生命と現実 木村敏との対話

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (220ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309243948

作品紹介・あらすじ

臨床の現場に身をおきつづけながら、深い哲学的思索と鮮烈な理論によって精神医学を超えた各層に影響を与えつづけてきた著者が、西田、ベルクソンなどを論じる哲学者の問いをうけて、「あいだ」、時間論、分裂病、鬱病、そして「生命論的差異」などの核心的テーマをほりさげる語り下ろし。

感想・レビュー・書評

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  • 哲学者と精神科医の、対談でもインタビューでもなく、まさしく対話。難解だが興味深い。

    [more]<blockquote>P10 精神という現象は<あいだ>にしか現れない。自己と他者、私と世界が接する<あいだ>という境界面のダイナミズム以外に<私>とその自己性を探る場面はない。

    P15 他者が自己を規定すると同時に、自己が他者をも規定する。互いに対象化された自己性を持たない仕方で、自己と他者とが相互的に生起する。

    P19 <あいだ>とは実際に、こうしたタイミングの奪い合いである。他者との<あいだ>で生起する出来事における抗争である。そのなかで<私>は<私>になり、他者は他者になる。(中略)<私>というのは、タイミング論においてみられるように、偶然性の上にさらされ、他者に差し出されたあり方においてしか、リアルに存在することはできない。それは、根底的な不安定さを秘めながらも、そうした偶然をはらんでいることにおいて、出来事として成立する。生きているものの存在を示すイルという言葉は、そういう偶然的な弾みそのものを生きている状態に付される表現である。

    P31 調性ということは、その音が鳴る前にいくつか鳴っていた音で決まるんですね。ある音が鳴った時に急に決まるわけじゃない。いくつかの音が鳴ると、その次に鳴る音の機能がそこで決まってくる。要するに音楽の中の音というのは、それまで鳴っていた音のインテグレーションというか、積分みたいなものなんです。それから、ロの音がシの機能を持ってドに進むというのは、微分みたいなものですよね。それ自身が次の音を予測している。方向性を持っている。

    P74 アンテ・フェストゥム(祭りの前/分裂病)ポスト・フェストゥム(祭りの後/鬱あるいはメランコリー)イントラ・フェストゥム(祭りの中/てんかん)という三つの時間論的な体制

    P87 てんかんの発作でなぜ意識を失うのかという問題は、科学的には答えられていないんです。頭をがーんと叩かれたり脳死になったりすると意識を失うのは当たり前ですけど、その場合には脳波をみれば平坦になっている。言ってみれば意識を起こすだけのエネルギーが失われている。ところがてんかんでは、エネルギーが溢れていますから、脳波はものすごい振幅で振り切れて、脳波計で記録できないんです。

    P114 われわれにとってはどうしてか、自己と他者、自と他という概念が対称的になっていない。自明なものとして与えられているのは自のほうであって、他のほうは、自ではないもの、いわゆる非自己としてしか成り立たない。(中略)生と死の間にもそれと同じ非対称のパターンがあって、生は自明なものとして与えられていて、死は生きてない状態だと定義できるけれども、逆に生を死んでない状態として定義することはできない(中略)自己と他者には不等号がついていて非対称である。その不等号の逆転が起こるのが分裂病なんだという意味のことを安永さんはおっしゃっている。(中略)例えば宗教体験と言うのは、恐らく自と他が逆転して、その場合「他」というのは神のような超越者ですが、自己と神との関係でもパターンが逆転しているのではないかと思ったわけです(中略)自他の逆転というのは、それ自体は決して病的な状態ではなくて、言ってみれば人間にとって、宗教とか芸術とかそういう極限的な状態では瞬間的に表に出てきうる

    P117 鬱病の罪の意識の問題で、ヨーロッパの人はそれを大変個別的に自分が悪いんだと捉える。それに対して日本人はみんなに申し訳ないという捉え方をするという大きな違いがありました。(中略)日本人だと、本質というものは形にないところになければいけないと思うでしょう。ところがヨーロッパでは形が本質なんですね。

    P147 ほんとの治療というのは、対話の中にしかないだろうと思うものですから。薬は補助的なものだろうと思うわけです。しかしさっきも言ったように、薬を否定するわけではなくて、むしろ積極的に使いますけど、やはりあくまで補助なんです。

    P151 <もの>と<こと>−レアリテ(実在性)/アクチュアリテ(現実性)/ヴィルチュアリテ(潜在性)

    P161 ただ日本語には、動詞的な動きをいうための「こと」というユニークな言葉がありますけれど。それと日本語でザインやエートルにあたる言葉としては、<ある>のほかに<いる>もありますね。これもユニークです。

    P179 即の論理というか即非の論理が、どういう場合に成立するかというのは、大変面白いですね。たとえば生即死、死即生は化全に言えるわけですけど、男即女、女即男というのは言えない。これはどうして言えないのか考えてみますと、男と女というのは相対的な対立でしょ。(中略)即で結べない差異と、結べる差異とがある。

    P184 例えば松の木というものを知るために、世界じゅうの一本一本の松を全部調べなければいけないなんてことはないわけで、あるいは相当数の松を調べなければいけないということもないわけで、松を知ろうとすれば、じっと一本の松を見つめていればそれで松のことは分かるという、そういう考え方はありうると思うんです。

    P213 自己が自己であることの、私がこの私として、多くの他者たちと交わってゆくことの、もっとも基本的な条件にかかわる事態である精神病を、つまり、哲学という、人間にとって最高の知の営みを成り立たせている条件に関わる事態である精神病を、心の病か脳の病かというような二律背反に閉じ込めること自体が、この上なく本質を逸脱した議論ではないのか。(中略)心の症状を、そして脳の症状を、いずれもその個人にとっての有意味な反応として理解させるような、基本的な人間存在の病理をこそ探し求めなくてはならないということである。そしてこの探求は臨床的な意味での哲学以外の何物でもあり得ないだろう。</blockquote>

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著者プロフィール

1931年生まれ。京都大学名誉教授。著書に『木村敏著作集』全8巻(弘文堂)、『臨床哲学講義』(創元社)、共訳書にヴァイツゼカー『ゲシュタルトクライス』(みすず書房)ほか。

「2020年 『自然と精神/出会いと決断』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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