ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来

制作 : 柴田裕之 
  • 河出書房新社
4.18
  • (131)
  • (115)
  • (47)
  • (11)
  • (2)
本棚登録 : 1455
レビュー : 146
  • Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309227375

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
  • 意味と権威の源泉としての神の役割は、現代では人間至上主義に取って代わられた。人間の自由意志こそが最高の権威であると。中世のヨーロッパでは知識=聖書x論理だった。どれほど論理の力があっても聖書を読んでなくては役には立たない。次に科学革命が新たな公式を与える。知識=観察に基づくデータx数学だ。しかし科学の公式は価値や意味に関する疑問に対処できない。人間至上主義は新たな答えを提供した。知識=経験x感性だ。極めて当然な公式にみえるのは自分が無意識に人間至上主義を信奉しているからなのか。

    人間至上主義は3つの主要な宗派に別れている。正統派は個人の自由意志は国益や宗教の教義よりもはるかに大きな重みを持つべきだと考える。いわゆる自由主義だ。そこから産まれた分派が社会主義的な人間至上主義とナチスに見られる進化論的な人間至上主義だ。20世紀初頭にはファシズムと共産主義が猛威を振るい1970年代では未来は社会主義のもののようにも見えた。2016年の時点で個人主義、人権、民主主義と自由市場という自由主義のパッケージの本格的な代替となりうるものは一つもない。

    それでは、人間至上主義はどこに行き着くのか。生命科学は自由意思は生化学的なアルゴリズムの集合によってでっちあげられたと主張する。自由意思など妄想に過ぎないと。

    科学技術の発展は別の方向から個人の価値に脅威を与える。一つ、人間は軍事と経済面での有用性をすでに失いつつある。近代以降の戦争や労働集約的な工業社会では人手こそが価値を持ち、民主主義は兵士や工員にモチベーションを与えるために広がったという側面がある。現在では大量の兵器と兵士よりも少数の高度な兵士と最新テクノロジーが好まれる。ドローンとサイバー戦争だ。経済的にもAIに仕事が奪われる未来が予想されている。

    AIは進化し、もうすぐ悩みの相談相手がSIRIになるかもしれないという。将来的には経済や政治で人々とが何を望むかもフェイスブックが知ることになる。誰が何にイイねを押したかが直接測られる。せいぜい2千件程度の電話調査など意味をもたなくなる。これが二つめの脅威だ。集団としての個人はマーケティング対象としての価値を失わないが、その中で個人の権威は埋没してしまう。

    多くの人々の価値が失われる一方で、一部の人は絶対不可欠な少数のエリート特権階級にアップグレードされる。2016年の時点で最富裕層62人の資産合計は人類の下位半分36億人の資産に匹敵する。巨大な開発途上国のエリート層はその国の競争力をあげるために、何億人もの貧しい人々の問題を解決するために投資するだろうか?少数の超人エリート層を育てる方がより効率的な方法かもしれないのに。「もし科学的な発見とテクノロジの発展が人類を、無用な人間と少数のアップデートされた超人エリート層に分割したなら、あるいは、もし権限が人間から知能の高いアルゴリズムの手にそっくり移ったなら、その時には自由主義は崩壊する。」

    その先に待つのはホモ・デウスを生み出すためにテクノロジーを使うべきだとするテクノ人間至上主義かデータを崇拝するデータ至上主義か。データ至上主義にとっては情報は共有すべきものでグローバルなデーターベースを豊かにすることが価値となる。もはや人間の経験には本質的な価値はない。全てはアルゴリズムの中に吸収されていく。

    ここまで書いておいてユヴァル・ノア・ハラルは最後に問いかける。
    1生き物は本当にアルゴリズムにすぎないのか?そして、生命は本当にデータ処理にすぎないのか?
    2知能と意識のどちらの方に価値があるのか?
    3意識は持たないものの高度な知識を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?

  • 思ってる以上に悲観的な絶望的な未来予測だった。将来AIによって仕事が奪われるとかそういう次元ではなく人類自体がひょっとすると居なくなるくらいの可能性に言及していて読んでいてじゃあ一体どうなるの?どうすれば良いのか ??とその答えを聞きたくてページをどんどん先にめくっていった結果、別に凹ませることが目的ではないのだろうけどもう個人や一つの国程度では抗えない流れになっているのだなと感じ、じゃあまあいいか、好きなことやってればという、変な諦めにも似た開き直りの気持ちが湧いて何故か希望を抱いた。希望と言っていいのか分からないが。少し前に読んだ岡潔先生の著作の中にあったスミレはただスミレとして咲けばいい(趣意)といった言葉とリンクした。もちろんこうならない可能性もある訳だしひとりびとりが自分自身の限界を突破するよう少しずつ壁を乗り越えて行けるようやってれば良い。(イチロー)これも1つのアルゴリズム。なのか?

  • 過去には、検閲は情報の流れを遮断する事で機能した。二十一世紀には、どうでもいい情報を人々に多量にお見舞いすることで機能する。
    おもしろい言い回しだな。

  • 科学技術の力で神を端に追いやった人類は、「人間至上主義」によって世界に意味を見出す。中世において善悪の判断は神が決めることだった。人を殺してはいけない、物を盗んではいけない、同性を愛してはいけない。なぜかって?それは神が決めたから。現代では、人を殺すのも物を盗むのも悪いけど、同性愛は許される。前者は他人に迷惑がかかるのに対して、後者は自身の内なる声に従っただけで、他人にも迷惑をかけていないからだ。人間が望むことが善なのだ。人間は森羅万象の頂点にいる。

    が、テクノロジーと生命科学の発展により、そんな人間至上主義も立場を危うくしている。最新の生命科学によれば、人間も他の生物も、ただのアルゴリズムであるという結論を否定できない。ボクたちに自由意志はない。そこで、森羅万象がデータの流れからできており、どんな現象やものの価値もデータ処理にどれだけ寄与するかで決まるとする「データ至上主義」が生まれる。グーグルやアマゾンを想像してほしいが、データの量、情報の量が全てを決めるのだ。そうなると、人間は森羅万象の頂点ではなく、端に追いやられるのかもしれない。

    人類の未来を描いた書は、得てしてフィクションになりがちだが、本書はこれまでの歴史にちゃんと立脚し、その流れの中で未来の可能性を語っている。「過去を繰り返すためではなく、過去から解放されるため」の歴史書です。

  • 著者の問いかけ。
    1 生き物は本当にアリゴリズムに過ぎないのか? そして、生命は本当にデータ処理にすぎないのか?
    2 知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?
    3 意識は持たなものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?

