水俣病闘争史

著者 :
  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309228624

感想・レビュー・書評

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  • 題名通り、水俣病に関しての闘争の歴史を通史的・俯瞰的に整理した書籍だ。「水俣病闘争に興味をもった人がすぐにアクセスできて、闘争を見渡すことができる簡便な一冊」をつくることが執筆動機であり、それは成功していると思う。

    水俣湾周辺の漁村で水俣湾からとれた魚を食べた猫たちが多数死んでいっていることが分かったのが1953年のことである。後にチッソ水俣工場から排出される廃液に含まれる有機水銀が原因であると分かるが、当時は、原因不明の中枢神経系疾患とされた。そして、患者は猫だけではなく人間も含まれるようになる。この年の12月に、水俣病認定第一号患者の方の発症が記録されている。
    その後、原因をめぐって、また、補償をめぐって闘争が繰り広げられていく。1968年になって政府が水俣病を公害病と認定し、この年に、水俣工場からの有機水銀の流出が止まる。法廷闘争の方は、初の判決が1973年に熊本地裁で下され原告・患者側が勝利する。
    闘争は順調に進んだわけではもちろんない。会社側・国・行政との闘いに加え、市民からの差別や、市民の一部は、町唯一の大企業であるチッソがなくなると困るために患者側の闘争を支持せず、時に妨害をしようとした。また、患者側も一枚岩ではなく、6派に分かれており、患者を支援する団体の間でも対立があった。
    そして、闘いは今も続いている。2021年8月末現在、認定患者は2283人(うち死亡1988人)。約1400人が認定申請中。また、約1700人による損害賠償訴訟なども各地で継続中である。

    以上が、ごく簡単に整理した闘争の歴史である。
    1973年の判決の骨子は下記の通りだ。
    ①水俣病の発症は、被告チッソ水俣工場から放流されたアセトアルデヒド製造設備排水中の有機水銀化合物の作用によるものである
    ②被告チッソ水俣工場では、この廃水を工場外に放流するにあたり、合成化学工場として要請される注意義務を怠ったから、被告に過失の責任がある
    ③よって、被告は原告らに対し、不法行為に基づく損害賠償の義務がある
    私の理解では、争点となったのは「過失の有無」であった。
    チッソ側は、水銀化合物の生成・流出と、それによる発症を予知・予見できなかった以上、過失はないと主張した。自分たちには工場操業により、有機水銀が発生し、それが水俣病を発症する等ということは、事前には分からなかったし、技術的にも分かりようがなかった、ということだ。
    一方で、判決は、いやしくも化学工場を操業し、外部に何らかの廃水を流している者は、リスクを予知し、対策を講じるべき義務を負うという考え方に立っており、それは、今の公害防止の考え方と同じだと理解した。
    このようなことが認められるために、1953年の最初の発症患者の発生から判決まで20年が必要であった。
    それも、スムーズな道のりではなく、上記したような色々な対立や紛争、対立を経たうえのことであり、事件は未だに終わっていないということだ。
    とても、重い本を読んだというのが感想だ。

  •  「事件」、「闘争」の次世代が、当事者に聴き取りをしながら、資料を調べて書いているところに一番心を惹かれました。今、「水俣病闘争」を書くことの意味は、米本浩二には当然あるのでしょうが、読み手は読み手で見出さない限り「未来」はないのではないでしょうか。米本浩二が問いかけているのはそういうことだと思いました。
     そうは言いながら、思い出に浸ってしまった読書でした。ブログにはなんとなくな思い出を綴りました。
      https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202210230000/

  • 水俣病の闘争史を描いた作品。
    原因企業に対する患者の怒りを想像を絶する。
    補償金目的など誹謗中傷を言われるが、大切な家族を失ったり取り返しのつかない障害を負わされたこのひどい状況を目の当たりにして、他人事でいれる人間がいるのだろうか・・・

