切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話

著者 :
  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (214ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309245294

作品紹介・あらすじ

思想界を震撼させた大著『夜戦と永遠』から二年。閉塞する思想状況の天窓を開け放つ、俊傑・佐々木中が、情報と暴力に溺れる世界を遙か踏破する。白熱の語り下ろし五夜一〇時間インタヴュー。文学、藝術、革命を貫いて鳴り響く「戦いの轟き」とは何か。

感想・レビュー・書評

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  • 読むと文章の可能性を信じたくなる。もっと言うと、発破をかけられているような気分になった。
    文章を読むこと、そして書くことがそのまま世界を変えるということ……自分が書いても書かなくても世界は続いて行くのだということが、逆に今・ここの「私」を慰めてくれる。

    特にルターの章は最高に胸熱。誰が何と言おうと「読んで」しまった人=ルターの躍進ぶりに、快哉を送りたくなる。
    昨日までと世界が変わってしまうことの驚き、そして目覚め。もう戻れないということが彼を進ませたのだな……。そんな一人の「読んだ者」が世界を巻き込み、世界そのものを変えていく過程に引き込まれた。

    そしてもう一つ驚くしかなかったのは、最後の章のロシアの文盲率の話。今こうして私たちの手元にある本は、砂粒のような可能性の賭けに勝ってきた文学なんだなぁ。それはまさに、真っ暗闇の銀河で石を放り、地球まで届くかというような可能性……絶望的状況の中で、それでも何かが生き残る可能性に勇気をもらう。

    それでも彼らは賭けに勝った、そして彼らが賭けに勝ったなら、我々が勝てないとなぜ言えるだろう? というところがとても好きだ。
    世界は変わり続けるし、そんな世界の中に私たちはいるのだ。

  • 本と革命、そして芸術、表現、思想などについて広く考えさせられます。今の時代「読む」という行為は、小説や新書、ネットの記事や軽いエッセイなんか、字を追ってなんとなく飲み込む、「消費」に近い行為かもしれませんが、かつて「読む」という行為はどういう意味を持っていたのか。そして、受け取り手がいないのになぜ過去の偉人たちは「書く」ことを続けたのか…。という話です。当時の人達の思いを想像するだけで、少し身震いしてしまいました。
    ダイナミックで、戯曲のような語り口なのでずっと姿勢を正して読んでしまいます。まだまだ読み込みたい一冊。

  • 生きる為に命を食す様に、生きる為に本を読む人達もまた存在する。それは娯楽としての安全な読書とは本質的に似て異なる物であり、自らの経験と人格を剥き出しにして一冊の書物と向き合う行為は時に傷付き、苦しみに満ちた物であるが、懸命に生きようとする行為をどうして愚かだと言えようか。佐々木中が文学の持つ可能性について情熱と確信を持って語り下ろした本書はそんな読書という孤独な航海を徹頭徹尾肯定し、灯台の様に道を指し示している。ここには幾度となく立ち返る言葉がある。とても勇気が出る。書物を持つ手が切り取られてしまう前に。

  • 先日いただいた本を読了しました。
    ジャンルは現代思想系、とでもいうのでしょうか。
    佐々木さんが聴衆または聞き手に向けて
    語り掛け続ける口語体中心で構成された本です。

    自分ごときが評価できるレベルの本ではありませんでしたが、
    素養のない者が読んでの評価ということで書きます。

    哲学、宗教系の教養がそれなりにないと、
    枝葉末節だけでなく、本筋の裏のロジックがわかりづらい、
    というような内容ではありました。
    なので、自分には内容が半分もわかったかどうか怪しいです。
    しかし熱量がすごい。それだけは伝わってきました。

    ○○は終わった、というような表現はよく使われますが、
    それが本当に著者は許せないんだなと思います。
    お前が終わったという前に、お前の○○は始まってもいない、
    そう言い放つのです。
    本当の意味での読むという行為を怖がっているお前に、
    終わりを語る資格などないと叫ぶのです。

    テクストがただの文字情報という意味を超えた、
    上のレイヤーにおける情報価値そのものとして息づき、
    それこそがこれまでの人類を作ってきたのだし、
    今の自分が生きていられるのもそのおかげなのだ。

