ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309227375

感想・レビュー・書評

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  • 『サピエンス全史』の著者による、人類のこれまでとこれからが科学的概念と宗教的概念を軸に描かれる上下巻です。
    上巻では人類が切磋琢磨して生態系の頂点へよじ登った経緯を辿りましたが、下巻では人間同士の熾烈な争いとそれにより強まる合理主義が主題です。
    合理主義は科学のようで宗教的側面を持ち、それこそが正しく至高であるかのように思えてしまいます。
    その行き着く先にはアップデートしていない人類を無用な存在とする社会も想定されていますが、それは現代でスマートフォンを活用できない人々が不便を強いられている点から想像に難くないことです。
    歴史学者の著者は批判的な立場から人間は全てが機械的な存在ではないという考えを読者へ問いかけます。
    しかし私は科学技術で人類の強化を推奨する思想“トランスヒューマニズム”に賛同しているので、人類をアルゴリズムに落とし込み制御や強化が可能ならば研究をするべきと考えています。
    ただ…原始的な本能や直感を失うことによる機械のような人類への不可逆的な変化は、それが正解なのか不安でもあります。
    色々な考えがありますが皆でよく検討しましょう、と本書は最後まで訴えています。

  • 現代の人は、人間は力と引き換えに意味を放棄することに同意する、という契約を生まれた日に結んでいる。私たちはどんな壮大なドラマの役者でもない。人生には脚本もないし、意味もない。

    力の追求は科学のしんぽと経済の成長を原動力としている。かつては、世界は同じ1つのパイで、誰かが多くとると、誰かの分が減るとみていた。が、いまは経済はどんどん成長するものとみていて、パイはどんどん大きくなる。かつては、原材料とエネルギーの二つしか資源が無いと考えてたが、もう一つ、知識もある。でも、経済の発展により環境破壊は進んでいる。

    意味も無く、神もない世界での生活への対応策は、人間至上主義という新たな教義だ。モットーは「もし、それで気持ちが良いのなら、そうすればいい」、政治においては、「有権者が一番よく知っている」、経済においては「顧客は常に正しい」。

    知識=観察に基づくデータ✖️数学
    であったが、人間至上主義では、
    知識=経験✖️感性

    人間至上主義は、三つに分裂した。
    自由主義的な人間至上主義
    社会主義的な人間至上主義
    進化論的な人間至上主義 だ。

    自由主義的は、他者が経験していることでなく、自分自身の感情に集中させる。顧客が常に正しい、がこれに当てはまる。ただ、同じ経験をした人同士、どちらが優れているかの判別はできなくなる。

    社会主義的は、他のすべての人の経験を考慮に入れた時に初めて自分が何を感じてるか理解できる。団結した行動によってのみ、制度を変えられる。自己探求はしない。政治では党が1番よく知っていて、経済では職種別組合が常に正しい。

    進化論的は、争いを称賛する。争いは自然選択を起こし、自然選択は進化を進める。人間に優劣があるのは当たり前で、最も環境に適した人間が他の人を圧倒する。

    100年前に時代の先端をいっていた社会主義は、新しいテクノロジーについていけなかった。21世紀の新しい発明や発見はどこでなされたか。イスラム教やキリスト教のような伝統的宗教からは何も生み出されていない。

    自由主義的な人間至上主義が優勢で、今後、不死と至福と神性を手にしようとしているが、いつ時代遅れになるかわからない。

    自由意志の存在は疑わしい。自分の欲望を感じ、それに従って行動しているに過ぎない。経験したことはバラバラなのにそれを都合の良いように物語る自己がいる。

    GoogleやFacebookなどのアルゴリズムは、いったん全知の巫女として信頼されれば、おそらく代理人へ、最終的には君主へ進化するだろう。人間は完全に価値を失う。

    これからはデータ至上主義。集中型のデータ処理より分散型のデータ処理の方がスピードが速い。権力の行き先が無くなる。

    人間は人類という大きなデータ処理システムの小さなチップに成り下がる。システム効率を高めるには、
    プロセッサーの数=人口を増やす
    プロセッサーの種類=様々な経験を持つ人
    プロセッサー間の接続=様々な都市のネットワークをつなぐ
    既存の接続に沿って動く自由=データが自由に行き来できる
    ことを増やす必要がある。

    情報は自由に成りたがっている。誰かの所有物ではなく、みんなが見れる方がいい。その方がより良くなる、というのがデータ至上主義。

    ただ、次の三つの問いが残る。
    1 生き物は本当にアルゴリズムに過ぎないのか
    2 知能と意識のどちらの方が価値があるのか
    3 意識を持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか

  • 非常にためになった。人間至上主義からデータ至上主義へ。
    確かにコンピューターにAとBとえらばなきゃいけないと言われてAを選んだほうが過去の統計から80%の確率で良い方向に向かいますと判断されればAを選んでしまうよなぁ。
    これがデータ至上主義か。今後の人間のあり方がどうなっていくか。まさに自分が生きている間に起こるであろう未来。考えさせられる。

  • (上)では真面目で長い書評を書いたので、こちらは(下)なので「下巻」についての評価を書いておこうと思う。

    『サピエンス全史』でもそうだったが、この著者は同じことをもっと短く書くことができたはずだ。長さによってその価値を増す、つまりその長さが必要な本というものがあるが、これはそうではないように思う。

    さらに悪いことには、上下巻を分けて出版する日本の出版社の意図だ。
    原本は上下巻ではなく、一巻ものである。日本語版も上下に分けずに出版することは可能であったはずだ。
    それにもかかわらず上下巻にしたのは理由がある - その方が儲かるからだ。
    資本主義ではそれが正義だと、この本を読んで考えたからなのかもしれない。この時代だからこそ翻訳者と出版社は誠実であってほしいのだ。
    少なくとも電子書籍版は一冊にしてほしい。上下に分ける意味がわからない。『サピエンス全史』では後で電子書籍は合本版をなぜか安くなっていないが出しているのだから。

    さらに言うと、原題は”Homo Deus: A Brief History of Tomorrow”だ。「短い」歴史と断っているのだから本でももっと短くしてほしい。もっと言うと前作『サピエンス全史』も”Sapiens: A Brief History of Humankind”だったんだけれども、できれば、原題と同じように「短い歴史」で揃えられればよかった。「全史」みたいなワードを使って二分冊にしたおかけで、著者がオリジナルで意図したタイトルのつながりが表現できなかったのは残念。

    ※ たぶんこの書評を書いた後だと思うのだけれども、上下合本版がAmazon Kindleで出ていた。それはよいことではあるのだけれど、上下両方を購入した値段と同じ価格であるのはやや納得できないけれども。

    ---
    『ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来』のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309227368

  • 壮大な人類史の未来予想の下巻。人生100年時代。科学技術の進歩により身体が拡張することで、人類にはバラ色の未来が待っているとする人もいる。一方、本書の著者ユヴァル・ノア・ハラリは人類の未来を悲観的に捉える。

    人類の歴史を俯瞰し、ハラリは他の動物と人類の違いを、情報を共有して互いに協力する力、物語、虚構を創造してそこに自分を投影する力を挙げる。例えば、神である。かつて人類は神の下に団結し、神を通して世界を見て、人生に意味を見出した。その後、科学革命により神の力が衰えてくると、ヒューマニズム、人間至上主義が台頭する。個人の感情や経験を重視する人間至上主義からは、社会主義、進化論を抑えて、自由主義が勝ち抜き、現在その中心地たる欧米諸国が繁栄を極める。

    しかし、時代はすでに次のタームに入り、科学は人間がただのアルゴリズムであり、人間に自由意志があると考えるのは幻想に過ぎないという結論に達しつつある。それはつまり、外在化し、拡張したアルゴリズム、たとえばGoogleのようなそれのほうが、私よりも私のことを詳しく知り、的確な判断を下せることを意味する。人間至上主義はあえなく崩壊し、データ至上主義の到来である。人間は世界の中心から転げ落ち、膨大なデータの一つになる。そこに私たちの居場所はあるのだろうか。意識のない知能が動かす世界は明るいのだろうか。

    Google検索やFacebook、Amazonのアルゴリズムに、旅行先から友人関係、読むべき本まで決められる時代に生きていることを改めて思う。確かに我々に自由意志はないのかも知れない。

  • 資本主義は、その全てを経済発展に捧げるという倫理的判断によって、科学の領域から宗教の領域へと足を踏み入れた。

    人類は、科学の進歩と経済の成長を加速せざるをえない一方で、生態環境の破壊よりも少なくとも一歩先を行かなければならない。

    現代社会を崩壊から救ったのは、資本主義ではなく、新たな宗教、人間至上主義だった。
    人間至上主義は、伝統的には神と宇宙の構想が人間の人生に意義を与えてくれていたものを、逆転させ、人間の経験が宇宙に意味を与えるものとした。
    人間の自由意志が第一であり、善悪の判断は、「ある行動をしたせいで、誰かが嫌な思いをしたか?」になる。
    倫理において人間至上主義は、「もしそれがいい気持ちなら、すればよい」ということであり、政治においては、「有権者が一番知っている」であり、美学においては、「美は観る人の目の中にある」となり、経済では「消費者は常に正しい」であり、教育では、「自分の頭で考えろ」ということだ。