  • 2022I163 519.2194/Yo
    配架場所:C2

  • 水俣病闘争史

    著者:米本浩二
    発行:2022年8月30日
    河出書房新社

    水俣湾周辺の漁村で多数の猫が死に、「奇病」が発見されてから、80年近くになるが、水俣病問題はまだ解決していないことは、あまり知られていない。詩人で作家の石牟礼道子の名は知っているが、彼女自身を水俣病認定患者だと思い込んでいる人は案外多いかもしれない。「公害の原点」と言われ、四大公害病の中でも一番知られているはずの水俣病は、実は詳細があまり知られていない。もちろん、水俣病に関する本はたくさん出ているが、通史は持ち運びにも難渋する大部の書物らしく、闘争を見渡せる簡易な一冊を目指して上梓されたのが本書だそうだ。

    毎日新聞記者出身の著者は、「水俣病闘争は大河に似ている」との思いから、横並びに書いた平面的な通史ではなく、「サイクレータ-(排水浄化装置)」「見舞金契約」「一株運動」など、テーマ別に分かりやすく書いて、「水滸伝的な闘争の本質に肉薄」を目指したという。その甲斐あってか、闘っている人たちの情念が伝わる本になっている。一方で、詳細を知らない我々にとっては、そこをもう少し知りたい、理由は?というような物足りなさもところどころ出てくる。無理もないが。

    人から体や心の自由を奪い、死に追いやる〝犯罪〟をやらかしながら、確証がないだの、過失ではないだの、のらりくらり往生際悪く言い訳し、逃げまくる(まるで統一教会べったりの、かの〝ヤメギワ大臣〟)。水俣工場で働く人たちの大量解雇を臭わせ、さらには工場をなくすという脅しをかけ、僅かばかりの「見舞金」を出して以後は一切なにも求めないという約束をさせる弱みにつけ込む手法をも駆使する。汚染が拡大することが分かっていながら、社内の反対を押し切ってまで川の河口に排水口を移す。なんともえげつないチッソという企業のあり方。当時の厚生省(通産省はもっと酷い)もそれに同調しているこの国のありよう。読んでいるだけでもこの上ないむかつきと吐き気をもよおすのに、当事者たちはよくも粘り強く頑張れたものだと頭が下がる。

    チッソは熊本の地方企業かと思いきや、日窒(日本窒素肥料)時代にアセトアルデヒドの合成(この工程で有機水銀を出す)に成功し、世界中で特許を取得、大もうけをして新興コンツェルンへと成長した企業だった。だが、戦後はGHQにより財閥解体の対象となり、水俣工場を唯一の工場として残し(チッソとなる)、延岡工場は独立して旭化成になり、一部の社員が積水化学を設立した。また、新潟では信越化学となった。こうして生まれた3社は、いずれも今では日本を代表する巨大企業。そんな威張り腐った財閥体質を残したまま、チッソは大間違いをおかし、責任を取ろうとしなかったのだろう。

    2021年8月末現在、認定患者は2283人(死亡1988人)。約1400人が認定申請中。約1700人による損害賠償訴訟なども各地で継続中だ。

    ********

    日窒でアセトアルデヒド製造工程を1932年に完成させたのが技術者の橋本彦七。38年に水俣工場長になり、将来の社長候補と言われつつ、戦後は朝鮮・興南工場からの引き揚げ組に追い出される形で退社し、その後、水俣市長になる。1968年、市議会でアセトアルデヒド製造工程の発明者としての責任を問われた彼は、「私の発明です。発明ですよ、発明です」と3度も繰り返して誇りをにじませた。

    魚、カラス、海鳥、猫に続いて、人にも〝奇病患者〟が1953年ごろから出始める。

    日本窒素肥料水俣工場附属病院の院長、細川一は、1956年に「原因不明の中枢神経系疾患発生」を水俣保健所に報告し、それが水俣病公式確認となった。水俣病裁判では工場排水が原因だと証言し、常に患者を思いやる無私無欲の人柄が石牟礼道子らを惹きつけた。