  • 本書はホモサピエンスの続編として、前著では過去から現在のサピエンスにアプローチしたが、本著では将来のホモサピエンスがどのような存在になるのか(一部のホモ・デウスになるかも)という問いを投げかけている。
    前著に比べるとインパクトは少ないが、それでも内容も濃く著者の特徴であると思われるが歴史を振り返ることで、テクノロジーが発展していった先には何が待ち受けているのかを考察している。
    人間が自ら決定を下す必要がなくなり、そのためには全ての情報を提供することでアルゴリズムが決定を下すようになるという未来は衝撃的であった。その世界ではつまり人間も機械の一部と同じ位置づけになってしまうということを意味している。
    現在、仕事で悩んでおり改めて自分にとっての仕事とは何か、自分の価値観は何かと自問自答していて、本書でいう人間至上主義的な考えをしているいことに気付いた。さらにその真の答えは自分自身が答えたくない場合もあるので容易に見つけられず、自分の全てのデータをアルゴリズムに委ねれば自分よりも正しい答えを導き出してくれるという考えは、ある意味で「楽」な生き方だと思った。反面、上記のとおりその時には、自己がなくなっているのかもしれないジレンマも存在するのだが・・・。


    ・幸福と苦しみはそれぞれ、さまざまな身体的感覚どうしの異なるバランス以外の何物でもないという。私たちは外の世界に反応することはけっしてなく、自分の体内の感覚に反応しているだけだ。職を失ったり、離婚したり、政府が戦争を始めたりしたために苦しむ人などいない。人々に惨めな思いをさせるものは、本人の体内の不快感しがない。職を失えば、たしかに憂鬱な気分になりうるが、その気分自体は、一種の不快な身体的感覚だ。

    ・これはすべて進化のせいだ。私たちの生化学系は、無数の世代を経ながら、幸福ではなく生存と繁殖の機会を増やすように適応してきた。生化学系は生存と繁殖を促す行動には快感で報いる。だがその快感は、束の間しか続かない。いわば、次から次へと買わせるための販売戦略のようなものにすぎない。私たちは空腹という不快感を避け、快い味や至福のオーガズムを楽しむために、食べ物と生殖行為の相手を得ようと奮闘する。ところが、快い味や至福のオーガズムは長続きせず、再びそれを感じたければ、さらに食べ物や相手を探しに出なくてはならない。

    ・現代の経済は、生き残るためには絶え間なく無限に成長し続ける必要がある。もし成長が止まるようなことがあれば、経済は居心地の良い平衡状態に落ち着いたりはせず、粉々に砕けてしまう。だからこそ資本主義は不死と幸福と神性を追求するように私たちを促すのだ。履ける靴や、運転できる自動車、楽しめるスキー旅行の数には限りがある。永続的な成長の上に築かれた経済は、果てしないプロジェクトを必要とする。

    ・選別と取り換えの後に続く可能性のある次のステップは、修正だ。致命的な遺伝子を修正することがいったん可能になってしまえば、わざわざ他人のDNAを挿入するまでもないではないか。なにしろ、たんに遺伝子コードを書き換え、変異を起こした危険な遺伝子を無害な遺伝子に変えられるのだから。だがその後、私たちは同じメカニズムを使って、命取りになる遺伝子ばかりでなく、致命的である度合いが低い疾患や、自閉症、知的障害、肥満などを引き起こす遺伝子を直し始めるかもしれない。我が子がそのようなものに苦しむのを望む人などいるだろうか?
    ・どんなアップグレードも当初は治療として正当化きれる。遺伝子工学かブレイン・コンピューター・インターフェイスの実験をしている教授たちを見つけて、なぜそのような研究をしているのか訊いてみるといい。彼らはきっと、疾病を治すためにしている、と答えるだろう。そのとおりかもしれないが、そこで終わるとはとうてい思えない。私たちは、いったん重要な大躍進を遂げたら、新しいテクノロジーの利用を治療目的に制限して、アップグレードへの応用を完全に禁止することは不可能だ。

    ・狩猟採集民は自分が生態系に与えている害を自覚することは稀だったのに対して、農耕民は自分のしていることを百も承知していた。自分たちが家畜を利用し、人間の欲望や気まぐれのなすがままにしていることを知っていた。彼らはこの行動を、新しい有神論の宗教の名において正当化した。そうした宗教は、農業革命に続いて雨後の筍のように出現し、広まっていった。有神論の宗教は、世界はさまざまな生き物から成る議会ではなく、偉大な神々あるいは唯一論の宗教は、少なくとも当初は農業と直結した企てだったのだ。

    ・私たちは普通、有神論の宗教は偉大な神々を神聖視すると考えている。だが、その宗教が人間をも神聖視していることは忘れがちだ。以前、ホモ・サピエンスは何千もの役者から成るキャストの一人にすぎなかった。それが、有神論の新しいドラマの中では、サピエンスが主人公になり、森羅万象がサピエンスを中心に回り始めた。

    ・農業革命が有神論の宗教を生み出したのに対して、科学革命は人間至上主義の宗教を誕生させ、その中で人間は神に取って代わった。有神論者が神を崇拝するのに対して、人間至上主義者は人間を崇拝する。自由主義や共産主義やナチズムといった人間至上主義の宗教を創始するにあたっての基本的な考えは、ホモ・サピエンスには、世界におけるあらゆる意味と権威の源泉である無類で神聖な本質が備わっているというものだ。この宇宙で起こることはすべて、ホモ・サピエンスへの影響に即して善し悪しが決まる。

    ・率直に言って、心と意識について科学にわかっていることは驚くほど少ない。意識は脳内の電気化学的反応によって生み出され、心的経験は何かしら不可欠なデータ処理機能を果たしているというのが現在の通説だ。とはいえ、脳内の生化学的反応と電流の寄せ集めが、どのようにして苦痛や怒りや愛情の主観的経験を生み出すのかは、誰にもまったく想像がつかない。