    そういうことを忘れずに生きることが大事だし、
    だからこそすべての人は臆せずにその思いを書き残すべき。
    その一足が道となり、誰かがそれに続くかもしれない。

    そんな風に自分の中では捉えることができた本でした。
    難しい本でしたが、面白かったです。

    ただ、これをくれた友人はこの本で人生が変わった、
    という風に言っていましたが、
    自分は変わるほどには理解できなかったようです。
    (謙遜抜きで)

    非常に示唆に富んだ本だったことは間違いありません。
    著者の他の作品も少し読んでみたいと思いました。

  • 今、読まれるべき本だと強く思う。
    セカイ系・自己啓発本・なんともいえない新書の数々。ナゾの書籍が大量に売れる世の中。文学はもう終わった?さらにいえば、今現在、日本がおかれている過酷な現状、そこに文学の意味はあるのか?
    前著「夜戦と永遠」同様、ここで書かれるのは「革命」にまつわる話。「明日世界が終ろうとも私は今日林檎の木を植える」――これは、為政者に虐げられ、それでも尚、大地にしがみつく者の言葉ではない。これは、革命を成そうとする者の言葉。つまり、「夜戦と永遠」と同義。
    語られるのは「読むこと」「書くこと」。それがいかに「革命」につながるのか。それは読んでみてのお楽しみ。一つだけ「書いて」おくと、『どうせ読めてしまう。読めてしまうものしか読まない、読まなくても先刻承知だと高をくくて読まない』という安逸が、死を、とめどない死を産み出す――。
    結論からいうと、文学は全然終わってなんかいない。たとえ絶望的な状況でも歩みを止めてはならないと痛感する。

  • 「切り取れ、あの祈る手を」のなかで、佐々木中はとにかく文学について「読み、書くこと。読み変えて書き変えていくこと。全ての”テクスト”においてその行為を行うこと」の重要性を説いています。

    文学を続けることの困難さ、情報じゃない文学を書くことの困難さ、は文学に関わったことがある方なら多少感じている所があると思います。
    革命につながる暴力性を孕んでいるかもしれないし、全く無意味なものかもしれない。
    自分が今やっている研究は、今書いているものは何の意味があるのか、なぜ書いているのか、何が得られて何が残るのか。

    それでも読み続けるしかない、書き続けるしかない。
    周りのひとからは本は読んでいるけれど、世の中のことは何も知らない奴だと言われたり、自分自身も本当に正しいことをしているのかは分からないけれど、とにかくそこに書いてあることを読んでしまったのだから
    信じるしかない。
    文学やそして藝術と向き合っていく、ということはそれほど辛いことでもあります。
    それを続けられない人が藝術は終わった、文学は終わったと言い始めることについて特に批判している、と著者は述べています。とても辛辣に。

    “文学が終わっただの純文学は終わっただの近代文学は終わっただの、もう何百年も何十年も繰り返し言われている。っそう口にする自分だけは新しいと思ってるわけでしょう。残念でした。そんなことはもう飽き飽きしているんですよ。”

    終わった、というほうが楽なのかもしれないし、そう考えて続けないことが楽なのかもしれません。
    文学は終わりません、と断言するにはその困難さと向き合って続けていかなければならない覚悟と力強さが必要で、
    それを持って文章をつづろうとするとこうした文体で書かれた本が出来上がるのだと思います。

    一読すると、扇情的に捉えてしまうけれど、それは著者なりの覚悟が現れているものなんじゃないかと思います。

    本の最後に、パウル・ツェランの言葉を引用して、佐々木中は以下のように書いています。

    “様々な喪失の只中で、手に届くものとして、近くにあるものとして、残ったものは言葉だけでした。言葉は失われることなく残った。”
    “残るほうに賭けようではないか。そうするしかないのではないか。読んでしまったのだから。聞こえてしまったのだから。大丈夫ですよ。普通のことです。誰もがそうしてきたように、そうし続けるだけなのですから。”

    何も終わらないし、これからも何もかも続いていくのだから、とにかく書け。
    文学にできること、とか文学とは何か、とか書かれている本はあるけれど、
    これほど端的に答えを出して、書く人を勇気づける本はめったに出てこないかと思います。