    中世においては知識=聖書×論理であった。
    科学革命は知識=観察に基づくデータ×数学であり、これをもとに世のあらゆるサイエンスを解き明かしたが、中世とは逆に、価値や意味に対する疑問には対処できなくなった。
    人間至上主義は、知識=経験×感性とし、自身の経験と、感覚や情動を通じて人間性を高めていくこととした。

    人間至上主義には3つの種類がある。自由主義、社会主義、進化論主義(ナチス)だ。
    自由主義は個人の意思を尊重し、社会主義は他の人々の経験と価値を尊重し、進化論主義は淘汰と戦争を尊重する。
    戦争は否応なく現実を直視させ、物事の本質を短時間で明らかにする。
    いずれの主義においても、勝者は、テクノロジーと経済の実情をより理解した者であった。
    マルクス以前の人々は、生産方法についてではなく神についての見方に即して自らを定義し、区別していた。とことがマルクス以降は、テクノロジーと経済構造にまつわる問題のほうが、魂と来世についての議論よりもはるかに重要になった。

    人間至上主義は、感情と個人の意思を信頼したおかげで、とてつもない発展をしてきた。しかし、消費者と有権者は断じて自由な選択をしていないことに気づいたら、そして、人間の経験もまたデザイン可能な製品として大量生産し始めたら、いったいどうなる?

    自由もまた、人間が作り出した想像上のものに過ぎなかった。そして、進化論によれば、住処、食べ物、交尾相手など、なんであれ動物が行う選択はみな、自分の遺伝子コードを反映している。もし動物が、何を食べ、誰と交尾するかを「自由に」選んだら。自然選択には出る幕が無い。
    特定の願望が自分の中に湧き上がってくるのを感じるのは、それが脳内の生化学的なプロセスによって生み出された感情であるからだ。しかし、その欲望を感じれたとしても、その欲望を「選べなければ」、自由意志があるとはいえない。
    自分の欲望を「選ぶ」ことはない。私たちは欲望を「感じ」、それに従って行動するにすぎないのだ。

    人間には単一の本物の自己が実現する、というのは誤りで、人間はさまざまなものが集まった分割可能な存在なのだ。
    私たちの中には、経験する自己と物語る自己がいる。経験する自己はその瞬間のことしか覚えていない。ところが、物語る自己はそれが終わってから、物語の最初と最後の瞬間だけを思い出し、全体的な評価をでっちあげる。
    私たちが「私」というときは、自分を物語る自己と同一視する。私たちの物語る自己は、過去の苦しみにはまったく意味が無かったと認めなくて済むように、将来も苦しみ続けることのほうをはるかに好む。これらの物語られた経験に説得力があって魅力的だとしても、それは虚構にすぎない。

    【テクノロジーの先に】
    人間が軍事的にも経済的にも無用になるか、あるいは、経済と政治の制度は将来も依然として人間を必要とするにせよ、個人は必要としなくなる。
    20世紀のテクノロジーでは、私自身を私よりもよく知る人間はいないという個人主義者の主張は正しかったが、21世紀のテクノロジーでは、私よりも機械がよく知り、個人主義の信仰は崩壊する。

    貧しい農民の経験も億万長者の経験も等しい価値である、という自由主義の視点からすれば、格差はあって当然と考える。エリート層と貧民は、今後テクノロジーの力によって、自らを超人へとアップグレードすることで、身体的能力と認知的能力の格差が生じうる。

    20世紀は大衆の時代であった。何百万もの健康な兵士と万人の労働力を必要とした時代では、大衆医療が欠かせなかったが、今後はエリート層が、医療を一握りの超人たちを生み出すことに使うほうが効率的だという判断を下すかもしれない。

    内なる声に耳を傾けよ!という人間至上主義の戒律は、内なる声のコントロールによって、欲望をデザインさせうるテクノロジーの前では無意味になる。簡単に自分の意志と欲望を変えれるようになれば、本物の自己などどこにあるというのか?