    水保湾の魚介類を食べたことによって起きる中毒――。事態を重視し1957年、熊本県は漁獲禁止の検討を始める。補獲や摂食を禁じる知事告示を出す方針を固め、厚生省に食品衛生法適用の可否を照会した。答えは「ノー」だった。水俣湾内特定地域の魚介類のすべてが有毒化しているという明らかな根拠がないから、が理由。

    水俣病の原因物質が有機水銀だと解明され始めると、1959年には日化協の大島竹治常務理事が調査を行い、「旧日本軍が投棄した爆弾が原因」だとする荒唐無稽な説を出す。それに同調した新日窒は爆弾の調査を県知事に申し入れるも事実無根と判明。

    すると今度は御用学者を登場させ、同年、清浦雷作・東工大教授が調査を行い、水俣湾内外の水銀濃度は魚の致死量の1000分の1か10万分の1ぐらいとだと発表。有機水銀は単なる一つの説にすぎないという雰囲気を作ろうとした。

    急成長をする日本にとって、新日窒の足踏みは重大なことにつながる。新日窒、業界団体、行政が一致団結してすすめた原因究明遅延作戦はうまくいき、有機水銀説を封じ込めた通産大臣の池田勇人は、翌60年、首相となって「所得倍増計画」を押し進め、有機水銀の放出は続いた。

    1959年12月、排水停止を逃れるため、水俣工場にはサイクレーターという排水浄化装置ができた。チッソの欺瞞性を象徴する物件だった。注文仕様にアセトアルデヒド廃水は入っておらず、有機水銀は除去できない。それを知っている新日窒は、最初廃水を八幡プールに送り、サイクレーターには流さなかった。60年になってやっと送られた。排水は安全になった、と会社は主張したし、検証ができないため信じるしかなかった。もちろん、結果はわかりきったこと。安全だと思われたがために、61年以降に発症した患者が認定を一時拒まれる理由となった。悪意の演出だった。

    1957年には「水俣奇病罹災互助会(後の水俣病患者家庭互助会)が発足した。1959年12月、互助会と新日窒は「見舞金契約」を結んだ。会社の責任を前提とした「補償金」ではなく、第三者の善意としての「見舞金」を受け取り、将来、もし工場排水に起因することが決定しても新たな補償金の要求を一切行わないという条項があった。日窒附属病院長の細川一は猫400匹を使って実験をし、工場排水との因果関係を解明していたが、新日窒はこの時点でその結果を知っていた。

    1962年、熊本大学研究班は、チッソ工場から入手した水銀スラッジ(泥試料)でメチル水銀の中執に性行し、1963年2月17日の熊本日日新聞1面に「製造工程中に有機化」とスクープされた。

    1965年、新潟大の椿忠雄教授らが「原因不明の水銀中毒患者が阿賀野川下流沿岸集落に散発」と新潟県に報告。件も「2人死亡」などを発表し、第二の水俣病=新潟水俣病が公式に確認された。昭和電工鹿瀬工場が汚染源と思われ、新潟県、厚生省、新潟大学は疑ったが、水俣と同様に通産省が反論し、「64年に発生した新潟地震によって流出した農薬が原因」と詭弁を弄した。

    1968年9月26日の政府見解でなされた公害認定では、熊本と新潟で別々に言及され、熊本は因果関係を明快に断じたものの、新潟は大きく関与して基盤となっており、今後公害にかかる疾患として措置を行うと、企業責任を明確にしなかった。

    〈会社の発展と共に地域社会の繋栄と従業員の幸福を一歩一歩築き上げていきたい〉
    1968年元日、チッソは異例の挨拶状を水俣市民に配布した。一種の脅しだった。政府の公害認定を控え、チッソを潰しては元も子もないぞ、との脅し。
    チッソの江頭豊社長は、その年の9月13日「水俣に異常事態が生じており、地元の全面的協力が得られねば五カ年計画をすすめられない」と水俣撤退を示唆した。五カ年計画は原料転換を進めて従業員を1400人減らす計画だが、それすらも撤回するという脅しだった。