    ・科学者は、脳の電気信号の集まりがどうやって主観的経験を生み出すのかを知らない。それ以上に重要なのだが、そのような現象にはどのような進化上の利点がありうるのかも、科学者は知らない。それは生命についての私たちの泣き所だ。

    ・道具の製作や知能が人類の台頭にとってとりわけ重要だったとされている。他の動物も道具を作るが、この分野では人間が彼らを遠く引き離していることに疑問の余地はほとんどない。知能に関しては、話はそこまで明快ではない。
    ・今日、人間は地球を完全に支配しているが、それは個々の人間が個々のテンパンジーやオオカミよりもはるかに利口だったり手先が器用だったりするからではなく、ホモ・サピエンスが大勢で柔軟に協力できる地球上で唯一の種だからだ。知能と道具製作も明らかにとても重要だった。だが、もし人間が大勢で柔軟に協力することを学んでいなかったら、私たちの悪賢い脳や器用な手は依然として、ウランの原子核ではなく燧石を割っていただろう。

    ・共同主観的なものは、個々の人間が信じていることや感じていることによるのではなく、大勢の人の間のコミュニケーションに依存している。歴史におけるきわめて重要な因子の多くは、共同主観的なものだ。たとえば、お金には客観的な価値はない。一ドル札は食べることも飲むことも身につけることもできない。それにもかかわらず、何十億もの人がその価値を信じているかぎり、それを使って食べ物や飲み物や衣服を買うことができる。

    ・貨幣が共同主観的現実であることを受け容れるのは比較的易しい。自分たちの神や自分たちの国や自分たちの価値観がただの虚構であることは受け容れたがらない。なぜなら、これらのものは、私たちの人生に意味を与えてくれるからだ。私たちは、自分の人生には何らかの客観的な意味があり、自分の犠牲が何か頭の中の物語以上のものにとって大切であると信じたかる。とはいえ、じつのところ、ほとんどの人の人生には、彼らが互いに語り合う物語のネットワークの中でしか意味がない。

    ・猫やその他の動物が客観的な領域に閉じ込められ、もっぱら現実を描写するためにコミュニケーションシステムを使っているのに対して、サピエンスは言語を使って完全に新しい現実を生み出す。過去七万年の間に、サピエンスが発明した共同主観的現実はますます強力になり、今日では世界を支配している。
    ・他の動物たちが人間に対抗できないのは、彼らには魂も心もないからではなく、必要な想像力が欠けているからだ。共同主観的なものを生み出すこの能力は、人間と動物を分けるだけではなく、人文科学と生命科学も隔てている。歴史学者が神や国家といった共同王観的なものの発展を理解しようとするのに対して、生物学者はそのようなものの存在はほとんど認めない。遺伝子コードを解読し、脳内のニューロンを一つ残らずマッピングすることができさえすれば、人類の秘密をすべて知ることができると考えている人もいる。なにしろ、もし人間には魂がなく、思考と情動と感覚がただの生化学的なアルゴリズムにすぎないのなら、人間社会の突飛な行動をみな、生物学で説明できない理由があるだろうか?一方、人文科学は共同主観的なものの決定的な重要性を強調する。そうしたらのはホルモンや二ユーロンに還元することはできない。歴史的に考えるというのは、私たちの想像上の物語の中身には真の力があると認めることだ。もちろん、歴史学者は気候変動や遺伝子の変異といった客観的要因を無視するわけではないが、人々が考え出して信じる物語をはるかに重視するのだ。


    ・歴史が展開していくなかで、神や国家や企業の影響は、川や恐れや欲求を犠牲にして大きくなっていった。世界には依然として多くの川があり、人々は恐れや願望に相変わらず動機づけられているが、イエス・キリストやフランス共和国やアップル社などが川にダムを追って利用し、私たちの最も深い不安や憧れを形作る術を覚えた。

    ・すべてが始まったのはおよそ七万年前、認知革命のおかげでサピエンスが自分の想像の中にしか存在しないものについて語りだしたときだ。その後の六万年間に、サピエンスは多くの虚構のウェブを織り成したが、それはみな小さく局地的なものにとどまった。

    ・約一万二〇〇〇年前に始まった農業革命は、共同主観的ネットワークを拡大・強化するのに必要な物質的基盤を提供した。農耕のおかげで、込み合った都市の何千という人や、訓練された軍隊の何千という兵士を養うことが可能になった。とはいえ、共同主観的なウェブはそこで新たな障害にぶつかった。集団的神話を維持し、大規模な協力を組織するために、初期の農耕民は人間の脳のデータ処理能力に頼っていたが、その能力には厳しい制約があったからだ。

    ・この障害がついに取り除かれたのは、シュメール人が書字と貨幣の両方を発明した、およそ五〇〇〇年前だった。同じ親から同じ時に同じ場所で生まれた、書字と貨幣というこの結合体双生児は、人間の脳によるデータ処理の限界を打ち破った。両者のおかげで、何十万もの人から税を徴収したり、複雑な官僚制を組織したり、巨大な王国を打ち立てたりすることが可能になった。シュメールでは、これらの王国は神々の名の下に、人間の神官壬が管理した。隣のナイル川流域では、人々はその一歩先を行き、神官王を神と一体化し、生き神のファラオを生み出した。
    ・圧政を布くファラオもいれば、饗宴や祝祭で日を送るファラオもいたが、どちらの場合にも、国家運営の実務は何干もの、読み書きのできる役人が担っていた。他のどんな人間とも同じで、ファラオも生物学的な肉体や、生物学的欲求、欲望、情動を持っていた。だが、生物学的なファラオにはほとんど重要性がなかった。ナイル川流域の真の支配者は、何百万ものエジプト人が互いに語り合う物語の中に存在する想像上のファラオだったのだ。

    ・書字のおかげで、人間は社会をまるごとアルゴリズムの形で組織できるようになった。情動とは何かや脳はどう機能するかを理解しようとしたときに、私たちは「アルゴリズム」という言葉に出合い、計算をしたり、問題を解決したり、決定を下したりするのに使える一連の順序立つたステップと定義した。読み書きのできない社会では、人々はあらゆる計算や決定を頭の中で行なう。一方、読み書きのできる社会では、人々はネットワークを形成しており、各人は巨大なアルゴリズムの中の小さなステップでしかなく、アルゴリズム全体が重要な決定を下す。これこそが官僚制の本質だ。