    【人間至上主義の先に】
    人間至上主義にとって代わるのが、データ至上主義だ。
    資本主義経済は、個々の人間への分散化した十分な情報と、価格という制御弁を用いて、取引を成立させる。これはまさに分散型データ処理である。
    政治制度もデータ処理システムである。政治制度が選挙や政党や議会のような中世から続くローテクでできているが、もはやそれは21世紀におけるデータのスピードを効率的に処理できない。
    このような制度は、政治がテクノロジーよりも早く進む時代に発展した。今やテクノロジーの革命は政治のプロセスよりも早く進むので、現在の政治形態では制御できなくなっている。それが新しい制度に取って代わる可能性はあるが、それを構築し制御するのは人間ではないかもしれない。

    データ至上主義は、情報の自由(情報は誰からの制約も受けるべきではない)を掲げる。私たちはただ、大量のデータフローに繋がり、自らの経験をアップロードさえすればいい。そうすれば、アルゴリズムが意味となすべきことを見出してくれる。人間において、自身の経験に本質的な価値が無くなる代わりに、経験をアップロードし、アルゴリズムを豊かにする価値が生まれる。
    データ至上主義は、最初は人間至上主義に基づく健康と幸福と力の追及を加速させるが、じきに人間に取って代わる地球の覇者となりうる。

    【この先重要な問い】
    ①生き物は本当にアルゴリズムにすぎず、生命は本当にデータ処理にすぎないのか?
    ②知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?
    ③意識は持たないものの知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?

  • かつて宗教(世は神が創造したもの)でバランスされていた世の中は、科学の発展で神は消滅した。
    資本主義も社会主義でさえ、経済第一となっている現状を分析する。
    『私たちはこれほど多くを成し遂げてきたにもかかわらず、なおさら多くのことをしたり、多くのものを生み出したりするようにというプレッシャーを絶え間なく感じている。』
    ⇒『昨日の贅沢品は今日の必需品になる。』

    人間は感情の動物というが実際はそうなのか?
    脳の中を調べても電気信号が行き交っているだけで、そこに心があるという証拠はいまだ発見されていない。
    感情と認識される高度なアルゴリズムによって、人間も動かされているだけなのかもしれない。云々

  • ハラリ氏の予言は好き嫌い別れるだろうが、私は好きだ。上巻は『サピエンス全史』の振り返り、第6章と第7章は根拠なき主張が強め&言いっぱなしだが、第8章から面白くなってくる。

    「生物は単なるアルゴリズム」というのは賛否両論あるだろうが、非生物=意識のない知能が生まれるのは間違いない。グーグルの量子コンピュータ成功(2019年10月24日付)によりその流れは一気に加速するだろう。そうしたうえでデータ至上主義のもと生物・非生物はいちデータフローとして取り込まれ、一握りのホモ・デウスと無数の無用者階級に分かれる。ついつい『1984』の世界を浮かべがちだが、それほど単純な話ではなくユートピアかディストピアかはもう少し現実味を帯びてから判断する必要があるだろう。21世紀の世界観で飢饉と疫病と戦争の19世紀を捉えてユートピアとは思わないように(懐古主義除く)、19世紀の世界観は無条件で未来は薔薇色とは思ってなかったはずだ。ひとつの未来の可能性として思考実験的に読むと非常に面白い。

  • 喩え話が多すぎて、本筋は何だったか分からなくなることが多く、読んでいて疲れた。
    話題の書なのは分かるが、もう一度読みたいとは思わない。

  • 【アリゴリズムな愛】
    なぜ、著者は未来を予測できるのでしょうか。

    デビット・A・シンクレアさんの『LIFE SPAN』での老化という病がなくなることや斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』での資本主義の代わりに脱成長主義が必要になることが述べられています。
    ただ、出版日を考えると本書の方が先であることからデビット・A・シンクレアさんや斎藤幸平さんがこのホモ・デウスを読んで著書を執筆したと考える方が自然です。それだけ、この本の影響を受けているということです。

    どんなSF映画でも最後には「愛」が勝つというような設定になっています。しかし、「愛」というものもデータで科学されてしまうと単なる物質的な変化で数値ができてしまいます。「愛」で発生しうる気力・肉体的力も算出できるとなるとその人が持つ限界点が見え、「愛」よるどんなすごいパワーを発揮されても恐れることはないということになります。
    「愛」の力は未知数で、計り知れなく想像をはるかに超える力を発揮しなければならないのです。

    ただ、「生物」がデータの変換だけではない、あるいはデータの変換だけかもしれないが、すべての変換は解明されているわけではないという認識で物事と見てみると、AIあるいは人が人為的に生物を生み出せていないことが、まだAIあるいはデータが生物の領域超えるところまで至っていないといえます。このことが「愛」の力を信じる救いになりそうです。

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著者プロフィール

歴史学者、哲学者。1976年イスラエル生まれ。オックスフォード大学で中世史、軍事史を専攻し博士号を取得。現在、ヘブライ大学で歴史学を教授。『サピエンス全史』『ホモ・デウス』『21 Lessons』。

「2020年 『「サピエンス全史」「ホモ・デウス」期間限定特装セット』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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