    最後の引用は地震が起きて以来、ずっと頭のなかを巡っています。
    続けていくことに目をそむけずに、残るほうに賭けていたい。

  •  本書はその副題にある様に「本」と「革命」についての著者が話した内容を書き起こしたものである

     
     「本」と「革命」

     この一見、何の関係もない二つの言葉・概念が実は本質的な部分で結びついているというのだ

    「本」については後ほど書くとしてまずは「革命」について書いていこう


     本ブログの読者は「革命」という言葉から思い浮かべるだろうか

     僕は直近で行くと「ジャスミン革命」「エジプトの革命」、それ以外には「文化大革命」「宗教改革」「フランス革命」「キューバ革命」などを思い浮かべる

     どれも既存体制を破壊し新たな秩序を再構築しようとする試みだが、「革命」というと既存体制を破壊するまでの過程を指すことが多いと思う

     実際、直近の「ジャスミン革命」にしても報道などを見ていると、政権を打倒するまでを「ジャスミン革命」と称していることが多いように感じる

     しかし、よくよく考えてみれば、それは不自然な話で「革命」は既存秩序を破壊し新たな秩序を再構築するまでを指すはずだ

     これはどういうことか
     「革命」が指す事象が、暴動や戦争などの暴力によって既存体制を破壊することだという認識が大手メディアの間に少なからずあるということだ

     
     これは以前読んだ「共産党宣言」や一時期嵌っていたチェ・ゲバラが述べていたように「革命は暴力によってしか成し遂げられない」もしくは「革命は暴力によって成し遂げられなければならない」といった言説が、有名でそのようなイメージが「革命」という言葉についてしまったからだと思う


     本書は、そのような「革命=暴力」といったイメージを、「革命は暴力的なものである」という考え自体を真っ向から否定する

     
     著者は、革命は「読み、読み換え、書き、書き換えることによってのみ成し遂げられる」と述べている


     どういうことかというと


     ここで「本」についての話が登場する
    (本書の順番ではむしろ「本」の話から始まるが本記事では分かり易さのために「革命」の話から始めた)

     「本」

     権威者のための権威強化ツールであった本
     活版印刷によって大衆化し、現在の日本では読めない人はほぼいないと言える本
     近代教育の普及によって識字率が上昇し、先進国では求めれば誰もが書くことも読むこともできる本

     現在の日本ではインターネットの普及、電子書籍の登場によってその形が問われている本であるが、著者はこの「本」を読む行為「読書」をについて述べる

     「読書」

     読んだ字の如く「書を読むという行為」そのものだが、著者は単なる情報取得のための行為は「読書」ではないと言う
     「本当に本を読むという行為をしていない」と言う
    (ここで著者が扱う本は思想や社会学、法律学、文芸などいわゆるハウツー本とは一線を完全に画すものである)
     
     「読書する」と言った場合、読む本はほとんどの場合、他人が書いたものだと思う

     では「他人が書いたものを読むということ」はどういうことか

     人間は他者と理解し合うことは不可能だ

     この当たり前過ぎる現実を前提に考えた時、「他人が書いたもの」を「読む=丸ごと理解する」ことは不可能だということに気づく

     それでも読む

     ここで想像して欲しい

     今の様に情報が氾濫していない社会

     一つ一つの情報に今よりもずっと価値があった社会を

     それは活版印刷以前の時代において顕著だ

     そんな時代に自分が読んだ本

     しかも聖書の様な誰もが行動の生活の基準としている本

     そこに書いてあることが、自分が今いる世界を何一つ説明していなかった場合を

     当然疑うだろう

     まずは自分の頭を、そして字を読んだ自分の目を、印刷の不備を、最後に自分の住んでいる世界を

     だが、それでも、何度確かめても何度読み直しても自分が読んだ通りだと理解するしかない場合、あなたならどうするだろうか

     その本には周囲の世界を説明することが何も書いていないなら、そして、その本の通りに世界が構築されていなければならないのなら、きっとあなたは世界をその本の通りにしようとするだろう