    ・官僚制は力を蓄えるにつれて、自らの誤りに動じなくなる。自分たちの物語を変えて現実に合うようにする代わりに、現実を変えて自分たちの物語に合わせられるのだ。けっきょく外部の現実が官僚制の空想に合致するのだが、それは官吏が無理やり現実にそうさせたからにすぎない。

    ・虚構は悪くはない。不可欠だ。お金や国家や協力などについて、広く受け容れられている物語がなけれf、複雑な人間社会は一つとして機能しえない。たが、物語は道具にすぎない。だから、物語を目標や基準にするべきではない。私たちは物語がただの虚構であることを忘れたら、現実を見失ってしまう。すると、「企業に莫大な収益をもたらすため、あるいは「国益を守るため」に戦争を始めてしまう。企業やお金や国家は私たちの想像の中にしか存在しない。私たちは、自分に役立てるためにそれらを創り出した。それなのになぜ、気がつくとそれらのために自分の人生を犠牲にしているのか?


    ・人間は力と引き換えに意味を放棄することに同意する、というものだ。近代に入るまで、ほとんどの文化では、人間は何らかの宇宙の構想の中で役割を担っていると信じられていた。その構想は全能の神あるいは自然の永遠の摂理の手になるもので、人類には変えられなかった。この宇宙の構想は人間の命に意味を与えてくれたが、同時に、人間の力を制限した。

    ・近代に入り、人々がしだいに将来を信頼するようになり、その結果、信用に基づく経済活動の奇跡が起こったおかげで、この悪循環がようやく断ち切られた。信用とは、信頼の経済的な表れだ。人々が何千年にもわたって将来の成長をほとんど信じなかったのは、愚かだったからではなく、成長が私たちの直感や、人間が進化の過程で受け継いできたものや、この世界の仕組みに反しているからだ。自然界の系の大半は平衡状態を保ちながら存在していて、ほとんどの生存競争はゼロサムゲームであり、他者を犠牲にしなければ繁栄はない。

    ・資本主義は、成長という至高の価値観の信奉から、自らの第一の戒律を導き出す。その戒律とはすなわち、汝の利益は成長を増大させるために投資せよ、だ。君主や聖職者は歴史の大半を通して、派手なお祭り騒ぎや豪華な宮殿や無用な戦争に利益を浪費してきた。あるいは、金貨を鉄の箱にしまって封をし、地下に埋めた。今日、敬虔な資本主義者は利益を使って新たに従業員を雇ったり、工場を拡張したり、新製品を開発したりする。

    ・世界は決まった大きさのパイであるという伝統的な見方は、世界には原材料とエネルギーという二種類の資源しかないことを前提としている。だがじつは、資源には三種類ある。原材料とエネルギーと知識だ。原材料とエネルギーは量に限りがあり、使えば使うほど残りが少なくなる。それに対して、知識は増え続ける資源で、使えば使うほど多くなる。実際、手持ちの知識が増えると、より多くの原材料とエネルギーも手に入る。

    ・成長へと続く科学の道は、何千年もの間、閉ざされていた。それは人々が、この世界が提供しうる重要な知識はもうすべて聖典や古代からの伝承の中に含まれていると信じていたからだ。

    ・人類は科学革命によって、この素朴な思い込みから解放された。最も偉大な科学的発見は、無知の発見だった。人類は、自分たちが世界についてどれほどわずかしか知らないかに気づいた途端、新たな知識を追求するべきじつにもっともな根拠を突然手にし、それが進歩へ向かう科学の道を開いたのだった。

    ・私たちには、資源の欠乏という問題を克服する可能性が十分ある。現代の経済にとって真の強敵は、生態環境の崩壊だ。科学の進歩と経済の成長はともに、脆弱な生物圏の中で起こる。そして、進歩と成長の勢いが増すにつれて、その衝撃波が生態環境を不安定にする。裕福なアメリカ人と同じ生活水約準を世界中の人々全員に提供するためには、地球があといくつか必要になるが、私たちにはこの一個しかない。もし進歩と成長が本当に生態系を破壊することになれば、チスイコウモリやキツネやウサギだけでなく、サピエンスまでもが莫大な代償を払う羽目になるだろう。生態環境のメルトダウンは経済の破綻や政治の大混乱や人類の生活水準の低下を招き、人間の文明の存続そのものさえ脅かしかねない。
    ・私たちは、進歩と成長のべースを落とせば、この危険を軽滅することができるだろう。投資家たちが今年、自分の金融資産で六パーセントの収益を見込んでいるとしたら、一〇年後には三パーセントの収益で、二〇年後にはわずか一パーセントの収益で満足する術を学ぶこともできるだろう。そうすれば、三〇年後には経済が成長をやめても、私たちはすでに手に入れたもので満足していられる。とはいえ、成長の教義はそのような異端の考え方には断固として異議を唱える。そして、ぺースを落とす代わりに、私たちばなおさら足を速めるべきだと主張する。もし私たちの発見のせいで生態系が不安定になり、人類が脅かされるのなら、自らを守るものを発見するべきだ。

    ・現代の世界は成長を至高の価値として掲げ、成長のためにはあらゆる犠牲を払い、あらゆる危険を冒すべきであると説く。集団のレべルでは、各国の政府や企業や組織は、自らの成功を成長という物差しで測り、平衡状態は悪魔であるかのように恐れることを奨励きれる。個人のレべルでは、私たちは絶えず収入を増やし、生活水準を高めるように仕向けられる。たとえ現状で十分満足しているときでさえ、さらに上を目指して奮闘するべきなのだ。昨日の贅沢品は今日の必需品になる。