    政府の公害認定の2日後(1968.9/28)、江頭社長は詫び状と羊羹3本を持って患者家庭を回った。補償するとは言わなかった。

    厚生省は「確約書」を書かせた。「水俣病の紛争処理をお願いする委員の人選を一任し、彼らが出した結論には異議なく従う」というもので、チッソと国の出来レースだった。互助会側は34世帯が拒否し、そのうち29世帯は態度を変えず、69年4月に慰謝料請求訴訟を起こす方針を決定する。互助会のなかでも「訴訟派」と呼ばれるようになる。互助会の約3分の2にあたる54世帯は確約書に捺印、「一任派」に。互助会は事実上、分裂した。6月14日に訴訟派は提訴。
    *69Pには訴訟派は29世帯、82Pには34世帯となっている。また、84Pにも29世帯に。

    1969年6月25日発行「告発」第一号。石牟礼道子の「復讐法の論理」が載っていて、市民の声として「銭は一銭もいらん。そのかわり会社のえらか衆の上から順々に有機水銀ば呑んでもらおう、あと順々に生存患者になってもらおう」と引用している。

    訴訟でチッソ側は「メチル水銀による水俣病の発生については予見可能性がなく、したがって過失はなかった」と主張。当時の過失論では、結果発生に対する予見可能性があったかどうかによって過失の有無も決まるという考え方が支配的だった。

    劇作家・砂田明が代表世話人を務める「東京・水俣病を告発する会」は、70年7月3日、「東京・水俣巡礼団」を率いて東京を出発、水俣まで8日間かけて歩いた。日比谷公園では日雇い労働者たちが10円をくれた。熱海駅前では小学生の女子が10円。500円出して400円のお釣りを求めた大阪のおっちゃん。博多駅前では20歳ぐらいの女性が1000円の浄財を出し、手紙を置いていった。「闘う人たち、巡礼さん!ごくろうさん!私も負けないで闘いたい!はげまされました!巡礼さんの博多入りをきいて会社からとびだした女の子より。新しい世の中をつくりましょう!」

    「一株運動」により、1970年11月28日の株主総会は、1500人が会場周辺を埋めた。一株株主の列は300メートルにも達し、黒い「怨」の吹き流しが700本もひるがえった。決算決議のあとの説明会で、再び社長が挨拶。「水候病につまましては、私ども患者の皆様方にお気の売と思っています。・・・・・・責任を回避するがごとき気持ちは毛頭ありません。しかし、原因がまだ当社に起因することが分からない時・・・・」「責任を回避するような気持ちはどこにもありません。次に二番目の水俣工場を閉鎖するかとうご質問につきましては・・・」
    この言葉で混乱した。患者らのおかげで水俣工場がよそにいくと、市民から憎悪されてきたため、一株株主らは舞台にかけあがり、江頭社を取り囲んだ。

    水俣病で父親は死亡、自らも水俣病に苦しむ川本輝夫は、患者が提訴した69年6月ごろから、潜在患者発掘のため水俣の各家庭を精力的に回り始めた。しかし、一軒の家庭から2人も3人も患者を出すのは見苦しい、という考え方があり、「そんなにまでして金が欲しいのか」といわれるのがいやで、反応は芳しくなかった。そんな中、13人が71年4月22日に新たに認定された。そのうち8人は補償処理委のあっせん案に従ったが、残り5人のうち三家族はチッソとの自主交渉を望んだ。チッソは加害者とは思えない居丈高な態度に終始し、三家族は訴訟合流を決めた。提訴となると、チッソの態度は一変し、タクシー券を差し出すなど懐柔に努めた。