     その本を聖書にしたとき、その革命は「宗教改革」となるし、その本をコーランとしたとき「ジャスミン革命」になる
     共産党宣言にすれば「ロシア革命」になるだろう


     本書では革命を語るにあたって「中世解釈者革命」と「宗教改革」を主に取り上げている

     ルターは敬虔なキリスト教の司祭であるが、聖書を読み込めば読み込むほどに、当時の修道院や教会、枢機卿などの制度の根拠がどこにも書かれていないことに苦しみ、認め、最後には当時の腐敗した教会制度に一石を投じた

     彼は当時としては異常なほど本を書いた

     そして多くの場所で何度も何度も説教をした

     そうやってそれまでの民衆の頭の中にあった秩序を書き換えていったのだ

     ルターは、聖書を読み、自分なりに読み換え、書き(聖書のドイツ語翻訳)、書き換えたのだ(翻訳は訳者の理解する原文の影響を受ける)

     もちろん、その過程では、当時の既存秩序である協会側から破門されたり、戦争があったりなど暴力が存在する

     だが、暴力は革命の本質などではないし、それが無ければ成し遂げられないなど言うことは全くない

     革命は「読み、読み換え、書き、書き換えることによってのみ成し遂げられる」のだ
     「人々の準拠するテキストの書き換え」によってのみ成し遂げられるのだ


     本書では中世解釈者革命について、このルターによる宗教改革の源流として述べている

     「中世解釈者革命」という言葉を僕は本書で初めて知ったが、当時の社会状況はというと
    12世紀くらいに、グレゴリウス七世による当時の腐敗していたキリスト教世界の改革に乗り出し、神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世との「叙任権闘争」を経て、250年以上後に公会議の復活、ルターによる宗教改革につながる

     で、「中世解釈者革命」はというと、11世紀末にピサの図書館で「ユスティニアヌス法典」というローマ法大全が発見される
     これを発見した者たちがこれらの書物を「読んだ」
     それまでは全く意味不明のものだったのだが、11世紀末の発見者はこれを読んだ
     そして、ローマ法の概念と法律用語を手にした
     これを手にしたものたちは、それを実践して法律を作った
     本書によると「グラーティアヌス教令集」を

     この教令集によって統治されるものは教会であり、教会を統治すると言うことは当時のキリスト教世界全体を統治することを指す

     この「「ユスティニアヌス法典」を読み、読み換え(当時の概念で解釈し)、書き(「グラーティアヌス教令集」を書いた)、書き換えた(そのことにより教会法を書き換えた)」ことが「中世解釈者革命」である

     なんと、これも本書で初めて知ったのであるが、この「中世解釈者革命」によって初めて体系的な法律文書に則った統治が行われるようになった
     そして、このことが中世キリスト教共同体の成立を導く(これが近代国家の起源にあたる)

     ここに「主権」の考え方や、「公会議」という名の「近代議会制度」、一次資料に準拠して実証するという科学的態度といったものの起源がある

     我々が自明のものとしている、選挙制度や人権、科学(実証主義)といったものの始まりが中世解釈者革命にあるというのだ


     つまり、現代社会は未だに12世紀に起こった「中世解釈者革命」の延長線上にあるのである

     これは凄まじいことだと思う

     だってそうだろう

     今から800年くらい前の考え方が、現代社会に影響を与えているだなんて

     本書の特徴に、現代や近代という短い時間軸、日本やアメリカという狭い空間軸に囚われない圧倒的な視野の広さがある
     
     その視野の広さから、本書では所々で(特に最後の章で)、「もうすぐ世界が終わる」とか「文学はもう終わった」という態度を取る者たちを手厳しく批判する

     まず「世界が終わる」という者たちには、「自分が死ぬと同時に世界も滅ばなければならない」という観念を持っているとして一笑に付している
     もっと言うと「本を読む」ということをしていない
     他者の無理解性を理解していないからそんなことが言えるのだ、と
     自分が死んでも世界は変わらず回り続けるのだ、と