    ・意味も神や自然の法もない生活への対応策は、人間至上主義が提供してくれた。人間至上主義は、過去数世紀の間に世界を征服した新しい革命的な教義だ。人間至上主義という宗教は、人間性を崇拝し、キリスト教とイスラム教で神が、仏教と道教で自然の摂理がそれぞれ演じた役割を、人間性が果たすものと考える。伝統的には宇宙の構想が人間の人生に意味を与えていたが、人間至上主義は役割を逆転させ、人間の経験が宇宙に意味を与えるのが当然だと考える。人間至上主義によれば、人間は内なる経験から、自分の人生の意味だけではなく森羅万象の意味も引き出さなくてはならないという。意味のない世界のために意味を生み出せ―これこそ人間至上主義が私たちに与えた最も重要な戒律なのだ。

    ・物事は、そのせいで誰かが嫌な思いをするときにだけ悪いものとなりうることを、人間至上主義は私たちに教えた。人殺しが悪いのは、どこかの神が「殺してほならない」と言ったからではない。そうではなく、人殺しが悪いのは、犠牲者やその家族、友人、知人にひどい苦しみを与えるからだ。

    ・倫理において、人間至上主義者のモットーは、「もしそれで気持ちが良いのなら、そうすればいい」だ。政治において人間至上主義は、「有権者がいちばんよく知っている」と教える。美学においては、人間至上主義は「美は見る人の目の中にある」と言う。

    ・人間至上主義の考え方が台頭したせいで、教育制度にも大変革が起こった。中世には、あらゆる意味と権威の源泉は外部にあり、したがって教育は、服従を教え込み、聖典を暗記し、古くからの慣習を学ぶことに的を絞っていた。
    ・それに対して現代の人間至上主義の教育では、生徒に自分で考えることを教えるべきだとされている。意味と権威の至高の源泉は私たち自身の中にあるので、こうした事柄について自分がどう考えているかを知ることのほうが、はるかに重要なのだ。

    ・人間たちが自分に自信を持つようになると倫理にまつわる知識を得るための新しい公式が登場した。知識=経験×感性だ。倫理にまつわるどんな疑問に対しても答えを知りたければ、自分の内なる経験と接触し、この上ないほどの感性をもってそれを観察する必要がある。そんなわけで、私たちは経験を積み重ねるために何年も過ごし、その経験を正しく理解できるように自分の感性を磨くことで、知識を探し求める。
    ・経験とは主観的な現象で、感覚と情動と思考という三つの構成要素から成る。私の経験はどの瞬間にも、私が感じるいっさいのこと(熱、快感、緊張など)や、感じるいっさいの情動(愛、恐れ、怒りなど)、何であれ頭に浮かぶ思考から成る。
    ・感性とは一のことを意味する。第一に、自分の感覚と情動と思考に注意を払うこと。第二に、それらの感覚と情動と思考が自分に影響を与えるのを許すこと。

    ・人が民主的な選挙の結果を受け容れる義務があると感じるのは、他のほとんどの投票者と基本的な絆がある場合に限られる。他の投票者の経験が私にとって異質のもので、彼らがこちらの気持ちを理解しておらず、こちらの死活にかかわる利害の問題に関心がないと私が思っていたら、たとえ一〇〇対一という票数で負かされても、その結果を受け容れる理由はまったくない。民主的な選挙は普通、共通の宗教的信念や国家の神話のような共通の絆をあらかじめ持っている集団内でしか機能しない。選挙は、基本的な事柄ですでに合意している人々の間での意見の相違を処理するための方法なのだ。

    ・進化論的な人間至上主義は、人間の経験の対立という問題に、別の解決策を持っている。ダーウィンの進化論という揺るぎない基盤に根差しているこの人間至上主義は、争いは嘆くべきではなく称賛するべきものだと主張する。争いは自然選択の原材料で、自然選択が進化を推し進める。人間に優劣があることには議論の余地がなく、人間の経験どうしが衝突したときには、最も環境に適した人間が他の誰をも圧倒するべきだ。野生のオオカミを絶滅させ、家畜化されたヒツジを情け容赦なく搾取するように人類を駆り立服し、抜け目ない実業家が愚か者を破産に追いやるのは善いことだ。もしこの進化論的な論理に従えば、人類はしだいに強くなり、適性を増し、やがて超人が誕生するだろう。進化はホモ・サピエンスで止まらなかった。まだまだ先は長い。ところが、もし人権や人間の平等の名のもとに、環境に最も適した人間を去勢したら、超人の誕生が妨げられ、ホモ・サピエンスの退化や絶滅まで招きかねない。

    ・進化論的な人間至上主義者によると、あらゆる人間の経験は等しく価値があると主張する人はみな、間抜けか腰抜けということになる。そのような無教養と臆病は人類の退化と絶滅につながるばかりだ。文化的相対主義あるいは社会的平等の名の下に、人間の進歩が妨げられてしまうからだ。

    ・2016年の時点で、個人主義と人権と民主主義と自由市場という、自由主義のパッケージの本格的な代替となりうるものは一つもない。

    ・二一世紀初頭の今、進歩の列車は再び駅を出ようとしている。そしてこれはおそらく、ホモ・サピエンスと呼ばれる駅を離れる最後の列車となるだろう。これに乗りそこねた人には、二度とチャンスは巡ってこない。この列車に席を確保するためには、ニ一世紀のテクノロジー、それもとくにバイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズムの力を理解する必要がある。これらの力は蒸気や電信の力とは比べ物にならないほど強大で、食糧や織物、乗り物、武器の生産にだけ使われるわけではない。二一世紀の主要な製品は、体と脳と心で、体と脳の設計の仕方を知っている人と知らない人の間の格差は、ディケンズのイギリスとマナティーのスーダンの間の隔たりよりも大幅に拡がる。それどころか、サピエンスとネアンデルタールの間の隔たりさえ凌ぐだろう。ニ一世紀には、進歩の列車に乗る人は神のような創造と破壊の力を獲得する一方、後に取り残される人は絶滅の憂き目に遭いそうだ。

    ・人はこれらの願望の一つとして自分では選んでいない。特定の願望が自分の中に湧き上がってくるのを感じるのは、それが脳内の生化学的なロセスによって生み出された感情だからだ。そのプロセスは決定論的かもしれないし、ランダムかもしれないが、自由ではない。
    ・私は自分の欲望を選ぶことはない。私は欲望を感じ、それに従って行動するにすぎない。
    ・ホモ・サピエンスに行なわれた実験は、人間もラットと同じように操作でき、愛情や恐れや憂鬱といった複雑な感情さえも、脳の適切な場所を刺激すれば生み出したり消し去ったりできることを示している。