    認定基準が改められ、71年10月6日、川本輝夫ら16人が熊本県知事により、2人が鹿児島県知事により認定患者と認められた。新認定患者は調停派と自主交渉派に分裂、後者の18家族は71年11月1日に「一律3000万円」の支払を要求。チッソの久我取締役は「たとえ10万円でも出せません」と拒否。

    71年1月7日、チッソ五井工場の第二組合系の委員長に抗議するため、川本輝夫は約束の時間に出向いた。支援者11人が付き添い、写真家ユージン・スミスとその妻、各紙記者、放送記者ら10人あまりが同行した。すると、5,6人で来ると電話でいっていたのに、といちゃもんをつけられた。まっている間、新聞記者の一人が鉄格子を乗り越えて敷地内に入った。やがて押し問答となり、従業員200人が彼らを襲った。ユージン・スミスは米国大使館で意識を失い、右の視力の低下など深刻な後遺症に苦しむほどの大けがとなった。工場次長ら6人が書類送検されたが、事実関係がはっきりしているのに不起訴処分となった。

    公権力による弾圧が強まり、川本輝夫は72年12月に傷害の罪で起訴され、75年一審有罪、77年二審無罪、80年最高裁で無罪確定した。一審判決に怒った訴訟派患者らは、チッソ吉岡喜一元社長と西田栄一元工場長を、殺人・傷害の罪で告訴。76年5月に業務上致傷罪の罪で起訴され、熊本地裁は両被告に禁錮2年、執行猶予3年の有罪判決を下した。88年、最高裁で確定。

    「一任派」「訴訟派」「自主交渉派」「調停派」「中間派」「第二次訴訟派」に分裂していた。そんな中、72年12月に訴訟派と自主交渉派ら患者家族約30人が来水中の公害等調整委員会の五十嵐義明委員長ら3人に面会を求めて市役所を訪問。五十嵐は「すべては調停案の中身で御個体します」というのみだった。折衝の合間に川本が調停申請者の束をみて愕然とした。名前の筆跡がみんな同じだった。
    結局、総理府に設置されている調停委が書類を偽造していた。その後、総理府に本人たちも含めて出向いたところ、80人の申請者が5人を代理人に専任する委任状が出ていたが、その場で直接確認した3人ともが書名捺印していないことがハッキリした。すでに死亡しているのに書名捺印しているものもあった。

    調停申請書は、出せばチッソからその場で20万円がもらえた。不正が発覚しても、申請を取り下げると20万円も返さないといけない。それが問題を複雑化させた。

    二次訴訟は、訴訟派、自主交渉派、市民会議、告発する会の反対を押し切って起こされた。患者も市民会議も告発する会も政党とは無縁だったが、二次訴訟の弁護団は共産党主導色が強い。二次訴訟原告を発掘した県民会議医師団も共産党系。闘争の各プロセスに遅れを取って焦燥にかられた共産党が、二次訴訟で主導権を取り戻そうとしていた。

    斎藤次郎裁判賞は渡辺京二を裁判所に招き、「一団体で〝固めどり〟をしたら、まずいのではないですか?」と言った。「あなた方は(共産党と)一緒に闘っているんでしょう?」
    渡辺は「冗談じゃありません。(共産党は)水俣なんかいっぺんも来たことありません。患者の家にも来たことがありません。自分の党派の宣伝がしたいだけです」

    73年3月20日、原告勝利の判決が出た。チッソの過失を明快に認め、見舞金契約を公序良俗に反して無効と判断した。
    ①水俣病の発症は、被告チッソ水保工場から放流されたアセトアルデヒド製造設備廃水中の有機水銀化合物の作用によるものである。
    ②被告チッソ水俣工場では、この廃水を工場外に放流するに当たり、合成化学工場として要請される注意義務を怠ったから、被告に過失の責任がある。
    ③いわゆる見舞金契約は、公序良俗に違反し無効である。
    ④原告らの損害賠償請求権の消滅時効は、未だ完成していない。
    ⑤よって、被告は原告らに対し、不法行為に基づく損害賠償の義務がある。