     そして、「文学はもう終わった」などという者たちには、ドストエフスキーやアリストテレスなどの例を挙げる
     ギリシャ・ローマ時代には膨大な数の書物が書かれたけれども、残っているのはその内の0.1%だけだ
     だが、そのことだけでアリストテレスが負けたのか
     時代の流れによって壊滅させられたのか
     また、ドストエフスキーが処女作「貧しき人びと」を書いた当時、ロシアの全国民の少なくとも90%が全文盲だった
     そんな状況であんな名作を書いた
     
     そういうことを知って果たして「文学はもう死んだ」なんて言えるだろうか

    本書では、英語の初出があった14世紀くらいでは「文学」という言葉が、現代の「文学作品」を指すのではなく、「読み、かつ書く技法一般」のことだったことを示し、本来の文学の意味を広く深く取っている

    それは「文字を読み、書くこと」でもあるが、頭の中のテキストを含ませるので、近代化していない文化の伝統的ダンスを「踊ること」でもある

    つまり、「頭の中のテキスト(思考)を読み、書くこと」を文学としているのだ


    それが文学であるという前提で、そして、今まで書いてきたことを念頭に、先ほどのアリストテレスやドストエフスキーの例を考えてみると、
    彼らが読んでしまったがために書かざるを得なかったということ

    それがどんな苦境でも書かざるを得なかったということ

    そして、「中世解釈者革命」も人間が成し遂げたものである以上、それが人類史から見ればたかが800年前ということを考えれば、自分が生きているときには無理でも、これから「革命」が起こらないとは誰にも言えない

    絶対に文学は死んでいないのだ

     「文学は死んだ」と言っている者たちの思考が死んでいるのだ


     本書は、ともすれば悲観的なイメージがある思想書や文学論からは一線を画す、明日のための文学論であり革命論であり社会論であると思う


     シニシズムに陥りがちなあなたに
     自分のやっていることは無意味なんだと無力感にさいなまれる貴方に
     是非とも読んでもらいたい一冊

     我らが文学で革命を起こそう!

     …大きく出過ぎましたww
     でも、血を熱くさせてくれる名著です

  • 彼は読んだ、読んでしまった、自分が狂っているのか、世界が狂っているのか。文学はすなわち<革命>である。文学は終わらない。

  • 本を読むことが革命につながっていく、そういうメッセージをこの本から感じた。

    情報は命令であり、その命令に従っていれば楽に生きることができる。でもこれは裸で「読む」ことには当てはまらない。裸で「読む」ということは、自分の無意識をテクストに接続することであると述べられている。
    私はこの文章を読んで、主体的学習が思い浮かんだ。ただ本の内容を情報として読むのではなく、自分自身の考えや価値観を持ちながら、筆者と対話するような読み方をしていきたいと思った。

    「本を読んでいるこの俺が狂っているのか、それともこの世界が狂っているのか」それくらい読み込んで、無意識のレベルで共感できる本を探していきたいなと思う。

    自分を追い詰めるような本を最近読んでいないなとつくづく思わされた。

  • 藝術というもの、ことさら文学というものに対する畏敬と愛を余すところなく降り注いだ賛歌の書。

    文学は終わったなどと宣う人々や、自己中心的終末論をひけらかすナチスやオウムに代表される人々、革命というものを暴力的側面だけを偏視し見誤った人々、その他全ての「読むことを侮辱する人々」に対して、一切の手加減をすることなく徹底的にこれを断じ、あるべき姿を説き諭す著者の鬼気迫る熱量と峻厳さに心打たれた。

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著者プロフィール

1973年生まれ。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文社会研究系基礎文化研究専攻宗教学宗教史学専門分野博士課程修了、博士(文学)。現在、立教大学兼任講師。専攻は哲学、現代思想、理論宗教学。論文に「鏡・エクリチュール・アンスクリプシオン」(『東京大学宗教学年報XXI』)、「宗教の享楽とは何か―ラカンの〈享楽の類型学〉から」(『宗教研究』352号)など。翻訳にフェティ・ベンスラマ「冒瀆する羊―『イスラームの名における検閲』会議での発言」(『現代思想』2006年5月号、青土社)、ピエール・ルジャンドル『ドグマ人類学総説―西洋のドグマ的諸問題』(共訳、平凡社、2003年)など。

「2008年 『夜戦と永遠』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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