    ・二〇世紀の半ばには、他の治療がすべて不首尾に終わったとき、医師は両半球をつなぐ神経の太い束を切断し、一方の半球で始まった電気的な嵐がもう一方の半球に及ばないようにして、この間題を軽減した。脳科学者にとって、こうした患者は驚くべきデータの宝庫だった。
    ・発話を司る脳の左半球に二ワトリの足先の絵を瞬間的に見せると同時に、右脳には雪景色の画像を一瞬見せた。何が見えたかと訊かれた患者は、「ニワトリの足先」と答えた。それから、絵の描かれたカードを何枚も見せ、自分が目にした絵といちばんよく合っているものを指差すように言った。患者の右手(左脳に制御されている)は二ワトリの絵を指差したが、同時に左手がさっと伸びて除雪用のシャべルを指し示した。それから当然の疑問を投げかけた。「なぜニワトリとシャべルの両方を指差したのですか?」するとこう答えた。「ああ、二ワトリの足はニワトリと関係があるし、ニワトリ小屋を掃除するのにシャべルが必要だからです」。
    ・発話を制御する左脳は雪景色についてのデータは持っていなかったので、左手がシャべルを指し示した理由が本当はわからなかった。だからもっともらしい話をさっきとでっち上げたのだ。この実験を何度も繰り返した後、脳の左半球は言語能力の座であるばかりではなく、内なる解釈者の座でもあり、この解釈者が絶えず人生の意味を理解しようとし、部分的な手掛かりを使ってまことしやかな物語を考え出すのだと結論した。

    ・私たちの中には、経験する自己と物語る自己という、少なくともニつの異なる自己が存在することを、この実験は暴き出すからだ。経験する自己とは、そのときどきの意識だ。ところが、経験する自己は何も覚えていない。何一つ物語を語らず、大切な決定を下すときに相談を受けることもめったにない。記憶を検索し、物語を語り、大きな決定を下すのはみな、私たちの中の完全に違う存在、すなわち物語る自己の専売特許だ。一語る自己はしよっちゅう手つ取り早い方法を採用する。すべては語らず、たいていは印象深い瞬間や最終結果だけを使って物語を紡ぐ。経験全体の価値は、ピークと結末を平均して決める。

    ・物語る自己は、私たちの経験を評価するときにはいつも、経験の持続時間を無視して、「ピーク・エンドの法則」を採用し、ピークの瞬間と最後の瞬間だけを思い出し、両者の平均に即して全体の経験を査定する。これは私たちの実際的な決定のすべてに多大な影響を及ぼす。

    ・経験する自己と物語る自己は、完全に別個の存在ではなく、緊密に絡み合っている。物語る自己は、重要な(ただし、唯一のというわけではない)原材料として私たちの経験を使って物語を創造する。するとそうした物語が、経験する自己が実際に何を感じるかを決める。

    ・神や国家といった想像上の存在を人々に信じさせたかったら、彼らに何か価値あるものを犠牲にさせるべきだ。その犠牲に伴う苦痛が大きいほど、人はその犠牲の想像上の受け取り手の存在を強く確信する。

    ・国家や神や貨幣と同様、自己もまた想像上の物語であることが見て取れる。私たちのそれぞれが手の込んだシステムを持っており、自分の経験の大半を捨てて少数の選り抜きのサンプルだけ取っておき、自分の観た映画や、読んだ小説、耳にした演説と混ぜ合わせ、その寄せ集めの中から、自分が何者で、どこから来て、どこへ行くのかにまつわる筋の通った物語を織り上げる。この物語が私に、何を好み、誰を憎み、自分をどうするかを命じる。私が自分の命を犠牲にすることを物語の筋が求めるなら、それさえこの物語は私にやらせる。私たちは誰もが自分のジャンルを持っている。悲劇を生きる人もいれば、果てしない宗教的ドラマの中で暮らす人もいるし、まるでアクション映画であるかのように人生に取り組む人もいれば、喜劇に出演しているかのように振る舞う人も少なからずいる。だがけっきょく、それはすべてただの物語にすぎない。

    ・それならば、人生の意味とは何なのか?何か外部の存在に既成の意味を提供してもらうことを期待するべきではないと自由主義は主張する。個々の有権者や消費者や視聴者が自分の自由意志を使って、自分の人生ばかりではなくこの世界全体の意味を生み出すべきなのだ。

    ところが生命科学は自由主義を切り崩し、自由な個人というのは生化学的アルゴリズムの集合によってでっち上げられた虚構の物語にすぎないと主張する。脳の生化学的なメカニズムは刻々と瞬間的な経験を創り出すが、それはたちまち消えてなくなる。こうして、次から次へと瞬間的な経験が現れては消えていく。こうした束の間の経験が積み重なって永続的な本質になることはない。物語る自己は、はてしない物語を紡ぐことによって、この混乱状態に秩序をもたらそうとする。その物語の中では、そうした経験は一つ残らず占めるべき場所を与えられ、その結果、どの経験も何らかの永続的な意味を持つ。だが、どれほど説得力があって魅力的だとしても、この物語は虚構だ。


    ・過去には人間にしかできないことがたくさんあった。だが今ではロボットとコンピューターが追いついてきており、間もなくほとんどの仕事で人間を凌ぐかもしれない。たしかにコンピューターは人間とは機能の仕方がずいぶん違うし、コンピューターは当分、人間のようになりそうにない。とくに、コンピューターがすぐに意識を獲得して、情動や感覚を経験し始めることはなさそうだ。過去半世紀の間に、コンピューターの知能は途方もない進歩を遂げたが、コンピューターの意識に関しては一歩も前進していない。とはいえ、私たちは重大な変革の瀬戸際に立っている。人間は経済的な価値を失う危機に直面している。なぜなら、知能が意識と分離しつつあるからだ。

    ・今日までは、高度な知能はつねに、発達した意識と密接に結びついていた。チェスをしたり、自動車を_運転したり、病気の診断をしたりといった、高い知能を必要とする仕事は、意識のある私たち人間にしかできなかった。ところが今では、そのような仕事を人間よりもはるかにうまくこなす、意識を持たない新しい種類の知能が開発されている。なぜなら、そうした仕事はみなパターン認識に基づいており、意識を持たないアルゴリズムがパターン認識で人間の意識をほどなく凌ぐかもしれないからだ。