  • 毎日新聞2022827掲載 評者: 池澤夏樹(作家)
    熊本日日新聞2022925掲載 評者: 三砂ちづる(津田塾大学学芸学部多文化国際協力学科教授,疫学,衛生学)
    日経新聞20221015掲載 評者: 梯久美子(ノンフィクション作家)
    週刊金曜日20221021掲載 評者:長瀬海(書評家,ライター)

  • 水俣病闘争史を丁寧かつわかりやすく簡潔にまとめてくださった貴重な作品。ほとんど知識がなくても、石牟礼道子さんの本を読んだくらいでも、難しくなく、丹念に時系をたどり関係者の関わりを辿りその時々の患者さんのお気持ちをたどり世の中を辿ることができる。
    石牟礼道子さんの苦悩、今時の流行りの言葉となってしまって居心地悪いが、端的に自分のこと、自分ごととして、自分自身との戦いとして水俣に捧げられたお時間生き様。闘争手段、型式の上最後はお金のことにしかならない終わって終わりきれない闘争。70年ごろの、チッソ本社立てこもりなどのはげしくも熱のこもった闘いぶりも余すことなくシッカリと書かれている。共闘する知識人として日高六郎さんや見田宗介さんのお名前も。
    当時もひどい企業論理、行政の対応であったが、今まさに腐敗しきり嘘と言い逃れと証拠隠滅などなどを常套手段にダブルスタンダード政治を政権与党がやっている有様で今であればさらにひどい対応がなされるかもしれないと、
    それは、73年の裁判における原告勝訴の判決文のなかで、
    裁判には限界があるとした上で、
    企業側とこれを指導監督すべき政治・行政の担当者による誠意ある努力なしに根本的な公害問題解決はあり得ない
    という異例コメントがでたがそのようなことは企業政治行政未だにお構いなし努力なしな問題ばかりではないか、と思う。
    水俣の海に生きた人たちの、お金をもらっても嬉しくもなんともない闘い、毎日食べていくことだけでも想像できないようなぎりぎりの闘い、水俣病になりおかげで人と出会えたという言葉、思いを苦しみやそれでも生きて笑える瞬間があることを言葉に紡いでいく様が本当に胸に迫る。
    水俣病が発覚した頃の、新日窒、業界団体、行政の知らぬ存ぜぬ関わり無かったこと原因不究明を団結して決め込んだとき、
    第二組合と第一組合になり、第一組合が同じように会社に搾取される者として、1人の人間、労働者として水俣病患者と共に闘わないできたことを恥じ反省する恥宣言のとき、
    ハンストやテント村で闘いながら、弁護団や告発する会や市民会議、それぞれの立場に違いが顕著となってしまったとき、
    裁判闘争に一定勝利しながらも誰もがまだまだ終わっていないという気持ちであったとき、それぞれの時それぞれの立場をほんとうに真摯に描き記されていて、
    どの局面でも、全く2020年代ニッポン進歩してないのね、ヒューマンになれてないのね、石牟礼道子さんたちが人間はもうダメになってしまったけどいずれゴキブリやネズミが字を読むようになって理解いただけるかもしれないからとにかくしっかり記録していきましょうと始められた活動。なんとも肩身が狭く。本を読んでも読んでもなんの役にも立たない自分。水俣にもお伺いしたことがある、美しい海に驚き美味しいお刺身をいただきお話をお伺いしたことを記憶の彼方から引き出しながらなんの役にも立っていない自分を恥と思う。著者の米本浩二さんや河出書房新社さん、美しい装丁、感謝。

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著者プロフィール

1961年徳島県生まれ。毎日新聞記者を経て著述業。石牟礼道子資料保存会研究員。著者『みぞれふる空』『評伝 石牟礼道子』『不知火のほとりで』『魂の邂逅』ほか。

「2022年 『水俣病闘争史』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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