの才能が偽物だったからではないのではないか。アニエスとファビエンヌのように翻弄されてしまった。あるいはその才能を飼い慣らすことができなかった。大人のようには。
この作品の持つ苦味と、その奥にある憐れみに近い優しさが深く胸を打つ。
イーユン・リーが中国出身の作家であることはもうどうでも良くなった。カズオ・イシグロが日本出身の作家であることがどうでもいいように。
他の読んでいない作品も読みたいと思う。
篠森さんの翻訳もとても良かった。イーユン・リーの作品をずっと訳しているから、作品や作者の理解がとても深い。だからこそ読者も安心して作品世界に身を委ねることができる。 -
フランスの田舎町に住む13歳の少女アニエスとファビエンヌ。ストーリーを作るというゲームを2人きりで楽しんでいた。やがて、アニエスのほうが字がきれいということでストーリーを文字に起こし、町の郵便局長でやもめ暮らしのムッシュ・ドゥヴォーに見せると、ドゥヴォーは興味を示し本として出版することに力を貸すことになる。二人で作ったストーリーだが、ファビエンヌの提案でアニエスの名前で世に出ることになる。
アニエスは、天才少女とマスコミに取り上げられパリへ呼ばれる。やがて、将来のためにとイギリスのフィニィシングスクールで教養とマナーを教えられる事になり、家族やファビエンヌと離れ一人ロンドンへ。
フランソワーズ・サガンが十代でデビューし話題になった頃、十代の作家の登場が流行になったという。その中に、フランスの14歳の少女がいたが、実は偽物だったという事実に著者が興味をひかれ、この作品を書いたという。
もちろんアニエスは偽物ではなく、二人それぞれに才能があったのだが、二人がいてこその作品だった。ストーリー全体は、アニエス目線で描かれているが、二人の少女の哀しい友情の物語である。少女独特のとまどいとともにある残酷さ、二度と戻れない子ども時代の友情。心に残るストーリーだった。 -
思わぬ方向に物語が進んでいき、心の中に今も残留物がある感覚で消化し切れていない。これはただのサクセスストーリーでもアニエスの成長ストーリでもない。
昼と夜、暗と陽の二人の主人公。
子供のいたずらゲームが進みながらも、一方で無慈悲な現実に対して復讐しようとするものと、利用されるもの。最終的には望んだ現実を手に入れることはできなかった。
けれど、これも現実であり納得できる。
物理的に離れると精神的にも疎遠になることで様々なものが離れていく…。
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性生活が始まる前の子供時代におけるひとときの絆。過度な友情?恋?共依存? 世間に課された限界に気づき終焉をむかえた2人の世界。
終わらなくて良くない? 面白おかしく暮らせばよくない? なぜ不可能なのか分からないまま中年になった。今も2人で田舎で毎日楽しい。時代と場所の違いだろうか -
少女が二人でいることは、少年が二人でいるよりも、心強くて、そして苦しいのかもしれない。
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第二次世界大戦後のフランスの片田舎を舞台に、共に13歳の2人の少女のつながり(友情・愛情・憎悪)を描いた作品。語り手はアニエスだが、2人の関係において主導権を握っているのはファビエンヌだ。
ある日、ファビエンヌの提案で本を書くことになり、彼女が語る物語をアニエスが筆記していく。遊びで始めたことが、2人の思いもかけない展開をする。
物語の持つ力や、思春期の少女の残酷さ、都会に憧れる田舎人の思いなど読みどころは多い。
初読みの著者は中国系アメリカ人で邦訳も多い。図書館に蔵書があったので、他の著者も読んでみたい。
著者プロフィール
イーユン・リーの作品