    ・人間には身体的なものと認知的なものという、二種類の基本的な能力がある。身体的な能力の面でだけ機械が人間と競争しているかぎりは、人間のほうがうまくできる認知的な仕事が無数にあった。だから、機械が純粋な肉体労働を引き継いだときには、人間は少なくとも多少の認知的技能が必要な仕事に的を絞った(産業革命)。ところが、パターンを記憶したり分析したり認識したりする点でもアルゴリズムが人間を凌いだら、何が起こるのか?意識を持たないアルゴリズムには手の届かない無類の能力を人間がいつまでも持ち続けるというのは、希望的観測にすぎない。

    ・やがてテクノロジーが途方もない豊かさをもたらし、そうした無用の大衆がたとえまったく努力をしなくても、おそらく食べ物や支援を受けられるようになるだろう。だが、彼らには何をやらせて満足させておけばいいのか?人は何かする必要がある。するこしがないと、頭がおかしくなる。

    ・二一世紀のテクノロジーのおかげで、外部のアルゴリズムが人間の内部に侵入し、私よりも私自身についてはるかによく知ることが可能になるかもしれない。もしそうなれば、個人主義の信仰は崩れ、権威は個々の人間からネットワーク化されたアルゴリズムへと移る。人々は、自らの願望に即して生活を営む自律的な存在として自分を見ることがもうなくなり、自分のことを、電子的なアルゴリズムのネットワークに絶えずモニターされ、導かれている生化学的メカニズムの集まりと考えるのが当たり前になるだろう。それが実現するには、私を完璧に知っていて絶対にミスを犯さない外部のアルゴリズムは必要ない。私のことを私以上に知っていて、私よりも犯すミスの数が少ないアルゴリズムがあれば十分だ。そういうアルゴリズムがあれば、それを信頼して、自分の決定や人生の選択のしだいに多くを委ねるのも理に適っている。


    ・人間至上主義はつねに、自分の本物の意志を突き止めるのは簡単ではないことを強調していた。私たちは、自分自身に耳を傾けようとすると、相容れないさまざまな雑音の不協和音の洪水に呑まれてしまうことが多い。実際、自分の本物の声をあまり聞きたいとは思わないこともある。なぜなら、その声に耳を傾ければ、知りたくない秘密が明るみに出たり、不愉快な要求を突きつけられたりしかねないからだ。多くの人が自分をあまり深く探らないように、心を砕いている。仕事がうまく行き、出世街道をひた走っている弁護士は、一休みして子供を産むように言う内なる声を抑え込むかもしれない。

    ・自分自身に耳を傾けるようにという人間至上主義の勧めは、多くの人の人生を破綻させてきたのに対して、適切な化学物質の適量の服用は、何百万もの人の幸福を増進し、人間関係を改善してきた。自分自身に本当に耳を傾けるためには、内なる悲鳴や酷評のボリュームをまず下げなければならない人もいる。現代の精神医学によれば、多くの「内なる声」や「本物の願望」は生化学的な不均衡と神経疾患の産物にほかならないという。臨床的うつ病の人は、将来有望なキャリアや健全な人間関係を繰り返し捨ててしまう。何らかの生化学的な不調のせいで、物事を暗い色の眼鏡を通して眺めてしまうからだ。そのような有害な内なる声に耳を傾ける代わりに、それらを黙らせてしまうのは、良い考えなのかもしれない。

    ・テクノ人間至上主義は、人間の意志がこの世界で最も重要なものだと考えているので、人類を促して、その意志を制御したりデザインし直したりできるテクノロジーを開発させようとする。つまるところ、この世で最も重要なものを思いのままにできるというのは、とても魅力的だから。とはいえ、万一そのように制御できるようになったら、テクノ人間至上主義には、その能力を使ってどうすればいいのかわからない。なぜならそのときには、神聖な人間もまた、ただのデザイナー製品になってしまうからだ。私たちは、人間の意志と人間の経験が権威と意味の至高の源泉であると信じているかぎり、そのようなテクノロジーにはけっして対処できないのだ。

    ・データ至上王義では、森羅万象がデータの流れからできており、どんな現象やものの価値もデータ処理にどれだけ寄与するかで決まるとされている。

    ・データ至上主義は従来の学習のピラミッドをひっくり返す。これまでは、データは長い一連の知的活動のほんの第一段階と見なされていた。人間はデータを洗練して情報にし、情報を洗練して知識に変え、知識を洗練して知恵に昇華させるべきだと考えられていた。ところがデータ至上主義者は、次のように見ている。もはや人間は厖大なデータの流れに対処できず、そのためデータを洗練して情報にすることができない。ましてや知識や知恵にすることなど望むべくもない。したがってデータ処理という作業は電子工学的アルゴリズムに任せるべきだ。このアルゴリズムの処理能力は、人間の脳の処理能力ょりもはるかに優れているのだから。つまり事実上、データ至上主義者は人間の知識や知恵に懐疑的で、ビッグデータとコンピューターアルゴリズムに信頼を置きたがるということだ。

    ・データ処理の観点から考えてみれば、資本主義者がより低い税金を支持する理由も説明できる。税金が高いというのは、利用可能な資本のかなりの部分が一か所、つまり国庫に集まり、結果としてますます多くの決定が単一の処理者、すなわち政府によってなされざるをえないことを意味する。これによって過度に中央集権化されたデータ処理システムができ上がる。極端な場合、税金が高過ぎてほぼすべての資本が政府の手元に集まり、政府が単独ですべての采配を振ることになる。

    ・政治学者たちも、人間の政治制度をしだいにデータ処理システムとして解釈するようになってきている。これは、二一世紀に再びデータ処理の条件が変化するにつれ、民主主義が衰退し、消滅さえするかもしれないことを意味している。データの量と速度が増すとともに、選挙や政党や議会のような従来の制度は廃れるかもしれない。それらが非倫理的だからではなく、データを効率的に処理できないからだ。このような制度は政治がテクノロジーよりも速く進む時代に発展した。ところが、政治の動きが蒸気機関の時代からあまり変わっていないのに対して、テクノロジーはギアをファーストからトップに切り替えた。今やテクノロジーの革命は政治のプロセスよりも速く進むので、議員も有権者もそれを制御できなくなっている。

    ・インターネットの台頭からは、将来の世界がうかがえる。今ではサイバースぺースは私たちの日常生活や経済やセキュリテイにとってきわめて重要だ。ウェブの設計者たちが人々の目の届かない所で決定を下したため、今日インターネットは自由で無法のゾーンであり、国家の主権を損ない、国境を無視し、プライバシーを無効にし、ことによると最も恐るべき世界的なセキュリテイのリスクとなっている。

    ・私たちは、情報の自由と、昔ながらの自由主義の理想である表現の自由を混同してほならない。表現の自由は人間に与えられ、人間が好きなことを考えて言葉にする権利を保護した。これには、口を閉ざして自分の考えを人に言わない権利も含まれていた。それに対して、情報の自由は人間に与えられるのではない。情報に与えられるのだ。しかもこの新しい価値は、人間に与えられている従来の表現の自由を侵害するかもしれない。人間がデータを所有したりデータの移動を制限したりする権利よりも、情報が自由に拡がる権利を優先するからだ。

    ・人間至上主義によれば、経験は私たちの中で起こっていて、私たちは起こることすべての意味を自分の中に見つけなければならず、それによって森羅万象に意味を持たせなければならないことになる。一方、データ至上主義者は、経験は共有されなければ無価値で、私たちは自分の中に意味を見出す必要はない、いや、じつは見出せないと信じている。私たちはただ、自らの経験を記録し、大量のデータフローにつなげさえすればいい。そうすればアルゴリズムがその意味を見出して、私たちにどうするべきかを教えてくれる。

    ・データ至上主義は、人間の頭では新しい支配者であるアルゴリズムをとうてい理解できないと断言する。も把握し切れないような天文学的な量のデータを分析し、パターンを認識することを学び、人間の頭には浮かばない方策を採用する。もとになるアルゴリズムは、初めは人間によって開発きれるのかもしれないが成長するにつれて自らの道を進み、人間がかつて行ったことのない場所にまで、さらには人間かついていけない場所にまで行くのだ。

  • 有史以来、人類は3つの課題に頭を悩ませてきた。
    飢餓・疫病・戦争だ。しかしテクノロジーと科学によってこうした問題は21世紀で克服しつつある。
    次に人類は何を目指すか。
    それは「不死」「幸福」「神性」の獲得であるという。
    これらを目指し生命科学とテクノロジーは日々進歩し発展している。だがその過程で、現代の支配的宗教(イデオロギー)である「人間至上主義(ヒューマニズム)」が解体の危機に瀕する。
    なぜか。
    今、生命科学者たちは「生き物はアルゴリズム」であることを明らかにしてしまった。人間の脳は演算装置であり生き物はデータ処理装置である。自我や自由意志は幻想である。知能と意識は分離できる。
    生き物がアルゴリズムで意識と分離できるのなら、意識をもたない高度な知能をもつ非生物のアルゴリズム(例えば人口知能)が人間の能力を凌駕したとき何が起きるのか。そしてデータが自分自身より自分について詳しくなったとき、人間至上主義に支えられた資本主義・民主主義、自由主義はどのような影響を受けるのか。

    生命科学とテクノロジーのこのまま進展すれば、現代の支配的宗教である「人間至上主義(ヒューマニズム)」はいずれ崩壊し、代わりにデータとアルゴリズムによって人間を規定する「データ至上主義」が台頭する。

    これが、未来予想という名の人類のひとつの可能性を考察した本書の内容である。残念ながら、前作「サピエンス全史」の続編だが、前作のほうが面白かった。上・下巻2冊に分ける意味もない。上巻は前作のおさらいで、虚構を作り出す人の能力が人類繁栄のカギだったよ、という話。本作(というか下巻)は人類のこれから。正直、見通しが遠過ぎてSFを読んだ気分にしかなれず。


    本書を読んで途方もない気分に陥った人は、小川哲さんの「ユートロニカのこちら側」をお薦めする。データ至上主義が実現した社会の姿と人の営みとその先まで描いている優れたSF小説です。学者が描いた未来予想より思考実験でき、考える素材を提供してくれる。それに、なにより面白い。

  • 図書館に上下巻ともに予約を入れ、下巻の方が先に順が回ってきた。
    人間至上主義からデータ至上主義へ、さらにAI(人口知能)が人間の知能を越え、その先の世界がどうなるのか考えさせられる。
    AIの発達は我々の日常生活を変えるだけでなく、政治のありようも大きく変える可能性がある。
    生き物はデータを処理するアルゴリズムなのか。リチャード・ドーキンスの「盲目の時計職人」では生き物は遺伝子を運ぶ器と表現されていたと思うが、遺伝子の発現も情報処理の一環と考えればなんとなく共通するものを感じる。

  • 本書は歴史書ではなく、「猿の惑星」のラストのような衝撃的な予言で終えられた前作以降のサピエンスの将来的可能性を丹念な考察を重ねながら推論しています。バイオテクノロジーとAIは必然的にサピエンスを次のステージに押しやるようです。そこでは人間の尊厳は幻想に過ぎず大半が無用階級にふるい分けられます。このディストピアは可能性の一つとしていますが、「マトリックス」のポッドが目に浮かびました。

全146件中 71 - 80件を表示

著者プロフィール

ユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari)
1976年生まれのイスラエル人歴史学者。専門は世界史とマクロ・ヒストリー。
オックスフォード大学で中世史、軍事史を専攻して博士号を取得し、エルサレムのヘブライ大学歴史学部で終身雇用教授として歴史学を教える。軍事史や中世騎士文化についての著書がある。オンライン上での無料講義も行ない、多くの受講者を獲得している。
著書『サピエンス全史』は世界的なベストセラーとなった。2015年にヘブライ語で"Homo Deus: A Brief History of Tomorrow"を出版。その翻訳書『ホモ・デウス』が2018年9月に刊行される。

ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来のその他の作品

ユヴァル・ノア・ハラリの作品

ツイートする